それは「生きている内に 生かされている内に」(新井英一の歌)、何かを成さなければならないという執念から来ており、その為に救いの女神を創造したりもします。
バルドゥ(臨死体験)にこうしたガイドが登場するのは、チベット仏教のフォーマットに則って49日間の葬儀が行われて居る事にも寄ります。
それを取り仕切る行善が希聖のバルドゥをガイドしているとも取れ、2人の共同作業として総括は進められて行きます。
ここで行善の徳について振り返りますと、彼は他者と気(呼吸)を同調させる外気功の技を修めており(少林寺流)、それは神経までも同調させて希聖の神経バランスを理想的な状態に維持します。
これは神経細胞の修復にも繋がり、細胞内のミトコンドリアが活性化される事で異物(ウィルス、細菌、重金属など)が除去されて健全に働くような成ります。(詳しくは西原克成先生の「免疫力を高める生活」にて)
行善の「バルドゥ読み」は子僧の頃から評判が良く、死者の耳元で長いチベット語の経典を読んで来ました。(チベット語はカタカナなので音だけは読めた)
どうも子供(特に少女)に読んで貰うのが死者にとっては有り難いようで、行善はこれに向いた徳を持つ子僧でした。
もう一つ、行善は師の行雄(ギョウユウ)からお太鼓を引き継いでおり、7拍のビートで南無妙法連華経を唱題する習慣が身体に染み付いていました。
これは夢の中でもしばしば唱題するレベルで、それはゆっくりとした脈拍のビートに合わせるような一息の長い唱題でした。
南無妙法蓮華経については何度か解説を試みて来ましたが、今回の物語では核心的な役割を果たしますので、この七文字についてもう一度解説します。
南無はオームで「一つに成る」で良しとし、妙法(生命)も120通りに論じるのは後回しとして、今回はその妙法が生み出した蓮華経について述べたいと思います。
バルドゥもこうした蓮華経の一つの現れに他ならず、「It's life and life only」(ボブ-ディランの歌)で何も恐がるようなモノではありません。
生命は蓮華の様に真っ直ぐで大きな華を咲かせようとし、無数の生命が経がって発展して行く上でそのリーダー格と成った人間には、特別な華を咲かせる最後のチャンスがバルドゥ(臨終)でも与えられているのでしょう。