無知の知を忘れてはいけない。知識は杖だが、脚ではない。相手に問うこと…相手に問いただすのではなく、目の前の相手を知ろうとするために自分の目と耳と頭を使うということ。言語化されない声を聞く力を鍛えること。難しいけど、そういうことが必要なのだろう。
俯瞰して把握する視点と、個と個の対話に深く深く降りてゆく視点、どちらも必要だよね。知識はそのどちらにも役に立つ。ランタンの光のように当たりを照らすこともできれば、謎の穴蔵の闇を覗きこむ時の助けになる。しかし光だけを見つめてしまったら目を眩まされることになる。原点を忘れるなかれ。
目の前の子ども(や大人)を障害の知識の型にはめて見てしまったら知識は枷になるだろう。でも、得た知識を応用して相手をより深く知る手がかりにするなら、それは恵みになるだろう。目の前の相手を如何に理解するかが常に問われるのだ。相手の言動が不可解に見える時、何故を探求するの心を持ちたい。
@dicegeist @6BT9 全くそうだ。怖いから知りたくないだけ。自分が知らないことを認めるのが怖い。苦手な分野なの。下手にお勉強が出来た優等生が多い!(♯`∧´) ピノコ炸裂!学問とはおのれが無知であることを認識して自分が知らない世界がどれほど広いのか知ることなのだ。
理想を言うなら、いま「障害」になるぐらいのことが、また「個性」や「性格」の範囲に少しずつ戻っていくように。そのためには色んな人がいるという見方が広がり、あたりまえのようにお互い配慮されるように。/
私って障害者なんだ - フミログ fumikichi2525.hatenablog.com/entry/2016/02/…
そうした世界とか社会とか世の中になっていくためには、「障害」をなかったことにするのではなくて、そこをちゃんとくぐり抜けていくプロセスがいるんだろうな、と思います。
個人的な意味でも同じようなことかもしれません。
影/陰を持つ、というのは深みや厚み、人や世の中の「陰影」のようなものにつながるはずです。
そんなつらいくらいいやなもの、ないに越したことがないのですが、元にあるものなのだから。
あるのだから、うきあがる感じになるのではなく、うまくぴたっと沿う形がとれるように。
重いところを抱えた上で、理想を思い描いたり。
理想を思い描きながらも、どうにもならなさをちゃんと片隅に見据えておいたり。
そうした二面性・矛盾を抱えておけるように。
発達障害について知ろうともしないで、「子どもを障害呼ばわりしようとしている!」と言う人間を、私は軽蔑します。
自分で書きながら、なんかすごい言葉がでてきた…!
ええい、ツイート
90年代に「アダルト・チルドレン」という言葉が流行ってしまったが、その言葉はまさにこのような子供達のために生まれた言葉だった。多くの人々が誤用していた「子供じみた大人」などではなく、急いで大人にならなければいけない子供達だった。 moae.jp/comic/chibasho…
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます