(1) 中国の政治家、文学者、詩人、歴史家である郭沫若(1892年~1978年)は「銅鐸は殷人の一種の銅器である」と述べ、春秋時代の徐国が、殷の文化伝統を忠実に継承し、そっくり出雲に移住していたという。
昭和十六年の「日支交通史」の著者である王輯五は、出雲族は秦系大陸民族であり、考古学的には銅鐸民族であり、徐福集団に比定されるとしている。
王輯五はさらに、徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集したとする。
昭和十六年の「日支交通史」の著者である王輯五は、出雲族は秦系大陸民族であり、考古学的には銅鐸民族であり、徐福集団に比定されるとしている。
王輯五はさらに、徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集したとする。
辰韓より出航すると、東に流れる対馬海流と南に流れるリマン海流によって、出雲から伯耆に流れるように到着する。
徐福一行はまだ地続きでなかった島根半島と本土との間を通ってきた。大山(蓬莱山)は中海から見ると秀麗な山容となる。少女一行の多くは米子に到着した。徐福の本隊は鳥取県北栄町の小さな湾(葦原中津国)に到着した。徐福一行が2回目(紀元前210年)に来たときは仙人(伊邪那岐命)は小さな湾(葦原中津国)に降りてきていたようである。仙人(伊邪那岐命)は徐福に私に替わって蒜山高原(高天原)を治めよといい徐福のNO2(素戔嗚)には私に代わって泊瀬の海原(倉吉市中心市街地)を治めよ、と言った。その時に徐福のNO2(素戔嗚)は「母の国」と言って泣いた。徐福は三神山の大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)に止まって王(天照大御神)となった。
伯州(伯耆国)には福付き地名が41ヶ所ある。このことより、王輯五のいう「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とするのは正しいと思われる。
伯州(伯耆国)には福付き地名が41ヶ所ある。このことより、王輯五のいう「徐福一行は辰韓(徐福島の古地名がある)にたどり着き、しばらく止まった後、つぎつぎと伯州(鳥取県中西部)に結集した」とするのは正しいと思われる。
(2) 郭沫若、王輯五のいう「徐福一行は出雲に移住し殷人の一種の銅器である銅鐸民族になった」とするのは正しいか。
伯耆国は出雲の東にあり辰韓を出航すれば出雲を通り過ぎて伯耆国に到着する。出雲国に移住するのなら伯耆国まで来なくてもよい。伯耆国に来れば引き返さなければならない。
徐福は不老長寿の仙薬を得る為に東海の三神仙に行くことが目的であった。始皇帝も徐福に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じている。三神仙とは大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)のことである。徐福は伯耆国の小さな湾(北栄町の葦原中津国)に到着しそこで待っていた仙人(伊邪那岐命)に会って蒜山高原(高天原)を治めるように言われた。徐福は蒜山に上がり、周辺の山々(山をセンと名付けた)で仙薬を探した。そして始皇帝の言ったように「三神山に止まって始皇帝に替わって王(天照大御神)となった」。
徐福は蒜山高原(高天原)で王(天照大御神)となり降臨をして平原(伊勢野・斎王野・鈴鹿野・方見村)と広沢(葦原中津国)を得た。
出雲族は徐福集団ではなく殷王朝末裔の準王一族である。徐福集団(紀元前210年)より16年後(紀元前194年)に出雲の地に到着していた。
(3) 素戔嗚が泣いていたのは葦原中津国であった。
宮下文書に「宇記島原(浮島と原)に上陸し」とある。倭建命も北栄町大島のことを「こは浮島にや」(宮崎神社由緒)といった。葦原中津国には原集落(北栄町原)もある。倭建命と孝元天皇は大島で二尊(伊邪那岐命・伊邪那美命)を祀っている。
伊邪那岐命は大島で徐福を待っていた。
徐福は葦原中津国に到着し、しばらく灘手神社にいた。灘手神社の祭神は天照大御神である。天照大御神が降臨したのは、琴浦町斉尾(斎王)である。灘手神社は降臨した場所ではなく、到着した場所である。まだ徐福であったが、天照大御神に直している。徐福は小さな湾(葦原中津国)に到着し、北栄町大島にいた伊邪那岐命(仙人)に再会した。
伊邪那岐命は大島で徐福を待っていた。
徐福は葦原中津国に到着し、しばらく灘手神社にいた。灘手神社の祭神は天照大御神である。天照大御神が降臨したのは、琴浦町斉尾(斎王)である。灘手神社は降臨した場所ではなく、到着した場所である。まだ徐福であったが、天照大御神に直している。徐福は小さな湾(葦原中津国)に到着し、北栄町大島にいた伊邪那岐命(仙人)に再会した。
天照大御神を祀る神社は鳥取県に110社あるが、その中で伯耆国は87社(79%)、因幡国は23社(21%)である。総神社数は因幡国のほうが多いが天照大御神を祀る神社は鳥取県中西部が圧倒的に多い。
あとから来る徐福一行の多くは秀麗な山容の大山を目標に鳥取県西部に到着したので、徐福(天照大御神)はそれを迎えるために鳥取県西部に降りていた。
天照大御神を祀る神社は西伯郡51社、日野郡27社。
東伯郡(鳥取県中部)は9社である。
1 新宮山神社 西郷村下余戸 2 五郷神社 三朝町牧 3 国主神社 湯梨浜町北福 4 神田神社 関金町泰久寺 5 灘手神社 灘手村穴沢 6 上市神社 河来見 7 方見神社 市勢村上伊勢 8 日御碕神社 下中山村御崎 9 神郷神社 上郷村大杉
福付き地名(徐福集団が住んだ集落)も鳥取県48ヵ所のうち伯耆国は41ヵ所(85%)、因幡国は7ヵ所(15%)である。
あとから来る徐福一行の多くは秀麗な山容の大山を目標に鳥取県西部に到着したので、徐福(天照大御神)はそれを迎えるために鳥取県西部に降りていた。
天照大御神を祀る神社は西伯郡51社、日野郡27社。
東伯郡(鳥取県中部)は9社である。
1 新宮山神社 西郷村下余戸 2 五郷神社 三朝町牧 3 国主神社 湯梨浜町北福 4 神田神社 関金町泰久寺 5 灘手神社 灘手村穴沢 6 上市神社 河来見 7 方見神社 市勢村上伊勢 8 日御碕神社 下中山村御崎 9 神郷神社 上郷村大杉
福付き地名(徐福集団が住んだ集落)も鳥取県48ヵ所のうち伯耆国は41ヵ所(85%)、因幡国は7ヵ所(15%)である。
(4) 古事記において
伊邪那岐命が三貴神に「~は私に代わって~を治めよ」と指示した場所は三貴神が到着した葦原中津国である。
素戔嗚は泣いたが、伊邪那岐命は「この国に住んではならぬ」と命令した。この国とは葦原中津国である。素戔嗚が泣いていたのは倉吉市谷集落の朝日神社のあたりと思われる。祭神の素戔嗚を牛頭天王とする。
素戔嗚は高天原(蒜山高原)に上がっていた天照大御神に暇乞いをしに行った。泊瀬の海原に降りて周辺を調べているうちに三朝町山田で八俣大蛇を見つけ退治した。
「この伊邪那岐命はのちの近江である淡海の多賀に鎮座している」の文はのちの挿入であり、史実ではない。私見では伊邪那岐は黄泉国を嫌い鳥取県八頭郡那岐村に移っていた。南には那岐山、岡山県奈義町がある。素戔嗚は八岐大蛇を退治してから、鳥取県八頭郡にいた伊邪那岐を頼って同じく鳥取県八頭郡に御殿を建て稲田姫と住んだ。素戔嗚は伊邪那岐が亡くなってから伊邪那岐に治めよと言われていた根国(泊瀬の海原)に帰った。2番目の妻との間に生まれた須勢理姫と智頭町に降りていたが中山神社(御真木)→真庭市社→蒜山高原(高天原)→倉吉市余戸谷町(根国の清熊稲荷神社)のルートで根国に降りてきていた。谷田神社(清熊稲荷神社)が「根国での冒険」の舞台であり、1人になった素戔嗚は東山神社に移り、十握の剣を大原神社(石上神宮)に奉納した。須勢理姫は東山神社と宇迦能山(北栄町茶臼山)との間を行ったり来たりしていたようである。宇迦之御魂命を祀っている神社の並び方を見るとこういう結論になる。