戦時中の経験から、TVは戦後70年と、
今朝もミャンマーで戦死された方の遺族の墓参が放映されました。
皇紀2601年、西暦1941年、昭和16年、
この年に大東亜戦争が開始されたと、
すんなりと出てくるほど、年齢を重ねました。
昭和17年以降、日々戦況が激しくなり、
銃後の守りが、より一層重要になって、
男子学生は戦地に召集され、女学生は工場へ徴用されました。
このことは、毎年8月頃になると報道されますが、
若い世代に聞くと、見ても聞いても、心に残らない様子、
若い頃に、教育されなかったからではないでしょうか。
ということを、こんな風に投稿するのも、一安かなと思いました。
夫や息子を戦地に送った母や姉妹、恋人たちは、
国民としての銃後の守りを越え、肉親を戦地に送るのですから、
身の安全祈願は当然の事でしょう。
当時は「生きて帰ってきてください」とは、
口が裂けても言えない国情ですし、非国民ですから、
心に深く押しとどめての日々でした。
そんな頃、丈夫な白い布で袋を造り「慰問袋」とし、
表側には日の丸を表す赤い丸い布を縫い付け、
裏側には部隊名と氏名を墨で書き入れて造り、戦地へ届けます。
中には、北部戦線へ出兵していることがわかる場合は、
少し温かめの衣服や下着に、腹部に捲く白い布を入れました。
「千人針」とは、腹巻用の白い布に、赤い糸で結び目を造り、
完成すると、虎の絵になるように縫い付けたりしていました。
虎は「千里行って千里帰る」とか、生きて帰れとは言えないので、
暗黙の心の表れ、勇ましく戦ってくださいとのサインでしょうか。
袋状の部分には、鎮守様のお守り袋や家族と恋人の写真、
布に濃い墨で郷里の住所を書き、ざっくりと縫ってありました。
最悪の状況の際には、同行の戦友に託しましたから、
戦後、最近になっても、遺族に手渡されることがあります。
所処に、鉄砲の球除けの為に、穴のある5銭銅貨が縫いつけました。
母親や姉妹たちは道路に立って、通る女性達に応援して貰い、
お願いする方々も立ち止まって人針縫う方々も心は同じで、
皆が無事に帰ってきてほしいと願っていました。
この状況の中、母は、生来上手に裁縫をする人で、
噂を聞きつけた女性達が、度々訪ねて来られ、
快く縫ってあげて、時には戸外に立って縫っていました。
外で、しかも立って針仕事をする母の事は、今も眼に浮かび、
「♪♪出征するぞと 勇ましく・・・・」と、
この軍歌が口をついて出てきそうです。
後年、母の遺品の中から、
赤い糸で一部分刺してある千人針の布が出てきて、
見ないようにしまい込みましたから、
しっかり探せば、そのままの形で保存されているのです。
この遺品は、戦時や戦後の母の苦労が再燃し、
針あとは、当時の状況が眼に浮かぶので、
観たいようにも、見たくないようにも思います。
この世を去る時には、灰に致しましょうか。
多くの女性たちの、声にならない声と行動は、
終戦と同時に開くことが出来ました。
赤紙が届き、出征するまでの時間は、それ程ありませんから、
当時「千人針」は当然のお手伝いでしたし、
お互いさまの事でした。
当の私も、60歳まで職業人であったのは、
この世代の方々のおかげと、
活字を打ちながら、今更ながら感じ入り、
感謝申し上げております。
唱歌 幼き頃の思い出 2番
月の夜 友おいて
影ふみ遊びし かの砂山
幼き頃の 思い出は
ああなつかしや 胸にかえる