天稚比古と高姫(下照姫)は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいた。
1 灘手神社由緒には「大正5年11月灘手村大字寺谷字西前村社矢野宮神社祭神天稚比古を合併し灘手神社と改称す」とある。鳥取県神社誌のなかで天稚比古を祀る神社は湯梨浜町宮内の倭文神社と倉吉市福庭の波波岐神社と倉吉市寺谷の矢野宮神社である。
倉吉市福庭の波波岐神社の祭神は国を譲った神を羅列して祀っているだけでそこに住んでいたわけではない。湯梨浜町宮内の倭文神社の祭神は孝霊天皇の皇居を隠すために波波岐神社の祭神を複写しただけである。天稚比古は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいたと思われる。
倉吉市灘手地区「鋤」に行ってきました。ここは、葦原中津国を形成する集落の一つです。
3 饒速日の降臨
天稚比古は饒速日の降臨コース上にいた。天稚比古が死んだのは、ニニギの降臨ではなく饒速日の降臨のときであった。
天稚比古は倉吉市寺谷の矢野宮神社の地に高姫(下照姫)と一緒に住んでいた。天稚比古が返り矢で亡くなったのは矢野宮神社と思われる。国譲り後、高姫(下照姫)は湯梨浜町宮内ではなく、倉吉市志津の倭文神社に移った。
天穂日の3年と天稚比古の8年で11年の間二人とも帰ってこなかった。天穂日が遣わされてから11年後、天照大御神一行(建御雷命・天照大御神・月読命・伊斯許理度売命・天手力男神・天石門別神)は神田神社の地から西の方見郷一帯に降臨した。饒速日一行(饒速日・天児屋根・天太玉・天鈿女・玉祖命・思金神)は神田神社から倉吉市清熊稲荷神社の峰に降り、倉吉市寺谷の矢野宮神社に寝所のあった天稚比古に雉の鳴女を遣した。
天稚比古が死んでから饒速日は土下山に住んだが、天児屋根・天太玉・天鈿女・玉祖命は茶臼山の松樹庵を通り北条砂丘を東に行き長瀬高浜(タギシ)に至った。天児屋根・天太玉・天鈿女は長瀬神社の祭神になっている。玉祖命は長瀬高浜を終の棲家とし死ぬまでここで玉を作っていた(長瀬高浜遺跡より)。大国主も出雲大社のモデルの高い建物を建てる打ち合わせをするため松樹庵から長瀬高浜(タギシ)に行った。
饒速日が亡くなりニニギが降臨することになったので天児屋根と天太玉は関金町の矢送神社に戻った。
思金神は清熊稲荷神社の峰から長和田に、天鈿女は長瀬神社から泊村石脇字堀の石脇神社に移った。13代武内宿禰天皇の時代(在位280年~320年頃)、天孫降臨から約500年後、天鈿女の子孫は鳥取市の宮長にいた(宮長神社由緒より)。
4 参考
阿遅鋤高日子根について
古事記・天稚比古の段に「葦原中津国を平定するに当たって、遣わされた天穂日命が戻って来ないので、次に天稚比古が遣わされた。しかし、天稚比古は大国主の娘下照姫と結婚し、葦原中国を得ようと企んで八年たっても高天原に戻らなかった。そこで天照大神と高皇産霊神は雉の鳴女を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天探女が、不吉な鳥だから射殺すようにと天稚比古に進め、彼は高御産巣日から与えられた弓矢で雉を射抜いた。その矢は高天原まで飛んで行った。その為、高御産巣日は『天稚比古に邪心があるならばこの矢に当たるように』と誓約をして下界に落とすと、矢は寝所で寝ていた天稚比古の胸に刺さり、彼は死んでしまった。天稚比古の死を嘆く下照姫の泣き声が天まで届くと、天稚比古の父の天津国玉は下界に降りて葬儀のため喪屋を建て葬儀をした。下照姫の兄の阿遅鋤高日子根も弔いに訪れたが、彼が天稚比古に大変よく似ていたため、天稚比古の父と妻が『天稚比古は生きていた』と言って抱きついた。すると阿遅鋤高日子根は『穢らわしい死人と見間違えるな』と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった」とある。
長瀬高浜遺跡に近い神社である。
長瀬高浜遺跡の出雲大社のモデル。稲吉角田遺跡の土器絵画はこの建物。
裔胤とは子孫のことである。全国の神社の建立は10代の崇神天皇(在位188年~220年頃)が始めた。