真の動物福祉牧場を目指して

75.「はらいそ」(天国)

「はらいそ」はポルトガル語で「天国」を意味し、私がこの細野晴臣の名盤を初めて聴いたのは21才で大学に入った時でした。

私は2年間海外を「浪人」してから、一番学費の安いマンモス校の東洋大学夜間部に入りました。
安いと言っても50万円かかり、後に通信学部に入り直した時は3万円で自分で払えましたが、この時は親に出して貰いました。

この年頃の大概の若者では、「勉強はお金を払ったので勿体ないからする」くらいのモチベーションしか見受けられず、それも親に払って貰ったのではすぐに忘れ去られ、私もその他大勢と同じく「遊んでばかり」の大学生活になりました。

しかし同級生との交流では収穫があり、お勧めのアルバムを交換し合って「はらいそ」と出会えました。
これを勧めてくれた年下の同級生は、マーク-リボーの「キューバとの絆」も回してくれ、実にセンスの良い若者でした。

もう一人、10才以上年上の同級生も細野晴臣をコレクションしていて、一番マニアックな部類に当たる「美しい時」(五枚組の世界民謡集)を貸してくれ、私はお返しに朴樹(フーシュー)の「我去2000年」と、ピンクフロイドの「月雲の闇」を回せました。

年下の同級生は私と同じく一年で大学を辞めて他の道に進み、年上の先輩は持病(エイズ)の為に3年後に入り直した時には亡くなっておりました。
彼はアングラ映画の製作を仕事とする個性的な人で、トム-ウェイツやXTCなどの素晴らしいアーティストも伝授してくれました。

他にもギターサークルの先輩達から、サイモン&ガーファンクルやビートルズ、ボブ-ディランなどの「基本」を教え込まれ、私にとって東洋大学の一年目は「音大」みたいなモノでした。(ほぼ毎日飲み会)

話しを細野晴臣に移しますと、彼は初め「はっぴーえんど」というフォークロックのバンドでデビューし、その後「YMO」(イエロー マジック オーケストラ)というテクノバンドを結成します。

どちらのバンドでも細野がリーダーシップを取っており、特にYMOはテクノ界で世界のトップを走り、彼の名前は世界の"Hosono"に高まりました。

ソロ作品ではフォークとテクノを上手く融合させており、晴臣はボヘミアン生活が永く世界中を旅して、そこのフォーク音楽を取り入れております。
「はらいそ」はそんな彼の代表作と言え、エスニック-フュージョンというジャンルを打ち立てた「金字塔」的な作品です。

今回は音楽の話はこのくらいにし、大学生活の話を締めくくりたいと思います。
「浪人生活」をまた2年(海外1年、北海道1年)重ねて24才で東洋大学に復帰した私は、髪を肩まで伸ばした一端のボヘミアンに成っておりました。

貧乏旅行の習慣からお酒は一切飲まなくなっていて、それどころかお金すら一切持ち歩かないポリシーを通していました。
お腹がすいたらパチンコ屋で「右打ち」(拾った玉をコツコツ増やせた)をして景品で満たし、サークルは5つハシゴしましたがどれもストイックな所を選びました。

それは4つの大学に跨がって、東洋では空手と合気道、学習院で座禅、立教で歴史、早稲田で文学のサークルに入りました。
通信でも学生証があればどの大学の図書館にも入れ、もちろん授業もどこでも好きに出席できました。

しかし結局好きな授業は見つけられず、専ら図書館に籠もる学生に成りました。
この頃には既に自分の目指す道が見つかっており、「SYN」の物語の構想を膨らませる為に「勉強」を重ねられました。

今こうしてブログの形で「物語」を発表しておりますが、まだまだ勉強不足を痛感するので、40歳で再び東洋の学生に復帰するのも善いかと、少し思っております。







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