5月24日付けの夕刊で宗像から飯塚に延びる西山断層(活断層)がさらに、嘉麻市から東峰村へ続く可能性が出てきたという。九大の下山先生は、80キロの長さの断層がおこす地震エネルギーはM8という。四川の大地震なみではないか。1万から2000年前に動いたと観察されている。確か警固断層も平行して走っているいるな。これから調査が開始されるというが、最後に動いたのがいつかがはっきりしないと不安だね。2000年前は、弥生中期末から後期初頭、この時期、北部九州を含め広範な地域で遺跡の減少化、集住現象が見られるという特殊な時期に相当する。この時期、両方の断層が一緒に動いた可能性はないのか。
概要を見ると、弥生中期前半の遺構に影響が及んでないという見解が示されている。遺跡数からすれば前期末から中期前半にかけて、最も遺跡数が多い。中期末から後期初頭、あるいは、もっと古い縄文や旧石器にどうであったのか。詳細な検討が必要と考える。
西山断層について、インターネット上に掲載されている平成7年度~10年度の調査報告書を読んで感じた事を書いてみます。
まず、飯塚市明星寺で行われたトレンチ調査の層位と考古学的資料等による年代推定の部分についてです。土層を見ると1~7層に分けられ、6層はA、Bに区分されている。基盤は花崗岩であるが、本来、地震のため丘陵が27mほど落ち込んで上下にずれを生じ、基盤上層に堆積していた6A、B層が基盤と同じ高さとなっている。また、6Aと花崗岩基盤層が等しい高さとなるのは、地震後に風化あるいは水流によって高さが一定したものと考えられる。その後に、5層が堆積するが、河川による堆積物である砂礫層で古期段丘堆積層(6A・B層)と基盤層を不整合に覆う沖積層である。その上の1~4までの層がほぼ並行に堆積している。
考古遺物による層位の年代決定であるが、3層が龍泉窯系の青磁碗破片と口ハゲの白磁皿が出土しており13~14世紀を中心とする時期に、4層はヘラ切底の土師器が出土しており、平安の後期に位置づけられている。これらの層は粘性の砂層と砂層で比較的ゆっくりと堆積した感がある。5層は2~7㎝の礫や亜角礫を大量に含んでおり、濁流状態での堆積層で一気に流れ込んで堆積したと考えられる。その中で、弥生土器の甕底部片が出土しており、弥生中期初頭の城ノ越式ということで考えられている。
まず、土器底部であるが、やや、厚底で上げ底気味となっている。遠賀川流域の場合、城ノ越式は完全な分厚い底部で、かなりの上げ底となる。また、須玖式についてもⅡ式の古段階まではかなり残っており、私的には中期中頃あたりと考えられる。また、5層の体積状況が2~7㎝の礫や亜角礫を大量に含んでおり、濁流状態での堆積層で一気に流れ込んで堆積が伺えることから、土器の流れ込みという考えも成り立とう。1~2点の土器から層の年代を決めるのはなかなか困難と考えられ、まして、西山断層の下限を決定する重要な年代を決定するには、決め手が少ないように考える。上部層との比較からもう少し新しい年代も考慮する必要があるかと思う。
2007年の福岡地方史研究45に「弥生後期前半期における弥生集落の減少と起因」という一文を掲載した。それは、北部九州においてその時期に集落数の極端な減少例が見出せるものとして、小沢佳憲氏が2000年あたりに古文化談叢に掲載したもののトレース的な文章を投稿し掲載されたのだが、糸島はむしろ弥生後期後半から本領発揮というか、三雲・井原地域を中心とした伊都国中枢部が完成するように見える。国と称される一大拠点集落についてその成り立ちを訪ねると、おおよそ、弥生前期に萌芽が見られ、中期前半にはある程度の様相が現れる。そして、中期後半段階で花が咲くのだが、伊都国はむしろ中期後半期から突然花咲く都の趣きがる。春日丘陵の奴国は中期前半期から中頃にその萌芽を見る。早良は前期末から中期初頭に花咲いてしぼんでいく、立岩は中期前半までに石庖丁製作ラインを作りあげ、中頃から後半期に花を咲かせる。伊都国は計画的に三雲の地に都を建設したのか、それ以前の様相が分からない。しかし、世々王有というくらいに後期終末まで大規模集落が根をはったように継続している。それに比べ、春日や福岡平野、早良平野、嘉穂盆地は、後期前半期に集落消滅に近い状況下に追い込まれる。奴国はハイテクの金属器生産で体制を維持するが、立岩は復帰する事はなかった。伊都国をのぞいて王が継続して存在する地域が果して存在したのか、疑問である。
後漢鏡の分布は、嘉穂盆地では分散している。春日ではどうであろう。邪馬台国時代の北部九州は、伊都国以外に王として君臨する権力者がいたのであろうか。ちなみに、嘉穂盆地では緩やかな紐帯を基盤とする連合体というのが実情ではないか、むしろ、田川盆地の糸田地域を中心に出土した数々の青銅武器類のほうが、国としての体裁を放っていたのではないか。北部九州の弥生後期終末に邪馬台国なるものを維持する連合体が存在できたのか疑問に思うこの頃である。
弥生中期の嘉穂盆地を概観すると、立岩を中心とする強力な勢力圏が形成され、周囲の集落はそこに飲み込まれるような感じをおぼえるのである。しかし、自然災害等の影響を持ってその結合が失われた後、つまり、後漢後期から晩期の鏡が盆地内に点在する。その何れも中期前半までに拠点集落として形成された遺跡であり、本来、素地として力を持つ集落であり、農業基盤の上に築かれた村々である。それぞれの勢力範囲は変らず、小地域を把握する集団と解釈できる。そこに、1~2面程度の後漢鏡が入ってきている。その何れもがことさらに勢力圏を広げるのでもなく、本来の領域を保持しているようである。あえて、魏志倭人伝の国に相当するならば、どう見ても、緩やかな紐帯を基盤とする連合体であり、トップが見えないのである。しいて言えば、卑弥呼のように連合体が擁立したトップレベルの存在は想像できるが、北部九州の弥生後期末あたりに中期の王と同等あるいは越える王というのが本当に存在したのであろうか疑問に思う。
嘉穂盆地以外でも、伊都国以外の地域では、意外と後漢鏡が分散しているのに気付く。嘉麻市の原田遺跡の場合、石棺群が壊されていて、石まで抜かれていた。そんな中にあって、石蓋土壙墓と石棺から1面ずつ後漢晩期の鏡が得られたが、おそらく、もう少しあったものと想像される。それからいけば、香春町の採銅所は4面でてるのかな、石棺が横に4列に並んでいたというが、原田のB群がまさに4基並列したもので、周溝を持った墳丘墓で、周溝内から出土した土器は、西新式のように同部に刻みの入った突帯を巡らすもので、後期終末から古墳初頭くらいの時期と考えられる。採銅所と似ているといったのは高倉さんである。
その後、西山断層の件についてなんら書かれていないがどうなっとるのかな。そういえば、旧穂波地区のあたりから明星寺にかけて集落の廃絶が中期後半期までに集中していて、やや早くにその傾向が現れるように見える。『福岡地方史研究45』「弥生後期前半規における弥生集落の減少と起因」より、旧筑穂町は中期前半でそういう現象が現れるのだが、早くに集落減少あるいは廃絶が見られるのは何故だろう。地震災害等も含めて再度考えなければならない。
話は、後期初頭から前半にほぼ廃絶状態の集落遺跡が、後期中頃から後半期にかけて、再び増加傾向に転換するのだが、地域によって再進出の格差は大きい。嘉穂盆地で言えば、立岩近辺にその現象を見出すことは出来ないが、馬見台地一帯を中心に典型的な増加現象をうかがうことが出来る。しかも、原田遺跡には5箇所に墳丘墓が並び、銅鏡や鉄製武器を副葬している。時期的におそらく後期後半から末頃の時期であり、それから古墳時代へとスムーズに移っているのである。ただし、今のところ前方後円墳は見当たらないが、古墳初頭の居館跡までが穴江・塚田で検出されている。しかし、そこには土器様式の大きな変化があるものの、大乱的な要素を今のところ見出せない。
また後漢鏡の分布は盆地内の過去からの拠点地域に分散所有されており、伊都国の平原のような一極集中は見受けられない。魏の使いが国としたの中に中期後半の王的存在がこの時期にどのようにありえたのか、伊都はいいとして、奴国はどうであろう。後漢晩期の鏡を大量に保有するような墳墓があるのだろうか、不爾国が糟屋群としてはたして後漢晩期の鏡がどれくらい集中して出土しているのであろう。宇美町の光正寺古墳が不爾国と関係するとの説があるが、少なくとも後漢晩期の鏡を確実に保有する墳墓は、墳丘墓であり何故宇美町だけが前方後円墳なのか分からない。平原だって周溝をもつ墳丘墓と考えられるし、粕屋町大隈の大型石棺なんかは、原田に何ヶ所か存在するし、田川でも採銅所や公文原遺跡で出土している。むしろ、大形石棺は、嘉穂や田川、北九州といった内陸部から東部に多い。大隈の大型石棺等はそんな地域の影響下にあるとも考えられる。福岡平野や糸島平野で見ることが可能なのか疑問である。光正寺古墳に関しては、土器様式で西新式というが、案外周辺部ではやや長く材地形時の使用があるのでは、それが突然畿内や山陰系の土師器と交代するように見えるが、案外、在地の土器を使い続けていた可能性はあろう。再度、墳丘等から得られた土器資料も検討すべきであろう。
意外と後期終末に後漢鏡を所有するような有力地域に、畿内系の初期前方後円墳は、入ったのだろうか。在地勢力が強い中に直接入り込むより、案外、それほど勢力がないような場所に入り込むというのが最初かな。いきなり、親分同士が何じゃというわけではなく外堀から埋めていく、石塚山ふくめ北部九州後期末の勢力分布範囲と初期の畿内型前方後円墳の在り方についてどうでしょう。
嘉穂盆地で見る忠隈古墳は円墳だが、立派な竪穴式石室と三角縁神獣鏡を持つが、その位置は私が考えている後の鎌・穂波の中間にあって周辺には後漢鏡を有する墳墓は、まだ見つかっていない。原田遺跡は後漢鏡2面があり、石棺群が荒されてなければ、まだ、存在した可能性はあるし、鎌田原の地蔵堂付近には巨大な石棺が複数あって、さらに、副葬品が出土する可能性がある。古墳初頭の集落もいたるところにあって、その繁栄ぶりはすごいものを感じるが、前方後円墳がない。穴江・塚田で方形居館が検出されているにもかかわらず、ないのである。何故だろうと考えるのである。
また、東北で地震が発生した。活断層のことを書いていたが、四川では太古の断層が動いたという。今回も、岩手から宮城にかけての断層らしいが、活断層ではない可能性が高いというが、断層はそこここに走っている。これが周囲のエネルギーによって動くとなれば、大変なことである。現在の河川はおおよそ過去の断層運動によって引き裂かれ、多きくずれ落ちた谷地形を流れている場合が多い。また、河川跡でも断層があり、私が居住している場所も古い断層が走っている。また、西山断層とその後活断層として発見されたものが連続していれば、宗像から飯塚の明星寺をつなぎ、その延長線上に線を引き東峰村まで持っていくと、どうも、遠賀川沿いの現居住地を通っている可能性が考えられる。もう一つの可能性は、山田川沿いとなり、ここも古い断層が走っている。さて、どちらでも問題である。
西山断層の最終が弥生中期以前として把握されいるが、遠賀川沿いにおける遺跡で、まだ地震を示す具体的な例がない。可能性としては、弥生後期前半期における集落減少期、あるいは、さかのぼって縄文中期か早期以前の旧石器時代と考えられるが、証拠にかける。
もう少し、地域ごとにトレンチ調査を実施し、より確実な年代探るべきと考える。国庫補助でも県費でもいいわけで、ぜひやるべきであり、各自治体の考古の連中も協力して行なうべきと考える。それと、過去の遺跡発掘調査例を再検討すべき問題でもある。それには、報告書使用外の写真も含め調査時点の記録や記憶をたどり、発掘調査面でどのような特徴が見られるのか、久留米の松村さんあたりにご教示いただきたい。我々はもっと地質を勉強すべきと考え、九大の下山先生に詳しく現地で説明を受けたいとも考えている。
観光や学校教育との連携、体験学習も推進しなければならないが、頻繁に起る昨今の地震を考える時、直接にしかも住民の生命に係る仕事としての可能性も追求すべきと思う。
宗像の安部ちゃんから久々に青銅製武器の複数出土のニュースを聞いた。土壙墓か木棺墓、あるいは、木槨墓かよくわからないという。一基の墓壙から複数出土するのは、かなり珍しい。吉武・高木(木棺墓)、古賀市は甕棺墓かな、前期末~中期初頭あたり、それと、宗像の例になるのかな。あとは、1~2本がせいぜいか。杉原先生が宇木汲田で1棺に1本という宇木型は、ある意味で階層をあらわすもので、実は、数本の青銅器あるいは吉武・高木のように多鈕細文鏡が加わるものがあり、海岸部での大量副葬はありうるのであろう。
しかし、中期後半から末頃に大量の前漢鏡を伴うかというと、今の所、伊都・奴・それに立岩と来るが、後は1面のみの副葬である。
夕刊に出た。銅剣4本が固まっているように見える。また、上部のほうは銅戈だろうか、他にヒスイの勾玉かな管玉も出ているようで、吉武・高木に近いのだろうか。しかし、銅矛は出ないのだろうか。鎌田原は銅戈であったが、糟屋のほうは銅剣が多いようだが、以前、小田先生が北筑後や筑豊あたりは以前から銅戈がよく出土しますねと言われたことがあった。細形から中細の古式の段階あたりから、筑紫野近辺から北筑後、筑豊周辺は銅戈が多いように見えるし、糟屋から北側は銅剣のように見える。福岡平野はその中間で銅矛を含む。3器種プラス鏡(鈕細文鏡)に玉類がそろうのは、吉武・高木とすれば、もう一度、たんねんに調査すれば、青銅器の拡散が一定ではなく、器種ごとの何かがあったのか、下條さんが書いていたように思うが。背景に何かがあるのでしょう。
阿部ちゃんと電話で記者発表前に話したのだが、木棺か土壙墓か判断できないが一段目の墓壙は広いといっていた。このような場合、木槨墓という可能性も生じる。また、土器片が出土したかについては聞かずじまいだし、周溝や盛土の一部でもなかったか聞いとくべきであった。次の機会に聞くことにするが、なんかありそうな気がしてならない。
西山断層の続きを書くが、宗像から飯塚の明星寺までほぼ一直線に来ている断層は、穂波川あたりで消えていることになっている。穂波川自体が古い断層に沿って流れておりそれにT字形に接するようにして消えていると考えられるのだが、もし、これがさらに続くとしたらどこを通るのかを、地図上で延長させると久保白ダム付近から桂川の寿命、都井、旧碓井の飯田付近、琴平山北側から竹生島、旧嘉穂町の上西郷、下益、中益、宮吉、桑野、東峰村に達するラインが怪しい。特に、西郷、上西郷、下益、中益あたりの丘陵の東側は直線的になっていて、河川による開析というよりは、断層崖的な雰囲気がある。遠賀川を挟んだ東側は完全に断層で、かなり古い時代に大きくずれていることが分かっている。その断層に沿って遠賀川が流れているようで、飯塚市街のほうへ続いている。
さて、西山断層が続くとするなら、中位段丘や高位段丘に影響をあたえているはずである。今考えているのは、飯田の五穀神社や竹生島が独立丘陵になっている状況、あるいは、桂川の土師を通る県道があるが、その付近も丘陵が切断されている。特に、竹生島は、西側の丘陵から延びていたと考えられるが、いつの頃かに切断され、今では円形状の独立丘陵である。仮にこの切断が、断層によるもので、そこを河川が一時期流れたとすれば、なんとか説明は付く。
竹生島は赤化し琴平山の噴火によって生じた火砕流の塊みたいな大形で粘性の礫を大量に含む。地元の人によれば基盤までその赤土が続くらしい。標高は50m余りで山頂から出土するものは、縄文早期の土器や石器に始まる。丘陵の形成は、間氷期のいずれか暖かい時期と考えられ、10万年以上前の段丘堆積層で、それが断層で分断され、河川が低い位置を流れると共に浸食されて現況を作ったと想像している。その後、五穀神は中位段丘であるがやはり独立丘陵となっている。何れのライン上も低位段丘が形成されており、そこに遺跡がのっているわけで、数万年前に大きな地震が起きて以来、2度目は未確認のようである。したがって、次の予測が難しいと考えられるが、先ず西山断層につながるのかが問題で、全く新たな断層かもしれない。早期に調査してもらいたいものである。我々考古学関係者は協力は惜しまないので、考古学的な資料提供はすぐにでも出来る。
今のところ、県道中益線沿いが断層ラインと踏んでいるが全く異なるかもしれない。情報が欲しいものである。
6月28日(土)福岡旧石器研究会に宇美町の資料館に出かけた。12時30分頃到着、早い時間なので誰も来ていない。事務室に行って研究会はありますかと尋ねると全く分からない、聞いていませんとの返事、結構ですといいながら展示物を見て回る。その時、研究会のみなさんに見ていただこうと、竹生島古墳調査の際に出土した、石鏃(鍬型)、剥片、黒曜石の原石、サヌカイトのスクレーパー?と押型文2片、無文の土器片、最後に、繊維を含み土師器のような色調、で表面に1~2ヶ所の押引あるいは刺突文があって、私はかなり古いものと予感しているのだが、決定打がない。
その内、1時30分になったので、もう一度事務室で聞いたが、やはり、何も聞いてないということで、帰ったのだが、一点気になることがあった。光正寺古墳の第一主体部に伴うという甕である。底部は平底気味で形態は西新式の甕に似ているが、口縁部は畿内系の布留式に見られる口唇部内面に段が付くもので、外面の調整は細かいハケ目である。内面はナデだと思うがガラス越しではない。焼成や色調からして、土師器であり布留式の変形か折衷タイプに見える。そうすると、先ず布留式があって、その後に起る変形や折衷と考える必要があろう。
著名な先生方による慎重な審議の結果と思われるが、三世紀半ばから後半期の時期に位置付けるのは如何と思った次第である。平ノ内さんすいません。ただ、どうしても畿内の初期古墳と同年代には思えませんでした。C14で確認したらどうでしょうか。
話は、押引文あるいは刺突文らしき土器にもどるが、今までになく小さな穴で、押引スタイルなのか穴の周囲が盛り上がっている。この穴は間違いなく文様として考えられるが、問題はもう一つの穴である。確かに周囲の面が若干盛り上がるが、砂粒が抜けた跡の穴とも取れる。問題は繊維を含むということと、焼成と色調が土師器に似ているという点である。ただ、この資料は表採であるため単独で共伴資料を欠いているためなんともいえないが、出土している石器類は、細石器らしきものはなく、縄文早期の範疇でおさまっている。
7月13日(日)古文化研究会で発表するが、実証性のなさと思いつきのままに書いた内容で、悪戦苦闘、というより全くだめな内容になってしまった。せっかくお呼びいただいた小田先生と宇野さんにご迷惑をおかけした。最近たて続けに原稿を書いては掲載していただいているのだが、正直何かあせりを感じて十分な検証等が出来ていないことがはっきりわかりました。昔から地に付いた研究をしたことがなく、時々の思いつきで書いているのが、見えなくなっていた。しかし、これは性分で今から変えるのも難しい、ただ、フィールドは嘉穂地域というのは変わらない。古文化談叢59集に掲載していただいたものも、墓地関係はまあまあであるが、集落関係は危ないと感じている。したがって、これもアウトのジャッジを受けそうである。九州考古学に投稿しているのは、笠置山での石庖丁原石採取の件であるが、先走り傾向にある。しかし、考えようでそれが切っ掛けで新たな道も開ける可能性があり、ひとまず、それにかけようと思う。間違もあるさと自分に言い聞かせている最中である。
宗像市田熊石畑遺跡のニュースが以前夕刊に掲載されたが、その後、宗像の安部ちゃんと会う機会があり、その後の話を聞くとなんと、5本が15本に増えたという。これはすごいと思っていたら、7月18日の夕刊にそのニュースが紹介されている。その中に気になる箇所があった。6基の墳墓から最高5本もの青銅武器を副葬し、しかも、剣・矛・戈の三種類がそろっており、その上装飾品も出土している。なぜ、今の世にそれほど話題とならないのか、吉武高木なみの墳墓群群には間違いない多丑細文鏡がともなっていないためなのか、意外と地元もマスコミも冷静に見ている。これも、捏造事件の影響なのかな。
記事の中に、甕棺の及ばない北部九州を非先進地域と確定している。これは非常に危ない見解である。特に、今回のような中期初頭から前半期にかけては、複雑な様相を呈していて、簡単に甕棺に軍配を上げることは出来ない。というのも、早良の吉武高木の中心的墳墓は、大型木棺墓である。鳥栖で以前見つかったものも木棺もしくは木槨墓で中心をなしていて、何れも周囲に甕棺墓があるのだ。嘉麻市の鎌田原遺跡は、典型的で墳丘墓の中心を木槨墓や大形の木棺簿が占有し、周囲に甕棺墓が点在する。今日まで常識とされてきた甕棺墓が墓制として優位にあると考えられるのは、中期後半の世界で、三雲南小路や須玖岡本、立岩の掘田遺跡などが甕棺墓であることは中期後半期である点、また、古賀市の遺跡や佐賀に古い甕棺から複数の青銅器が出土している事などから、そう考えられがちであるが、単純ではない。中期前半の汲田式甕棺は、広範囲に広がりそれまでの土壙墓・木棺墓社会に入り込んでくるのだが、その交代劇が中期前半から中頃に行なわれるようで、それまでは、甕棺と土壙墓・木棺墓は対等もしくは土壙墓・木棺墓が優位な地域がある。朝鮮半島を考えるなら、土壙墓・木棺墓(木槨墓を含む)が優位である事は疑いない。特に、糟屋郡から宗像、北九州から遠賀川流域(中・下流域)田川を含めた豊前地域は、基本的に甕棺を受け入れていない。しかし、後進地域とは言えない。嘉穂地域は、中期前半に甕棺が導入されるが、鎌田原でも観察できるが、優位なのは木槨墓か大型木棺墓で、中期中頃から優位性が逆転し、後半から末頃ついには甕棺に変る。その変った時期に立岩の堀田遺跡は形成されるわけで、宗像のように甕棺を受け入れなくとも、勢力を持った集団はあちこちに出現したのが中期前半で、それらがある意味整理された段階が中期後半の王墓といわれる段階と考えれば、甕棺イコール先進地域という福岡中心主義は瓦解すると思うがいかがであろう。
北部九州は甕棺とそれ以外の墓制で成り立っていることを忘れてはならない。
概要を見ると、弥生中期前半の遺構に影響が及んでないという見解が示されている。遺跡数からすれば前期末から中期前半にかけて、最も遺跡数が多い。中期末から後期初頭、あるいは、もっと古い縄文や旧石器にどうであったのか。詳細な検討が必要と考える。
西山断層について、インターネット上に掲載されている平成7年度~10年度の調査報告書を読んで感じた事を書いてみます。
まず、飯塚市明星寺で行われたトレンチ調査の層位と考古学的資料等による年代推定の部分についてです。土層を見ると1~7層に分けられ、6層はA、Bに区分されている。基盤は花崗岩であるが、本来、地震のため丘陵が27mほど落ち込んで上下にずれを生じ、基盤上層に堆積していた6A、B層が基盤と同じ高さとなっている。また、6Aと花崗岩基盤層が等しい高さとなるのは、地震後に風化あるいは水流によって高さが一定したものと考えられる。その後に、5層が堆積するが、河川による堆積物である砂礫層で古期段丘堆積層(6A・B層)と基盤層を不整合に覆う沖積層である。その上の1~4までの層がほぼ並行に堆積している。
考古遺物による層位の年代決定であるが、3層が龍泉窯系の青磁碗破片と口ハゲの白磁皿が出土しており13~14世紀を中心とする時期に、4層はヘラ切底の土師器が出土しており、平安の後期に位置づけられている。これらの層は粘性の砂層と砂層で比較的ゆっくりと堆積した感がある。5層は2~7㎝の礫や亜角礫を大量に含んでおり、濁流状態での堆積層で一気に流れ込んで堆積したと考えられる。その中で、弥生土器の甕底部片が出土しており、弥生中期初頭の城ノ越式ということで考えられている。
まず、土器底部であるが、やや、厚底で上げ底気味となっている。遠賀川流域の場合、城ノ越式は完全な分厚い底部で、かなりの上げ底となる。また、須玖式についてもⅡ式の古段階まではかなり残っており、私的には中期中頃あたりと考えられる。また、5層の体積状況が2~7㎝の礫や亜角礫を大量に含んでおり、濁流状態での堆積層で一気に流れ込んで堆積が伺えることから、土器の流れ込みという考えも成り立とう。1~2点の土器から層の年代を決めるのはなかなか困難と考えられ、まして、西山断層の下限を決定する重要な年代を決定するには、決め手が少ないように考える。上部層との比較からもう少し新しい年代も考慮する必要があるかと思う。
2007年の福岡地方史研究45に「弥生後期前半期における弥生集落の減少と起因」という一文を掲載した。それは、北部九州においてその時期に集落数の極端な減少例が見出せるものとして、小沢佳憲氏が2000年あたりに古文化談叢に掲載したもののトレース的な文章を投稿し掲載されたのだが、糸島はむしろ弥生後期後半から本領発揮というか、三雲・井原地域を中心とした伊都国中枢部が完成するように見える。国と称される一大拠点集落についてその成り立ちを訪ねると、おおよそ、弥生前期に萌芽が見られ、中期前半にはある程度の様相が現れる。そして、中期後半段階で花が咲くのだが、伊都国はむしろ中期後半期から突然花咲く都の趣きがる。春日丘陵の奴国は中期前半期から中頃にその萌芽を見る。早良は前期末から中期初頭に花咲いてしぼんでいく、立岩は中期前半までに石庖丁製作ラインを作りあげ、中頃から後半期に花を咲かせる。伊都国は計画的に三雲の地に都を建設したのか、それ以前の様相が分からない。しかし、世々王有というくらいに後期終末まで大規模集落が根をはったように継続している。それに比べ、春日や福岡平野、早良平野、嘉穂盆地は、後期前半期に集落消滅に近い状況下に追い込まれる。奴国はハイテクの金属器生産で体制を維持するが、立岩は復帰する事はなかった。伊都国をのぞいて王が継続して存在する地域が果して存在したのか、疑問である。
後漢鏡の分布は、嘉穂盆地では分散している。春日ではどうであろう。邪馬台国時代の北部九州は、伊都国以外に王として君臨する権力者がいたのであろうか。ちなみに、嘉穂盆地では緩やかな紐帯を基盤とする連合体というのが実情ではないか、むしろ、田川盆地の糸田地域を中心に出土した数々の青銅武器類のほうが、国としての体裁を放っていたのではないか。北部九州の弥生後期終末に邪馬台国なるものを維持する連合体が存在できたのか疑問に思うこの頃である。
弥生中期の嘉穂盆地を概観すると、立岩を中心とする強力な勢力圏が形成され、周囲の集落はそこに飲み込まれるような感じをおぼえるのである。しかし、自然災害等の影響を持ってその結合が失われた後、つまり、後漢後期から晩期の鏡が盆地内に点在する。その何れも中期前半までに拠点集落として形成された遺跡であり、本来、素地として力を持つ集落であり、農業基盤の上に築かれた村々である。それぞれの勢力範囲は変らず、小地域を把握する集団と解釈できる。そこに、1~2面程度の後漢鏡が入ってきている。その何れもがことさらに勢力圏を広げるのでもなく、本来の領域を保持しているようである。あえて、魏志倭人伝の国に相当するならば、どう見ても、緩やかな紐帯を基盤とする連合体であり、トップが見えないのである。しいて言えば、卑弥呼のように連合体が擁立したトップレベルの存在は想像できるが、北部九州の弥生後期末あたりに中期の王と同等あるいは越える王というのが本当に存在したのであろうか疑問に思う。
嘉穂盆地以外でも、伊都国以外の地域では、意外と後漢鏡が分散しているのに気付く。嘉麻市の原田遺跡の場合、石棺群が壊されていて、石まで抜かれていた。そんな中にあって、石蓋土壙墓と石棺から1面ずつ後漢晩期の鏡が得られたが、おそらく、もう少しあったものと想像される。それからいけば、香春町の採銅所は4面でてるのかな、石棺が横に4列に並んでいたというが、原田のB群がまさに4基並列したもので、周溝を持った墳丘墓で、周溝内から出土した土器は、西新式のように同部に刻みの入った突帯を巡らすもので、後期終末から古墳初頭くらいの時期と考えられる。採銅所と似ているといったのは高倉さんである。
その後、西山断層の件についてなんら書かれていないがどうなっとるのかな。そういえば、旧穂波地区のあたりから明星寺にかけて集落の廃絶が中期後半期までに集中していて、やや早くにその傾向が現れるように見える。『福岡地方史研究45』「弥生後期前半規における弥生集落の減少と起因」より、旧筑穂町は中期前半でそういう現象が現れるのだが、早くに集落減少あるいは廃絶が見られるのは何故だろう。地震災害等も含めて再度考えなければならない。
話は、後期初頭から前半にほぼ廃絶状態の集落遺跡が、後期中頃から後半期にかけて、再び増加傾向に転換するのだが、地域によって再進出の格差は大きい。嘉穂盆地で言えば、立岩近辺にその現象を見出すことは出来ないが、馬見台地一帯を中心に典型的な増加現象をうかがうことが出来る。しかも、原田遺跡には5箇所に墳丘墓が並び、銅鏡や鉄製武器を副葬している。時期的におそらく後期後半から末頃の時期であり、それから古墳時代へとスムーズに移っているのである。ただし、今のところ前方後円墳は見当たらないが、古墳初頭の居館跡までが穴江・塚田で検出されている。しかし、そこには土器様式の大きな変化があるものの、大乱的な要素を今のところ見出せない。
また後漢鏡の分布は盆地内の過去からの拠点地域に分散所有されており、伊都国の平原のような一極集中は見受けられない。魏の使いが国としたの中に中期後半の王的存在がこの時期にどのようにありえたのか、伊都はいいとして、奴国はどうであろう。後漢晩期の鏡を大量に保有するような墳墓があるのだろうか、不爾国が糟屋群としてはたして後漢晩期の鏡がどれくらい集中して出土しているのであろう。宇美町の光正寺古墳が不爾国と関係するとの説があるが、少なくとも後漢晩期の鏡を確実に保有する墳墓は、墳丘墓であり何故宇美町だけが前方後円墳なのか分からない。平原だって周溝をもつ墳丘墓と考えられるし、粕屋町大隈の大型石棺なんかは、原田に何ヶ所か存在するし、田川でも採銅所や公文原遺跡で出土している。むしろ、大形石棺は、嘉穂や田川、北九州といった内陸部から東部に多い。大隈の大型石棺等はそんな地域の影響下にあるとも考えられる。福岡平野や糸島平野で見ることが可能なのか疑問である。光正寺古墳に関しては、土器様式で西新式というが、案外周辺部ではやや長く材地形時の使用があるのでは、それが突然畿内や山陰系の土師器と交代するように見えるが、案外、在地の土器を使い続けていた可能性はあろう。再度、墳丘等から得られた土器資料も検討すべきであろう。
意外と後期終末に後漢鏡を所有するような有力地域に、畿内系の初期前方後円墳は、入ったのだろうか。在地勢力が強い中に直接入り込むより、案外、それほど勢力がないような場所に入り込むというのが最初かな。いきなり、親分同士が何じゃというわけではなく外堀から埋めていく、石塚山ふくめ北部九州後期末の勢力分布範囲と初期の畿内型前方後円墳の在り方についてどうでしょう。
嘉穂盆地で見る忠隈古墳は円墳だが、立派な竪穴式石室と三角縁神獣鏡を持つが、その位置は私が考えている後の鎌・穂波の中間にあって周辺には後漢鏡を有する墳墓は、まだ見つかっていない。原田遺跡は後漢鏡2面があり、石棺群が荒されてなければ、まだ、存在した可能性はあるし、鎌田原の地蔵堂付近には巨大な石棺が複数あって、さらに、副葬品が出土する可能性がある。古墳初頭の集落もいたるところにあって、その繁栄ぶりはすごいものを感じるが、前方後円墳がない。穴江・塚田で方形居館が検出されているにもかかわらず、ないのである。何故だろうと考えるのである。
また、東北で地震が発生した。活断層のことを書いていたが、四川では太古の断層が動いたという。今回も、岩手から宮城にかけての断層らしいが、活断層ではない可能性が高いというが、断層はそこここに走っている。これが周囲のエネルギーによって動くとなれば、大変なことである。現在の河川はおおよそ過去の断層運動によって引き裂かれ、多きくずれ落ちた谷地形を流れている場合が多い。また、河川跡でも断層があり、私が居住している場所も古い断層が走っている。また、西山断層とその後活断層として発見されたものが連続していれば、宗像から飯塚の明星寺をつなぎ、その延長線上に線を引き東峰村まで持っていくと、どうも、遠賀川沿いの現居住地を通っている可能性が考えられる。もう一つの可能性は、山田川沿いとなり、ここも古い断層が走っている。さて、どちらでも問題である。
西山断層の最終が弥生中期以前として把握されいるが、遠賀川沿いにおける遺跡で、まだ地震を示す具体的な例がない。可能性としては、弥生後期前半期における集落減少期、あるいは、さかのぼって縄文中期か早期以前の旧石器時代と考えられるが、証拠にかける。
もう少し、地域ごとにトレンチ調査を実施し、より確実な年代探るべきと考える。国庫補助でも県費でもいいわけで、ぜひやるべきであり、各自治体の考古の連中も協力して行なうべきと考える。それと、過去の遺跡発掘調査例を再検討すべき問題でもある。それには、報告書使用外の写真も含め調査時点の記録や記憶をたどり、発掘調査面でどのような特徴が見られるのか、久留米の松村さんあたりにご教示いただきたい。我々はもっと地質を勉強すべきと考え、九大の下山先生に詳しく現地で説明を受けたいとも考えている。
観光や学校教育との連携、体験学習も推進しなければならないが、頻繁に起る昨今の地震を考える時、直接にしかも住民の生命に係る仕事としての可能性も追求すべきと思う。
宗像の安部ちゃんから久々に青銅製武器の複数出土のニュースを聞いた。土壙墓か木棺墓、あるいは、木槨墓かよくわからないという。一基の墓壙から複数出土するのは、かなり珍しい。吉武・高木(木棺墓)、古賀市は甕棺墓かな、前期末~中期初頭あたり、それと、宗像の例になるのかな。あとは、1~2本がせいぜいか。杉原先生が宇木汲田で1棺に1本という宇木型は、ある意味で階層をあらわすもので、実は、数本の青銅器あるいは吉武・高木のように多鈕細文鏡が加わるものがあり、海岸部での大量副葬はありうるのであろう。
しかし、中期後半から末頃に大量の前漢鏡を伴うかというと、今の所、伊都・奴・それに立岩と来るが、後は1面のみの副葬である。
夕刊に出た。銅剣4本が固まっているように見える。また、上部のほうは銅戈だろうか、他にヒスイの勾玉かな管玉も出ているようで、吉武・高木に近いのだろうか。しかし、銅矛は出ないのだろうか。鎌田原は銅戈であったが、糟屋のほうは銅剣が多いようだが、以前、小田先生が北筑後や筑豊あたりは以前から銅戈がよく出土しますねと言われたことがあった。細形から中細の古式の段階あたりから、筑紫野近辺から北筑後、筑豊周辺は銅戈が多いように見えるし、糟屋から北側は銅剣のように見える。福岡平野はその中間で銅矛を含む。3器種プラス鏡(鈕細文鏡)に玉類がそろうのは、吉武・高木とすれば、もう一度、たんねんに調査すれば、青銅器の拡散が一定ではなく、器種ごとの何かがあったのか、下條さんが書いていたように思うが。背景に何かがあるのでしょう。
阿部ちゃんと電話で記者発表前に話したのだが、木棺か土壙墓か判断できないが一段目の墓壙は広いといっていた。このような場合、木槨墓という可能性も生じる。また、土器片が出土したかについては聞かずじまいだし、周溝や盛土の一部でもなかったか聞いとくべきであった。次の機会に聞くことにするが、なんかありそうな気がしてならない。
西山断層の続きを書くが、宗像から飯塚の明星寺までほぼ一直線に来ている断層は、穂波川あたりで消えていることになっている。穂波川自体が古い断層に沿って流れておりそれにT字形に接するようにして消えていると考えられるのだが、もし、これがさらに続くとしたらどこを通るのかを、地図上で延長させると久保白ダム付近から桂川の寿命、都井、旧碓井の飯田付近、琴平山北側から竹生島、旧嘉穂町の上西郷、下益、中益、宮吉、桑野、東峰村に達するラインが怪しい。特に、西郷、上西郷、下益、中益あたりの丘陵の東側は直線的になっていて、河川による開析というよりは、断層崖的な雰囲気がある。遠賀川を挟んだ東側は完全に断層で、かなり古い時代に大きくずれていることが分かっている。その断層に沿って遠賀川が流れているようで、飯塚市街のほうへ続いている。
さて、西山断層が続くとするなら、中位段丘や高位段丘に影響をあたえているはずである。今考えているのは、飯田の五穀神社や竹生島が独立丘陵になっている状況、あるいは、桂川の土師を通る県道があるが、その付近も丘陵が切断されている。特に、竹生島は、西側の丘陵から延びていたと考えられるが、いつの頃かに切断され、今では円形状の独立丘陵である。仮にこの切断が、断層によるもので、そこを河川が一時期流れたとすれば、なんとか説明は付く。
竹生島は赤化し琴平山の噴火によって生じた火砕流の塊みたいな大形で粘性の礫を大量に含む。地元の人によれば基盤までその赤土が続くらしい。標高は50m余りで山頂から出土するものは、縄文早期の土器や石器に始まる。丘陵の形成は、間氷期のいずれか暖かい時期と考えられ、10万年以上前の段丘堆積層で、それが断層で分断され、河川が低い位置を流れると共に浸食されて現況を作ったと想像している。その後、五穀神は中位段丘であるがやはり独立丘陵となっている。何れのライン上も低位段丘が形成されており、そこに遺跡がのっているわけで、数万年前に大きな地震が起きて以来、2度目は未確認のようである。したがって、次の予測が難しいと考えられるが、先ず西山断層につながるのかが問題で、全く新たな断層かもしれない。早期に調査してもらいたいものである。我々考古学関係者は協力は惜しまないので、考古学的な資料提供はすぐにでも出来る。
今のところ、県道中益線沿いが断層ラインと踏んでいるが全く異なるかもしれない。情報が欲しいものである。
6月28日(土)福岡旧石器研究会に宇美町の資料館に出かけた。12時30分頃到着、早い時間なので誰も来ていない。事務室に行って研究会はありますかと尋ねると全く分からない、聞いていませんとの返事、結構ですといいながら展示物を見て回る。その時、研究会のみなさんに見ていただこうと、竹生島古墳調査の際に出土した、石鏃(鍬型)、剥片、黒曜石の原石、サヌカイトのスクレーパー?と押型文2片、無文の土器片、最後に、繊維を含み土師器のような色調、で表面に1~2ヶ所の押引あるいは刺突文があって、私はかなり古いものと予感しているのだが、決定打がない。
その内、1時30分になったので、もう一度事務室で聞いたが、やはり、何も聞いてないということで、帰ったのだが、一点気になることがあった。光正寺古墳の第一主体部に伴うという甕である。底部は平底気味で形態は西新式の甕に似ているが、口縁部は畿内系の布留式に見られる口唇部内面に段が付くもので、外面の調整は細かいハケ目である。内面はナデだと思うがガラス越しではない。焼成や色調からして、土師器であり布留式の変形か折衷タイプに見える。そうすると、先ず布留式があって、その後に起る変形や折衷と考える必要があろう。
著名な先生方による慎重な審議の結果と思われるが、三世紀半ばから後半期の時期に位置付けるのは如何と思った次第である。平ノ内さんすいません。ただ、どうしても畿内の初期古墳と同年代には思えませんでした。C14で確認したらどうでしょうか。
話は、押引文あるいは刺突文らしき土器にもどるが、今までになく小さな穴で、押引スタイルなのか穴の周囲が盛り上がっている。この穴は間違いなく文様として考えられるが、問題はもう一つの穴である。確かに周囲の面が若干盛り上がるが、砂粒が抜けた跡の穴とも取れる。問題は繊維を含むということと、焼成と色調が土師器に似ているという点である。ただ、この資料は表採であるため単独で共伴資料を欠いているためなんともいえないが、出土している石器類は、細石器らしきものはなく、縄文早期の範疇でおさまっている。
7月13日(日)古文化研究会で発表するが、実証性のなさと思いつきのままに書いた内容で、悪戦苦闘、というより全くだめな内容になってしまった。せっかくお呼びいただいた小田先生と宇野さんにご迷惑をおかけした。最近たて続けに原稿を書いては掲載していただいているのだが、正直何かあせりを感じて十分な検証等が出来ていないことがはっきりわかりました。昔から地に付いた研究をしたことがなく、時々の思いつきで書いているのが、見えなくなっていた。しかし、これは性分で今から変えるのも難しい、ただ、フィールドは嘉穂地域というのは変わらない。古文化談叢59集に掲載していただいたものも、墓地関係はまあまあであるが、集落関係は危ないと感じている。したがって、これもアウトのジャッジを受けそうである。九州考古学に投稿しているのは、笠置山での石庖丁原石採取の件であるが、先走り傾向にある。しかし、考えようでそれが切っ掛けで新たな道も開ける可能性があり、ひとまず、それにかけようと思う。間違もあるさと自分に言い聞かせている最中である。
宗像市田熊石畑遺跡のニュースが以前夕刊に掲載されたが、その後、宗像の安部ちゃんと会う機会があり、その後の話を聞くとなんと、5本が15本に増えたという。これはすごいと思っていたら、7月18日の夕刊にそのニュースが紹介されている。その中に気になる箇所があった。6基の墳墓から最高5本もの青銅武器を副葬し、しかも、剣・矛・戈の三種類がそろっており、その上装飾品も出土している。なぜ、今の世にそれほど話題とならないのか、吉武高木なみの墳墓群群には間違いない多丑細文鏡がともなっていないためなのか、意外と地元もマスコミも冷静に見ている。これも、捏造事件の影響なのかな。
記事の中に、甕棺の及ばない北部九州を非先進地域と確定している。これは非常に危ない見解である。特に、今回のような中期初頭から前半期にかけては、複雑な様相を呈していて、簡単に甕棺に軍配を上げることは出来ない。というのも、早良の吉武高木の中心的墳墓は、大型木棺墓である。鳥栖で以前見つかったものも木棺もしくは木槨墓で中心をなしていて、何れも周囲に甕棺墓があるのだ。嘉麻市の鎌田原遺跡は、典型的で墳丘墓の中心を木槨墓や大形の木棺簿が占有し、周囲に甕棺墓が点在する。今日まで常識とされてきた甕棺墓が墓制として優位にあると考えられるのは、中期後半の世界で、三雲南小路や須玖岡本、立岩の掘田遺跡などが甕棺墓であることは中期後半期である点、また、古賀市の遺跡や佐賀に古い甕棺から複数の青銅器が出土している事などから、そう考えられがちであるが、単純ではない。中期前半の汲田式甕棺は、広範囲に広がりそれまでの土壙墓・木棺墓社会に入り込んでくるのだが、その交代劇が中期前半から中頃に行なわれるようで、それまでは、甕棺と土壙墓・木棺墓は対等もしくは土壙墓・木棺墓が優位な地域がある。朝鮮半島を考えるなら、土壙墓・木棺墓(木槨墓を含む)が優位である事は疑いない。特に、糟屋郡から宗像、北九州から遠賀川流域(中・下流域)田川を含めた豊前地域は、基本的に甕棺を受け入れていない。しかし、後進地域とは言えない。嘉穂地域は、中期前半に甕棺が導入されるが、鎌田原でも観察できるが、優位なのは木槨墓か大型木棺墓で、中期中頃から優位性が逆転し、後半から末頃ついには甕棺に変る。その変った時期に立岩の堀田遺跡は形成されるわけで、宗像のように甕棺を受け入れなくとも、勢力を持った集団はあちこちに出現したのが中期前半で、それらがある意味整理された段階が中期後半の王墓といわれる段階と考えれば、甕棺イコール先進地域という福岡中心主義は瓦解すると思うがいかがであろう。
北部九州は甕棺とそれ以外の墓制で成り立っていることを忘れてはならない。