【半休中】Beyond talk to oneself

子どもや日常、スポーツ回顧、時事の疑問に世の声の1人として触れていきます。競馬予想はあくまで履歴と仲間向けです。

母校に行ってきた~担任の思い出

2010年09月09日 21時20分36秒 | Nostalgie
以前、日曜だかに娘と近くまで行ったので立ち寄ったら、
地域の少年野球の練習だけが校庭で行われていて、
学校関係者は誰も居なくて入ることが出来なかったのだが、
数日後に学校にTELをして副校長と話をし、
開放日などにいつでも来てよいという話を貰っていたのだが、
夏休みのある日に、突然思い立ったように行く気になって、
いきなりTEL入れたら、午後の当直は1名の女性教諭だったようで、
責任者が居ないので受け入れられないと拒否された。

もっともそうだよな。
こっちがどこの馬の骨だか解らないんだから。
でもこっちとしては卒業生なのは事実であって、
しかも副校長との話もしてあるし、今日の今日が大変失礼でも
今時は開かれた学校云々もスローガン的にあったりするので、
言ってる事とやってることが違うじゃんと不快に感じ、
そうですかと引き下がらずに食らいついたら、
副校長に連絡を取ってくれて来校の許可が下りた。
そんな力技で行ってきたのだ。

冒頭画像は校庭から見た校舎。
500m以上はある商店街に同級生も結構居たが、
路面店がスーパーやコンビニに押されて衰退し、
大半のやつの家である店が無くなった。
さらに大幅な区画整理もあり、地域自体に残っているやつが殆ど居ない。
だから地元に戻ってきても誰が居ると言うことでもなく、
学校入り口の信号の角には同級生の家の文具店があったが、
高校の頃にはいきなりラーメン屋に変わって、
それも今は無くなっている。大手学習塾になってた。
そんな誰と会うわけでもない状況だが学校はしっかりと残ってる。
うちの区も統廃合はそこそこあるんだけどね。



中に入ったのは卒業して以来始めて。
懐かしかったなぁ。変わってない。
ここは教室ではなく教室との間にある準備室なんだけど、
隣のクラスのT教師が、ヨーグルトを作るといって、
余った牛乳瓶をそのままずっと放置していて、
結果として腐敗したがヨーグルトにはならなかったと言うのを覚えてる。
そのクラスのやつが「絶対これ弄るんじゃねぇぞ!」と息巻いてた。
でもその結果に愕然としてた。瞬時にそれを思い出した。



6年の時の教室だけど、そのまんま。
変わったのは視聴覚室しかなかったモニタが教室ごとにあることと
エアコンが設置されたことぐらい。
細かく言うと時計は右上にあったんだけど黒板の中央上部に。
自分の机はどれかと探そうかと思ってしまったがもう解るはずもない。
さらに椅子の裏に「マロン高橋」と書かれたマロンちゃんの椅子も
探したいと思ったが、全部裏返すのも大変だし、さすがに何十年か経って
そのままのものを使っててもまだ書かれてるわけも無い。



窓から見える風景だが、こんなに高かったっけ。
娘の学校で逆に慣れてしまっているんだな。そっちは3Fだから。
私の学校は4F建てなのだよ。
やっぱ変わって無いと思ったのはサッシの鍵。
いかにも数十年前のタイプ。私の時代のそれそのものだった。
でもこの風景で変わったのは、高速が通ったことと、
中央奥のほうにスカイツリーが見えることだ。

思えば私が一時引っ込んだ埼玉からここに転校してきたとき、
新設された2年目だったんだよな。そしてプールはその年か
翌年のシーズン前に完成されたのだった。
そのプールを見るとランダムに並んだ数字と謎の「な」
なんなんだ?でも数字はなんとなくわかる。
ポディウムを思うと中央が1位で両脇が2位3位。その両端に更に下位を
位置させているのだと思う。でも「な」はさっぱり解らん。



なんで小学校に行きたくなったのかと言うとこれだった。
これ、うちらの卒業制作。
問い合わせた時に、もう無いのかと思ったらあるというので、
今度ぜひ見に行きたいと副校長に話をしたのだ。
しかもこれ、この鳥のデザインをしたのは私。
卒業制作の委員だったんだけど、そのデザインを10名ほどのメンバーで
出し合って、図工の教師が私の鳥をメインに推したのだ。
それはみんないいということになったのだが、
本当は鷲をイメージして書いたので、くちばし先端が下に下がってた。
それはまっすぐのほうがいいという意見が多く、このようになったのだ。
図工の教師もその下に曲がってるのが力強くていいじゃない?と言ったが
メインが私のものになったためのささやかな抵抗だったのだろうな。

ともかくそんな私のデザインがメインで、他の人の書いた気球や太陽
花などがまわりに添えられてこのようになったのだ。
これはいわゆるテラコッタタイル。
みんなでいろんな色を焼いて、焼きあがった時は正方形だが、
それをデザイン的に切ったり、ハンマーで砕いたりして、
デッサンの図のようになる感じに張り合わせていって作るのだ。

これが白は全く使ってない。
残念ながら白いところは低い位置が多く、
一番目立つ鳥のお腹のHのような模様は全部剥がされていた。
後輩たちの在校生がいたずらして剥がしてしまったんだろう。
腹立たしい感じもするが、これだけ時間が経っているので
それもまた味。時の流れと共に変化した今現在の形だ。

だけどこんなに何十年か経って、いまだに覚えているのは
自分のデザインがメインだから。他の連中はみんな何を作ったかさえ
覚えていないのだ。なのでこれがもう最後かもしれないから
もう一度見たかったし、写真も無いので収めておきたかった。
そして来年6年生になる娘に、私が6年生で作ったものを
ぜひ見せたいと言う思いも起きたことによる。
とにかくまた見られたことに結構どきどきして興奮した。



帰り際、下駄箱の上にこんなものが新しく飾られていた。校歌だった。
7月に同級生の女の子と会ったときにも、その子もこの校歌を思えている。
娘の学校の校歌はいわゆる平凡な校歌で全く印象に無い。
でもこの校歌はメロディラインがとても良く、覚えやすくて
非常に印象深く忘れないのだ。中学や高校の校歌など忘れてるのに。

でもそれ以上のことも思い出した。
この位置は私が居た頃はこれは無かった。
その分、私が委員会が掲示係で、この位置に何か横長のものを
放課後に貼っていたのだ。5年の時だった。
そのときに担当の先生が言った。「あら、荒井先生」
その荒井先生が私を見つけてこういった「お!ぜっとし!頑張ってるな!」
担当の先生が「先生、ぜっとし君はどんな子なんですか?」と聞いた。
すると荒井先生は「ぜっとしは、とってもイイコですよぉ~!」と
常に大声なのだが、それが嬉し恥ずかしくて照れ笑いを浮かべた。
これ、後にも先にも私をイイコだと声に出していった教師はこの人だけ。
イイコだといわれてただ嬉しい年齢ではなく、逆に反抗しがち。
だけどそれはパフォーマンス的な表面上だけで、
心の中ではすっごく嬉しい。
全ての教師との関係の中で、いい思いはまずしたことが無い。
ずる賢いし、裏表の顔もあるので大人が嫌いなタイプの子どもだったのだ。
だけどこの先生は私の本当を知っていた。
だからイイコだと間髪居れずに言ってくれたのだ。
そんな一番の思い出深い先生だったのだが、
私が6年生の時に急死した。
5年6年は3人の担任が代わらずにクラス替えも無く上がるはずだった。
他の2クラスはその通りだった。でもうちのクラスは担任が代わったのだ。

それはあの時代の象徴だった校内暴力だ。
私は親にも教師にも手を上げたことは一度も無い。
この荒井幸進先生は50代のベテランで眼光鋭くぎょろっとした目で
オールバックで一見怖そうなのだが、ズーズー弁で極端な蟹股。
それでいて見た目と違って果てしなく優しい人だったので、
かっこ悪い感じと(特に3組のT教師が藤岡弘っぽくカッコよかった
そのギャップもあった)怖くないこと、いわゆる優しさにつけこめる
隙を持っていたので、私ら子どもらが反抗的に出ていたのだ。

それは大半は大したことでもない。
でもある同級生は執拗に荒井先生に反抗し、時には椅子を持って
応戦しようとしたり、何がそんなにストレスなのかと思うほどに
毎日のようにそんな態度をしていた。
その子は私も転校生だから当初良く暴力的に来ていた。
でも転校生だから、在校生と揉めれば全ての在校生が敵になる。
そう思うと大人しくというか、極端な反撃も出来ずにやり過ごすことが
今となっては得策なのだと私も耐えていたことがある。
自分より弱さを持っていると察知するとそういう態度に出るやつだった。
でもみんなも詰め込み型教育のストレスがあり、
当初はヤレヤレ!とかその子を煽っていたが、
あまりにも毎日のようで、さすがの我々もその男子をやめろよと言って
止めるようになった。我々ももううんざりだった。

ところがどういう話があったのかはわからないが、
まとめられないと言うことで、本人か学校が担任を代えたのだ。
そして6年の時は新任の40代後半の男性教師になった。
少し禿げかかっていたが、それなりに若く力もあり、
例の生徒ともじゃれあって格闘ごっこなどもして、
力では負けないと言うものを見せ付けていて、
そいつもその先生には反抗的な態度は見せなかった。

それでクラスは落ち着きを取り戻したかのようだった。
昨年のことはみんな忘れかけていた。
荒井先生は3年生の担任をしていた。
ところがある朝緊急放送で校長の話があった。
荒井先生が亡くなったというものだった。
ショックだった。ただただショックだった。
その死因は聞かされていない。今も知らない。
でもおおよそ察しはつく。きっと自殺だろうと。
おそらく悩みに悩んで欝になっていたのではないかと思う。
誰かが反抗ばかりしていたやつを責めた。「お前が殺したんだ!」と。
そう思っている奴は多かった。
でもそれは違う。俺たち全員が殺したんだ。

私も自分を責めて責めて責めた。
確かに田舎っぽくて蟹股でかっこ悪かったが、
とても優しくて私を認めてくれて好きな先生だった。
その先生を守ることが出来ずに見殺しにしてしまったのだ。
そんな自分を自分は許せなかった。

その後葬儀があり、うちのクラスは教師に連れられて
みんなが我孫子の自宅のほうに行くことになった。
でも私と相沢代志則の2名だけ行かなかった。
互いに行きたくないと言ったのだ。
きっと相沢も私と同じ気持ちだったのだと思う。
それだけでなく、死んだことを認めたくなかったし、
その真実を確定的にすることが嫌だったのだ。
だから行きたくなかった。

でも不思議なことがあった。
うちの娘も私の子だからかなかなか泳げなかったが、
私との練習も効果があったのか、今年唯一2階級上がった。
7級だったのだが最後の検定で5級になったのだ。
もっとも夏休み最初の検定で6級になっていたけど。
でもその検定もあと5m泳げば25mで4級なので、
1シーズンに3階級上がったのに残念だったが、2階級上がったのは
娘の学年では娘だけ。
私はと言うと6年生まで泳げなかった。
3歳の時に海で死に掛けたので、それが本能的に覚えているのか
どこと無く水が怖かったのだ。だから浮かないので泳げない。
でも荒井先生が亡くなった後に、先生は平泳ぎが得意だったなと、
「先生、あの平泳ぎ勿体無いから俺に譲ってよ!」こう心で思った。
そうしたらそれまで平泳ぎなんて練習したことも無かったのに、
やってみたらいきなり泳いでしまった。
そうなると自分は浮くのだと思ったらクロールも泳ぎだした。
6年生で一気にせいぜい数mだったのが25m泳いでしまったのだ。
更に驚くのは中学になって背泳ぎも出来るようになり、
これは泳げるのが水泳部ばかりの中、唯一私ともう一人だけ違う中、
水泳大会の背泳ぎで水泳部を向こうに優勝して校内記録も塗り替えた。
まぁスイミングスクールまで通っている生徒が
誰も居なかったこともあるが。
そんな私の泳ぎはこの荒井先生から受け継いだものだ。
私はあの瞬間から今日までそう信じて疑ってない。

そしてそんなことをいろいろ思い出したら、
もういい年した大人だし、是非墓前に行きたいと強く思った。
でも全く解らないのだ。
学校にも当時の名簿は無く、やむなく我孫子市にTELした。
当然個人情報保護で教えてくれないのは解っていた。
そこでこの年になくなった荒井幸進さんという我孫子市の方が
居たはずだが、そのご家族はまだ市内にいらっしゃるかどうか。
もしいらっしゃるのなら、私の氏名と住所とTELをお伝えするので
趣旨をお話して、来てもいいと言うことであれば伝えて欲しい。
こうお願いするつもりだった。これなら個人情報はこっちが投げてるので
まるで問題は何も無い。
でも結果的に全てノー。今在住かどうか、住所も教えないのに
居るか居ないかすらも教えられないと。
それでこうこうこういう理由だと述べてもまるで駄目。
これまでやってきた当たり前のことをしてみろという
下らないことしか言わないので、そんなのとっくにやってわからないから
役所にお願いしてるんじゃないかと言わされる始末…。
覚悟はしていたけど、ここまで冷たいんだね。
一体何のためのお役所なの!?と履き捨ててやったら、
担当者は言葉を失ってた。

もうきっと墓に線香を手向けることは出来ないんだな。
そんないろんなことがあって、純粋に墓参りしたいだけなのに、
杓子定規な行政は罰が当たるぞ!?
でもこんな状況を思うと、あの時葬儀に行っておけばよかったと
ものすごく後悔もしているが、あの時はどうしても行けなかった。
今思い起こしても行けなかった。世の中非情だわね…。

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