筑豊の縄文・弥生

筑豊の考古学は「立岩遺蹟」「嘉穂地方誌」先史編の2冊に凝縮されている。が、80年代以降の大規模調査成果は如何に。

足元の資料を見直すべきだ - 第一次接近遭遇 旧石器 -

2011-02-11 00:00:53 | Weblog
いやいやいや、ついに、念願の旧石器時代突入ですかな。・・・まだ早い。
 いよいよ、嘉穂盆地の中に旧石器の片鱗が見えて来ました。一ヶ所確認できると芋づる式にというのが、考古学の世界、岩宿発見以降の状況がまさに示してくれてます。
 これまでもありました。「細石刃のようなものがありました。しかし、発掘途中でどこかに行きました。」・・・何、石器がどこかに歩いていくのか、あん。
 
 私自身が、見学に行った発掘現場で確認した黒曜石のものも、細石刃に間違いないと思いましたが、後日、ビニール袋に入れていたが風でとんで何処かに行った。・・・何
というわけで、すれ違いの連続だった、細石刃がようやく目の前に現れてくれたようです。

 2月11日の午前中、前日にメールで杉原君に細石刃の写真メールを送った返事がないかを、確認する。あった。しかし、問題点が浮上しているとのこと、実物を観察してもらうよう早急な対応を考えている。

 2月19日の土曜日、前日に長谷川さんに連絡をとり、日曜に王塚古墳館に向かうこととした。かつて、福岡旧石器研究会が田川郡香春町で開かれた際に、「遠賀川や穂波川上流域の小平野部を中心として、縄文時代の遺跡の立地からアプローチしていくと、標高80m付近から低い場所では縄文時代以降に居住の対象となったようである。したがって、旧石器時代となればそれより高い位置において存在する可能性があると考える。」と『嘉穂地域の地理的条件と先史文化―旧石器時代の遺跡を求めて―』という発表資料の中で、縄文時代の遺跡の立地から見た旧石器時代の遺跡の存在を予想したことがあったが、見事にはずしているようだ。

 発表資料中にも書いているが、標高80m以上の等高線で嘉穂盆地をたどると、ほとんど台地や丘陵は消えてしまう。こういう危険度を承知の上で、縄文早期前半期の刺突文土器や条痕文土器より高い位置として捉えてしまっているようだ。過去に書いたものを読み返すと恥ずかしいものである。

 とはいえ、肝心な細石刃関連資料の発見に努めなければならない。長谷川さんには、それ以外でも、「甕棺、玄武岩製石斧や輝緑凝灰岩製石庖丁の資料を見せて欲しい」と散々迷惑をかけっぱなしで申し訳ない。

 本日は、桂川町の古野遺跡周辺を散策する予定にしているが、自転車で行くつもりである。

 午後1時から2時間自転車に乗り、嘉穂から碓井の美術館、中学校から桂川の老松神社、古野遺跡あたりを見学(細石刃の出土地)し、筑穂の北古賀遺跡を左に見て、王塚装飾古墳館の脇から、桂川の土居、下碓井から遠賀川に出て、漆生用水の碑と地層の露頭を観察、再び遠賀川沿いに帰宅。
 古野遺跡の地点は、弥山からのびる丘陵が入り組んだ地形の中央付近を西郷川の小河川が流れ、狭い丘陵間から流れ出す西郷河が、二反田付近で標高60mの扇状地的な地形を見せる。しかし、基本的には、弥山からのびる舌状の低丘陵が開折され台地状を呈した上部に、扇状地の堆積があるのかもしれない。古野遺跡はそのような扇状地形の東端にあたり、その南側からやや広い開折谷が東にのびている。西側に隣接する二反田団地と同じ標高で、遺跡は同団地の下にのびているものと考えられる。
 
 古野遺跡を含むいくつかの遺跡は、台地上に北側にのびる地形上に位置していて先端には、丘陵の残存部と思われる独立丘陵が2箇所に見られる。

 地形的特長はつかめたが、明日はいよいよ、遺物類と対面する予定であり、中世が中心であるが、黒曜石が石鏃2点以外にも確認されており、図示されていないが、どのようなものか、大いに興味をそそる。

 2月も最後土日をむかえる。実は例の遺物類とはまだ対面していない。そのうち機会をみていくつもりにしている。楽しみは最後に・・・
 
 最近、気になるのが韓半島や楽浪系土器が内陸(遠賀川上流域)にどれほど入っているのかという点である。今までの資料を見る限り、影響を受けた土器の存在はあるように見える。立岩・土師・馬見という嘉穂盆地の三代拠点については、確実に増えるものと考える。

 3月も2週目にはいっている。いまだに桂川の資料は見ていない。そろそろ連絡しよう。

 東日本大震災に伴う巨大津波と原発事故、3万人に及ぶ死者や行方不明者、なんと恐ろしい光景だろう。連日の報道で被災地の現状や避難者の生活、特に、手が付けられない原発事故の様子など、先が見えない状況が続いている。

 考古学をやっていて何か出来ないものか、母は山形出身で当然親類や縁者は山形を中心にいて、連絡が取れた。それによれば内陸部は大丈夫なようであるが、宮城県庁に勤める従兄弟が1人、生きてがんばっていると信じている。

 それと、立正大学考古学研究会の先輩や後輩、考古学専攻の同期の連中など、特に、福島県に多くいた。大丈夫か心配である。

 仮に、復興支援で考古学関連の募集や要請があれば、役には立たないが協力させていただきたい。尤も、今はそのような状況ではないことは承知している。

 また、私が住んでいる場所でも、西山活断層の延長線が通っている可能性があり、そのあたりも地形観察から行いたいと考えている。また、西方沖地震の際に、被害が大きかった場所と被害のなかった場所があり、私邸近くでもそのような状況が見受けられた。何が違うの防災上からも何が原因か追求しなければならないだろう。

 旧石器観察は、もう少し後になるかもしれない。

 久々の更新である。梅雨から自転車乗りは、ほぼ停止状態で、梅雨が明けてしばらくすると真夏の猛暑と、腰砕けとなった。ここ、2日は朝30分ほど乗り回したが、仕事中に睡魔が襲う。なんと体力が落ちたのだろう。
 ところで、最近、古代史に少し興味を感じてしまい、嘉穂地方史の古代・中世編を眺めている。碓井封が観世音寺の寺領となるのが7世紀後半、その後、平安の末には開墾が進み領域が拡大している。明治の地籍図と照合すると東の境界が八王寺付近で納得、南は岡や小山の付近で現在の平山が相当する。問題は東境で大海とあるが、海ではなく大溝として把握されている。大溝をどう考えるか、碓井の字図を見ていると、鏡山先生が調査された結果に納得する。小さな水田が整然と並び、その一つ一つに字名が入っている。しかし、その東端に目をやると沖田というかなり広い範が1つの字名となっている。その南北に興味ある字名と地形が見受けられる。それらは、まるで大溝を連想させ、沖田とは当時湿地か沼が広がり水田には不向きであった。

嘉麻市に稲築という町名があった。伝承はこうてある。「神功皇后が三韓出兵からの帰路、立ち寄られたが、その際に稲を積み上げて座ってお休みいただいた。」つまり、稲積の城から来ているらしい。ちなみに、稲積城というのが日本書紀に登場するが所在は不明。ただし、大宰府が築城に関与しているという。筑紫のなかにあるのか。小字を探る稲築という地名発祥の神社の東に広がる地名は、興味をそそる。城山・矢櫃・初木(城?)・大城浦・城浦・カリマタ・辻・○堀などかなり広範囲に固まっている。中世山城の伝承はない。

 稲築は、稲積城あるいは稲津城と踏んでいるが、真実はもちろん踏査が必要である。踏査結果は冬になるでしょう。お楽しみに。

ついに、旧石器の尻尾をつかんだか。飯塚歴史資料館30周年記念展昨日で終了したが、立岩の調査研究・人物・成果など様々な点を振り返るとともに中山平次郎博士からの業績を展示、特に、昭和27年頃に採集された嘉穂東高校所蔵の遺物の中に、折れてはいるがサヌカイト製の尖頭器が含まれていた。立岩では戦前の採集物にサヌカイト製の局部磨製石斧が、近年報告されていた。しかし、立岩というだけで場所の特定が困難であったこと、縄文以前の遺物が未発見であったことから、疑問視していたことは間違いない。

 しかし、今回の尖頭器は出土地もラベルが貼ってありわかるものと考える。そうすると、局部磨製石斧と揃うことになれば神子柴のセットに近づくのか、また、河川出土の条痕文土器の見直しに加え、薄手の土器で押圧縄文的な1点を確認しており、ルーペ観察を行う予定にしている。少なくとも河川出土土器は縄文早期にさかのぼるものと確信している。

かつて、福岡旧石器研究会が筑豊で開催されたおり、筑豊の嘉穂地域を中心に縄文早期の刺突文土器や押型文土器の分布を基本として、前期、中期、後期と標高が低くなること、旧小石原の標高500m付近に旧石器の遺跡があることなどから、標高60~70m以上の丘陵や台地を中心に採集を続けたが、結局スカに終わった感じがあった。ところが、桂川町の古野遺跡が60mで細石刃らしきものが出土している。また、既に報告された立岩出土とされる神柴型の石斧は、出土地点が明確ではない点から個人的には他所の可能性もあるとして傍観していた。しかし、嘉穂東高校所蔵の昭和28年代に採集された遺物の中に、明らかにサヌカイト製の尖頭器を見て以来、考えは大きく変わった。つまり、尖頭器と石斧は伴う可能性が高いと考えられるからである。
 
 岡崎氏の戦前の論考「遠賀川上域の有紋彌生遺蹟地」の挿図(第3図)の1~17が立岩の採集資料であるが、(2)の扁平な石斧が問題の資料である。実測図が非常に小さいが寸法は一致しており左側面の稜線や右側面に残る剥離面、先端部が研磨されている様子や断面形状など、まず間違いないものと考えられる。

岡崎氏は、まず立岩の女学校遺跡を紹介している。名和洋一郎氏によって発見された当遺跡は、現在の嘉穂東高校の全域に及んだらしく、その中心は旧校舎付近と、当時削り取られた高さ3mの崖上に存在しており、岡崎先生たちはその上によじ登って調査したらしい。ここは、工事中やその後におびただしい石庖丁製品と土器片に多くの石器が出土したという。また、森貞次郎氏は、包含層の下から土器棺が出土した事を記してある。

そもそも、昭和8年に飯塚市営運動場が発見され、中山平次郎氏により調査が行われたが、その途中で、下ノ方遺跡が土取り工事の際に発見され、発見者の名和洋一郎氏とともに中山先生も未成品の採集を行っている。下ノ方遺跡は、当時、焼ノ正遺跡と呼ばれたが正しくは下ノ方として、森貞次郎氏の訂正がなされている。
 
 昭和9年から10年にかけ、下ノ方遺跡に隣接する焼ノ正では嘉穂高等女学校の建設が開始され、膨大な資料が得られた。当時゜遠賀川に張り出した緩やかな丘陵上にあって、当時の校舎中ほどから南東の土取り工事によって3mもの切通しとなった崖上に30㎝ほどの包含層が残された。名和・岡崎両氏がよじ登ったのはその崖上であったと思われる。


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