二・二六事件と日本

二・二六事件を書きます

今生の別れ

2021-06-21 16:16:00 | 二・二六事件

野中四郎大尉


村中、磯部が野中の自宅を訪ねた二月二十二日の夜、夫人がふと目を覚ますと、野中は眠る保子ちゃん(当時九か月)の上に被さるようにして顔を近づけ、寝顔を見つめていた。
「自分の愛情を洗いざらい注ぎ込んでいるかのようだった」
と夫人は語る。

翌日、「隊に用がある」と言いマントを雪で真っ白にしながら出掛けていく野中を見送った。

事件前日の二十五日、野中は、家から一歩も出ず書斎にこもっていた。夫人は保子ちゃんをあやしながら虫の知らせを感じとっていた。その違和感が間違いではなかったのを、夕食後に知らされる。
「明日大きな事が起る。自分もそれに加わるが、心配することはない。四日ほどしたら何もかもはっきりさせて戻ってくるから」
と夫人に告げたのだ。

「私は血の気が引き、ほとんど息ができませんでした。四郎は襲撃箇所をざっと説明し、自分の受け持ちが警視庁であることまで隠さず教えてくれました。低い声でしたのに、耳を突き刺されるように感じました。からだ中の力が抜けてゆくような思いで、四郎を凝視しておりました。もう女にはとめられない、男だけのすさまじい世界が動きはじめていたのです。

無言の時間が刻々と過ぎて行く中、野中は思い出したように「皆に食べさせてやりたいから何か菓子を用意してくれ」と言う。
夫人は頭の整理もつかぬまま、閉店間際の四谷塩町のパン屋へ走った。手当たり次第菓子パンを買い占め急いで帰る途中、抑えきれず涙が溢れ出た。

「この菓子パンを持って四郎が隊に行けば、それっきり二度と家には戻るまい。引き留められるものなら引き留めたい。でも、四郎の決心は恐らく壁のように固い。だれかに相談したい。でも、そうすれば、四郎の計画が明るみにでる。四郎は責任をとってきっと自決する。どちらにしても生きてはいない人なら、自分の思い通りにやらしたほうがいいのかもしれない。私はそう自分に言い聞かせ、納得させ、ボロボロ泣きながら、何度も雪に下駄を踏みちがえて家に戻りました。」

夫人が家に帰ると、野中は保子ちゃんを抱き「お父さんだよ、お父さんだよ」と言い聞かせていた。今生の別れをしているようだった。夫人はそれを見るなりたまらず台所へかけ込んだ。

「悲しさだけが凝縮する別れでございました。四郎は『四日たったら帰ってくる、心配するな』と念を押すように言い残し、暗い小路を長靴でふみしめてゆきました。ギシッ、ギシッと凍った雪をつぶす音がうつろに鳴っておりました。電車通りにでると、そのまま振り返ろうともせず、角を曲がって見えなくなりました。」

野中は嘘をつかなかった。四日後の二月二十九日、夫人と保子ちゃんの元に帰って来た。
ただその姿は、夫人が望んでいた姿でなかったことは、承知の通りである。





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