我が街では、30年以上前から駅前開発事業が計画されていた。
しかし、地元商店街の強い反発によって、その計画はなかなか進まなかった。
そこで、行政側は、以前から想定していた開発地区を一時的に凍結し、
新しく別の開発地区を設定して、そこから計画を着手することになった。
もちろん、その地区にも古くから商店街が伸びていたのだが、
行政側の開発計画と、それに応じて作成された鉄道会社の開発計画に理解を示して、
再雇用を条件に商店街が全面立ち退きに合意し、駅前開発は一気に進み始めたのであった。
いざ開発が進み始めると、駅前の風景は大きく変わっていった。
バスやタクシーのターミナルが新しく設置されただけでなく、
込み入った駅前の通りや区画も整理されて、随分と見通しが良い風景になった。
人の流れも、徐々に新しい開発地区に向かうようになり、
鉄道会社が経営するデパートだけでなく、
近くにはファースト・フード店や学習塾なども相次いで開業された。
その結果、もはや街の表玄関は、新しい開発地区の方になってしまったのである。
その間、行政の開発計画に反発してきた商店街の方は、
相変わらず反発を続けていた。
しかし、次第に新しい開発地区へと人の流れが移り、自分たちの商売に影響を及び始めると、
今度は、行政側に対して、その補償を要求するようになった。
自分たちの経営が苦しくなったのは、我々の言い分に耳を貸さずに、
一方的に開発を進めた行政に原因があるというのである。
当然、行政側はそうした要求には応じられない旨、商店街側に伝えると、
彼らはさらに態度を硬化し、断固立ち退き反対へと転じた。
そして、行政側には、立ち退きに際して、非現実的な条件を何度も突きつけるとともに、
古き良き風情を残す商店街は日本の誇れる文化であるといったキャンペーンを展開し始めたのであった。
もし日本人が商店街に強い思い入れを持っていれば、
こうしたキャンペーンも一定の効果を上げたかもしれない。
だが、品揃えも悪く、優れた技術を持った職人もおらず、
価格も大して安くなければ、接客やサービスもいま一つの商店街に、
集客力があると考えたのは、思い違い以外の何物でもなかった。
結局、新しい開発地区に出来たスーパーが連日、賑わっているにもかかわらず、
立ち退きを拒否し続ける商店街には、閑古鳥が鳴き続けた。
すると、今度は、スーパーの出店を認めた行政側の判断に文句を言い始めるようになった。
しかも、民主党政権が実施する農家への戸別補償制度を引き合いに出して、
大型店や量販店によって生じた損失を補償するための支援を行なうべきだと要求し始めたのである。
そして、「このままだと、古き良き日本の風情が失われる」とのスローガンを殺し文句にして、
あたかも自分たちこそ日本文化の担い手であると言わんばかりに、
商店街への保護を求めるのである。
はっきり言って、経営努力も技術向上もせずに、
補償や保護ばかりを要求する商店街の人々に同情することはできない。
彼らは、二言目には「一生懸命やっている」ことを強調するが、
一生懸命やっているのは、大型店や量販店の社員・パートの人たちも同じである。
また、そうした努力を重ねる中で、
どうやって顧客に合わせたサービスを提供できるかを真剣に考えている。
その点では、行政への不服ばかりこぼしてきた商店街の人々よりも、
現在の日本文化と対峙してきたと言えるのである。
進化論を唱えたダーウィンは、適者生存の法則について、
「生き残るのは、強いものでも賢いものでもなく、
環境にうまく適応できたものである」という言葉を残している。
少なくとも現在、商店街のようなビジネスモデルは、
地方のみならず、都市においてもまったく成立していないことは歴然である。
駅前開発計画に素早く応じた商店街の方は、
時代の趨勢を読みとって、その将来性に見切りを付けていたのであろう。
環境に適応できなければ生き残れないのは、ビジネスも生物界もまったく同じである。
ところで、立ち退きに応じた商店街の商店主たちは、
そのまま廃業した人も多かったが、条件通り、再雇用された人も少なからずいた。
もちろん、以前と同じ仕事ができたわけではなく、
人によっては、レジ打ち係や駐輪場の管理人といった形での雇用という人もいた。
彼らを見て、落ちぶれたと笑う人もいるだろう。
しかし、「実は昔、この通りで魚屋をやってたんですけどねぇ」といって屈託なく話しかける表情には、
どこか吹っ切れたような印象を周囲に与える。
多分、行政に不当な要求をぶつけて補償をせしめるような卑しさとは一線を画しているからであろう。
落ちぶれているのは、一体どっちかと問いたい。