RADIX-根源を求めて

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動きを拾う繋がり=身体外協応構造2

2011-11-28 14:58:10 | 支援教育


動きを拾う繋がり=身体外協応構造1に続いて養老孟司氏の『リハビリの夜』の書評も紹介しておきます。1では障害を抱える人との共生とは、障害を抱える自らの排泄などのともすれば恥ずかしい身体の動きを他者に晒し、支援・介助する側の他者と「ほどきつつ拾い合う関係」を創ることを通して共に生きる新たな関係を切り開くことの意味を知ることが障害者理解の基本であることを示していたと思います。他人の(特に障害当事者側の)ぎこちなく不恰好で一見無意味に思われる身体の動きの意味を理解しお互いの関係の中に意味付けられて行くことを熊谷さんは動きを拾うと表現しています。動きを拾うことを通じて人と人、人と物が繋がり結びつき世界が広がり、お互いの生きる意味の質が変わって行きます。

養老孟司氏の書評は障害当事者熊谷さんの提示する身体論がこれまでの心理学的通念としての言語・観念的な共感理解を超えた共感の在り方の可能性を示していると言うものでした。人間の共感の根本には身体的な協応構造の構築が存在し、この様な身体的協応構造こそが共感の本質だと私は思います。

◇脳性麻痺の医師が身をもって示す身体論

 とても興味深い本である。著者は三十二歳の脳性麻痺(まひ)の医師。幼少の頃(ころ)は、もっぱら自分のリハビリに明け暮れていた。普通の基準からすれば、身体の動きがなにしろ不自由で、歩くことすらできない。だから、人生のほとんどが動くことの修練に費やされたことになる。むしろそういう人の人生論といってもいい。

 こういう本というと、根性もの、精神力ものになりやすい。それはまったく違う。著者の自分を見る目は、よい意味できわめて客観性が高い。客観的な記述に、これほど共感できたのは、長い間生きてきたつもりだが、はじめてだといってもいい。なんだか著者と自分が一体化した感じがする。すぐれた身体論の特徴がそこにある。身体はむしろ共感するものであり、現代人が暗黙の常識としているような、個々別々の、「客観的事物」としての物質的存在ではない。

 普通の人はこうした「障害」のある人を目にしたとき、どこか「目をそむけたくなる」気持ちが起こるはずである。それは右の共感に関係している。著者はその基礎にあるものを「規範化」された動き、規範化された身体と表現する。規範に外れたものを排除する。それは社会的にはごく当然の心情であろう。身体についてなら、普通は規範自体を意識していない。まさか「普通の」動きに適応できない人がいるとは、考えないからである。でもリハビリの専門家なら、そんなことは知っているだろうが。

 そうはいかない。専門家であろうがなかろうが、現代人に変わりはない。どの社会にもそれなりの「規範」があって、そのなかでも身体は無意識の規範をいちばん強く帯びてしまう。現代はそうした規範性がじつはきわめて強い。現代社会は昔に比べて自由だと思っているのは意識で、だから無意識つまり身体はより強く束縛されているのかもしれない。服装はある程度自由だが、これは無意識ではない。では服の中にある身体はどうか。現代人が昔に比べてどれだけ多くの人に出会うか、それを考えてもわかるであろう。服で身体を隠しても、その「動き」はつねに「他人目(ひとめ)にさらされている」のである。

 著者はそれを直接に論じているのではない。自分が現代社会にどのように適応していったか、それを詳細に論じる。著者の目的はこうである。「随意運動を手にするためには、既存の運動イメージに沿うような体の動かし方を練習するしかない、というのは間違いだ。それとは逆に、運動イメージのほうを体に合うようなものに書きかえるというやり方もある。私はこのような自分の経験を通して、規範的な運動イメージを押し付けられ、それを習得し切れなかった一人として、リハビリの現場のみならず、広く社会全体において暗黙のうちに前提とされている『規範的な体の動かし方』というものを、問いなおしていきたいと思っている」

 著者ははじめに現代の脳科学でわかってきた運動に関する常識を解説する。さらにリハビリの簡単な歴史、思想の流れを紹介する。その次にまさに自分史が書かれる。両親から離れて、はじめて一人立ちして、アパートに住んだとき、トイレに行ってどうなったか。読者としての私は思わずそれに釣り込まれてしまう。まるで自分が転んで動けなくなったように感じる。

 研修医として採血をする。いわゆる健常な人だって、初めは緊張する。著者の場合はどうなるんだろう。こちらがドキドキしてしまう。緊張して体がこわばる。これは著者の表現を使えば、「身体内協応構造」のためである。体のなかのたくさんの筋肉は、いちいち脳に指図されて動くわけではない。自前で適当に動くようになっている。それが場合によってはこわばりを生んでしまう。著者ははじめからその傾向が強いから、そのことがよくわかっている。

 それを助けてくれるのは、周囲の人たちである。その手助けを「身体外協応構造」と著者は名づける。たしかにそうだなあ。読者である私はそう思う。自分の動きと他人の動きが上手にかみ合って、採血という動きが完了する。かといって、あらかじめこうして、次にこうしてと、プログラムが組まれるわけではない。

 いろいろな立場の人に、本気で読んでほしい。しみじみそう思う。読みながらまず武道のことを思った。武道はもともとたがいに命がけで、動きのやり取りをする。そこに身体内外の協応構造がまさに表れる。その極(きわみ)の一つが合気道であろう。「気を合わせる」というのは、みごとな表現ではないか。

 現代教育の大問題はじつは知育ではない。体育である。おりからオリンピックで盛り上がっているが、普通の人の体育はどうなっているのか。オリンピックの成績が問題なのではない。あなたの日常の体の動きが、じつは最大の問題ではないのか。他人が動き回るのを、ただテレビで見てりゃあ済むんだろうかしらネ。


毎日新聞 2010年3月7日 東京朝刊

2010年10月7日


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