YS_KOZY_BLOG

History, Strategy, Ideology, and Nations

12月22日

2009年12月22日 | THEORY & APPROACH
 最近、少し気になることは、誰も彼も自分が「保守」であることを名乗りたがっている点である。
 先日、ある会合が行なわれた際、その後に開かれた懇親会の席で、
 やたらと自分が「保守」であることを誇りにしているような人物と出会った。

 その人物曰く、皇室の権威は政治的文脈に照らして必要なのであり、
 駐留米軍は短期的な国益を損なってでも、即時撤退すべきなのであり、
 太平洋戦争の勃発理由を帝国陸軍の暴走と決めてかかっており、
 米国の背後に暗躍する秘密グループへの関心を逞しくして、国際政治を眺めるような思想の持ち主であった。
 しかも、この人物は、自らを「保守」と位置づけており、その思想に一歩の揺らぎもないことを強調するのである。
 
 個人的な印象でいえば、まず最初の点からして、保守とは言い難いものがある。
 皇室の権威を政治的観点から捉えることは根本的に間違っているし、第一、不遜極まりない考え方であろう。
 また、在日米軍の存在も、確かに他国から安全保障の多くを担保してもらうことにデメリットはあるし、
 本来、自国の防衛は自国で行なうのが筋であることは認めるものの、
 だからとって、今現在、在日米軍を撤退させた時、それによって生じた軍事的空白を埋める方策がない限り、
 到底、容認することはできない。
 太平洋戦争の勃発も、事情が複合的に絡むため、一概にその原因を求めることは難しいが、
 少なくとも帝国陸軍の暴走を最大の理由とすることには、異論を差し挟みたいところがある。
 そして、陰謀論への傾斜は、自国のみならず、他国への歴史や伝統に対する無理解に起因するものであり、
 そうした議論に共感するのは、自らの不勉強を曝け出しているにすぎない。

 以前であれば、おそらくこうした志向の人は、「革新」と呼ぶべきところであろう。
 しかし、今は国益を損失するとしか思えない志向の人でさえ、「保守」と自らを称しているのである。
 この背景に、冷戦終結との幻想があることは疑い得ない。
 「共産主義・社会主義=革新」のイメージから、敗者の側に付きたくない心理が働くのだろう。
 だが、その方向性は明らかに「革新」であって、「保守」というべき要素は乏しいのである。

 その一方で、もうひとつ別の「保守」がいることも指摘しておく必要がある。
 この場合の「保守」は、戦後民主主義の全面的肯定に深く根ざしたものであり、
 高度経済成長を達成した日本の成功体験を絶対視することに大きな特徴があると言える。
 もちろん、戦禍を乗り越えて経済復興を果たした戦後日本の軌跡を一方的に否定することはできない。
 だが、それによって何が失われたのかを回顧することなしに、「保守」と呼ぶことは決してできないはずである。
 なぜなら、その軌跡は、日本的なるものを少なからず否定したことから始まったからである。

 ここ数年来、保守復活や保守再興といったフレーズが聞かれるようになった。
 成功と繁栄の後に、我が身を省みようとする日本の姿は、
 むしろ社会的な健全さが失われていないことの証明である。
 日本は決して拝金主義にはなりきれないし、完全なる個人主義にも染まりきれない。
 そのような思想に自らを同定してしまうことは、日本人の美的感覚が許さないのである。
 
 「保守」とは何か」という問いかけに答えることは難しい。
 「保守」すべき対象は各人によって異なるし、しかもそれは極めて感覚的なものだからである。
 だが、現実社会の変化において、感覚的な要求と現実的な判断は常に葛藤の関係に置かれている。
 もしその葛藤がないとすれば、現実を省みない反動右翼か、至上の価値を認めない唯物論者のいずれかだろう。
 したがって、保守を語るとき、それは決して理想を語るものではなく、むしろ苦渋を語るものなのである。

 嬉々として「保守」を論じようとする者、率先して自らを「保守」と位置づけようとする者には、気をつけた方が良い。
 その実態は、葛藤の苦しさから逃避した精神的弱者であることが多いからである。