和貴の『 以 和 為 貴 』

「嘘」を考える


文明というのは発達すればするほどに、人間らしさを失っていくものです。

例えば、「嘘」というのは決してついてはいけないことだと、小さいころに両親や先生などに聞かされますが、社会人になればつかなくてはいけない「嘘」もあるということを、感覚的に覚えていくようになります。

これは仕事上の場合だけでなく、家族や友人関係のなかにあっても「嘘」をつかなくてはならない時が必要だと認識してのことでありましょう。

ですが、自分自身が「嘘」をついたとき、後ろめたい気持ちだったり、罪悪感に襲われるときがありますよね。これは幼少のころから「嘘」をついてはいけない、と聞かされたからではないでしょうか。

そもそも、なぜ「嘘」をついてはいけないなどと、大人たちはこどもたちに言って聞かせるのでありましょうか。

本来であれば「嘘」もつけないようでは、社会人としては通用しないわけでありますから、巧みに相手を欺く方法みたいなものを教えてやるのがベストなはずですよね。

ですが、そうしたことをこどもに言って聞かす大人は少ないですよね。というよりも"いない"のではないでしょうか。
 
こどもが嘘をつけば、大人は当然のように「なぜ嘘をつくの!」と叱りますよね。逆に正直にいえば褒めてあげますよね。

なぜこうした矛盾が生じるのでありましょうか。

まず第一に考えられますことは、「嘘は絶対ダメなんだ」ということをこどもたちに叩き込むことで、こどもたちが社会人になり「嘘」をつかないといけない場面に遭遇したとしても、前述したような後ろめたさや罪悪感を感じてほしいという想いが、大人たちにはあるからではないでしょうか。

第二としましては、『嘘は泥棒のはじまり』ということわざもありますように、こどもたちに真っ正直な素直な心を宿し、他人様に対しては決して迷惑をかけないようにという想いが、大人たちにあるからではないでしょうか。

第三としましては、「嘘」で固められたような社会にあって、少しでも多くの正直者で覆われる社会へとかわってほしい、というような想いからなのかもしれませんね。

これ以外にもいろんな考えがありましょう。ですが、いずれにしましても、やはり「嘘」というのはあまり宜しくないという捉え方が多数を占めるものと思われますが、近年のわが国では、「嘘」をついても後ろめたさや罪悪感というものを感じられなくなった人が多くなってしまったように思います。

むしろ見事に相手を欺き、そして喜んでいるというような感じがしてなりません。

さらには戦前や戦後まもないわが国では、到底考えられなかった事態へと進んでいるのでないだろうか、とそんな風にさえ感じて仕方がありません。
 
「嘘」をついても平気でいられるということは、間違ったことを言っても決して謝らないということにも繋がっていきます。
 
〈 後ろめたさや罪悪感を感じない = 反省しない 〉ということであります。


あらゆることが便利な世の中となり、感謝の気持ちというものを失いつつある現代社会において、素直に「ごめんなさい」と言われると、すごく救われた気持ちになることがあります。

『まだまだ世も見捨てもんじゃないなぁぁ』と。

ですが近年、圧倒的に「ありがとう」はいえても「ごめんなさい」といえる人を見かけなくなりました。ネットでも「ありがとう」の気持ちを綴る人はいても、「ごめんなさい」という気持ちを綴る人というのはあまり見かけないように感じます。

テレビの世界や政治の世界でも、逆ギレする人ばかりが目につくような感じで、とてもじゃないですが見てられません。


なぜ人は「嘘」をついてはダメなのか、そして、どうして人は「感謝」という気持ちを大切にしようとするのか、現在の高度な文明の中にあって、今一度深く考えなければならないテーマではないだろうかと思います。
 
そんなわけで、今回は「嘘」をテーマとして、あれこれと妄想を垂れてしまいましたが、皆さんは如何がお考えでありましょうか。


わたしは戦後の急激な文明の進歩に、人々のこころが追いついてこれずにいたんではないかなぁ、なぁんてことを考えちゃったりします。



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