筑豊の縄文・弥生

筑豊の考古学は「立岩遺蹟」「嘉穂地方誌」先史編の2冊に凝縮されている。が、80年代以降の大規模調査成果は如何に。

気になることどもⅢ

2008-10-20 07:43:58 | Weblog
 10月18・19の2日間は、沖出古墳の公開日、春・秋の2回公開です。東京や大阪から来てくれてありがたい。しかし、2日間外にいるのはつらいね。テントを建てるけど日陰が段々動くもので、1日に当たっているようなもの、春も秋も日差しは強い。年齢とともにこれまた、段々と疲れてまいりますね。ちなみに、2日間で167名でした。王塚古墳は、1日1000人を越えるそうです。

 10月20日月 だるい一日のスタート、今日は前から気になっていた田川の川崎町の現場に見学に行く。情報で10cmに及ぶ茶褐色チャートのナイフ形石器というふれこみと大きな原石の茶褐色チャートも出土しているらしい。電話で、それはナイフでなく剥片尖頭器じゃないかとつげるものの現物を見ていない。そこで、現地に赴いた。当初から旧石器とふんで、いったい筑豊の旧石器の遺跡はどんな地形にあるのか、それが知りたいというのが目的である。
 車で木城川をさかのぼり狭い谷をのぼると現場が見えた。遺跡の主体は、狭い谷に延びる細い丘陵の脇で丘陵あるいは1度は水底でのたい積をへているようである。まず、原石との情報を受けたものは、珪化木であった。おそらく、石器の原材にはなってないと思われる。次に、ナイフと称された品物は縦長のフレークで稜線は1本、半分に自然面が残る断面三角形のしろもので、打面調整の剥離痕が数ヶ所に見られる。やや幅広のフレークで、両側は平行せずやや波打つ感じである。単独出土で旧石器かどうかの判断は出来ないが、石材は見た感じ硬質頁岩か珪質頁岩というもので、山形県あたりの石器に入れると区別がつかないようなものである。
 このような石材で見事な石刃状のフレークをつくる時期はと考えると、剥片尖頭器の時期か縄文後期、なんともわからない。しかし、そのような大形のフレークを剥がすにはそれなりのコアが必要であるから、大分の岩戸とか比べるといいのかもしれない。
 まずは杉原君の出番をまとう。それと、上流に洞窟があるようでそのほうが、私の興味をひいてしまった。
 フレークの出土した場所は、マサの地山の上に20~30センチの砂層(マサ土)のたい積があり、ところどころに粘土層が混じっていて、その中にあったようだ、遺構群が明確ではなく、剥片やチップの存在も確認できないところから、付近から流れ込んだ可能性もあるが、非常に鋭利でローリングはないようである。
 条痕文の縄文土器が点々と出土していて、やや厚手、全体を見たいものだが、轟あたりと踏んでいるようである。つけたりで、石英の石器みたいなものが数点ある。偶然かも知れないが石器だったら面白い。出土層は上層でせいぜい縄文かな。これも、杉原君にたずねたいものである。
 例のフレークの話に戻るが、出土地点は狭小な谷の低地に相当し、花崗岩風化土(マサ)の基盤の上にたい積した、河川堆積物中でざっと見たところ遺物はなく単独出土のようである。しかし、所々に礫群のたい積箇所と粘土がたい積した箇所が在り、それらを見極める必要があろう。ただし、それの中にチップすら見出せていないのは苦しい。
 以前から気になる縄文早期以前の遺跡立地の問題であるが、今回は狭小な谷に長く延びる丘陵の斜面につくられた段丘状の部分で、谷頭に相当しようか。
 驚いたのは、弥生後期末あたりの竪穴住居があることで、久々にこの時期の遺構を見る。こんな山間の中にもとの思いが巡る。

 ようやく、杉原君と連絡が取れる。川崎町の石刃状のフレークについて観察結果を報告する。いずれにしても現物にあたらないと何ともいえないが、石材という点では、豊前から豊後あたりからのものかもしれないし、ひょっとすると古い可能性もあるかもということで話が終了。それにしても、洞窟が気になる。土曜あたりに行ってみようか、子どもが遊び場にしていたらしい。
 
 土曜がきた。行ってみるか。早速、パンを2個購入し現地に12時前に到着する。石器が出た付近を何度と歩き回り剥片やチップを丹念に探す。再度、例の石器を見せてもらい、ルーペでなめるように観察、打点付近には調整痕があり明らかに意図した剥離で、パンチ痕のような微細な剥離がある。さて、前回「ナイフと称された品物は縦長のフレークで稜線は1本、半分に自然面が残る断面三角形のしろもので、打面調整の剥離痕が数ヶ所に見られる。やや幅広のフレークで、両側は平行せずやや波打つ感じである。単独出土で旧石器かどうかの判断は出来ないが、石材は見た感じ硬質頁岩か珪質頁岩というもので、山形県あたりの石器に入れると区別がつかないようなものである。」と書いたが、今回の観察でも石材は茶色の硬質か珪質の頁岩で、稜線が中央にあり、両側縁はほぼ平行で、末端がやや尖っている。基部から末端まで何度となく2次加工痕を探すがないようである。また、表面の反面近くがザラザラした感じで自然面と考えたが、主要剥離面にもあって真裏の位置に在ることから、石材の摂理や質的な部分と判明。少なくとも10センチ以上の長さのコアがあり、2回にわたって10センチ程度のものを剥いだ後に、稜線の中央上面にパンチをあて意図して美しい剥片、石刃といったほうがよいだろうが、このものを見事に打ち剥いでいる。周囲に同じ石材が全くないことから、素材として搬入された節がある。さらに、丘陵脇の1段高い部分からは、アカホヤがブロック状に入っており、条痕文の土器が出ている。さらに、アカホヤが混じったような黄色みの土が出てきており、早期と思われる土器片がある。
 石刃が出た部分の廃土をさがしまわり、サヌカイト・黒曜石(腰岳)、黒曜石(姫島)のチップを採集する。縄文土器出土層から出ており、おそらく、早期や前期に伴うものであろう。頁岩系の剥片は全く見ない。
 夕方になりついに杉原氏の到着である。観察結果は私とほぼ同意見、石材に関しては大平村あたりに見当をつけているようである。縄文早期に伴うものであれだけの技法を駆使した美しい石刃があるか、縄文に伴うものはサヌカイト・黒曜石(腰岳)、黒曜石(姫島)のチップで定番商品、だとすれば単独出土で砂礫層の上面ということもあって明確な層位が分からないが、可能性としてAT以前の古式な石刃ではないかと来た。おもろうなってきたでー。実は、アカホヤの下に角礫の入った層があり、その上に赤味を帯びた黄色い層が薄くのっている。そのあたりがあやしいのだ、実は、石刃が出た付近にも黄色い層がわずかにのっていて、これが鍵になりそうだ。いずれにしても、2万5千年以上の古い石器の可能性があり、何とか突きとめてもらいたい、神様・仏様である。
 
 10月29日 県の研修で福岡にやってきた。そこで、吉留さんに硬質頁岩のような石材があるか確認すると、いわゆる流紋岩の変成を受けたやつで、ホルンヘルスだという情報を得る。大野川と五ヶ瀬川上流に存在し上部の礫層中に多く含まれ、AT以前の石刃やそれを加工した石器の石材として利用され、日田や旧宝珠山で採集しており、川崎に入っている事は考えられる。しかも、製品として加工されたものが入るようで、その石材を加工したりするのは見られないという。まさに、ぴったりで、おそるべし。問題は、それにどのような石器が伴うものなのかを知る必要がある。今のままでは迷子の石刃である。

 再び杉原君と電話で話す。要は時期の問題であるが、可能性としてAT以前の古式のもの、あるいは、旧石器の終末頃の二通りが考えられるため、調べる時間が欲しいとのことであった。層位の確認が出来ない以上仕方ないこと、しかも、1点のみの出土とくれば困難きわまりないことである。よい点は古式の石器の可能性のあるものが、嘉麻市の山田近くから出土していることで、搬入ルートの推定が可能となってきている。山田の熊ヶ畑地区や上山田あたりは、全く未知の世界であり、表際を行なう必要がある。もう一つは、粕屋方面からのルートで、八木山から飯塚・穂波あたりも再調査する必要がある。なかなか、休みが取れず採集にいけないのが残念であり、年齢的に集中力が持続しないこと、腰痛、老眼と苦難の連続であるが、何とかして、旧石器の遺跡と洞窟や岩陰遺跡を探すことが今の希望である。
 笠置山の資料については、嶋田さんに見てもらったが、なかなか判断がつかないということで、藤田先生、嶋田さんはじめ仲間内で現地調査を試みるつもりである。嶋田さんによれば、飯塚側にも輝緑凝灰岩が採集できる場所があり、笠置山周囲に何ヶ所か点在する可能性もあるかもしれないということである。これも、楽しみの一つである。

 10月1日に岩宿文化賞の授与があったそうだか、なんと、諏訪間 順が取ったそうだ、要ではない諏訪間大明神である。足柄山の山中にこもること18年、旧石器に憧れ、地層から引き抜いた剥片を大事に持っていた彼は、相模野という10mにも及ぶ関東ローム層の立川層に挑むこと27年、積み上げた石は崩れることなく山をなした。もう一人仲間に香川県善通寺市の笹川がいる。横穴式石室の石材に掘り込まれた線刻文様を20年以上追い続けて、モガリ屋に到達した彼の記事が新聞の全国版に掲載された。諏訪間、笹川ともに学生時代を過ごした仲間である。みんな卒論で苦労したし、青海苔に醤油をかけ酒のつまみにしていたあの頃を思い出す。その店は、河川の再開発でなくなった。

 豊前國風土記曰 田河郡 鹿春郷在郡東北 此郷之中有河 年魚在之
其源従郡東北杉坂山出 直指正西流下 湊會眞漏川焉
此河瀬清浄 因號清河原村 今謂鹿春郷訛也
昔者 新羅國神 自度到來 住此河原 便即 名曰鹿春神
又 郷北有峯 頂有沼周卅六歩許 黄楊樹生 兼有龍骨
第二峯有銅并黄楊龍骨等
第三峯有龍骨。

(逸文 宇佐宮託宣集)
 豊前国風土記の香春岳を示した一文がある。一の岳から三の岳まで全て竜骨が出ると記されている。奈良時代のことではあるがこれは非常に重要なことで、どういう形で出土していたかは不明であるが、鍾乳洞のような中に出る可能性などがあり、調査研究する価値はおおいにありそうである。北京原人の竜骨洞を探し当てたアンダーソン、ブラック博士やワイデンライヒ、また一つ夢がつながり始めた。
 なお、一の岳の西側に絶壁があり、その下に平地がありそうである。秩父の橋立岩陰遺跡が断崖絶壁の下にあり、岩陰となっていたことを思い出す。
 吉田 格先生の関東の石器時代を購入した。絶版らしく手に入らなかった。というより学生時代からチャンスはあったが購入しなかった。実は先生に埼玉で採集した隆起線文土器の破片を見てもらったことがある。その時、石器時代の「橋立岩陰」の抜き刷りをいただいた。もうひとつ、井草と大丸両型式の縄文と撚糸文施文の違いを聞いたら、詳細は江坂君にきいてくれといわれたことを思い出す。

 飯塚市井手ヶ浦の窯跡を見に行って、藤田先生と遠賀川上流域の旧石器の話をしたが、先生も必ずあるんだろうけど何故か見つからないし、今まで出たという話は聞かないが、狭い谷あいの段丘や張り出した地形のところにあるかもしれないと言われていた。旧筑穂と嘉穂両町の穂波・遠賀両河川の上流域で狭小な場所から刺突文土器が出土していることから、あと一歩でとどくんだろうけどと須恵器の話は、その後になってしまった。
 
 香春岳の竜骨から、また、帝釈峡や清龍洞窟、小瀬ヶ沢や室谷の本を引っ張り出してきた。命の旅博物館の図書閲覧室に中国の洞窟遺跡が紹介された本があったが、カラー版で厚い本を思い出している。また、日本洞窟遺跡が復刻されているなら購入も考えよう。
 
 11月16日曇りの天気をついて洞窟遺跡探し、まず、川崎の現場に向う。今日はあんのじょう工事は休みと来ているから、山田の筑紫に抜ける道を歩こうとせっせと車で乗り付けた。一応、石刃が出ているので現場検証を行い断片でも採集できればと、工事で削り取られた場所に近づく。地面は雨でびちゃびちゃ、現場用の靴の底に容赦なく粘土がくっついてくる。しかし、ものはない。やはり、旧石器の住人の生活痕跡はないようである。
 さらに、奥の例の筑紫に抜ける道に近づくが、ここもべちゃべちゃ、再び靴底に粘土が絡む。昔、現場のおばゃんが「神宮皇后さん靴のごとなった」と言っていたが、まさにそんな感じである。さて、ようやく道に到達すると、先は草が生い茂りとてもいけたものではない。
 引き返しながら、また、神宮皇后の靴になってしまった。土をやや落として履き替え車を出していると、前方に長い通行止めのポールで何かを押さえている。一人のおばちゃんが車を止めて盛んに「殺してくださいと」わめいていた。見るとマムシである。つかまえている叔父さんの隣であんちゃんが「上のほうで赤マムシがおったばい」と言っていた。ひょっとすると、筑紫への草むらに入ったらがぶりとやられていたかもしれない。最近はそうそうマムシは見ないのだが、くわばらである。次に、香春岳に向う車で横の道を通るが、中国の桂林のようにそそりたつ岩山になす術がない。確実に案内人がいる。
 そこで、帰る前に田川市の夏吉にある岩屋の鍾乳洞に行ってみようと車を走らせた。以前に行った事があるものの鍾乳洞の位置が分からず引き返していた。
 正面にお宮があり向ってその左に第一洞窟があると説明書にあった。そこで、神社の横から行くと崖面にぽっかりと横穴が開いている。私は鍾乳洞に関心がある訳ではない。その前庭部がどうなっているのか、また、過去の庇部分がどこまでせり出していたか、それと、洞窟の入口の方向である。私はハッとした。おそらく南西か南南西を向いており、前方は平地が広がり眺望がよい。さらに、向って左手は前庭部が過去に存在し、落盤で岩海のように石があるが、明らかに前庭と庇があったと考えられる。しかも水田をぎりぎりまで近づけているため、緩やかに下っていた斜面は全く削り取られ、かなり狭くなっている。また、看板や排水の側溝を埋設する工事も行なわれていて、かなりの部分が削り取られたものと推測する。
 何の事はなかったのである。おそらく、前庭を掘れば遺物は出そうである。洞窟遺跡だと考えるが、岩屋をもっと探れば条件の良い所が必ずあると確信した。まずは、入口前方の水田の持ち主に聞き込みをする必要があろうし、何か過去に出土しているはずであるのだが。長谷川さんを通じて調べてみよう。 今から、夏吉の岩屋がよいがはじまる。
 皆さん楽しみに。
 昨夜調べたら、県指定になっているようで第一洞窟は無理のようである。第七洞窟まであるようなので、それらにもあたる必要があろう。条件の整ったものがあるかどうか疑問ではあるが。

 ※田川石炭博物館の福本君へ、第一鍾乳洞の前庭部付近に看板を建てているし、前の水田は圃場整備か鉱害復旧かは知らないが、整備されているようで、その際に前庭部を削り取っていると思われるが、その時に何か出土したものがないか、地主さんか近所の人たちに是非聞いてくれるようたのみます。また、昔、土器や石器が出たとか骨が出たとか、そんな話がないのか聞いてください。夏吉の石灰岩地帯は洞窟・岩陰遺跡が必ずあると思います。いいフィールドになるでしょう。

 旧碓井の竹生島古墳出土の土器片を杉原君に預けていたので、九歴にとりに行く。ついでに青銅製の金具をもって行って岡寺君をまじえて「なんだろう」と検討するも分からず。刀関係の金具かなということで、松浦君に再度調べてもらった方がという話になる。土器片については、形状や焼成等からかなり古式なものの可能性があるとまではいえるが、小片でありあくまで可能性でしかないという限界である。帰りの受付で西谷先生とお会いする。九歴にいくたびにお会いするのだが、例の金具を見せると、しばらく考えておられたが、おおよそこのようなものではというところで、先生と考えが同じである事は分かったが、詳細は・・・というところで時間がなくなりもどる。
 帰って、土器の実測に断面を入れていたが、どうも、上部が一部かけているものの口縁部に相当するようで、口縁部直下に刺突文あるいは押し引き文が付されているようである。しかも、土師器のような焼成や色調、器壁厚が5~6mmと薄手で繊維が入っている。あくまで可能性としてだが押引文から刺突文あたりの段階で捉えたい。願望がかなり占めているのだが。

 今、竹生島古墳の縄文遺物を書かせてもらっている。石器の実測を久々にやったが、乱視がひどくて全く剥離が見えない。石器をやっている方老眼でお困りではないですか、石器の実測を続けることこれが老眼に打ち勝つこつかもしれません。ふだんは見えないものでも、長年の経験と感で見ることが可能となる。吉留さんや平ノ内さん、もはや、心眼ですね。チャートの石鏃などほとんど見えませんね。いやー寂しいものです。まして、トレースとなると全くだめです。手は震えるし、ただ、口だけは達者になりました。中村孝三郎さんの「越後の石器」に使用されたトレース図が「縄文文化の起源をさぐる」新泉社出版に出てますが、すごいですね。ロットリング以前の職人わざですね。講談社から出版された「古代の追跡」1970を読んでいました。中学生の時に買いましたが、背表紙がなくなりバラバラになりかけたので、ガムテープで張っています。そのうち図書館に行って黒いテープでしっかり止めてもらいます。その中で、小瀬ヶ沢洞窟発見前くらいに、地元の方の家で玉ねぎのさらしたものを食べて美味しかったとありましたが、じつは、このくだりを読んで、中学の時に玉ねぎを薄切りにして、水でさらして食べたことがあります。さらしたりなかったのでしょう、辛くて食べれませんでした。そんな思い出があります。
 藤森さんの「旧石器の狩人」がまたいいですね。学生社のこげ茶の表紙のやつと全集を持っていますが、なんとなく、こげ茶色のハードカバーのやつがいいですね。1000円以内で買えましたから。

 竹生島古墳出土の横長厚手の剥片で、どう見てもフリント製のものが1点ある。チャートかと思ったが、火打石に使用する灰色のどう見てもフリントで、縄文の石器というよりは、火打石の可能性がやや高い。もちろん、近世にお宮を建立し今日に至っているので、火打石が混在しても不思議ではない。むしろ、剥片を粗く加工して長方形状に整え、握りやすくしている点に石器にはないものを見ている。はたしてどうなのか、もし、石器であれば原材料の産出地が問題となろう事は目に見えている。

 また、考古少年回顧録の続きを書き始めた。昔の世界に逃げ込む自分がいる。逃げ込む場所があるからいいのかもしれない。日々くたびれている自分がいるのは確かで、明日からくたびれる場所に戻る。乱視がひどくなりパソコン画面が辛くなる。これがまた仕事で財務会計の画面に食いつくように、夕方には離れた位置で、しかめっ面して見入っている自分がいる。結構くたびれるが、頑張りはしないし無理もしない。不思議なもので、この画面はなんとなく心地よい。時間もなければ内容の制限もない。会計から「訂正お願いします。」という女性の若い声もない。
 行革・都市計画・商工観光など他の部署からの問い合わせもなく、何だか分からない電話もない。そんな世界にいつも逃げ込む。ハリーポッターではないが、魔法の鏡が今見ている画面なのかもしれない。

 12月11日今日は千手川両岸にあるポットホールの地質学的調査に同行。久々に感動を覚える。直方層群(大焼層)の露頭がありそこに江戸時代から知られる甌穴が存在しており、河川工事の際にもその部分は特に注意を払って工事がなされた場所である。筑前国続風土記の附録に記載されており、昔から知られた名勝である。
 今回は、地質学の先生方にその分析を願った次第であるが、第三紀を専門とされる先生の細かな調査、その解説を聞きながら考古学とは異なるアプローチ法を学んだ気分であった。
 第一にその層が河川堆積かそれとも海の堆積かということから始まったわけであるが、一般に直方層群は挟炭層で石炭を産出し淡水から汽水線あたりの堆積と考えられているが、先生方の調査は詳細に及び、まずは、砂岩が花崗岩系であること、さらに、重要な点で甲殻類の巣穴の化石つまり生痕の化石を確認された。これは、水深数十センチの浅く広がる海に生息するなんとかという甲殻類の巣穴で、蜂の巣のように存在するのだが、それと、波の痕跡が残ることなどから海進が起って数百キロに及ぶ浅い海が広がったこと、しかも、短期間に起ったことなどを説明された。
 付近には、炭坑がある事から炭層の上に積もったものであろうことを突き止められた。さて、我々もその生痕化石とやらを観察したのだが、なるほど、巣穴が無数にある。これを目に焼き付けた後上流に移動し、再び地層の観察に入られた。
 状況証拠を丹念に集められている。その一つに地層の構成がほぼ均一な花崗岩系の砂であること、河川では時おり礫が混じるものの、ここの層は比較的均一である。さらに、堆積層がやや波打つように凹凸していること、これは、海で見られるが砂全体が振動したように動いていた証拠で、河川や湖、沼には見られないらしい。しかし、決め手がない。決め手がなければ下流の層との比較による一致点が明確ではない。夕方になり帰る寸前であったが、私が例の甲殻類の巣穴の生痕化石があるのを見つけた。先生は確認するとただちに写真で撮影され、下流と同じ層である事を決定された。この一連の調査は大変勉強になった。是非、見習わなければならない方法である。かなり刺激となったし、久しぶりに面白く時を過ごした感じがして満足した。

 12月14日久しぶりに旧石器探しに出かける。今日は、碓井の美術館西の池から桂川町の狩野の溜池、大分の馬敷の丘陵、久保白ダム付近の溜池を回るが全くない。遺跡の臭いすらしないのである。嘉穂盆地の地形はすり鉢で周囲の土は解析が進行し洪積世の土を全てすり鉢の底にためてしまっているようである。どこに行っても花崗岩の風化土だらけ、これでは先人の痕跡は失われても仕方ないと感じた。
 気を取り直して、田川の夏吉に向った。途中で川崎町と大任町の境あたりに大きく造成している現場がある。先日の地質学の講義で少し第三紀も面白いなと思っていたが、その前に少し立ち寄った時には、かなりの量の砂岩が重機の削岩機によって割られ運び出されており、日曜の休みをねらって見に行ったが、化石もなさそうなのでその場をすぐに離れた。遠くに、地層が見えていたのだが、石炭層が目立っていたのでなんとなく、薄くなった髪ひかれる思い出引きあげた。
 しかし、今回は少し頭が大きくなっている。早速、地層のむき出しになった斜面に近づいていく。今回はまっしぐらに進んでいった。前方ばかり見ていたものだから、久々に右足がぬかるみにはまった。靴はズボッと抜けたが真っ白に土化粧をしていた。池の中を歩くときはかなりきおつけていたのだが、こんな所でわなにはまるとはと思いつつも崖面に向った。