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日々の雑記

ブログの閲覧数てほんまなんかな?

2021-11-04 01:42:06 | 日記

gooブログの閲覧数って本当にそんな人数みてるのかな、ってきになることありますよね。

たまにはブログをパソコンから書いてみようと立ち上げているわけですけども、最近何書こうとかいつ書こうとか考えてるうちに以外にも書かずにおわってしまうか下書きが増えるだけなんだよな。

で、それはそうと人間って不思議なもので昔の考え方を変えられちゃうと昔信じてた部分を忘れてしまうらしい。何を書いているかわからないが、つまり〇〇には賛成だと思ってた人が反対派の意見を聞いて納得すると、自分がどうして賛成していたのか正確には思い出せないらしい。

そのことが結構最近よくあって、自分で当然だと思っていることが意外にも覆されてしまって、そのあとなぜそんなことを信じていたのかわからないという。

最近書いたけど夫婦別姓とか。あと今日はフェミニズムについても考えてた。ツイッターで米山氏となんかフェミニストがバトルしているのを見かけてしまい、ふむふむと読み進めていたら気になってしまった。

どうでしょうか、うーん。僕今、性虐待を実の父から受けていた女性と話す機会がありまして本当に偶然の出会いだったのですが、最初はそこまで重く考えていなかったのです(彼女自身が、そう思わせないようなそぶりだったし、そこまでたくさん話すほどでもなかったので)

でもふと考えてしまう、高校生時代どんなに苦しかっただろうとか、そういうことを考えているうちに僕はなぜかその方に惹かれていっているような気もしているのである。いわゆる典型的な性虐待を受けた方の行動様式というか、昔ドキュメンタリーで見た性虐待被害者はたくさんの男性と性交することでそれを忘れようとするとか。その方もそうである。

もちろん僕はその方と肉体関係はありませんし、これからもするつもりはないですが。時折見せる本心からの言葉を聞くと胸が痛くなるのです。

フェミニズムと話がそれてしまいましたが、その方との出会いは確実に僕を変えたと思います。はっきりとそうだと思います。しかしそれは僕が人に変えられることを拒まないということを学んだ後だからだと思う。自我が強く、自分だけを思っていた時には人に自分が変えられるなんて恥ずかしいことだと思っていたのです。

フェミニズムが彼女を救うことができるのか?僕はどうしてもそうは思えないのである。フェミニズムの範疇ではないかもしれないが。

具体的、個別的事案、彼女のような人を助けることは必要だ。もちろん彼女に対してそんなことを言うことはしない、助けるだなんてあまりにも上から目線に聞こえるかもしれないし。だから僕は彼女と話すときにものすごく言葉を選んでしまう。彼女にしかわからない苦悩はあるだろう。程度の差はあれ、きっと誰もがそうだ。自分にしかわからない苦しみを抱えている。いつからか僕はそれを他人に理解してほしいと思うことなくなった。他人に僕の苦しみは関係ない。こんなことを経験してきた僕と対峙したあなたは僕の経験を加味してくれるわけじゃない。だから僕自身が自身のことを理解してほしくて誰かに説得するようなことはしない。ですが、だからといって自分が同様に他人の苦しみに目を向けないのは違うのかなと思うのです。これは愚痴を言い合うのとは違う。完全にわからなくても、寄り添うぐらいのことは。

フェミニズムについて話そうとしたら、個別的な話になってしまった。僕にはもっとできることがあった、という後悔なのかな。僕が怠惰じゃなかったらきっと彼女を救えていたんじゃないか、そういう思考が頭をもたげる。

時間を無駄にしないように、僕ができることを。


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