二・二六事件と日本

二・二六事件を書きます

匂坂検察官の懺悔

2021-06-25 23:47:00 | 二・二六事件


昭和二十八年八月十九日、事件の軍法会議で首席検察官であった匂坂春平が死んだ。この日はあたかも村中、磯部、北、西田四士の十七回忌祥月命日のその日だった。
匂坂氏は陸軍法務官として、終戦時まで勤務し、法務中将で退官した軍法務畑の最長老であった。日本が敗れ、陸軍が崩壊したあとの匂坂氏は、世田谷の自宅に閉じこもったままの静かな余生を送った。



匂坂春平首席検察官


梅雨の合間の蒸暑い日だった。蟬しぐれしきりな深い木立の境内に、たくさんの人たちが集まっていた。事件刑死者の十七回忌の法要が営まれていた本堂での読経が始まって間もない頃だった。テント張りの受付に、案内状の封筒を差出して、お墓の場所を訊ねる一人の老人があった。受付にいた岡部くんが、法要中の本堂へ案内しようとするのを押止めて、
「私は遺族の方々にお会いするにしのびない者です。お墓にだけお詣りさせていただいて帰ります。皆さんによろしくお伝え下さい。」
と、丁重に挨拶をして、教えられたお墓へ向う老人だった。受付に残された封筒の上書には「匂坂春平様」と書いてあった。
法要が終ったあと、このことを聞かされた私は、お会いできなかったことをこよなく残念に思ったが、匂坂さんの墓参を嬉しく胸に刻んだ。
翌年の二月二十六日の法要にも匂坂さんへ案内状を出した。今度はあるいはお会いできる、ぜひその機械を捉えたいと、受付の岡部くんに気をつけてもらっていたが、この日も法要中の時刻を見はからったように遅く来て、お墓にだけ詣って帰る匂坂さんだった。
次の機会の八月十九日の磯部、村中、北、西田の四士の十七回忌祥月命日の当日は、匂坂さんの姿は逐々見えなかった。きょうもまた、お会いできなかったがっかりした気持で家に帰ったその夜、
石上氏からの電話で、匂坂さんの死の報を聞いた。

匂坂さんの葬儀は、八月二十日に自宅で営まれた。賢崇寺の藤田住職と一緒に参列した。焼香を終って下る私に追いすがるように、霊前に座っておられた未亡人が席を立って下りてこられた。たぶん、石上氏が知らせたのであろう。もちろん、初対面であった。深々と頭を下げられた未亡人は、
「主人は最期まで皆さんのことを口にしておりました。ありがとうございました」
まだ語をつぎたいような未亡人を押とどめて、改めてお伺い申上げます、と言って辞した。まだ、会葬者の焼香が続いていた。
帰る道々、藤田氏と語り合ったことは、何か話したいことがあるような未亡人の様子でだった。少し落着かれた頃に、もう一度お訪ねすることを藤田師と約した。
私が藤田師と再び匂坂家を訪れたのは九月の初めでだった。まだ悲しみの消えない真新しい白木の位牌を囲んで、数々の供物や生花が飾られた仏前に、藤田師の読経が捧げられた。目のあたりにする匂坂氏の写真に親しく語りかける思いだった。
焼香を終えて、未亡人と三人での語らいはおのずから事件関係のことであった。
「主人が亡くなります朝、庭に出て草いじりをしていましたが、縁側に腰掛けて『きょうは四人の方々の命日だね』と、自分にいいきかせるかのように申しました。そしてその午後に、まったく消え入るように死にました」
村中、磯部、北、西田の四士が死んだその同じ日に、それを口にして死んでいった匂坂さんと事件との因縁を、ただ単に偶然の一致と考えることのできないいろいろの想出や、出来事を、未亡人はしみじみと語った。それは、何も言わなかった主人に代って、遺族の方々に話したい、知ってほしいという、切な気持ちが、訴えるように語り続ける未亡人の言動に感じとられた。先の葬儀の際、まだ、会葬者の焼香の続いているさなかに、座を外してまで私たちに言葉をかけられたことも、今にして思えば、こうした未亡人の気持の現れであったことと知らされたことだった。

大東亜戦争が激化し、東京への空襲が頻りとなった頃、匂坂氏は陸軍省に在勤していた。
一日、夫人は、
「何か大事なものがあるなら役所よりも自宅の方が安全と思うので、持って帰られたらいかがですか」
と勧めた。
「そうだね」
と、肯いて出ていった匂坂氏は、その日から帰りの自動車に積んで、いくつかの書類の包みを持帰った。あとでわかったことだったが、それは全部、二・二六事件関係の書類であった。
「主人にとって、焼いてはいけない、一番大事なものは、事件関係の書類であったようです。」
これがその書類ですといって持ってこられたのは柳行李にいっぱいの大量のものであった。私が手に取ったのは上の方にあった、陸軍罫紙に書かれたものであったが、それには、将校たちの氏名が列記され、その上覧に「死刑」の文字が全員に記されてあった。そして、判決で無期になった常盤少尉以下の人々の分は、一度書かれた「死刑」の文字の上に赤インキの帽線が引かれていた。おそらく求刑の折の原稿であったのではあるまいかと思った。
これは大変な記録の集積であるとの驚きに目を輝かせた。この厖大な記録を一つ一つ目を通すことは、いく十日間かを要するだろう。私は後日を期して、手にした二、三の書類を行李に納めた。おそらく事件の裁判過程のすべての資料が揃っているのではあるまいか。こんな記録がここに残されていることを確認しただけでも、私の胸のときめきを抑えきれなかった。
行李の蓋をしめながら、未亡人の話は続いた。
「主人が死にましたあと、近所の懇意なお医者さんから、こんな話を打明けられて、初めて主人の気持ちが判りました。私にも
家族の誰にも、何一つ話さなかったことです
しんみりと語る未亡人の話というのは、匂坂氏が昵懇にしていた近所の医者を訪ねたとき語った話として、自分は病気になってもいっさいかまってくれるな、自然の運命のままに死んで行きたい。それというのは、
自分は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。その結果、有為の青年を多数死なせてしまった。それは、二・二六事件の将校たちである。検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない。敗戦となって軍職を失った自分は、もうお国への勤めも終った。これからの自分の余生は、この人たちへの罪の償いのために、静かに自然のままに消えて行きたい。そしてこのことは私が死ぬまで、誰にも語ってくれるな
という切実な懺悔に似た訴えであったという。
こうした秘話があったことを、匂坂氏の死後に知らされた未亡人は、私だけにでもどうして聞かせてくれなかったのかという淋しさの思いに、胸をつかれながらも、それほどまでに深刻に悩み抜いた主人の心情が憐れであった。そう聞かされてみると、事件後の主人の言動、それから終戦後の起居に、生活はしはしに、今にして思い当るたくさんの出来事が想いめぐらされた。
さきの事件関係の書類のことも、今にして思えば、後世のためにすべての資料を残しておく、検察官として自分が犯した誤り、それは法務官としての権限を越えた、黒い力の前に屈した自分の責任を、いつの日にか解明してもらうための無言の抵抗ではなかったろうか。
戦後、陸軍の解体で軍法務官としての最高位の法務中将の座も崩れ、野に身を潜めた陰世の生活に入った匂坂氏は、世田谷の自宅に閉じこもって静かな生活に明け暮れた。
屋敷内の立木の手入れ、破損した垣根や建物の修理など、家族からの進言にも拘らず、匂坂氏はいっさい受付けなかった。あまり目にあまる家の内外のいたみに、夫人が勧める補修の相談にも、
「自然のままにしておいてくれ」
頑なにがえんじなかった匂坂氏だったという。
一家揃っての食事の時にも、夫人の心尽しの料理にも、あまり手をつけようとしなかった。一例としてこんなこともあったと、夫人は語る。
大きな鯛を切身にして煮つけたものが、それぞれの家族の食膳にならべられた。主人の前には頭付の一番良い所が供えてあった。食卓についた匂坂氏は、令息の前にあった尻尾のものと取替えた。押とどめる夫人に、
「俺はいいんだ、子供は立派に育ってもらわなければいけない」
といってきかなかった。万事がこのようであった。身体の具合が悪くても、医者にかかろうとしない。家族の心配をよそに、俺はいいんだ、と受付ない主人に、夫人はその意をはかりかねて心を痛めたという。
すべてを自然の運命のままに委せて、静かに贖罪の余生を送ることが、匂坂氏の信念であったようだと、未亡人は述懐する。
仏前の線香がつきたのをさしかえながら、未亡人はしみじみとした口調で、二・二六事件の人々と、これほどまでに深い因縁があったとは、主人の口から一言も聞いたこともなかったのだったが、死んだ日の朝、縁側に腰かけて、
「きょうは四人の人たちの命日だね」
と、ぽつりとつぶやくように語った言葉の中に、あの人たちと同じ日に死んで行けるという、救われたような、匂坂氏の安らぎの気配が、今にして推しはかられてならないと語る夫人だった。
しんみりしたこの座の空気を引きしめるように、
「先ほど、ご回向申上げた経文の中に『我昔所造諸悪業 皆由無始貧瞋痴 従身口意之所生 一切我今懺悔』という懺悔文の境地にあったご主人は、今、仏となって、あの人たちと手を握っておられるでしょう。人間、仏となれば、怨親平等です。あの世で二・二六の将校たちもきっと喜んでお迎えしているでしょう。」
と、仏前に向って合掌する藤田師の姿は尊かった。
再度の往訪を約して座を立ったが、匂坂氏が、自然のままの姿にとけ込んで送った庭木の繁みに、夕色を告げるひぐらしの音が侘しかった。



ある遺族の二・二六事件 河野司

ーーーーーーー

『怨親平等』
仏となった彼等はあの世で酒でも酌み交わしているだろうか。
匂坂夫人の機転により、一級資料が戦災を免れこのご時世に現存する運びとなったことは、脱帽するばかりである。




最新の画像もっと見る