人生に答えない。
しかし、真我を思い出し、感謝を継続するという答えがあります。
この答えは、全ての人に共通することだと思います。
「私」という夢を見ています。
私とは=時間の経過、空間の拡大
です。
私という夢はいつ始まるのか?
これを探求してみたいと思います。
大人になった今、大人になるまでの御蔭様がありました。
誰もに共通するのは、自分が赤ちゃんの頃です。
赤ちゃんの頃は完全に周りの環境の流れに身をまかせています。
母乳(粉ミルク)をいただきました。
オムツを替えていただきました。
入浴をして心身を生活にしていただきました。
泣いたときにはあやしていただきました。
一緒に遊んでいただきました。
数えればまだまだありそうです。
これらをしてくれた大人がいるのです。
赤ちゃんの頃の自分が求めればしてくれた大人がいました。
どれほどの奇跡でしょうか?
今まで御蔭様で生きてこられたということは、生きているだけでも満ち足りていたのです。
話を元に戻します。
母が命懸けで出産してくれました。
出産前はどうだったでしょうか?
父親の精子と母親の卵子でした。
その前は、精子と卵子の元である食べ物のエキスでした。
エキスの前はどうだったでしょうか?
それはわからない。
記憶がない、覚えてないからです。
つまり、意識が始まるのは記憶の程度こそあれ赤ちゃんの頃からです。
「私」はいつ始まるか?
赤ちゃんが育ち、言葉をわかり初めて言葉(名前)という対象ができ始める頃です。
この頃には私と対照が生まれると思います。
私=夢=エゴ=自我
なのですが、私が生まれたということは時間の経過と空間の拡大も同時に起こったということです。
私が生じたということは名前(言葉)に実体が生じました。
つまり、名前に実体がある錯覚すると
肉体=本当の私
だと肉体と私とを同一視し始めます。
肉体と私との同一視が真我(本当の私)を一時的に忘れさせます。
ここまで書いてきたように私=肉体との同一視が自分は真我であることを一時的に忘れさせてしまうのです。
私を探究するとは
「私は誰か?」
「それは私ではない」
で私(夢)という想念を消していき、私とは真我であることを私という夢から覚めて真我を思い出します。
自分とは肉体であると思い込んでいるだけだったというオチです。
私(真我)は体中央右胸3cmに在ります。
ありがとうございます。