きじゅからの幸せブログ

先輩から人生はこれからよ、と云われました
ブログと仲良くしながら、心豊かに歩んでまいります。

すやすやと昼寝をしていた母

2015-12-28 22:06:21 | 日記

  前回、12月19日の投稿の際、

  唱歌の最後のフレーズを入れずに投稿し、

  申し訳ありません。

  最後は 「いざ棹させよな 窮理の船に」です。

母は、散歩から帰ると、庭に面したサンルームの籐椅子に腰掛け、

ゆっくりお茶を飲みながら庭に眼をやると、

庭にくる鳥に、お茶を飲む手が止まります。

TVをつけ、読んでいた愛読書を開き、

聴いているのか、読んでいるのか、

はた目にも悠々自適とは、こんな姿なのね~~~~~と、

そして、活躍しているのはTVだけで、

すやすやと昼寝タイムが進んでいるのです。

  これは、96歳まで続いた母の日々でした。

 

当時は「独居老人」と云う言葉が人生で最悪の言葉で、

身内にそんな人が居るのは恥ずかしい事ですし、

子供達は親不幸者と忌み嫌われました。

 

「最近、介護離職」こんな言葉が聞かれ、

問題として、議論がなされています。

介護される人、する人、退職されてしまった職場は、

最後を「看とり=手と目で観察し、護もる=看護」で逝くります。

そして、その方の家族も、介護離職になるのでしょうか。 

 

少し前の時代の母を記録したくなりました。

70歳まで公職にありましたから、

じきに大変手が係る人になるかな?

子供・身内の間では、母には内緒をしていました。

 

一人暮らしの母は「困った」等とは云わず、

勤務時代からの友人と、

美術館へ行き、観劇に出かけ、旅行にも行っていました。

 

しかし、年齢を重ねてからは、

子供から見て気になり、なんとなく支えるようになり、

最晩年になって、一年間は皆で観察することにしました。

健康者が寒いのに、反応は?

この時間なら空腹になるでしょうに?

暑さや寒さの感じ方は、

どのような時間に散歩に出るのか、

冷蔵庫は何時観るかしら、

好き嫌い、これは分かっているはずでしたが、でも?

等々、そして、結論は「自然が良い」と云うことでした。

 

「もう帰らないの?」とか

「泊まっていくの?」等は云いません。

身内が空気のように次々訪問していたので、

早めに帰る場合もメモを残し、

夜分に帰る時は、区切りを付けて帰るのではなく、

なんとなく、さよならしていました。

夜9時にはベットへ行く母の背を観て帰る時も、

お茶を飲みながら、時間が経過し片づけて帰りました。

そんな時も「何時に帰ったわよと」メモを残し、

自然な日々が続くのでした。

  これより先は、来年に致します。

  唱歌 埴生の宿  1番

     埴生の宿も  わが宿

     玉のよそい  うらやまじ

     のどかなりや 春のそら

     花はあるじ  鳥は友

     おお  わが宿よ 

     たのしとも  たのもしや

常日ごろ訪問してくださって、ありがとうございました。

きたる年が、良い年でありますよう祈念し、

本年最後の投稿と致します。

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「命を大切に」人は長生きを求めているはず

2015-12-19 10:57:02 | 日記

     有識者が若者を批判

いさぎよく あきらめないで

だらだら いる のはわるいの ?

あせらない ゆったり しよう

いそがないで いまを だいじに

たたかわないでよ 

はんろんしない 

ほんねを ださない

子供として、人として拒否されて鬱になる人が多い

   学校や職場では「いじめ」 

   TVからは「小銃・カラシニコフ?・爆弾・・・」

   ニュースは「自転車・電車・飛行機・事故事件の情報」

   「殺してみたかった」

   「殺したのに、生き返らないのは何故」

   PCとスマホが先行し 会話。対話が無い

けいけんしていないのに なまいきいうな

だらだら生きるな もくひょうをもって

やくにたたないやつは しね

あっさりきえるのがうつくしいというが ?

じぶんをうつすかがみは じぶんだけ

    雑用中にTVから流れた言葉を羅列してみた。 

「ぱっと・あっさり・さらっと去るのが美しい」と

過去(我々)世代の希望・願望でしたが、

どうみても最近若い人達を中心に、命を大切していないようです。

 

第二次世界大戦以前は、

死を恐れ、意味嫌いながら死はとても近いもので、

あきらめに近く、戦地へ送くる時であっても、

言葉にはできないので、

戦死を恐れながら「お国の為に・・・・」と送った。

 

戦後70年にして「人が死ぬのを観たかった」とは

おうふくびんた」これをプレゼントしたい。

戦死した方々に、申し訳ないのですが、何とかなりませんか。

医療業務に携わっている方々は、

人々が一日も長く楽しくゆったりと愉快に、

そして長く生きてほしいと願いながら日々研究しているのです。 

堅実に生きようではではありませんか。

急がなくても、いいじゃないですか

いずれは銀河の一つに吸い込まれるのですもの。

   讃美歌 「いつくしみふかき」

   唱歌  星の界(よ)  2番

     雲なきみ空に  横とう光

     ああ洋々たる  銀河の流れ

     仰ぎて眺むる  万里のあなた

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奇跡的にゼロ戦から生還して

2015-12-08 21:59:08 | 日記

  今日は、大東亜戦争開戦の日で、

  あれから74年です

TVの電源をポチットして間もなくこの機械に向かい、

マァ・・・・・・ながらパソコン中、

先輩のブログを拝見している時、

本日の表題「奇跡的にゼロ戦から生還して」

が聞こえてきて、パソコンの手を止めました。

 

今年秋に約1週間ですが、春に続いて九州の南部に出かけ、

鹿児島に入り、桜島をパチリ・々・・・と満喫しました。

 

そして「鹿児島へ行くのでしょ、それなら知覧よ」

絶対行きたいと、願っていましたら、なんと、

同級生から「私もよ」「あ・そう」と云うことで出かけました。

実はお互い5回目?6回目?の九州入りかな??、

 

仕事時代から何度も九州には行っていたのに、

知覧に行ったことはありませんでした。

  同級生は、ご主人のお兄さんの奥さんの、

  さらにお兄さんが知覧から天国へ逝っているのです。

    「間違っていないかしら?」

  上世代は皆天国へ逝ってしまい、

  遠縁とはいえ自分が探すのがいいし、これが最後だと、

  「探さないと死ねない気がしているの」と言いました。

  友人間でも、こんなエピソードがあるなんて、

  縁戚としては遠いので、同級生間には公開なしでした。


知覧の特攻記念館に入りますと、

彼女は真っ先に、

その方の氏名はもちろん「隊名」や飛行機が出て行った場所等、

出来る限りのデーターを打ち込んで、探していました。

その間に管内の記念物を観たり、隊員の手紙を読んだり、

何処の記念館に行った時にも行うことですが、

しかし、ここは異なりました。

身につまされるような、

一辺に戦時の景色が瞼に浮かび、

親子の切ない別れが一気に迫ってきました。

親の立場になっていたのですね。

なぜ行ったのかって?・・・・・・

知覧に縁のある方が、中年になってから

技術者として職場に採用されました。

当初はあまりお話になりませんでしたが、

次第に職場に慣れ、お昼を一緒に食べながらや、

宴会の席で、ポツポツと話されるようになり、

戦時に得た技術で、定年まで勤務されました。

 

今の繁栄した日本の礎は、

この方たちの犠牲の上に成り立っているのでしょう。

しかし、学校でも家庭でも戦時体験は殆ど話されず、

体験者の心のうちに秘められています。

今日は、大東亜戦争の開戦の日ですが、

報道はありませんでした。

オリンピックが先行でしたね。

カレンダーに教わるなんて、

戦時体験者の後期高齢者も、

意識から遠のいているのでしょうか、

知覧を忘れてはなりません。

 

同級生の遠縁の方の情報は、この時は分からず、

調査を延長してくださるような手続きをして帰りました。

しかし、いまだに分からないようです。

   唱歌  埴生の宿  2番

      ふみよむ窓も  わが窓

      瑠璃の床も   うらやまじ

      きよらなりや  秋の夜半

      月はあるじ   虫は友

        おお   わが窓よ  

      たのしとも   たのもしや

 

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