筑豊の縄文・弥生

筑豊の考古学は「立岩遺蹟」「嘉穂地方誌」先史編の2冊に凝縮されている。が、80年代以降の大規模調査成果は如何に。

足元の資料を見直そう。(動向も踏まえて)

2010-10-27 07:52:17 | Weblog
 人気はないけど、続けます。
 
 30日から嘉麻市の美術館内にある碓井郷土館で、嘉麻市の考古遺物を中心に展示会を開催します。アミダ遺跡・鎌田原遺跡・原田遺跡・八王寺遺跡・沖出古墳・かって塚古墳・次郎太郎古墳・白門河床遺跡・東大寺文書レプリカ・宮ノ脇廃寺・益富城などの遺物を少しずつ展示しています。
 筑豊の考古関係も久々に展示というところでしょうか。最近、近代化遺産や炭鉱関連のものに隠れたような状況ですが、ぜひ、ご覧ください。11月28日までやっています。
 
 7/27 ようやく、回顧録を60ページにまとめ、中学編のスタイルで投稿しました。まぁ、採用はされないでしょうが、ブログ紹介は出来ます。
 10月29日に事務局から返事が届きました。「残念ながら」という選考結果のお知らせでした。結果を家族に知らせると、高校生の娘曰く「あれは小説じゃないよ」という有難いお言葉もいただきました。
 ようするに、中学時代の友人達に活字になった思い出をプレゼントしたいという、単純なもので、無料で掲載されるようなものがあればいいのですが。

 とりあえず、ブログに掲載した後に考えることとして、低迷中の「筑豊考古学新書」に掲載します。

 先日、添田町のメノウについてご教示いただいたSさんから、屏山山腹の沢で採集した、チャートの塊を見せてもらいました。茶色と薄いグリーン色が層になっているようなもので、角は摩滅していましたが、古生層が分布する山々に石灰岩とともに存在しているようです。現在、お借りしてルーペで観察してみようと、あれ、ルーペはどこにおいたかな。記憶がなくなる日々が増えています。
 嘉麻市西郷の竹生島古墳調査時に薄い緑色のチャートで作られた抉りの深い古式の石鏃が出土しましたが、原石は馬見・屏・古処山にかけての古生層に求められるかもしれません。

嘉麻市内の旧稲築町に遠賀川と山田川が合流するところから、川下に白門遺跡という、遠賀川の川底遺跡がある。ここは、よく土器が採集される場所で川底に散乱しているらしい。弥生前期初頭のどちらかと言えば夜臼式系統の小型壺(完形)や中期の土器片、後期末の西新式土器表面には、リアルな龍の絵画が付されている。古墳時代の須恵器や土師器、奈良時代であろうか把手付きの甕(完形)など、とても、河川に流れ込んだとは思えないものが拾える。
 この目で確認しないと分からないが、遺跡が川底に眠っているようで、しかも、各時代にわたる興味深い遺跡である。

 川底と言えば、飯塚市内がよく知られているが、白門あたりは、川底に散乱するが、飯塚になると川底から数メートルも埋もれた状態である。つまり、嘉穂盆地の北部と南部を考えるなら、特に低地などの平野部では、北部は浅くて南部は深くなることになる。白門から一本木堰、殿ヶ浦・目尾・鯰田と川底遺跡は続くが、だんだんと川底の深部に埋もれて行く。飯塚市役所でも数メートルの深部から弥生後期中頃の土器が出土していて、北部と南部では違った様相を見せている。

 これらが、徐々に埋もれたか一気に埋もれたかは探らねばならないが、少なくとも、古代までは居住地として利用されていたようである。

 11/15 本日、福大の西さんから手紙をいただきました。それは、長者の隈古墳の調査時に桃崎先生にお渡ししていた、例の扁平片刃石斧の件について調べられたレポートでした。武末先生から「半島製のものかもしれない」として写真のコピーをいただいて今たが、先の七隈史学会のポスターセッションで発表されたそうです。
 その内容に驚きましたが、縄文の後晩期に半島からもたらされた可能性がある石器とのこと、ひょつとして、硯の割れたものかと半信半疑で中学時代に拾ったものが、40年近く過ぎて、ようやく役に立ったかなと言う感じで、嬉しく思っています。
 
 11/20 私の恩師ともいえる大庭(井上)祐弘さんが永眠され、通夜の席でお別れをした。昭和59年4月16日に旧嘉穂町に文化財発掘のため就職、5月の連休明けから発掘調査に入った。全く不慣れな土地で榎町遺跡というとんでもなく難しい発掘調査にいきなりぶつかった。筑豊教育事務所に井上さんが赴任して2年目のことと記憶する。何も分からない私に、少し厳しく、細かく、丁寧に指導していただいた。当然、田川に自分の現場を持っていらしたので、その合間を抜けての指導・助、ある時は、自ら陣頭指揮をされて、遅れがちな現場を進めていただいた。それから、27年のお付き合いになる。
 井上さんとの関係は、「考古少年回顧録の発掘人生」に書き込んでいたが、こんなに早くお別れするとは夢にも思ってなかった。残念で仕方がない。ちょうど2年前くらいであろうか、筑豊の文化財担当者が集まり藤田先生や井上さんにもお越しいただいて酒盛りをやった。井上さんは、課長時代に進行中の九州歴史資料館移転の基礎を築いた。その日は、井上さんがいつになく話の主役をつとろられ、平塚川添遺跡から九州歴史資料館建設までのいきさつを県知事との絡みも含めて話を続けられた。藤田先生はじめ我々は、聞き役に回っていた。
 帰り際に、私に「お前さんの所に必ず行くから、近いうちに飲もうや」と2,3度繰返された。「ぜひ、飲みましょう。何人かに声かけしておきます。」と答えた。いつもの笑顔が見れた。それがお会いした最後であった。

 先日、飯塚歴史資料館を久しぶりに訪れた。嘉穂地域の獅子頭を展示した企画展で、嘉麻市桑野の高木神社に奉納されている獅子頭が展示してあるので見に行ったわけである。一同にならべると色々な頭があるものだと驚くと同時に、獅子頭の様式の変遷が分かると面白いな、なんて勝手に思いながら、樋口さんの案内を受けていた。ぐるりと回りながら、石庖丁の展示ケースに目がいった。ちょうど立岩の見製品等を見たい心境もあって、ケースをのぞくと、中山平次郎先生の報告に掲載されている、第一行程段位の資料を確認して興奮してしまった。70年以上前のものであるが、鮮やかな小豆飴色を手している。輝緑凝灰岩はなぜ色あせないのだろう、2000年前とほとんど同じ状態と思われ、頁岩質砂岩の風化に比べ変化のなさが、素材の特徴としてあって、機能に何かしらプラスされているのかと勝手に想像しながら、樋口さんと石庖丁の話をしながら、全体を見て回った次第である。

 12月5日 天気がよすぎて、ついフラット遠賀川の白門遺跡(稲築)に行ってみた。転倒堰のしたあたりはまだ水があって近寄れないが、その下流には川底が広く現れていた。チャンスとばかりに川床に下りてみると、大まかにこぶし大からやや小さい礫が一面に敷き詰められているような部分と砂や小礫が広がる部分があり、後者が前者より高い位置にあった。つまり、前者は古い川床で新たに上流から運ばれた後者がそれを覆い隠すように積もっていた。早速、得意の表面採集を続けていると、突然、全体の2/3はある弥生前期の甕が目に飛び込んだ。その周りにも数点の大き目の破片が落ちていた。

 「あれー、早速発見か」と思いきや、そのほかにはなかなか見当たらない。発見した甕等を観察すると、けっこうローリングを受けた感じで、割れ口は丸みを帯びて、表面も水流で磨かれた感じであった。1時間ほど川床を観察して回ったが、新しい砂層上に遺物はほとんどなく、多くは、といってもほとんど落ちてはいないが、礫床に存在し、砂層にはほとんど含まれていない。私が今回見つけた土器資料は、弥生前期、後期末、須恵器、土師器で全部一応の磨滅状態であった。

 直感として、上流部からの移動と感じられた。しかし、完形に近い弥生前期土器の存在は、それほど上流ではないことを暗示させた。

 旧稲築町教育委員会の上野君から白門の転倒堰下には、土器が散乱していると聞いたことがある。小学生だか中学生が土器片をどんどん拾って来たとも聞いた。今回は、堰の近くにはいけなかったが、採集資料を見る限りどう見てもローリングの跡はなく、包含層や遺構から出ましたよという顔つきであった。

 先日、稲築の資料室見学に稲築高校郷土部出身の方が来られ、次郎太郎古墳(1号)から埴輪を拾った状況をうかがった。話では一部土取りがはじまり、古墳が壊され始めた。直前に1号墳と思われるが石室の入り口が開いていたので中に入ったらしい。玄室は奥行き2m、幅1.5m、高さ1.2m程度だったらしい。下が埋もれていた可能性はある。しかも、石室内は真っ赤に塗られていたらしく、破壊は既に石室の側面に及んでいたらしく、石室の赤色に塗られた石を外して運び出し、稲築高校に持ち帰ったということだった。

 さらに、口春のかって塚古墳の発掘も行ったようで、出土品の位置などを聞いた。また、稲築高校裏の遠賀川の河床に完形の須恵器がごろごろしていたらしく、それを拾っていた話もうかがった。

 自転車を購入したので、天気のよい日に出かけてみようと思う。

 自転車に乗ること8回、ようやく、慣れてきた感じがする。しかし、まだ地形や地層を観察しながら、遺跡の場所を探す余裕などない。自転車に乗っている時間は1~2時間、足は最初から痛くならずに何とかすごしている。両手ばなし運転などとても怖くてやれない、こぎ続けて休む場合両手ばなしの体勢が取れれば腰が伸びて気持ちいいのだろうがそうは行かない。

 12月29日になり、ようやく休みに入った。昨日、古文化研究会の宇野さんから小田先生喜寿の記念誌が届いた。拙文ながら笠置山麓で採集した輝緑凝灰岩の未製品ならぬ加工痕のある厚手の剥片類を資料紹介させていただいた。

 研究史を触れる際には、下條先生を中心にせざるを得ない状況があり、結局は笠置山を調査していない現実にぶつかり、何とか、今回の紹介きっかけとして広く調査の手が入れば幸いと感じている。

 それにしても、いつもながら宇野さんには何度も校正していただき感謝もうしあげている。何か書くのは調子に乗りやすい性格なので、勢いで書いてしまうのだが、読み返すことが出来ない性分である。なんとかしようとは思うのだが、さてさて、テストも見直したことがないこの性格、年をおうごとにひどくなっているようだ。

 それにしても、心配は今回の資料紹介について全く反応がない場合である。だから、よってたかってのご批判等を楽しみにしています。ほんと、何の反応もないくらい寂しいことはありません。

 1月の8日となりました。久々に自転車に乗り旧稲築高校裏の河原に、須恵器が落ちていないか確認に参りました。しかし、全く落ちておらずカケラすら見つかりません。分布調査図に包蔵地の可能性ありとして記入しようと思いましたが、現状での証拠にかけると言うことで没になるかもしれません。

 1月23日(日)土曜と日曜の2日間、関東でナイフ形石器の議論が活発に行われていることであろう。ナイフ形石器の定義について、最初に提唱した人物・時期・内容ということで、当然、議論が行われたことと想像する。
 考古学雑誌の39巻2号に2つの論考が掲載されている。1953年のことであるが、21~に25ページに杉原壮介「日本における石器文化の階梯について」、26~33ページに芹沢長介・麻生 優「北信・野尻湖底発見の無土器文化」である。
 前者は、「黒曜石で作ったBladeを主体とし、細部加工は保持のために行われる所謂Backed bladeのそれである。従って剥離によって生ずる自然の鋭い縁辺が石器の刃の役をなす。」として、茂呂遺跡のナイフ形石器4点図示し、茂呂文化として岩宿文化と上平文化の間に配置している。
 後者は、野尻湖底出土茂呂形石器として図示した中の14ab~22をA・B・Cに分類し、と茶臼山、杉久保(野尻湖底)とし、茂呂形以外に杉久保形を提唱した。ここでは、Backed bladeは使用せず、Knife bladeとし「縦長のflakeの鋭利な刃部を一部分残して周辺の片面にあらいretouchを加え、先端を尖らせた形態をKnife bladeと呼ぶ。」した。
 以上、二者はいずれもナイフ形石器の定義として認識され、最初のものとして把握される。もう一つ明らかなのは杉原氏のものは、1952年のINQUA連絡紙一号で発表済みということである。
 私見としては、知る限りにおいて前者が最初と考えるが、研究会ではどうなったのか。

 1月27日(金) 先日のことである。分布調査を行っているのだが(老体の私は室内)採集した遺物を見ていたときのこと、明らかに宝珠形つまみの蓋が採集されているではないか、しかも、緑の錆が所々に浮き出ているのだ。これは、経筒の蓋ではないかと大騒ぎ、仏教考古学講座を引っ張り出すやら、インターネットで写真をプリントするやらで、一人騒いでいた。「やかんの蓋なら穴があいているよ」なんてみんなを説得するようにウキウキ気分。
 夢はそこまで、なんと悲しい知らせが、「蓋に穴が開いていました。」えぇー穴が、私は、半信半疑のままにインターネットで、しんちゅうのやかんを探していました。
「身の部分が必ず土中にあって、縁が顔をのぞかせているから、私も現場に行こう。」なんて口にしていた自分が恥ずかしい。勉強不足を知らされた日になった。ちなみに、星座占いは1番だったのに。

 1月最後の土曜日、歯医者でバランスが悪いといい歯を削られました。麻酔の注射をしますが、なにせ酒に強いからだ、30年のキャリアがあるもので、普通の量ではききにくい。その内、あのキーンという音とともに摩擦熱で焦げるような臭い、その内、神経に痛みが、その瞬間、額に汗がじっとり、「イテー」・・・、麻酔の追加だよ。今、痛みがジーンときている。
 そんな事とは別に、頭の中は立岩の石庖丁で一杯になっている。立岩の富をもたらしたものは何なのか、中山平次郎博士以来注目され、石庖丁の生産と分配とがもたらしたとして、近年まで支持されてきた解釈が、コレン レンフリューの資源獲得のモードによる互酬(交換)にあたる話が出ているような、いないような。
 話を遡れば、そもそもが下條さんが1975年考古学研究会の21回総会での研究発表の際に、藤田先生のコメントが石器の分配にもう少し政治色を入れても、という発言があり、対して酒井・春成さんのコメントがあり、最後に近藤先生が、相互扶助は社会的に認められるが、それを超えた政治的関係は認めがたい、つまり、時代がそこまで熟成していないとして、再考を促している。これは、氏の『前方後円墳の研究』でも同じであるが、最後まで貫かれた考えである。
 真実に近いのは、さてさてどちらか。答えは遺跡と遺物が語ってくれるであろう。これこそ、古くて新しい課題である。

 2月に入り、嘉穂地域内の報告書を見直していた。といっても、嘉穂地域外に目を向けれるほどの力もないが、とにかく、集落や墓地から出土した石剣の石材を調べていたら、桂川町の報告書に長谷川さんが報告した、中世の館跡らしき建物群と周囲を画す方形の溝が検出されていたのだが、何気なく見ると細石刃状石器として1点の黒曜石製石器らしきものが記されていた。
 おや、図面と写真を見ると、ますます、細石刃に似ている。早速、長谷川さんに電話して「午後からうかがいますので、見せてください」と、いつも、思いつくと電話して出かけてしまう。即対応してもらえるのがありがたい。
 早速、現物を見せてもらうが、透明度の高い黒曜石で良質である。長さ18㎜、幅4㎜で両側縁がか平行である。打点からバルブは薄く末端がやや厚くなっていてヒンジフラクチャー気味につまる。しかし、肝心の剥離方向が見えない、老眼の悲しさか、そこで、お願いして無理を承知で貸し出してもらい、自宅のルーペで何度も観察した。断面は三角状で厳密には断面頂部が極度に狭い2条の稜線が見える。
 剥離方向は、表裏ともに同じ方向で安心した。透明で剥離がみにくい、光の方向を変えながら観察すると、パティナが光の反射を抑えていることに気づいた。本来ならガラスの欠片の様に輝くのだろうが、表面風化がある程度進んでいるのであろう。

 杉原氏に連絡、状況を伝えるとともに写真をメールで送る準備中、何とか細石刃であってほしいものだ。続きは次回に・・・以上

 2月5日の土曜日、久々に千石峡に出かける。古文化談叢に掲載した輝緑凝灰岩の剥片があるポイントである。なんとか土器を探そうと必死で表採を続けるが落ちていない。沢に下りて両岸の堆積物を探すもなんら得られず。はたして、人の手が加わったものかと疑心暗鬼にかられる。
 その内、猪があたりかまわず掘り返している所を探すと、30㎝下くらいに厚手の石庖丁形の剥片が埋もれているのを確認、別の場所では、片岩か粘板岩、頁岩なのか分からないが、板状の小さな剥片らしきものを発見して採集した。ここでは、はじめて見る。
 なお、河川両岸の堆積は、1.7mほど確認できるが、河川の氾濫した堆積物が交互に堆積している状況が見てとれ、礫に混じって剥片状の物が混じる。
 最後に、30㎝ほどの輝緑凝灰岩の石核みたいなものと薄く剥離された剥片を採集する。両者は石核と剥片の関係にありそうで持ち帰り、洗浄した。

 2月10日(木)ついに、来ました。念願であった嘉穂地域での旧石器の出土。まだ、確実ではないが、細石刃の可能性が高まった。
 先日、紹介した桂川町の細石刃状石器として長谷川さんが報告した例のものです。九州歴史資料館の杉原君に打診していたのですが、本日、知らせが入りまして、どうも、細石刃らしいとのこと。これでいよいよ嘉穂地域でも、腰をすえて旧石器の探求に乗り出せます。
 田川の香春町で縄文早期前半期の土器の分布から推定した内容とは異なりますが、最初の1歩が踏み出せたようです。まだ、分かりませんという一言を付け加えます。
 
 「それでも、足りないよ願いは、まだまだ、叫びたいよ想いは」AIのStillより。




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