出勤途中の早咲きの桜
今年はたまたま
寒気がいなくなってすぐこの桜が見れて
春が来た感じで嬉しいな(*´ω`*)
花粉症でぴっちりマスクしてるけど!
でもこれもコロナのおかげというか
不織布マスクの性能がめっちゃ上がりました
1月から病院の薬飲んでマスクしてると
全く問題ありません
ま、私の場合は4月ヒノキが本番なのですが(´Д` )
さて
昨日は3.11でしたね
サンドイッチマンが宮城の震災地域をまわりながらご飯食べる番組をごはん作りながら見て
ニュース見ながら一緒に黙祷して
(テレビに合わせてるので夜ですが)
Xで流れてくる被災者のつぶやきや
当時自分はどうしてたかとか
読んでいろいろ思い出していました
震災の数年後に
思い出し記事を書いているのですけど
昨年は家族親戚ごとがいろいろありましたし
改めて書き直そうかな(下地は同じですが)
今年も3.11がやってきました
14年も経つんですね
あの日、私は前の家に一人でいて(3階)
うちの場所は震度5強でしたがそれでも
うおっ!?こんな揺れは初めてだ!!!
こわいこわいこわい
すぐ倒れてくるものがないトイレへ移動
柱4本あるから安全そうな気がして
スマホ...いやまだスマホじゃなかった
ガラケーだ、携帯もって
キッチンで物が落ちる音がしてるけど放置
揺れてる途中で停電して
長い揺れだったなー
おさまってすぐ玄関扉を開けてたら
旦那から電話がきて
会社にいて、無事だと確認できて
停電しててニュースが見れない
どこが震源なんだろう、、、
携帯の充電きれたら困るから
できるだけ使いたくない、そうだ車!
と思ってカーラジオつけたら
東北で震度7とかやってた、
まだ津波はきていなかった。
震度7、、、だと、、、
仙台のみんな、泉区や名取、
福島の本家の人達や親戚、、、
東北の人は地震に慣れてるけど
それでも震度7、、、
現地に電話したってパンクしてて電話が繋がるわけない、いま揺れたばかりなんだからまず避難しててくれ、、、
とりあえず同じ市内の父に安否確認して
誰かと連絡ついたら教えてねとメール
弟と義母に安否確認メール
関東に住んでいる従姉妹達に安否確認メール
そして仙台のいとこ達に、ごくごく短文で
こちらは無事、落ち着いたら安否知らせてね、気をつけて!とメール。
停電したまま落ち着かない午後
家の中の被害は、棚に置いてた調味料やケトルが落ちたくらいで、片付けも終わり
外では人の声がするな
こわいしなんかものさみしい
近くのスーパーまで行ってみよう
電線が、切れてはいないけどたわんでて怖い
(どっかで切れてるからたわんでるのかな)
お店は開いてたけど食べるものはあるし
スーパーには入らないで帰りました
旦那から連絡がきました
会社から帰宅指示が出たので歩いて帰ると
16時には都内中心部を脱出
(5時間歩いて帰ってきました、革靴で)
(都内は停電してなかったのに、多摩川の向こう側は全て真っ暗で怖かったと)
暗くなり始めた頃
仙台のいとこからメールが!!!
自分達は近くの小学校に避難してるけど
お母さんと連絡がとれない
塩釜にパートに行ってる、という。
ああ、無事なのね良かった!
でも、さぞ怖かったことでしょう、、、
おじさんはもうだいぶ前に亡くなっていて
もしおばさんまで、、、って想像しただろうし
幸い、父が、
揺れ直後にこの叔母さんと電話で話せていて
会社の屋上に避難してるって言っていました
ただ、この頃にはもう津波がきていたはずだし、会社が塩釜のどの辺りのどんな建物なのかわかりません
でもとりあえず、いとこには事実を、
揺れ直後に父が電話で話せたよ、会社の屋上に避難してるって連絡がついてるよ、と返信
結局、その叔母さんが
無事に皆が避難した小学校に着いたのは
翌日のお昼頃でした
塩釜も港だし、中間エリアの多賀城や仙台港も津波で、あちこち道路は使えなくて、帰ってこられて本当に良かった。とにかく、祖父母といとこ達は全員無事に会うことができました。
家の中は大変なことになっていたけど
今回は潰れはせず(エコキュートが倒れた)
(昔、宮城県沖地震では一度家が潰れています)
祖父母の家は若林区で
自分の家族と家が無事でも
コミュニティはしっかりしているところ
お友達や繋がりのある人には
家族がなくなったおうちがたくさんあって
叔母さんの実家は名取で
実家は山の方だから大丈夫だったけど
海側は津波で酷いことになりました
祖父母の家からずーっと海に向かうと荒浜で
小さい頃から中学になるまで
毎年夏休みは海水浴に行っていました
遠浅だけど近くが窪んでいて
走っていくと子供は窪みにハマってしまう
ちょっと怖い海。
たくさんの人が流され、亡くなって見つかった
きっとあの陸沿いの窪みに、、、
考えると怖いけど、あれが人々を流されず留まらせてくれたのかも...
震災後は怖くて見にいけていません
松林も、昔トイレを借りた数件の家も、
何もなくなっている空撮写真は見ましたが...
関東に出てきて住んでいる別のいとこは
当日、旦那さんがちょうど仙台の仕事にきていて、帰れなくなりました
旦那さんの実家は多賀城で、実家に帰って
ご家族も無事だったようで良かったですが
いとこはその夜は寝られず
私とずっとメールしてました
いとこは、旦那の心配してたけど無事だったし
あとは泉区の実家のおばあさんが心配だって。
そのおばあさんは、数日後、避難所で亡くなられました。あんな時だからお葬式はできなくて、ひとまとめで火葬になったと。
ちなみに、うちの停電は23時過ぎに解消して
無事に携帯充電できました
旦那も5時間以上歩いて22時まえ?帰ってきて
カセットコンロでサッポロ一番作って野菜と卵いれて食べました
味噌だったか塩だったかは覚えてないなー( ´~`)
いとことメールしながら
夜中ずっとテレビを見ていました
津波が若林区の役所までとニュースが流れた時はひやっとしましたが、役所近くには細い川があるので、そこまで流れが遡上したという意味だったようでした
祖父母やいとこ達の家を守ってくれたのは
海沿いにある高速道路で
その仙台東部道路は盛り土でできています
これが堤防になって津波を堰き止めてくれました
もし東部道路がなかったら、祖父母の家まで津波も瓦礫もきていたかもしれない
ありがとうありがとうありがとう(´;ω;`)
まったくの平地で
途中に止まるものがないから、、、
まあ霞の目で止まっていたかもしれないけど
霞の目というのは自衛隊の飛行場なのですが
その敷地のすぐ脇に、1000年前の津波はここまできたよっていう小さい神社があります
(飛行場作るときに動かしただろうけど)
祖父母の家は、そこよりは少しだけ内陸ですが
もうみんな普通に暮らしているけれど
被災は少なかったから普通に暮らせているけれど
地元の同じ区内、同じ町会の中で起こったこと
きっとみんななくしたものが沢山あるだろう
みんな、どうかしあわせになっておくれ
祖父はコロナ前に亡くなって
その叔母さんも昨年末に亡くなってもういない
こないだお墓の石に名前が入ったと
いとこから写真が送られてきました
右から、祖父、ひとつあけて
うちの父、母、叔父、叔母
母と叔父の掘り跡は古くて
今回入れたのはうちの父と叔母
ばーさんはいつも石の名前を撫でているので
ここにおらが入るからな、みんな待っててな、って言うんだろうな
前にばーさんに電話したとき
若い頃は戦争で空襲で逃げて
地震で家がつぶれて(70年代の宮城県沖)
こんな大きな地震で周りが酷いことになって
コロナなんてものがきて
なんだべ、なんだべ、、、って言っていました
でもばーさんはもうすぐ101歳になるから!
来週あたりお菓子送ってあげようっと
またもう1年頑張ってほしいな!(*´∇`*)