長男はねぶたに興味がないのではなく感情を押し殺していたのではないか
素直に言葉を発しなくなったのは小学6年生の頃からだった
それまでは次男と同じく 普通に接していた どこも変だとは思わなかったが
ただ食事をするとひとつひとつ食べて行くので注意をしたことがある
ご飯だけを食べおえたらおかず おかずを食べ終えたら次は汁物
どんな食べ方をしてもいいけどそれだと美味しくないだろう
食べ方のバランスが異なっていると感じたからだ
今はどうか知らないがお茶碗にご飯粒がいっぱいついていて
食べ方も汚かった 目玉焼きは半熟が多いので
目玉焼きを潰さないように食べてほしいのにあえて潰して食べる
それだと食器が汚くなるし 卵ももったいない
あえて黄味をつぶして食べていたので自分の意志なんだろうと思っていた
どうしてなんだろうという気持ちはあったが自分は親として
何か後ろめたい気持ちも残っている
母親というのも初めてで 母親として子供を育てたこともあって
次男の時はさほど困らなかったが長男の時は本当に子育てに悩んだ
どっちもかわいいし 長男と次男を比べることもなかったし
一番厄介なのが子どもたちの親である父親だった
さびしい思いをさせた上に 親の部分を放棄している夫に苛立つ
わたしがなにも言わなくても子供たちは成長するにつれて
自分の親はこうなんだと自然に気づくいていくしガッカリもするだろう
わたし自身はすでに両親を亡くしているが残された兄姉妹は今も複雑である
姉は好き嫌いというか負けず嫌いというか 妹の私にさえ心を開いていない
だから真摯に対応することはない
飼い犬でさえ頭をごっつんして何かを訴えて来るのになあ
姉にとって大事なのは夫と子どもたちなのだろう
不仲ではなくても肝心なことになるとそっぽを向かれてしまう
他人のほうが親切だと思うし それも悲しいと思う
今日カーネーションの花が7個も咲いていた
枯れた理由もわかったのでこれからは大丈夫だと思う
結構横に広がるんですね
今日はお昼の下準備も済ませたし 方向音痴というか地図をうまく把握できなくてようやく自分なりに納得できたかもしれない
3,4年も通っていなければ建物も変わるし感覚的なものも違ってくる
道がどのようにつながっているかそれを調べていた
わたしの目的は補聴器ではなく聴力の回復なのに
余計な神経をすり減らしてしまった 閉店に気づいたのもふとしたきっかけ
なんとなく補聴器の調整が気になった またあの苦手なご夫婦と顔を合わせるのかと
思うと気分が乗らなかったが調整自体はそんなに時間はかからない 数分程度
それで気になって見てもらうお店に「聴力検査もあるのだろうか」と聞いてみると
それはないと返答があった だからいつ行ってもいいのだが腰が重い
(希望する人だけ行うそうだ)
愛犬も一緒だから 補聴器もスマホで遠隔操作したり 補聴器が小さくなったり
充電式の補聴器があったりと変化を遂げているが肝心の難聴はどうなのだろう
それを思うと悲しくなりますね それとメンテナンスも必要です
5年もすると補聴器も寿命が近いとのことですが使う人にもよるでしょうね
他店で買った補聴器の調整がなぜ無料なのかわからないけど 会社の理念なのでしょうね
将来的にはそのほうが人に役立つし新たな補聴器を購入することにつながります
わたしのように中途半端な状態で投げ出されると次も同じお店で買う気にはなれません
技術ではなくやはり愛という心なんだなあと思いました
肝心の顧客になんの連絡もないのはやはりおかしいですね
愛犬は太鼓の音が聞こえて来てもグースカ寝ていました
雨が降ったりやんだりと落ち着かない天候ですが今年は平年よりもにぎやかです
何の規制もありませんからね ただここ数年で早朝の運行はなくなったようです
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