コトバのニワ

出会った音やコトバのことなど

アトム・コネクション 4

2010-08-29 | 日記

 ひさしぶりに車で早朝の道を走る。山の稜線が妙にくっきりしていたり、いつのまにか高架が伸びていたり、連日うだるような暑さなのに雲が秋のようだったり、手の届きそうなところに海が光っていたり、やたら人がジョギングしてたり、犬同士に話をさせてる人たちがいたり…ぜんぶ、非現実的な風景に見える。長いこと家にこもりすぎていたせい。
 それと、この映像を見たせいだ。

 フジ・ロックでAtoms For Peace の後に大トリで演奏したマッシヴ・アタックの、アンコールの1曲目の題名が<Splitting The Atom>だと後から知った時、あ、またAtom だ…と苦笑いした。そしてビデオクリップを見て背筋がヒヤリ。
 こんな映像付きの曲を、あの夜、雨に打たれながら聴いていたのか。

Massive Attack - Splitting The Atom (Official Video)

 原子爆弾で一瞬にして破壊され、時間の止まった世界。
 撮ったのはエドゥアール・サリエというフランスの映像作家。十代の頃からマッシヴ・アタックには影響を受けたそうで、自分の映像世界との親近性も語っている(ここの英語記事。日本語ならここを)。
 サリエ自身による映像の解説は次のとおり:

The fixed moment of the catastrophe. The instant the atom bursts on the beast, the world freezes into a vitrified chaos. And we go through the slick and glistening disaster of a humanity in distress. Man or beast? The responsibility of this chaos is still to be determined. — Edouard Salier on “Splitting the Atom”
動きを止めた破局の時。原子がケモノの上で炸裂する瞬間、世界はガラスのように融け混沌となって凍りつく。そして我々は人類を襲ったツルツルでピカピカの災厄の中を通り抜けていく。ヒトかケモノか?この混沌の責任の決着はまだついていない。
ーエドゥアール・サリエ

 英語の歌詞はここを。和訳も検索すればあります。暗鬱な曲の最後に繰り返される謎めいた言葉:
♪The last of the last particles  最後の粒子のいちばん最後
 Divisible invisible       
   可分の不可視のもの

は、Divisible(可分) + Invisible(不可視)Indivisible(不可分のもの)=Atom
の言葉遊びだろうか。
 エドゥアール・サリエのHP http://www.edouardsalier.com/
に行くと、CMを含め他の映像作品も見られる。そこにはないけど、わたしは短編映画の「Flesh」(肉体、肉欲)を観てショックを受けた。 9.11が題材。勇気のある人は、YouTubeに行って見てください(ここ)。サリエの英語による説明文付き。(8/30 追記:この説明文は、映画の途中に出てくるフランス語文の英訳でした。)

 これを見た後だと、現実の平和な風景のほうが非現実的に見える。
 ということで、8月のアトムシリーズおわり。
 
 
 蛇足追加。フジロックのマッシヴ・アタックのアンコールの前の曲は、これ。日本語の驚きのメッセージ群が出てきます。

Massive Attack - "11.Inertia Creeps" (August 01,2010 Fuji Rock Fes.)

 さらにひとつ前の<Safe From Harm>も、ステージ上は主に自由に関する政治的メッセージの洪水で、そのこと自体は2003年のフジロックでもすでにやっていて珍しくもないらしいけど、ちょっと度肝を抜かれた。
 でも<Splitting The Atom>の時は、何も文字が出なくてよかった。

 蛇足2: イギリスで総選挙のあった5月6日、
トム・ヨークがレディオヘッドの公式HPに時々アップしているお勧め曲のリストに、<Splitting The Atom>を載せたので、YouTubeのこの曲のコメント欄には、「トムに言われて来た」式のコメントがたくさん。


アトム・コネクション 3

2010-08-27 | ソ・テジ

                  

 まだアトムの続き。
 2003年のアトム誕生年に放映された、歴代3作目のテレビアニメ「ASTRO BOY 鉄腕アトム」の音楽(主題歌を除く)を担当してたのが吉松隆氏と知り、あ、こんなお仕事もされてたのか、とびっくり。
 サントラ盤(上の写真)も出ていて、浦沢直樹の『PLUTO』は、これを聴きながら読んだ。「地上最大のロボット」という曲がCDのクライマックスになっているので、『PLUTO』を読むにはぴったりだし、アトムやウランのワルツはとても可愛い。

 吉松隆さんは、もう20年以上も前に読んだ『魚座の音楽論』(音楽の友社、1987:もう絶版だ~)の印象が強くて、シェーンベルク以来の調性やメロディを捨て去った現代音楽の「不毛なエセ主知主義」(同書22頁)を呪いつつ、自分が美しいと信じる(売れないかもしれない)音楽を、のたれ死に覚悟で書いている作曲家、と思っていた。
 この本は次のように始まる:

 なにしろ音楽というものがあまりにも素晴らしいので、せっかく生きているのだからせめて美しい音楽の一つも書いてからのたれ死ぬのも悪くない、とそう思って作曲を始めた。

 そしていびつな「現代音楽」に対しては罵倒を惜しまない、その小気味よさに、同じ魚座のよしみもあって共感したものだ。
 思い出してみれば、この本の影響で好きになったCDもある。
 スティーヴ・ライヒの「テヒリム」(テヒリムとはヘブライ語の「詩篇」)とか。

 私は、私の音楽を除いたもっとも美しい現代音楽としてこの曲を推薦する事をためらわない。こういう音楽がまだ出現可能なのだ、という事ひとつだけでもわたしはもう少し現代を生きられる気がする。(同書115頁)

 と書いてあるのを読んで、即、買いに走った(当時はもちろんアマゾンなんてなかった)。ジャケットも好きだ。(音はYouTubeで一部が聴けます。)   

                    

 吉松氏は鉄腕アトムのファンでもあるようで、「アトム・ハーツ・クラブ・カルテット」という曲も書いている。その説明によれば:

ビートルズの「Sgt.Pepper’s Lonely Hearts Club Band」と、ピンク・フロイドの「Atom Heart Mother(原子心母)」、エマーソン・レイク・アンド・パーマーの「TARKUS」(共に60〜70年代ロックを代表する名盤)を合体させ、鉄腕アトムの10万馬力でシェイクしたもの。
(出典は吉松氏の「音楽館」ここ。第1楽章が聴けます。)

 そして、このプログレ・ファンの彼が先月出したCDが、「タルカス クラシック meets ロック」。
 上の引用でも言及されている EL&Pの名曲「タルカス」をフルオーケストラに編曲、というより彼の言葉を借りれば、「remix(再構築)」した作品。
 (オケではないけど、YouTubeではこんなアレンジやこんなカバーも聴けます。)
 
 今年3月に東京で行われた東フィルによる初演のライブ録音で、ロックをクラシック化した作品となると、「ソテジシンフォニー」を意識して聴いてしまいますね。
 演奏はオーケストラ単独で、合唱団も使う案は予算の関係で直ちに却下されたとか。ロックスターが出演するソテジシンフォニーは、やっぱりお金があったんだな。
 
 CDのジャケットは、アルマジロ戦車のタルカスが実写版(?)になっていて楽しい。
 わたしは怪物タルカスの絵しか知らなかったので、実際に聴いてみてあんまりカッコいいのでびっくり。「ビートはロックそのものなのに、変拍子や構成は完全に『春の祭典』系のクラシックの現代音楽」(CDライナーノーツ)という説明に納得。

            
       
 制作の過程は、吉松氏のHPの中の「月刊クラシック音楽探偵事務所」の8月号「ロック meets クラシック」(ここ)にものすごくくわしく、面白く書かれているので、ロックの曲をクラシックに編曲するとはどういうことなのか、興味がある方は、ぜひ。

 ロックの歴史から説き起こして、クラシックとロックの関係を説明した後、編曲のポイントを各モチーフの楽譜付き、しかもCDのタイム表示も付けて解説してあるので、CDを聴きながら読むと、音楽の構造がとてもよくわかります。ちなみに、

 これは「タルカスにクラシック風のオーケストレイションを施したもの」などではない。「オーケストラでロックを演奏する」ことの可能性を40年かけて追求した一つの「個人的成果」(言うなれば、夏休みの宿題のようなもの)である。(同上サイトより。太字は引用者)

だそうで、40年かけて夏休みの宿題をするなんて、すごいな~とつくづく尊敬。
 編曲プロセスの説明の次に、ロックとクラシックが出会った代表的なアルバムがいろいろ紹介されていて、メタリカの「S&M」は入ってるけど、トルガ・カシフの「クィーン・シンフォニー」はなし。そして「ソテジ・シンフォニー」は、

 まだ入ってないので、吉松氏に連絡しなければ。
 
 と思いながら、「タルカス」に刺激されて、初めて「ソテジ・シンフォニー」のDVDのスコアを見ながら、<TAKE ONE> と<T'IK T'AK> と<ナンアラヨ>を聴いた。
 ピアノ譜が入ってないし、もちろんバンドのパートも入ってないので、何か足りない感じがするけど、目に見えない音が目に見える記号になっていて、あーこういう音型を奏いてたのか、と細部がわかって感動。
 
 でも、一番感動したのは、131頁。
 全パートの五線譜が一斉に空白になり、「♪オー クデヨー カージマセヨ~」とファンだけで歌う(+院長先生がリズムキープ)ところに、胸を衝かれた。あそこはSingalong として、最初からスコアに予定されていたのだ。
 考えてみればあたりまえのことだけど、ファンが歌う部分も計算してたなんて、あの人の頭の中がにくい。


アトム・コネクション 2

2010-08-16 | ソ・テジ

 今まで、ソ・テジの<Human Dream>のミュジックビデオのストーリーがいまひとつ腑に落ちなかった。よくわかんないなーと思いながら、でもいつものことだし、とほっておいた。でも最近、鉄腕アトムのことを考えていたら、理解できたような気がするから不思議だ。

 まず、去年秋に公開されたハリウッド版のCGアニメ映画『ATOM アトム』(公式HP)。観てないけど(観たくない気持ち、ありますよね?)、予告編を見ていて、アトムの出生にまつわる事情って<Human Dream>のMVの少年ロボットに似てるんだな、と思った。

『ATOM アトム』予告

 天馬博士は、交通事故で亡くなった息子トビオの代わりにロボットのアトムを作る。そして最初こそ愛情を注ぐものの、やがてアトムが人間の少年のように成長しないことに腹を立て、サーカスに売り飛ばしてしまう。アトムは、人間でないがゆえに愛されなかったトラウマを抱えるロボットなのである。

 一方、<Human Dream>の男の子(作中の商品名からT-424号と呼ぶことにする)も、子どものいない両親が、その不在を埋めるために作ったアンドロイドである。実の息子のように愛されるが、ある日、本物の赤ん坊(“T”と呼ぼう)の誕生とともに、楽しかった日々が終わる。
 人間の子に親の愛情を奪われたT-424は、ロボットとしての劣等感を抱えながら一緒に暮らしている。だが、ある出来事をきっかけに、ついに少年Tをつきとばしてしまう。
 そしてこのたった1回の反抗で、犯罪ロボット、あるいは不良品として父と警察(?)に激しく追跡されるのである。
 それがMVの冒頭の部分。

Human Dream Final Episode Part1 (HQ) Seo Taiji M/V


 ものものしい追跡劇(まるでマフィアが裏切り者を抹殺するかのよう)は、なんでここまで?と思わされるけど、人間をつきとばすということは、ロボット三原則の第一条「ロボットは人間に危害を加えてはならない」に抵触する重大な罪なのである。

 それを知りながら、なぜT-424はそんな振る舞いに及んだのだろう?
 もはや単純な嫉妬ではない。嫉妬なら、Tが生まれた時からもう10年以上も耐えてきた。鍵となるのは、爆発事故の後の2人の会話だ。事故の時、不死身のサイボーグが人間を救出する姿に強い印象を受けた少年Tは、帰宅してパソコンを通してT-424に言う(5'48"~):

少年T「僕は死ぬけど、お前は死なない」
T-424「死ねるのは、幸せなことなんだよ。
     死ぬことができるものたちは、大切にされるから」
少年T「じゃあ交換しよう。
    僕の記憶と、お前の記憶を」
T-424「本気だよね?」
 
 不死にあこがれる少年Tと、「人間は死にゆく生命体だからこそ尊重される」ということを、Tの誕生以来、身にしみて知っているロボットT-424。(424は日本語で「死・不死」とも読める。)
 こうして互いの記憶を交換する取引が成立し、2人はメモリーを入れ替える工場に行く。少年Tは強引だが、ロボット三原則の第二条に「ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない」とあるので、T-424に選択の余地はない。

 ちなみに、スイッチボタンに2人が手を置く時の映像を見ると、少年T(白いシャツ)の左手には、T-424がロボットの工作をした時にできたであろう、(でもロボットなので残らなかった)手の傷がある(6'38"~)。これは、爆発事故の前に2人とすれ違ったソ・テジの左手にあったのと同じもの。つまり、生命体としての人間の印だろう。

 こうして互いのメモリーを入れ替え、2人は帰宅する。いやむしろ、体を交換したと言ったほうがわかりやすい。今や少年Tの体はロボットに、T-424の体は人間になったのである。
 ところが。
 父は相変わらず、少年Tのほうを大切にするではないか。Tの体はもうロボット、死ねない体、愛されるはずのない体なのに。
 一方、僕は生命体となった。交換に応じたのは、死を受け入れる代償に愛情を得られると思ったからだ。
 今までは、自分はロボットだから大切にされないものと思っていた。大切に扱われるのは、死ぬことができるものだけだから。だけど、今では僕のほうが生命体なんだ、愛される権利があるんだ。なのに、どうして?どうして相変わらずヤツばっかり?

 だから、今まではおさえていた嫉妬に身をまかせて、T-424は少年Tを突きとばす。肉体がロボットだから、という愛されないことを甘受する論理的理由が、もはやなかったからだ。
 
Human Dream Final Episode Part2 Seo Taiji M/V

 
 T-424を追い詰めて父がコントローラーで破壊する場面、遠隔操作で自宅の少年Tが息絶えるのなら、何も至近距離から攻撃する必要はなかったのでは、と思うけど、ま、いいや。

 いちばん最後に、手の甲に傷のある大人の手を握って登場する男の子は、たぶんT-424の2世だろう。手に傷がある大人は、肉体はT でメモリー(=人格)はT-424。人間は死ぬけれど次世代に生命をつなぐことができる、ということだろう。子どもはうれしそうだから、T-424は幸せになったのかな。

 …と考えたところで、<Human Dream>の世界が理解できなかったわけがわかった。ロボットに感情移入できなかったからだ。ロボットの身になって考えないと意味がわからない。 "Human Dream"も人間の夢というより、人間になりたいというロボットの夢なのだ。
 だけどロボットの気持なんて、考えたことある?そもそも、ロボットのもつ感情ってなあに?

 歌詞に「♪悲しみというものを知ったみたい 僕はこれからどうしたらいい?」とか、「♪涙が流れて頬をぬらす」と出てくるのは、ロボットには原則として悲しみも涙もないからで、悲しみを知ったロボットというのは、限りなく人間に近いきわめて高性能なロボット、たとえば浦沢直樹『PLUTO プルートウ』の描く鉄腕アトムの世界である。 

                                

 最終巻の第8巻で、アトムと闘いながら、“地上最大のロボット”プルートウは自分の目から流れ落ちる涙を見て「何だ、これは・・・」と言う。するとアトムも、涙を流しながら言うのである:

「僕もよくわからないんだ・・・」
「なぜこれが流れるのか・・・」
「わからないんだ・・・」

 アトムの妹のウランも、悲しみの所在を敏感に察知するロボットとして登場するし、『PLUTO』を読むと、ロボットにとって悲しみの感情というのがいかに大きなテーマであり、涙というものがいかに謎の液体であるかが、わかる。

 ところで、話は変わりますが<Human Dream>の英語歌詞の次の部分:
♪Nobody Feel me now ~
♪Nobody Save me now ~
♪Nobody Take me now ~
 3つとも、"Nobody"の前に何か音が入っているといつも思ってたんだけど、これ、
"Hey! Nobody! Feel me now"
と命令形で呼びかけてたんですね。どうして Nobody feels me と三単現の s が入らないんだろう、とか思ってたわたし…(恥)
 あー、もうぜんぜんわかってなかった。 


8/18 追記
 ソ・テジ8集の曲目解説(ソ・テジカンパニー版。ここ参照)の<Human Dream>には、こう書いてある:
「遠からぬ未来… ある家庭の養子となったロボットが、人間の感情を自ら進んで理解するようになり、演算処理に変化とエラーが生じ始める。人間はロボットを通して不死を夢見るが、ロボットは一度だけでいいから、本物の人間の感情を感じてみたいと思う。
 人間の尊厳と、やがて訪れる未来の生活に対する警告のメッセージを込めた曲。」

 これに従えば、T-424が少年T とメモリを交換("Re-Clone")した理由は、「本物の人間の感情」を感じてみたかったからで、交換後に少年T をつきとばしたのは、人間の感情をもったからということになる。
 あるいは人間の体になったので、「人間に危害を加えてはならない」というロボットの倫理規定からはずれたとも言える。
 そう考えるのが一番シンプルかな。
 でも、メモリを交換する動機として弱いし、「死ぬ存在は大切にされるから幸せだ」という会話が生かされない気がする。

8/20追記
 4'22"~を見てアッ。T-424の手の甲に消えていたはずの傷が現れている。
 両親に大切にされているTの写真を撮って涙を流す、という場面なので、人間的な悲しみの感情をもったがために生命体の印(と仮定した)である傷が浮かびあがったのか?
 心の傷の象徴なのか。
 混乱するなあ。


アトム・コネクション 1

2010-08-14 | ソ・テジ

 8月は原爆の月なので、頭の中にアトムがいっぱい。
 "Atoms for Peace"「平和のための原子力」という題で、アメリカのアイゼンハワー大統領が国連総会で演説したのは、1953年だった。(アメリカ大使館のHPに全文和訳あり。)
 手塚治虫が「鉄腕アトム」の連載を始めたのは、その前年の1952年。
 
 アトムという名前は、アトムのエネルギー源が原子力(後に核融合)だからなんだろうけど、欧米でのタイトルは"Astro Boy"宇宙少年。
 韓国語では何というんだろう、と思ったら、折衷型の「宇宙少年アトム」だった。Wiki百科の "우주소년 아톰" のには、名前の解説がある:

"아톰의 이름은 원자를 뜻하는 영어 'atom'에서 비롯한 것으로, 쪼개어지지 않고 단단하다는 뜻을 지니고 있다. "
「アトムの名前は、原子を意味する英語 'atom'に由来し、分割されておらず頑丈だという意味を持っている。」

 おお、アトムの名をギリシア語の語源 atomos (分割できないもの)にまでさかのぼって説明しているのは初めて見た。(デモクリトスの原子論の atomos のことは、11月に一度書いた。)
  しかも、使われている動詞"쪼개다"(割る、裂く、分ける)は、ソ・テジが8集アルバム「Atomos」に付けた新ジャンル名"Nature Pound"を説明する時に使っていたものだ:

"네이처는 자연이고, 파운드는 ‘쪼개다’라는 뜻이에요. 그냥 들으면 편안하게 보이는데 굉장히 잘게 쪼개진 음악이에요. 심장박동 소리도 넣어보고."
「ネイチャーは自然で、パウンドは‘쪼개다’という意味です。ふつうに聞くと何てことなさそうに見えて、実はものすごく細かく分割された音楽なんです。心臓の鼓動の音も入れてみたり。」
(朝鮮日報 2008.08.04 のインタビュー記事より)

 そういえば、テジは2004年の7集の時、SBSのテレビ番組チェ・スジョンショーで鉄腕アトムのTシャツを着ていて話題になったんだっけ。あの時、何でわざわざアトムのTシャツ"아톰티"なんか着てたんだろう?あまりに自宅風景が没個性なので、妙にアトムが目立つような。
 
  鉄腕アトムは、原作では2003年4月7日が誕生日である。もしかしたら撮影日がアトム1歳の誕生日だったのかな、と思ったけど、放送は2004年3月16日。わざわざアトムのファンだと知らせたい理由は何なのでしょう?

 Atom←Atomos で、まさか4年先のアルバムのタイトルの予告?!

 

 偶然、Atoms for Peaceのトム・ヨークもアトムのTシャツを着ている写真を見つけた。この人も、テレキャスターに鉄腕アトムを貼っていたとか、鉄腕アトムの手帳を使っていたとか、アトムファンらしいけど、ソースは未確認。
(あと、10歳で初めて2人組のバンドを組んで、最初に書いた曲の題名が「きのこ雲」だそうだ。8/17追記)
             
写真のキャプションには、
「94年 グラストンベリーでの“アトミック”なトム Pat Loughnane」とある。
出典は『エグジット・ミュージック ーレディオヘッド・ストーリー』(マック・ランダル著、丸山京子訳、シンコーミュージック、2004増補改訂版)。


Anyango@フジロック

2010-08-08 | 日記

 あっという間にフジロックから1週間。
 写真は、会場から入り口ゲートをはさんで正反対の端っこにある、ピラミッドガーデンのステージ。今年から新設された、キャンプサイトの利用者限定のエリアだけど、なにぶんにも遠いので(キャンプサイト入り口からでもゆうに10分は歩く)、人影もまばらな別天地である。

 アルミ枠のピラミッドにすてきな毛糸の編み物が懸かったオブジェは、中にじゅうたんが敷かれていて、おいでおいでと招んでるみたい。あとでフジロックのサイトを見たら、「秘密の隠れ家」として紹介されていた。http://fujirockexpress.net/10/?p=2271
 しまった。内側に入ってみるべきだった。心と時間の余裕がなくて残念。

 こんな端っこまで、Anyangoのステージを観にきた。
 アニャンゴさんは、ケニアのルオー族の伝統楽器ニャティティ(本来は男性奏者のみの撥弦楽器)を弾いて歌う、うら若き日本女性で本名は向山恵理子さん。
 もとはニューヨークで音楽修行するはずが、飛行機がニューヨークに到着する日、あの9.11同時多発テロ事件が起きて、アラスカからロサンゼルス経由で日本に逆戻りとなり、結果的にケニア音楽と出会ったというから、運命はわからない。
 
 彼女の話は『夢をつかむ法則ーアニャンゴのケニア伝統音楽修行記』(角川学芸出版、2009)で読んでいたので、実際に音楽を聴くのを楽しみにしていた。
                  

  できれば一般会場のアヴァロンのステージで観たかったけど、同じ時間帯のヴァンパイア・ウィークエンドとかぶってしまうので、彼女のほうはピラミッドガーデンでの2回目のステージを観ることにした。
 
 一番大きいグリーンステージ(4万人入る)で、ヴァンパイア・ウィークエンドのポップでゴキゲンな音楽(アフロポップの感触だ~)を楽しんだ後、いったんテントに帰ってクールダウン。
 あー、朝からいっぱい歩いて疲れた。
 テントに戻れば自分の空間があるのが、ありがたい。運良くキャンプサイトの入り口近く(女性専用ゾーン)にテントを張れたので、トイレも食べ物も飲み物も近くて便利だし、会場内のように混雑してないので助かる。

            

 テント道具一式は、うちにいるアウトドア人間に「一人で張れるテントを貸して」と言ったら、「音楽を聴きに行くのにテントが要るのか?」と目を丸くしながらも、するすると魔法のように物置から出してきてくれた。それを宅急便で現地に送り、当日の朝受け取って、30分くらいかけて組み立てた。シンプルで合理的な構造なので10分もあれば楽勝のハズ…だったけど、初めてなので、ちょっとまごまご(汗)。
 
 テントでひと休みしてから、苗場プリンスホテルの裏手を通っていちばん端のピラミッドガーデンまで歩く。遠くてなかなかステージに着かない。こんな会場から離れた所でお客さんが来るのかな、と心配したら、案の定ぱらぱら。うーん、もったいない。
(1回目のアヴァロンのステージのほうは3000人くらいいたとか。彼女の公式HPより)
 
 ステージのまん前で草の上にすわってゆったりと聴く、このぜいたく。あー天国のようだ。音楽に合わせてゆらゆらしてると楽しいっっ。ひとりで前にいたので踊り出せなかったけど、後ろの人たちは踊っていたと思う。
 スワヒリ語?ルオー語?の歌詞はわからないけど、よく伸びる声が気持ちいい。
 彼女の視線があんまりまっすくなので、ポキンと折れたら泣き出しそうにも見える。
 当日と同じバンド編成でYouTubeから貼り付けます。        

Anyango / Ne nyako ma go ogol ogol

 終わったら、からだの中がすごく元気になった。
 一般会場に戻る道々、前を歩いている3人組の若い男の子が、しきりに「女神アニャンゴ」と言っていた。女神さまの音楽の行方がわたしも気になる。また会えるといいな。 

          

          

           
 橋の上には、チベットの峠のタルチョのような五色の旗がはためく。チベット文字で書かれているのは経典かな。

          
 Anyangoの後、トム・ヨークのAtoms for Peaceを観るために入り口ゲートを通ると、帰る人のためのメッセージに塗り替え作業中だった。


苗場のAtoms for peace

2010-08-03 | 日記

 帰省がてら、フジロックの最終日に行ってきた。
 トム・ヨークのソロプロジェクトバンド Atoms for Peace があまりにもよかった。よすぎた。ぜったい忘れるはずがない…のに、だんだんと記憶がうすれていく。どうすればおとといの夜のあの強烈な時間を呼び戻せるんだろう。
 写真は今か今かとトム・ヨークの登場を待つ、夕闇せまるグリーンステージ。

  前にも一度書いたことがあるけど、彼のソロアルバム「The Eraser」収録曲の<Atoms for Peace>は、歌詞が8集のテジを連想させるので、こんな山の中にテント張ってまで聴きに来たのもテジのせい、と言えないこともない。(けど、それで来たわけでもない。)

 ♪No more going to the dark side with your flying saucer eyes
   No more falling down a wormhole that I have to pull you out  

   空飛ぶ円盤のような目をして もうこれ以上闇の世界には行かないで
   僕が引き上げてあげなくちゃ出てこられない ワームホールにはもう落ちないで

 赤青白のトリコロールのヘッドバンドにグレーのタンクトップ、というテニスでも始めそうな姿で現れたトム・ヨークは、レッチリのベーシストをはじめ強烈なメンバーを従えて「ジ・イレイザー」の全9曲をアルバムの順番通りに歌った。ただしぜんっぜん違うアレンジで! 3曲目くらいからわたしの耳にはリズム隊が激しく刻むビートが呪術的なアフリカのタイコに聞こえ始め、反復するフレーズの快感にクラクラ。
 
 そのあと、
アンコールと思わせてソロで3曲やって(ピアノ弾き語りの<Videotape>には泣いた)、さらに Atoms for Peace のオリジナルを4曲。
 野獣のようにうねる音楽にトム・ヨークのくねくね踊りも全開だし、時々自分のジョークにキャッと笑ったり、天衣無縫、鬼気迫る圧倒的なステージに、あー、やっぱり
来てよかった、と深々と幸福感に浸った夜。
 それから大トリのマッシヴ・アタックを観て(これがまたすごく面白かった)、ほんとうはもっと遊ぶつもりだったけど、本格的に雨は降りだすし、体力の限界を感じてテントに帰って寝た。