筑豊の縄文・弥生

筑豊の考古学は「立岩遺蹟」「嘉穂地方誌」先史編の2冊に凝縮されている。が、80年代以降の大規模調査成果は如何に。

気になることどもⅡ

2008-07-21 09:37:35 | Weblog
 筑豊の嘉穂盆地は、甕棺分布地域の東限をなしている。そこから田川や遠賀川下流域には、何故か甕棺が導入されていない。最も田川の糸田や方城には一部に発見されている程度である。したがって、嘉穂地域の甕棺墓観察すると甕棺を導入した
かしないという点が明らかになるものと考え、以前、「遠賀川上流域における甕棺の受容と展開」と題して『考古学の諸相』Ⅱに掲載されたものがある。嘉穂地域は立岩遺跡の調査によって甕棺墓が主体となる地域として概ね考えられていた。しかし、スダレ遺跡では弥生中期前半を主にする墓群はほとんど木棺・土壙墓で占められていた。しかし、甕棺墓から貝輪を得ており、立岩周辺でも副葬品を有するのは甕棺墓であり、木棺・土壙墓に対する優位性は変わらないものと考えられていた。
 しかし、その後、周囲の遺跡が調査されることで当地域の一面が明らかとなってきたのである。
 その答えを導くには、鎌田原遺跡あるいは旧筑穂町の上穂波地域での墳墓群群の調査に加え、旧嘉穂町の原田や馬見本村、あるいは千手のアナフ遺跡の調査があったからにほかならない。
 まず、嘉穂地域にいつ頃どのようなコースで甕棺が入り、どう広がって行ったかを検証することとした。『立岩遺蹟』のなかで甕棺の編年を高島さんがやられていたので、それに、鎌田原遺跡の成果を加えると弥生中期前半の汲田式から中期末の立岩式までの変遷をたどることが出来る。
 そこで、近年の成果までを含めてその変遷と照らし合わせると、盆地に導入されたのは弥生中期前半の汲田式で、出土したのは鎌田原・上穂波・彼岸原の3地区で何れも、穂波川や遠賀川の上流にあって、甘木・朝倉・二日市地区あたりと峠越しに接している所ばかりである。それが立岩や土師地区に広がるのが中期中頃の須玖式段階、そのやや新しいタイプが旧頴田から糸田町、後半期になると方城町へと線状に延びるのであるが、それより東へは浸透していない。また、遠賀川中・下流域や田川の上流部への拡大化もみられないという特徴がある。
 拡大も一気に広がるのではなく、波紋のように1型式ごとに広がっていくのである。それは、有力な地区が一気に導入したりする事はなく徐々に拡大化している傾向が看取される。これは、導入当時甕棺が特定有力者の墓制として定着していない証拠であり、中期後半段階に至るまで待たなければならなかった。
 中期前半から中頃、後半期にいたる墓制の優位性が変化するのは、中期中頃あたりであることが、鎌田原遺跡から解釈される。それは、当初、大型木棺墓もしくは木槨墓という埋葬様式が嘉穂地方を占有していた。スダレ遺跡でも、その他の地区でもそのようである。汲田式の甕棺が導入されてすぐに中心的墓制になったわけではない。中期前半の鎌田原は、大型木棺墓があり、続いて中心主体となる長さ6m、幅4mの大型の木槨墓が造営される。それと同時期頃であるが墳丘墓の端に甕棺墓が作られている。何れも銅戈を副葬するが、墓域の占有位置に違いがあり、主体部周辺は大型木棺墓が陣取り、甕棺墓は周囲に作られるが最後まで中央部を占有する事はない。
 ただし、中期中頃を境に大型木棺墓は造営されなくなり、通常の土壙墓や木棺墓
が、実は甕棺墓群の外側に数基作られ、やがて終焉を迎える。一方、甕棺墓はその後も継続しており、鎌田原の墳丘墓が終焉するまで続く。
 この現象を見る限り、中期中頃を境に大型の木槨墓や木棺墓が中心的な墓制ではなくなり、甕棺墓に取って代わられる様相がうかがえる。立岩ではこの、変化が起った中期仲頃の新相段階から甕棺墓群が形成されているため、墓制の交代、あるいは変革期の状況がつかめない。そのあたりを目の当たりにしたのが鎌田原遺跡であった。したがって、嘉穂地域の弥生の墓制が大型の木槨墓や木棺墓→甕棺墓という変遷を遂げているのは、おそらく違いないことで、立岩周辺の特殊事例とはいえないと考える。これは、嘉穂地域に限らず他地域も同様の場合が想定される。

 話は変りますが、勝手に思い込んでいるのですが、師である井上裕弘さんの本が出るようです。皆さん是非買いましょう。発掘から報告まで一連の流れを極めた人だからこそ、疑問に思い、その答えを模索してきた結晶が磨きぬかれて活字になったと思います。退職後鎌田原の甕棺を観察し、拓本を取っていた姿が、自ずと井上流考古学のスタイルだと思います。筑豊なまりの神奈川弁、神奈川なまりの筑豊弁、どちらでもいいですが、枕元に置いて寝る前に少しずつ読みましょう。是非

 筑豊地域には、甕棺を受け入れた事実があり、それが特定地域に受け入れられるが、受け入れられない方が多いような気がする。中期前半期と後半期は別途に考える必要があるが、上から物を見ずに水平で見るべきだと思うが、確かに北部九州での甕棺の使用はすごいものであるが、受け入れなかった地域が厳然と存在し、今や宗像は甕棺を受け入れなくとも立派に成り立っているのではないか。何か中心主義的部分をもって、そこは他の地域とは異なり優れているとか先進地域とか勝手に思い込んでいるのではないのか、逆に筑豊地域のイメージをもって過去の歴史を見ずに、福岡から海岸沿いに瀬戸内へと入るコースを考える人が多いように感じるが、内陸の道を軽視しているのではなかろうか、考古学的情報が欠落しているかもしれないが、内陸の筑豊抜きに研究会等が開かれる現実がある。何故だろうか、私には理解できない。過去の人にとって峠はたいしたものではない。むしろ、季節によっては海路を断たれる事が多いと思う。むしろ、陸路が以前から発達していて様々な利用がなされていたと考えるのである。
 とかく人は現状に惑わされ、事実に目をつぶってしまうことがある。甕棺に惑わされ、産炭地筑豊のイメージに翻弄される。何度もくり返すが、田川の青銅器出土について論文に取り上げた人が何人いるのだろう。甕棺がないからといって後進地域と決め付けるのはいががなものか、逆に、中期後半から青銅器を大量に副葬する墳墓があるからといって、前半期の実態はよくわからないとか、何を基準に事象を考えるのかかいもく解らない。
 
 近年、行政における文化財専門職の肩身が狭くなってきている。それまでも経験したが、役所で教育委員会は外され、教育委員会では社会教育が外され、文化財は欠けらほどもない。どうも、市政に関係ない、なければないでいい場所に見られるようである。今度、機構改革のヒアリングがあるが、その場で、将来、文化財係をどうしたいのかたずねてみようと思う。

 8月11日福岡大学より古墳の調査のお知らせがあった。見ると篠栗町の長者の隈古墳というではないか。これは驚きである。中学生時代から何度も石室にもぐりこんだ古墳で、亡き父親も一度入ったことがあるという、篠栗では知られた古墳である。まあ、興味がある人だけかな。明治時代に金銅製馬具が発見され東京国立博物館に納められた事は以前から知っていた。前室の上から盗掘孔があいており、そこから内部に入るのだが、玄室の右側壁にいかにも綺麗な同心円が見えていた。今はどうなっているのだろう。篠栗の町史には後世のいたずらとされているが、黒っぽく薄くはなっているが、見事に二重の円形が見られた。ぜひとも、その真偽を明らかにしてもらいたいと思う。
 ぜひとも、調査には出向きたいと考えている。福岡大学の関係者の方々によろしくお願いしたいと思います。

 福岡県教委から「彼岸原遺跡」2008が発刊された。県の吉田氏が執筆された報告書である。発掘中に1度お邪魔したが、藤田 等先生が移植ゴテをもち、自ら遺構を掘られていたのには驚いた。結局、先生から現場の説明をうかがうこととなったが、弥生中期後半期の竪穴住居跡群で、立岩丘陵で明かに出来なかった集落のようすが分かること、しかも、円形プランばかりで構成され、排水の溝が住居跡からのびていることなど、ご説明いただいた。立岩丘陵で新原さんが確認した同時期頃の竪穴住居跡も、やはり、円形だった。
 土器を概観すると、広口壺が朝顔形に開くものと鋤先状の物が存在し、後者には円形浮文が附されたものも有る。甕は頚部やその直下に三角突帯を附し、口縁端部を跳ね上げとするもの、丸くおさめるものの二種類に大きく分かれる。ただし、丹塗りはほとんど鋤先で、中には跳ね上げの影響をうけたものがあるようである。その他、高杯や器台、無頚壺などひととおりの器種がそろっており、吉田氏が記されるとおり須玖Ⅱ式に相当するものと思われる。
 この時期と同様な例で、嘉麻市千手地区のアナフ遺跡という居住区と墓地が接する集落跡を調査した。そこからも、須玖Ⅱ式に相当する土器群を相当量検出したが、様相はよく似ており嘉穂盆地内の共通性を感じるのである。1~2点異なる点を挙げるとすれば、今のところ嘉麻市内では、鋤先口縁の長頚壺に幾重にも突帯が付されるものの出土例が見当たらないのである。桂川町では見たことがあるし、桂川と旧碓井の境界線である八王寺遺跡では、溝状遺構から出土しているが、それより南では今のところ検出例がない。
 それと、袋状口縁壺の出土が見られない。もっとも、後期の中頃あたりのもので、二重口縁に稜線が明確なものがあるくらいである。
 ところで、8号溝から出土した袋状口縁のカーブに稜線があり、頚部も太く短めのような気がして、遺構の切り合いも含め、須玖Ⅱ式の新相あたりかなという気がしており、その頃まで継続する集落とすると、まさに、立岩とぴったりで、輝緑凝灰岩製の石庖丁が数点あるのもいい感じである。
 竪穴住居のプランについて、嘉麻市を含めた嘉穂盆地の南側では方形プランであり、地域性あるいは居住した集団の関係を少し触れられている。私の知る限りでもその通りであり、嘉麻市あたりでは、中期前半段階で楕円や方形プランがあり、北筑後地域に類似するという印象がある。つまり、穂波地域と嘉麻(鎌)地域というのが、かなり、早い段階から大きな地域性のようなもので別れていた可能性も考えられる。
 今回の調査は、嘉穂盆地内の緩やかではあるが、古代につながる地域的差異の一部を垣間見せてくれたと内心喜んでいる。
 
 この際、嘉麻(鎌)と穂波を大枠で区分する何か根拠となるものがないか。1つは、遠賀川があるが、右岸と左岸ではなくもっと地形的に区分するなら、土師地区の丘陵から忠隈に延びる丘陵だと感じている。そこに、忠隈古墳が位置しているが、そのラインで嘉穂盆地を大きく二分したと考えている。しかし、確たる証拠はない。ただ、地域の違いとして、少なくとも弥生時代からあったように思えてならない。ある時は小地域ごとに別れ、そして、立岩の統一、再び小地域に区分されるが、基本的に二つの地域に大きく分かれていたと考えている。

 8月25日月曜 今日は発掘現場見学には絶好の日和、風涼しく秋の訪れを肌で感じた。ついに、篠栗町若杉の長者の隈古墳を見学した。最後に訪れたのは36年前になろうか、記憶によればこんもりとした丘陵の山頂部は開けていて、ヒノキの苗が植えられていたと思う。その関係で下草が刈られ地面が見えないほど敷き詰められたようになっていた。
 古墳は小さなマウンドで、玄室から羨道に向かって低くなるのに沿うように土がかぶる程度のもので、明らかに周囲は開墾で削られていると感じた。今回、福大の桃崎先生に案内していただき説明をうかがった。
 石室内では気になっていた同心円模様をさがし位置を示したが、以前より表面が白っぽく汚れていて、赤土が染み出してきたようである。良く見ると円のようなものは残っているようであるが、前のようにはっきりした二重の円には見えなかった。玄室正面の鏡石も白っぽく全体にクリーニングして、科学的調査を行えばはっきりするかと考える。
 それにしても、明治時代に掘られ出土した馬具が東京国立博物館に収められているが、写真を見せていただいたが見事なもので、朝鮮半島からの渡来品である事は確実であろう。全く驚きである。そのような素晴らしいものを出土しながら、ほとんどこの古墳について知られていない現状はなんとも残念である。桃崎先生もより多くの方々に知っていただければありがたいという信念を持っておられた。中学時代に何度も入った石室である。願わくは、調査の成功を祈りたいと思う。
 また、先生は前方後円墳説を持っておられ、これが証明されればさらに好条件がそろう。また、装飾古墳と来れば鬼に金棒であるが、そうはうまくいかないだろう。少年時代の想いが1つ開花しようとしている。応援あるのみ。

 立岩の下方遺跡の報告書を見ていたのだが、未製品の記載に気になる一文を見つけた。浜田さんが記したと思うが、調整段階で錐のような先端の鋭いもので、細かく調整を行なっているという。考えてみると、未製品と呼ばれるものの製作に関して、細かなテクニックについて言及したものがあるのだろうか。
 というのも、立岩の場合専業的に製作しており、かなり洗練されたシステムを持っていたと考えられる。粗わりから研磨に至るまでの打製段階を旧石器研究がやるように細かな分析が試みられているのかどうか、気になっている。案外、ソフトハンマーの使用や押圧剥離的な調整が施されているかも知れない。
 その辺りを、石器屋さんが観察するとどのような特徴があるのか。それとも、遠賀川下流域と大差ないのか、気になるところである。
 浜田さんが「錐のような先端の鋭いもの」と表現しているのは、器具が直接あたる箇所が、細かな半月形をなしてなくなっている特徴がある。このあたりにヒントはないのだろうか。未製品を掘り下げてみるのも面白いと思う。時間を見つけてやってみようとは思うが、さて?

 9月になって雨ばかり、古墳石室の天井石が崩落し、民家に落ちかかっている連絡を受ける。なるほど、墳丘が完全に壊され宅地化のために切り崩された崖ののり面にむき出しになった石室の一部が見える。その天井石(推定1.2t)が斜めに滑り始めていた。急いで応急措置を行なう。強い雨足の中三人で土嚢を積み上げ10本近くの杭を土嚢に打ち込み土留めを強化する。最後に、ブルーシートをかけて直接雨水の進入を防ぐことで修了。その週の土曜になって、業者による天井石の除去とのり面に植生の土嚢積みを行い作業を終了する。連絡から6日間の超スピード対応であった。
 緊急時のことで対応したが、指定文化財でもなんでもない古墳の崩落、その責任はどこにあるのだろう。管理は当然地権者であろう。そもそもこのような危険な状態を招いた原因の一つに、公害復旧工事が絡んでいる。本来なら崩落を防ぐ石垣をつくはずであろうが、古墳が出現したためそのままの状態で残すという意見が、文化財の方から述べられ、のり面むき出しのままに放置された。最も、発掘調査が出来る面積は全くなく、排土を置く場所もないし、第一複数の人間が入る余地もない。当時としては賢明な措置だと考えられる。しかし、それまで、大岩を崩落から防いでいた木々がすでに切り払われているため、将来を考えるなら何らかの対策をするべきであった。その時のつけが24年後に結果を招いた。
 運良く家屋直撃は避けられたが、家主は雨が強く降るたびに恐怖が戻るであろう。石垣はついてくれないのかという家主の要望は当然であろう。大きな権力が動き出す可能性もある。それに対応するのがまた難関である。

 8月6日土曜日は、秋月街道八丁越の視察に行く。以前から指定申請が出ておりその範囲を確認する目的があった。石畳が続くのだが各所で切られ途切れている。しかし、最もふさわしい範囲を見出すことが出来た。「おおよこい」あるいは「およこい」と称される場所があり、その前後の石畳と、なんと、石切り場がすぐ脇に見えていたのである。そのあたりで一旦途切れるのであるが、この範囲は全体の中でも景観も含め一押しの場所である。しかも、石を切り出した跡が残るとと来れば条件が揃ったと考えてもよい。

 8月9日篠栗の長者ノ隈古墳を再び訪れる。ここは、今は亡き父母を中学三年のときに連れて行った思い出深い場所でもあり、そこが調査されている事はまことに喜ばしいことであり、学術調査の対象となったことに感謝する次第である。
 中学時代に何度も石室に入ってろうそくの明かりで中を見ていたのだが、その時のすすが、まだ石室の石に残っているとは信じられない光景だった。また、その頃植えられたヒノキが大きくなり、当時のようすはすっかり変ってしまった。第一に夏みかんが1本もない。若杉といえば夏みかん、甘夏、はっさくとどこでも見られたのだが、長者ノ隈には見られなかった。36年の歳月とはこのようなものかと思った。
 現場に県の小池さんが来ていたので、色々話をしていたが、私が同心円文を石室内で見たという話が伝わっていたらしい。中学の頃に確かに綺麗な二重の円は見た。落書きにしては見事に円文だったことを覚えている。しかし、右側に1ヶ所確認しただけで後は見えなかった。今は、さらに見えなくなっている。また、当時、長者ノ隈に接する池の付近で採集した、片刃石斧を持っていった。桃崎先生応援しています。

 9月9日に九州考古学会から査読結果が届いた。笠置山山麓で石庖丁の石材産地を確認したという内容から、書き上げた論文のつもりだったが、結果は散々であった。合併してから今日まで、あせりを感じながら、着実な路線を逸脱してしまったようだ。
 まずは、発見したら的確な判断を下せる方を案内して実見していただき、確実な標本採集とともに、立岩の採集品との比較研究という道をすっ飛ばしてしまった結果と反省、学会には今回の原稿を取り下げていただくよう連絡した。
 ここ数年、何かに追われるように原稿を書いてみたのだが、ひどいものである。もう少し涼しくなったら、藤田先生を千石峡に案内しようと考えている。それから、立岩の石材採取に絞ってゆっくりと考え、まとまったら、再度、学会事務局の方々にお世話になるつもりである。
 それにしても、何か突き上げてくるあせり、ジレンマ、何ともいえない心境、有頂天、表現しようもないが、長者ノ隈古墳の調査を偶然にも36年目に目の当たりにしたのだから、初心に帰るべき時と思う。やはり、私は幸運である。50の節目として心に刻んでおこう。

 ようやく、榎町遺跡で発掘されていた東部瀬戸内系土器の実測をやったが、本物を見たこともなく、断片資料であるため、傾きなど分からずに苦労する。しかも、壺なのか甕なのか、中には高杯の口縁部が外側にのびる資料があるようだが、はっきりしない。とりあえず実測したものを誰かに見せなければならないが、はたして誰に見せてよいのやら迷う。
 また、共伴資料が全く出土していない状況も不思議といえば不思議である。当時、整理をやってくれたのは、九歴の岩瀬さんで、中期の遺物(須玖式)は全くないし、前期のものか、後期後半から終末以降のものばかりであった。
 ただし、凹線文については特殊遺物として抜き出していてくれたのだ。当時は、九州に来て初めての発掘調査であり、もちろん、凹線文土器には全く気付かずに来てしまった。何かに資料紹介をしなければならない。

 9月17日 梓書院から井上裕弘さんが書かれた『北部九州弥生・古墳社会の展開』が届いた。早速、目次に目を通し「筑豊地方における大型甕棺の導入と展開」を最初に読ませてもらった。というのも、2006年に「福岡県遠賀川上流における甕棺の受容と展開」という拙文を『坂詰秀一先生古希記念論文集』に掲載していた関係から、井上さんの論考を楽しみにしていた。
 最初は導入時期の時期と分布であるが、中期前半の橋口編年でいうところのKⅡbで、福岡・春日と夜須・甘木の両地域からの搬入の可能性を胎土に含まれる赤鉄鉱の粒子からわりだしている。つまり、穂波川流域と嘉麻川(遠賀川)流域で時期は同じであるが、別の地域から導入された可能性を示している。
私は、福岡・二日市・甘木方面からと大まかに指摘したが、さすがである。導入地域が当初から異なるところで、後の鎌・穂波につながる嘉穂地域の大まかな区分けが出来そうで、ちなみに、立岩の立地は、穂波川と嘉麻川(遠賀川)が合流する嘉穂地域の中央付近である。
 胴部三条突帯の甕棺については、短く嘉穂地域の地場産と記していたが、ここではさらにアプローチされており、嘉穂地域三大拠点と位置づけてある立岩・十三塚・鎌田原(馬見)の中で、立岩・十三塚と鎌田原(馬見)に大きく分かれる点を指摘、筑豊独自の甕棺として存在が筑豊弥生人の好みとして理解され、その製作には福岡平野の工人集団の影響と渡り工人の関与という考えを示されている。
そこまで、深くは考えなかったが、福岡平野で須玖式甕棺の口縁下突帯一条が二条に増えるという現象も踏まえ、須玖Ⅱ式の古段階で生活用の土器や祭祀用土器が、突帯を多条化する傾向も考慮する必要があろう。特に、遠賀川以東の影響は見過ごせない。

 10月になり、久々に千石峡に向う。九州歴史資料館で西谷先生と久々にお会いし、たまたま持参していた輝緑凝灰岩の破片を見ていただく。先生はとても興味をもたれたようで、すごいですねを連発されると同時に、はっきりしたら是非九州考古学に投稿してくださいと肩を押していただいた。実は、九州考古学への投稿は査読で落とされたとはとてもいえなかった。しかし、この問題をそのままにすることはできない。よって、再度、未製品探しに赴いたというわけである。
 再び訪れると、チップの量の多さに先ずは驚嘆した。さらに、剥片が散乱し、割とられたような原石も点在する。おそらく、露頭から塊で剥ぎ取るのだろうが、それらのおびただしい量に、おそらく、戦中戦後と畑の開墾も出来なかったと考えられる。土よりチップが多いのであるから。
 その中から20点以上を採集し、藤田先生宅に無理やりお邪魔して見ていただく。先生曰く「千石峡は石材産地ながら誰も調査していない。君が採集したものは粗割工程の第一次剥片でこれを立岩に運んだんだろうね。」と同意していただいた。そして、時期を見計らって現地踏査することにした。
 10月11日飯塚歴史資料館の嶋田さんに見せるべく訪れるが、伊藤邸の案内の助っ人で留守。かわりに樋口君に預けて後日嶋田さんに見てもらうこととした。収穫は、焼ノ正や下方の未製品を拝見し、全く違和感がないことを確認する。私が千石峡で採集したものをどちらかの遺跡の中に入れておいても誰もわからないだろう。まさしく、第一工程で企画的にあったものを大量に立岩に運び込んだものであろう。そこが、今山の2キロ以上もある硬い石材と違うところで、輝緑凝灰岩はかなり扱いやすい。藤田先生もおっしゃっていたが、川の礫は硬くて加工しにくいが、露頭のものは板状に簡単に剥れるからものの5分もあれば、ある程度の形に加工することが出来る。全く同感である。川の転石は柔らかい部分が失われ、さらに、摂理が分からなくなっていて加工しにくい。その点、露頭の新鮮なものは板状で簡単に薄く剥れていくのである。
 段々面白くなってきた。興味がある人この指とまれで、立岩の石庖丁生産もなかなか緻密な加工ラインが作られていたらしい。
 さらにいうなら、立岩が石庖丁製作遺跡として認識されて以来、様々な採集や発掘が行なわれてきたが、原石が発見されたとはついぞ聞かないのである。そこが、遠賀川下流域あたりと異なるのではないだろうか。単なる集落単位の消費に終わらない立岩の存在がクローズアップされることになろう。実に楽しみである。