海外を永く放浪していると、いやがおうにも多くの不平等を目にします。
それは世界の富の80%を、人口の僅か1%が握っていると言う「神話的」な不平等が背景にあると思えますが、現実に世界は「貧しき人々」で溢れています。
「貧しき人々」はドストエフスキーの処女作でもあり、そうした人々にも人間としての誇りや、生きる喜びがあるコトを謳っていて感銘を受けます。
私もそんな物語を書きたいと思い、「貧しき人々」と積極的に交わる旅をして来ました。
これは深入りしすぎると結構やっかいなコトとなり、ネパールでは貧しい家庭を5つも支援する羽目になりました。
具体的に書くとそれは、田舎から都会(カトマンズ)に出てきた貧しい家庭の家賃、家財道具、養育・教育費、仕事作り(小さな縫製工場)、借金返済、結婚資金などで、3ヶ月ほど「貧しき人々」と共に暮らして20万円余りの出費になりました。
その間カジノで10万円ほど勝ち、10才の男の子とエベレスト-トレッキングをしたり、こっちにも結婚話が持ち上がって女性とお付き合いしたりと、良い思い出もあります。
しかしやはり「貧富の格差」の壁は超え難く、女性とのお付き合いも言葉の壁から発展せずに、結局お寺(日本山、ルンビニ)に入って5つの家庭を支える困難からは逃れました...
こうした破天荒な旅が出来たのは、ネパールやインド、パキスタンなどの物価が日本の1/10だったからです。
経済の不平等は今でも存るので、それを味わってみるのも一興でしょう。
しかし精神的には私達は平等であるべきで、そうなる様に努力するのが仏の教えかと思います。
ブッタは王としての富を投げ棄てて悟りを開きましたが、自分は特別な存在ではなくみんなと同じだと説きました。
この「大平等観」こそが仏教の本質だと思い、私はそれを物語で描きたいと思っております。
日本のお寺で、ついコントラバーシー(議論を巻き起こす)になってしまうのもこの点で、ブッタは自分ではなく「妙なる法」を崇めるように説いているのに、それが日本にはちゃんと伝わっていない観があります。
私の大学時代に「原始仏教哲学」を専攻し、「科学と宗教の融合」を自らの研究テーマにして来たので、この点は譲り難いところです。