春は「百花競開」様々な花が開いて目を楽しませてくれます。
今はツツジが良いですね。
やがて当地名産の蜜柑が花を咲かせます。
蜜柑の花の香に包まれたしまなみ海道サイクリングロードを走るのも一興です。
花が開く頃になると、誰が教えたわけでもなく、蜂が花を訪ねます。
蜂が飛ぶ頃になると、誰が教えたわけでもなく、花は開いて蜂を迎えます。
蜂が花の蜜を採るその仕事ぶりをご覧になって、お釈迦さまが説法をしています。
「蜂の華を採るに、ただ其の味わいのみを取って、色香を損ぜざるが如し」
と、蜂の働きぶりを見習うようにと仰ります。
人間に蜂の仕事をさせると、いかに効率よく大量に採るか、となり、花そのものを傷めかねません。
蜂は必要な分だけ蜜をもらい、花の色や香を損ねない仕事ぶりで、その次いで、花粉を付けて廻るという大事な仕事を担っています。
今、世界的に蜜蜂の数が減っていて、ある学者さんが「もし蜜蜂が姿を消すとどうなるか」試算したそうです。
結果は、「人間は4年と生きられないだろう」ということをどこかで聞きました。
お釈迦さまは、全ての事象は「縁によって起こる」つまり「縁起」と仰いました。
時期が来ると花が開くのも縁により、そこには日照や雨量や気温等々の縁がはたらいています。
その花を訪ねる蜂も縁で、花粉を付けて廻って実を結ぶのも縁によります。
ベトナム出身の僧侶、ティクナットハンさんは、縁起を興味深い表現で説いています。
「もしあなたが詩人なら、1枚の紙の上に雲が見えるだろう」
一寸理解に苦しみますが、詩人になったつもりで想像力を働かせてみましょう。
1枚の紙の時間を巻き戻してみると、パルプです。
パルプの時間を巻き戻してみると、原材料の樹が立っていました。
樹の下には大地が広がり、地中ではミミズや微生物が働いています。
空を見上げればお日さんが照っていました。
日照りばかりでは困るので雨を求めます。
雨を降らせるには雲に来てもらわねばならず、
「1枚の紙の上に雲が見えるだろう」
というわけです。
1枚の紙がここに至る過程には、様々な縁のはたらきがあったのです。
お釈迦さまは佛の教えを説かれましたが、佛の教えを作られたわけではありません。
すでにそこにあった縁起により成り立っている世界、システムそのものを“仏法”と名付け、それを人間の言葉で説いたのが“仏教”でした。
一神教の場合はトップに絶対唯一の神がおられ、全てを掌握する、いわゆるトップダウン型です。
仏教では、蜂やミミズといった小さな生き物、山川草木も全てが“仏の御いのち”を形成する、オールキャスト型で、これを「悉有仏性」と言います。
我々人間ももちろんキャストの一員で、毎日口にする飲食物も様々な縁により頂いていて、肉体を形成する60兆個の細胞は常に生滅を繰り返し新陳代謝しながら生きています。
よって「私が生きている」とは言えず「ご縁に生かされている私」と言うのが道理でしょう。
蜂と違って我々人間は欲深く、しばしばシステムを壊すような行いをします。
ゆえにお釈迦さまは2500年も前から、人間は心をセーブすべきであると教えています。
今はツツジが良いですね。
やがて当地名産の蜜柑が花を咲かせます。
蜜柑の花の香に包まれたしまなみ海道サイクリングロードを走るのも一興です。
花が開く頃になると、誰が教えたわけでもなく、蜂が花を訪ねます。
蜂が飛ぶ頃になると、誰が教えたわけでもなく、花は開いて蜂を迎えます。
蜂が花の蜜を採るその仕事ぶりをご覧になって、お釈迦さまが説法をしています。
「蜂の華を採るに、ただ其の味わいのみを取って、色香を損ぜざるが如し」
と、蜂の働きぶりを見習うようにと仰ります。
人間に蜂の仕事をさせると、いかに効率よく大量に採るか、となり、花そのものを傷めかねません。
蜂は必要な分だけ蜜をもらい、花の色や香を損ねない仕事ぶりで、その次いで、花粉を付けて廻るという大事な仕事を担っています。
今、世界的に蜜蜂の数が減っていて、ある学者さんが「もし蜜蜂が姿を消すとどうなるか」試算したそうです。
結果は、「人間は4年と生きられないだろう」ということをどこかで聞きました。
お釈迦さまは、全ての事象は「縁によって起こる」つまり「縁起」と仰いました。
時期が来ると花が開くのも縁により、そこには日照や雨量や気温等々の縁がはたらいています。
その花を訪ねる蜂も縁で、花粉を付けて廻って実を結ぶのも縁によります。
ベトナム出身の僧侶、ティクナットハンさんは、縁起を興味深い表現で説いています。
「もしあなたが詩人なら、1枚の紙の上に雲が見えるだろう」
一寸理解に苦しみますが、詩人になったつもりで想像力を働かせてみましょう。
1枚の紙の時間を巻き戻してみると、パルプです。
パルプの時間を巻き戻してみると、原材料の樹が立っていました。
樹の下には大地が広がり、地中ではミミズや微生物が働いています。
空を見上げればお日さんが照っていました。
日照りばかりでは困るので雨を求めます。
雨を降らせるには雲に来てもらわねばならず、
「1枚の紙の上に雲が見えるだろう」
というわけです。
1枚の紙がここに至る過程には、様々な縁のはたらきがあったのです。
お釈迦さまは佛の教えを説かれましたが、佛の教えを作られたわけではありません。
すでにそこにあった縁起により成り立っている世界、システムそのものを“仏法”と名付け、それを人間の言葉で説いたのが“仏教”でした。
一神教の場合はトップに絶対唯一の神がおられ、全てを掌握する、いわゆるトップダウン型です。
仏教では、蜂やミミズといった小さな生き物、山川草木も全てが“仏の御いのち”を形成する、オールキャスト型で、これを「悉有仏性」と言います。
我々人間ももちろんキャストの一員で、毎日口にする飲食物も様々な縁により頂いていて、肉体を形成する60兆個の細胞は常に生滅を繰り返し新陳代謝しながら生きています。
よって「私が生きている」とは言えず「ご縁に生かされている私」と言うのが道理でしょう。
蜂と違って我々人間は欲深く、しばしばシステムを壊すような行いをします。
ゆえにお釈迦さまは2500年も前から、人間は心をセーブすべきであると教えています。