きじゅからの幸せブログ

先輩から人生はこれからよ、と云われました
ブログと仲良くしながら、心豊かに歩んでまいります。

千人針

2015-05-27 08:37:55 | 日記

戦時中の経験から、TVは戦後70年と、

今朝もミャンマーで戦死された方の遺族の墓参が放映されました。

皇紀2601年、西暦1941年、昭和16年、

この年に大東亜戦争が開始されたと、

すんなりと出てくるほど、年齢を重ねました。

 

昭和17年以降、日々戦況が激しくなり、

銃後の守りが、より一層重要になって、

男子学生は戦地に召集され、女学生は工場へ徴用されました。

このことは、毎年8月頃になると報道されますが、

若い世代に聞くと、見ても聞いても、心に残らない様子、

若い頃に、教育されなかったからではないでしょうか。

ということを、こんな風に投稿するのも、一安かなと思いました。

 

夫や息子を戦地に送った母や姉妹、恋人たちは、

国民としての銃後の守りを越え、肉親を戦地に送るのですから、

身の安全祈願は当然の事でしょう。

当時は「生きて帰ってきてください」とは、

口が裂けても言えない国情ですし、非国民ですから、

心に深く押しとどめての日々でした。

 

そんな頃、丈夫な白い布で袋を造り「慰問袋」とし、

表側には日の丸を表す赤い丸い布を縫い付け、

裏側には部隊名と氏名を墨で書き入れて造り、戦地へ届けます。

中には、北部戦線へ出兵していることがわかる場合は、

少し温かめの衣服や下着に、腹部に捲く白い布を入れました。

 

「千人針」とは、腹巻用の白い布に、赤い糸で結び目を造り、

完成すると、虎の絵になるように縫い付けたりしていました。

虎は「千里行って千里帰る」とか、生きて帰れとは言えないので、

暗黙の心の表れ、勇ましく戦ってくださいとのサインでしょうか。

袋状の部分には、鎮守様のお守り袋や家族と恋人の写真、

布に濃い墨で郷里の住所を書き、ざっくりと縫ってありました。

最悪の状況の際には、同行の戦友に託しましたから、

戦後、最近になっても、遺族に手渡されることがあります。

所処に、鉄砲の球除けの為に、穴のある5銭銅貨が縫いつけました。

母親や姉妹たちは道路に立って、通る女性達に応援して貰い、

お願いする方々も立ち止まって人針縫う方々も心は同じで、

皆が無事に帰ってきてほしいと願っていました。

 

この状況の中、母は、生来上手に裁縫をする人で、

噂を聞きつけた女性達が、度々訪ねて来られ、

快く縫ってあげて、時には戸外に立って縫っていました。

外で、しかも立って針仕事をする母の事は、今も眼に浮かび、

♪♪出征するぞと 勇ましく・・・・」と、

この軍歌が口をついて出てきそうです。

 

後年、母の遺品の中から、

赤い糸で一部分刺してある千人針の布が出てきて、

見ないようにしまい込みましたから、

しっかり探せば、そのままの形で保存されているのです。

この遺品は、戦時や戦後の母の苦労が再燃し、

針あとは、当時の状況が眼に浮かぶので、

観たいようにも、見たくないようにも思います。

この世を去る時には、灰に致しましょうか。

多くの女性たちの、声にならない声と行動は、

終戦と同時に開くことが出来ました。

 

赤紙が届き、出征するまでの時間は、それ程ありませんから、

当時「千人針」は当然のお手伝いでしたし、

お互いさまの事でした。  

当の私も、60歳まで職業人であったのは、

この世代の方々のおかげと、

活字を打ちながら、今更ながら感じ入り、

感謝申し上げております。

   唱歌 幼き頃の思い出 2番

       月の夜     友おいて

       影ふみ遊びし  かの砂山

       幼き頃の    思い出は

       ああなつかしや 胸にかえる

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バケツリレイは銃後の守り

2015-05-12 09:08:31 | 日記

戦時中の経験からですが、

TVから、戦時の報道を見聞きする際に、こんな会話が聞こえました。

「兄に赤紙がきて・・・」

「なぜ断れないのですか?」

「焼夷弾が落ちて、母が亡くなり・・・」

「なぜ、逃げなかったのですか?・・・」

      (逃げる場所はないですよ)

     「バケツの水で火を消すのですか?・・・」

質問者に、絶句します。       今日はここまでに。

歴史の事実を知らないのですが、本当にわからないのですね。 

実は、これに似た質問を、職場にいた復員兵の先輩に聞きましたが、

何も答えずに間がありましたが、絶句ですね。

 

表題のバケツリレイは、戦時の放送がTVから流れていたり、

ネパール地震の被災住宅で、

迷彩服の兵隊らしい人達が縦に並んで、

レンガを手渡しリレーで片づけているのを観て、

書いてみようと思いました。      今日はここまでに。

「戦後70年」よりもっと前の事、

たぶん学校の休日だったのでしょう、

東京の家の二階で遊んでいましたが、

太陽が出ていて、明るかったと思っていたのに、

急に「ど~ん・ざ~・・・」と大きな音がして曇りました。

階下に眼をやり、道路の方を覗き見ますと、

沢山の女性達が、縦に並んでバケツの水を、

リレーしながら各家に向け「水をほおりあげて」いるのです。

この時の女性たちが服装は、

着物の上に筒袖の標準服を着て、裾をたくし上げモンペを履き、

防空頭巾を数っていました。

中には、白地の割烹着の方もいらっしゃいました。

二階から眺めていては、顔に水がかかりますから、

急いで窓を閉め、鍵をかけました。

当時の木造家屋は、サッシ製ではなく木造ですから、

強力な水圧でホースの水をかけると、

窓から水が入る事があるのです。

近くでは、数人の男性が、

現在では火事の時に使うような、太くて長いホースを、

家々の屋根や二階に向けて放水しています。

曇ったのと大きな音の出所は分かりましたが

暫く眺めていると、母は弟を負ぶっているのが見えました。

そういえば、さっき、泣かせたので(何故かは忘れた)

泣いている小さな子供を残し、戦災訓練に出られないと思い、

「おぶって行った」と、子供心にも理解しました。

子供をおぶって参加している方は、他にもいらっしゃいましたから、

珍しくはありませんが、

今になって思いますと酷い事だったのです。

                  今日はここまでに。

文頭の若い方の問いのに「バケツの水で火を消すのですか?」

この問いに対して、当時は一億総戦時に動員されて、

銃後の守りは、家庭の特に女性達に課せられていました。

戦時の経験は、いまだに言葉・会話にはできません

活字でしたら書けますので、さらに続けましょう。

実は「今日はここまで」は、涙で書き(打ち)続けられず、

先輩のブログで拝見したフレーズをお借りしました。

 唱歌 散歩唱歌  夏編 6番

     麦笛吹きて   遊ぶ子よ

     苺のあるのは どの山ぞ

     茂る夏草    ふみわけて

     滝ある谷の   しるべせよ

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モンペのこと

2015-05-02 22:00:57 | 日記

戦後70年の今年・・・・このフレーズに拘っています。

東京の国民学校の時代に、みそ汁の給食があり、

母親達が、配膳のお手伝いに来ていましたが、

この頃は着物に羽織を着て、

白布で膝が隠れる程の長い丈の割烹着を着ていました。

戦前の女性は殆ど着物でしたが、表題の「もんぺ」は、

一部の方々が、仕事で履いていました。

戦争が激しくなってから、誰が始めたかはわかりませんが、

自宅での家事作業に履いていたと思います。

 

この頃のもんぺは、今のスラックス風ではなく、

身頃を膝上当たりで、前後に分け、

左右の脇が少し重なるように布幅をゆったり用意し、

ウエストは、少し余裕を持たせ、

前後に幅3~4cmの長い紐が付いていて、

足首は、ここも余裕をもって布で縁取りがされていました。

 

着用は、両側に足を入れ、後身頃の左右から紐を前に回し、

帯の下で結びます。

次に、前側の紐を後ろに回してから前に戻し、

先に締めた後ろの紐の結び目を隠すように花結びにしました。

写真がないので、分かりにくいですが、

母が、白足袋を履き、帯を締め、

着物の裾をきれいに帯の当たりまで持ち上げてから、

その上にもんぺを履いていました。

この姿は、白黒の映画やTVのドラマで見ることがあります。

 

次第に激しくなる戦争の末期から、戦後にかけては、

作業の為に、白足袋は色布で、それも自宅で縫ったので、

このもんぺもそれぞれが、自分で縫っていたのでしょう。

そして、戦争が激しくなってからは、

女性たち皆の普段着でした。

 

この頃から、着物ではなく標準服と名の付いた上着に、

着物時代のもんぺを履くようになり、

さらに、戦時最後の頃から戦後にかけては、

ウエストと足首にゴムを入れて履いていました。

 

標準服は、男性方が着用する作務衣風で、

袖幅は袂を作業がしやすいように短く仕立て、

襟は着物の襟幅より狭くし、左右のウエスト当たりに細い紐で結び、

着丈は、お尻が隠れる程でした。

このスタイルの衣服は、布の種類により真夏も真冬も着用し、

冬用には、薄目に綿を入れますと最高の防寒着で、

半纏と云って、暖房の普及が炬燵だけの頃には、

無くてはならない防寒着として、

高度成長期頃まで着ていたと思います。

 

戦後になり、物資が不足してからは、

母親たちの着物をほどいて、造り直して着ていました。

 

このように書いていると、戦後の疎開地生活に、

少し小さく仕立てた標準服ともんぺを、

子供裁ちも着ることになり、

それまでの、スカートは夏だけの衣服になったのです。

 

戦時は「嫌な洋服だわ」・「絶対履かないわ」と思っていましたが、

3年前に洋品店に売っているのを目にし、

「木綿製の00絣」のチョット上等なのを2本買いました。

履いてみましたら、寒くなく暑くなく、

雪かきも、木綿製のもんぺで完了しました。

スラックスとは違い、身体を前後左右に動かすのに、

身体にゆったりとフィットし、負担がかかりませんので、

3本目も買って、年間を通して着用しています。

 

このブログにもんぺの事を投稿するきっかけは、

急に暑くなって、足首が暑苦しいので、

入れてあるゴムを抜き、夏バージョンにした時に、

思いついて書いてみました。

   唱歌  鯉のぼり  2番

        開ける ひろき その口に

        舟をも 呑まん 様見えて

        ゆたかに振るう 尾鰭には

        物に 動ぜぬ  姿あり

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