13歳ではじめた考古学、気が付くと40年になる。芸能人なら40周年記念というところか、もちろん、リサイタルなんてものには縁がない。しかし、自分の中で何かが変化した。それは、両親の寿命を基本として逆算の人生を辿りはじめた、それほど長くはない。しかし、進む道だけははっきり見えている。後ろを振り返るとスタートラインがかすかに見える。中学1年の冬「石器時代の日本」芹沢長介著を天神の本屋で購入した。2年の秋になり、秋雨の中蒲田池で初めて石器を拾った。つまり、はじまりは雨である。
膨らむ夢と現実
憧れは大学の先生、「日本の考古学」の著者紹介の欄に連なる著名な先生方、それぞれの紹介の中に出身大学が記されている。中学生の身には「へぇ、この大学に入ると大学の先生になれるのか」との思いが先走る。やがて思いは風船のようにふくらむのだ。「おまえ、勉強しないとそんな大学に行けるはずはない」と何度もくり返す両親の声は、両耳を素通りしていく。「まずは高校に受かることだろう」という現実の声に振り向きもせずひたすら物集めをくり返した。現実が見えない。というか、高校受験から逃避していたと言ったほうがピッタリくる。
現実は、成績の下降に過ぎなかった。というのも、自分の中で高校という過程が抜け落ちていたのだ。膨らむ夢は現実をおびてきて、いつしか、自分の将来の位置が決定したように感じ始めていた。
来る日も来る日も、学校から帰ると友人たちと石器拾いに出かける。当然、誰もいない場合は1人で向かうことになる。そんな時、一番多く通ったのが蒲田池で、山々に囲まれた静かな場所、周囲から見られることはほとんどない。そんな環境に加え、周囲の山々に赤松の大木が何本も自生していて、他の池とは雰囲気が違っていた。それに、近くのパルプ工場から香ってくるチップの、なんとも言えない心地よい臭いが好きだった。夕暮れに1人水面に映る周囲の木々の姿を追う。そろそろ帰る時間が近づく。前回より随分と低くなった水面に並ぶ小さな波紋、小魚の仕業であろうか、秋も深まりさすがに夕暮れともなると底冷えが体を包む。依然として米松であろうか、心地よい香りが漂っている。
石器拾いは、夕日が赤く染まり、自分の影が細長く伸び始めると限界である。さすがの黒曜石の漆黒色も、何やら赤味をおびて周囲の赤土色に重なる。ビニール袋に入った数点の獲物が、ズボンを少し膨らませている。これが、何もなくても満足感だけはあるのだ。受験勉強から逃げおうせた解放感であろう。所詮一時でも現実から逃れた気持ちはなんとも言えない。清々しさと表現すれば何か変であろうか。
薄暗くなり始めた帰り道を、自転車のスピードを上げながら急ぐ。池を離れ和田の村中を通り、神社脇の購買店あたりから現実が頭をもたげる。帰宅すれば何やらかにやらとうるさく言われることは毎度のこと。しかし、いわれるほどに反発するのが通常か。
学校で担任教師がおいでおいでをすると、「お前ちょっと座れ」と1対1の面談。「お前勉強しようとや」「いえ、しよりません。」「なんや、お前は進みたい道があろうが、それには最初に高校受験があるとぜ」「お前途中が抜けとろうが」こんな会話の繰り返し、3年になり担任がかわっても引継ぎがなされていたのか、相変わらず同じことをいわれる。
私はそういわれると、逆に走り出す。ますます、表採にのめり込む始末。その分野においては、オンリーワンとなる。それが心地よく思考はマヒしてしまう。両親と自分との間に考えの違いが幅広い溝となって横たわる。「勉強せずとも成績が良ければ」という考えから、わざとせずにその考えを押し通せばカッコいいかな。そんな考えが頭を支配する。
池畔で1人採集しながら、将来の姿を想像する。秋風・松の香り・野鳥のさえずり環境は整っている。緩やかに傾斜した赤土まじりの土が乾燥して、細かな粉になって、私の足跡を残す。チラリとのぞく黒曜石の角に思わず駆け寄り、周囲を探す。意外と何個か固まっている場合がある。そのうち、最初の獲物がわからなくなってしまったりして、最初に見つけた場所にもどって同じ視線で眺める。「あった」ホッとしてそれをポケットに入れる。
将来の姿が浮かぶ、まるで白日夢である。そんな心地よさから抜け出せるはずもない。脳の中に麻薬のような物質ができるのだろう。勉強には決してそんな面はないのだ。どちらを優先するか自ずとわかる。つまり、楽で面白い方へと流れていくのだ。当然であろう。鉄の心は持ってはいない。
「楽あれば苦あり」昔の人たちはたいしたものだ。その通りの結果になった。父母は随分迷惑をかけた。それでもなんとか高校に通い、再び石器拾いの日々を送る。親はすでにあきらめていた。私の現実逃避は続いた。
大学に引っかかった。なんとか専門分野に入れ、これから思う存分考古学をやれる。と思ったが、2年間の教養課程だと、専門分野はしばらくさようならだな。それより、考古学研究会に入部した。体格のせいか、色々体育会系に誘われたが断り続け、やっと叩いた研究会の入り口のドア。思い切って「入部したいのですが」と丁寧に物申す。
その頃、私は委託寮という名前は寮だが、一見すると養鶏場の鶏舎に見えた。入寮翌日から正座のしごきが始まる。挨拶の仕方から清掃、ふろ掃除、電話のとり方から放送での呼び出し。悪夢だ。2週間続いた。そこで学んだものは、体育会系からの入部の誘いには、丁寧かつ真剣に対応してお断りするよう。間違っても部室や道場に行かないように。
その教えから、考古学研究会入部に際しても、つい、「自分は」という軍隊言葉とでも言おうか、その口調が抜けなかった。「うちはそのような言葉遣いはいらないから、普通に話してくれればいいよ」「それに、学問を行うにあたって先輩後輩はないから」あたりを見回すと、黒ヘルに機動隊からうばったというカシの長い警棒があった。
「なんやここは」??? 部室の隅に新聞かな?「プロレタリア考古」・・・日本考古学協会で会長を缶詰にした協会解体がどうのこうの、おや、この写真にのっている会長は、たしか、すごい時代があったようだ。
昭和57年3月大学を卒業した。卒論は「東北地方南部の古墳について」評価は良、指導教授はこう言った。「ようやく、問題点が出てきたようだね、ところで、就職はどうするの、考古学の道に進むのかね」「いえ、就職は決まっていますので、二度と考古学の方にはもどらないでしょう。」そんな会話をしたように覚えている。
私が古墳を選んだ理由とは、とんでもないものであった。大学の1・2年次まで旧石器研究の道を望んでいた。しかし、「英語と第二外国語に堪能でないと将来はない。」との話が私を悩ませた。私がお世話になっていた県教委の方は、ひたすら縄文研究を勧めてくれた。私は、元来、天邪鬼らしい。もっとも、その方の推薦で東大の赤門をくぐり、旧石器の大家にお会いした。旧石器で卒論を書くと豪語していたからだ。3年から旧石器の道を断念したとは、さすがに言えなかったのだ。
一時期、地域を限定して縄文の遺跡群の動態を明らかにしたいと考え、山形県の高畠を中心とした地域を考えたことがある。しかし、当時は遺跡が点在するがいずれも採集資料であった。次に、縄文草創期のことを考えたが、いずれも、土器型式が引っかかった。当時、縄文土器研究は果てしないとも思える型式細分を続け、それがいつまで続くのかという藤森の問いに、「そこに山がある限り」ではないが、佐原の回答がある。もちろん、集落等をとりあげ縄文社会の研究に進む研究も多かったが、主流は型式細分であった気がする。
しかし、考古学上何をするにも、型式を抜きにした方法は考えられなかった。遺構の切り合いと炉石の抜き取り例から、各住居の同時期数を明確にして行く方法など、土器型式に頼らないやり方も試みられたが、現実には、土器型式の順序と齟齬をきたしたらしい。そのように、型式とは、必要不可欠であった。
以上は、とりとめもなく過去の回想録、考古少年回顧録のダイジェスト版であった。しかし、10月2日の日曜日、私は何十年ぶりに蒲田池の鬼ヶ鼻に立つことができた。「はじまりは雨」のあの蒲田池である。すっかり様子は変わってしまったが、初心に帰ることができた。もちろん自転車で行ったのである。
そこで思ったことは、このブログを回顧録にしてはいけない。前に進むべく今からの体験日記をつづることにしよう。蒲田池の雰囲気が、懐かしさが、私を再びフィールドに戻してくれた。・・・感謝
何十年ぶりの鬼ヶ鼻は様相が一変していた。ようやく見えている所は、土が残っておらずすべて軟らかな挟炭層ばかりになっていた。長年に渡るさざ波はすっかり土を取り去り、基盤層をむき出しにしていたのだ。昔の小さな松は私の背丈以上となり、鬼ケ鼻の鼻筋にそってわずかに土層が残っているだけで、先端部は植物もなく、岩盤がむき出している。黒曜石が拾えない。土さえ残っていれば、どこかに残っているのだが、おそらく、多くの剥片が池の深みに流れ落ちていったのだろう。
それでも、石鏃の脚部片と黒曜石のチップを拾った。それも、メガネをかけかがみこんでやっと拾ったのだ。何度も石炭を拾っては棄て、木の葉を黒曜石に間違える始末、情けない。これほど力が衰えているとは思わなかった。そんな悔み事を呟きながら、水鳥の糞の間を歩き回ると、なんと、土器片を発見した。蒲田池で過去に手に入れた土器片は3点、2点は時期不明、もう1点は条痕文土器である。今回ものは表面の磨滅が著しく型式は不明だが、早期以前の臭いがする。ここは、草創期のマイクロリスが拾えるところで、なんとか、土器がほしい。できれば、隆起線文か多縄文、無理かな、しかし、早期の撚糸文や縄文につながるのだが。なんて一人で考えながら、しばらく地面とにらめっこ。すると、1点の土器片を発見、一瞬、これは古いぞ、しかし、表面はすり減り何もわからない。しかし、口縁部片らしきもので、細かい波状口縁を示すようで、表面にウッスラと押捺したような縄目が・・・うーん、見えるような。また、条痕文のようなラインも見えるような、なんとも分からない。色調は灰褐色、胎土は、一定の細かな石英や長石といった粒が多く、しかも、一定量が全体に見受けられる。混和材が多く、しかも丁寧にこねることにより全体に混和材が行きわたったようである。
続いて、お決まりの久山町高橋池に向かう。1年ぶりに池畔に立つと、懐かしいヒッツキボウが一面にたわわに実るていうのか、ふと笑ってしまった。よく、この小さな栗のイガのようなものを手元に集めては、誰かの服やズボンに投げつけていた。今は投げつける仲間はいないが、とにかく、下を向いて拾い始めた。相変わらずの珪化木の砂漠のようだ。その間に、メノウや水晶などが落ちている。その時、後ろからヘルメットをかぶりヤッケを着用した人物が、1本のスティックをもって近づいてくる。散歩かな、釣り人には釣り人には見えないが、なんて思っていると、「石器か何かをお探しですか」と声をかけられた。「えぇ」、考古学をやり始めて40年、かつてこのような質問を受けたことは皆無である。「ここが遺跡だとご存知ですか」と尋ねてみた。これも初めてである。まず「はい」という返事はないだろうと思っていると、なんとイエスである。この人はひょっとして、福岡考古などで名前を見る松尾さんかなと思って、しばらく会話をしていると、私の名前はご存じのようであった。しばらく、旧石器の採集話に花が咲いた。遅れてしまったが名前を尋ねるとやはり松尾さんだった。
特に、久山の首羅山遺跡の件が話題になった。というのも、中学生のころ高橋池の奥のあたりで、鉄滓か銅滓の山を踏みしめた記憶があった。松尾さんは、そのあたりの情報が詳しく、近代まで採掘していたらしい。問題は、上限である。高橋池奥の山が古代や中世から鉱山としての機能を果たしているとすれば、工人集団が存在し、それに関与するあらゆる人々の居住が考慮されよう。首羅山が博多商人との関係云々といわれるそうだが、足元のハイテク産業との関連、当然、古ければ渡来人の関与も考えられる。例えば英彦山と山麓の金属鋳造関連遺跡、寺院、香春岳など要因は様々、添田の庄原遺跡は、青銅のヤリガンナ鋳型に注目が集まったが、鉄斧等の鋳造がすごい。もちろん、無文系土器の出土もありなかなかいい感じである。最近、土器を見直すと前期から中期初頭である。かなり早い時期に金属の鋳造がなされたなと感じている。ぜひ、再整理作業をお願いしたい。
話しを戻すと、基本として金属鋳造にかかわる集団が存在し、それと、首羅山の山岳宗教との関連がどうかという話である。松尾さんは、銅滓を採集した畑で須恵器を拾ったそうだ。また、首羅山の麓からタタラ関連の遺構も検出されたという。高橋池から東を見ると首羅山の山頂が見える。
2人は30~40分ほど立ち話をし結局何も拾わずに別れた。40年に1回の確率で採集者と出会うわけだから、次は、93歳の80週年記念に会うのか。うーん。
自転車で走り回る。新大間池を左に見て、あの池畔から汲田式甕棺がいくつか出土したのか、あの土取りされた丘陵は、高校の2年までは存在した。前方後円墳のイメージから中村君を連れて中学の頃見に行ったことがある。その時、ハゼの木にふれかぶれたことを覚えている。同時に、前方後円墳ではないことを痛感した。しかし、水が引くと周囲で須恵器が拾えた。その後、ことさらに、この場所を訪れることはなかった。
高校になりあいもかわらず自転車で通っていた時、この丘陵に重機の道を発見した。早速、削られた道を登ると、弥生前期の土器の欠片を拾った。今でも持っているが、壺の肩部と甕の口縁で、前者は一段高くなった肩部に無軸の羽状文が施してある。板付Ⅱ式の壺、そして、甕は如意形口縁のもので両者に矛盾はない。しかし、重機の道は、土取りの前触れ、やがて、丘はすべてなくなりかけた。当時、粕屋町に担当者はいない。当時、須惠町の藤口さんに連絡し現地を見てもらうが、行政地が違う。そして、全て終了。途中で高校の考古学クラブで少し掘った。岡崎先生の娘さんの靖子氏も一緒だった。
やがて、丘陵はなくなった。土坑や竪穴住居、土器棺もあった。だが、何より、博多女子高のグランドとなった、とんでもない遺跡の隣接地である。何とも口惜しい。古大間池の破壊が脳裏をよぎる。今でも鮮明に覚えている重機を風が過ぎ、鳴き声をあげる。これを読む人、読み続ける人には解るだろうか、遺跡が潰されるとき、置き去りにされている重機が後悔の念を込めて「うおーん」と泣き声を上げる。機械は先祖の営みの痕跡を壊したくはない。しかし、子孫は何も感じることなく破壊する。鳴き声が聞こえない。機械は泣く。人は何も感じない。何の恐れもなく、平気で「しらんかった」と行政職員が言い放つ。今でも、文化財は内部の敵らしい。機械の泣き声を耳にしない、耳にできない大多数の人間である。私は少数派、換言すれば診療内科の患者にすぎない。病院通いも5年目になる。
岡崎靖子さんは、元気かな。高校卒業以来あってはいない。当然、苗字は変わって、佐賀の陶磁器博物館の学芸員とご結婚されたそうである。岡崎先生は私が原田遺跡を発掘調査し、その年の暮れに開催した文化財展に、ご夫婦でお越しくださった。ご不自由なお体で階段を登られ、展示品の一つ一つを丁寧にご覧いただいた。正直うれしかった、高校生1年の頃研究室にお邪魔し、大学4年の考古学協会の時には、階段を降りられる先生を追いかけて名刺を頂戴した。大学の中庭で、岡崎・乙益・森の3巨人が椅子に腰をおろされご歓談されていた。その記憶は今でも鮮明である。その写真が森貞次郎先生の記念論集か何かに使われていた。その写真と同じ光景が、脳裏に焼き付いている。
新大間池に突き出た丘陵はすっかり削られてしまい、池の周囲にかろうじて姿を残すが、そこから近年甕棺墓が発掘調査され、報告書が刊行されている。私は何十年ぶりに訪れ調査の終わった発掘地を注意深く歩き回っていた。赤土の中に石英片が多く含まれているからである。もちろん、かなり離れた丘陵から以前石英製の石器かと思われる剥片を拾っていた。自然礫と後にかったが、どうにもあきらめられずに赤土の断面を観察していた。しかし、露出する礫に人工的な加工は見られなかった。それよりかなり深く重機で削られた断面に、過去に大きな穴でもあいていたのかといった跡が見えた。赤土層が深くえぐられ、その上に礫層がのっていた。「隕石孔なら」なんて想像しながら帰ったが、調査された甕棺が汲田式と古式のもので、嘉穂地域の彼岸原にあるスダレ遺跡で出土した汲田式は、ひよっとして粕屋から八木山を越えて入ってきた可能性が出てきた。かつては、穂波川沿いに上穂波地域から入ってきたと考えたが、八木山越えを考える必要があろう。
11月4日(金)今日は昼から代休をとり、九州国立博物館に向かった。途中、当然ながら旧筑穂町のトリバミ池の横を通過する。この池は嘉穂地方史の先史編で縄文遺跡としてとりあげられ、曾畑式土器と石匙、石鏃、スクレーパーが採集されている。ここは、開析谷の最奥に位置していて縄文以前の遺跡立地としては文句のないほどいい場所である。娘の大学への送迎もあって週に1度は通るのだが、まぁここ何年も水が引いたところを見たことはない。ところが、なんとこの日は水がすっからかんになっていた。一気に血が逆流した。すぐにでも車を止めて採集に向かうところをぐっと我慢、急いては事をなんとかで「大人になったなぁ俺も」なんて思いつつ、実は大宰府に急いでいた。
心はむしろ九国博の「旧石器展示」であり、福井洞窟15層出土石器実見にあった。前段に杉原君に立岩の昭和20年代採集遺物にサヌカイト製の尖頭器があることを確認、嶋田さんに告げるとすでに気づかれていたようで、先に発見された局部磨製石斧と何らかの関係がありそうだと意見は一致した。実は、局部磨製石斧については、立岩とだけあって出土地点が不明なことから紛れ込んだとも考えられ、縄文以前の遺物が拾えない丘陵から採集されたとは正直考えられなかった。しかし、尖頭器の下にはラベルがあり詳細な地点がわかりそうで、尖頭器と局部磨製石斧がセットにでもなればすごいぞと、電話連絡していた。その中で、福井15層が話題になり、是非、見たほうがいいとアドバイスを受け、そのことが私を急がせていた。
話は旧石器展からはじめるが、見た瞬間「大きい、やはり、ハンドアックスでいいんじゃないか」風化面は茶色に変色している。黒色から白色が混じり青灰色、このあたりが縄文後晩期、早期あたりは白色が強くなり若干茶色がのってくる。さらに、旧石器になると和白の三稜尖頭器のように茶色が強くなる。しかし、福井15層のスクレーパもしくはハンドアックスがかは知らないが、茶色に変色している。いかにも古そうで、あんな感じの色調はそうそう見れない。
次に目についたのが尖頭器、「えっ、この尖頭器は伴出するのが問題視されたものか、剥離がよく見えないが整っているようである。おおふりの尖頭器、断面をのぞくとけっこう厚い、「ひょっとしてハンドアックスの先端かな」なんて勝手に想像し、下に並んだ厚手の剥片を見る。やはり厚みがあって大きい、しかし、色調がうすい。何と表現したらいいのか、なんだか時期が違うような感じがした。福井洞窟を見学した際にトレンチが残されているが、あの狭いスペースでよく、あれだけの成果がと感心することしきり、20年以上前かな、それにしても並べてみると色の違いが気になりましたね。
次に気になったのが沈目遺跡の鋸歯状石器・・・・何だか韓国のハンドアックスを思い出しましたね。ひょっとしてハンドアックスのつくりかけで右側上部が破損したのか、中途で廃棄したかも、そんなのありで、福井15層のものも何だかそんな感じで製品なのか、剥片2点も出土していてその可能性は否定できません。観察すると、不定型な大型の剥片を整形し、特に左側縁の上部に調整剥離を施している。問題は、その上部に突起状に残る部分がそのまま残っていて使用しにくい感じがしました。未成品じゃないかなぁ
私の心は、旧石器展に触発されすでにトリバミ池に向かっていた。何しろ雨が降りそうで異様に暖かい。この期を逃すといつ池にはいれるのかわからない。旧石器を採集できるのはこの池と密かに自信を持っていた。何せ刺突文土器までが確認されている地域である。九国博をあとに急いで池に向かう。池につくと何と自動車が池の真ん中に捨ててあった。これが筑豊か・・・死体・・・なさそう。急いで池畔を歩く、狙うは奥の平たん地、しかし、何も拾えない。まったくのスカである。このままでは帰れない。骨片は拾ったが、すぐに捨てる。何にもないし、くもり空はいつ雨になるのか、粘りに粘ったが石屑の一つも拾えない。「帰るか。飲み事もあるし、福井15層は見たし」酒飲みムードに切り替える。
帰りに、丘陵の断面に入り込む変な層を確認、それを見ながら歩いていると須恵器が斜面に貼りついている。「えぇ須恵器、しかも、奈良かい」と自分に突っ込んだ。結構斜面に落ちているではないか、ここは、大宰府官道の近く、これ結構いけるかもとの思いから、拾ってしまいました。日曜に西谷先生の講演があるが、飯塚に持っていて奈良の遺跡ポイントとして確認してもらおう。地図を確認するとその位置から北上すると、大分の鶯塚(古墳)から大分廃寺に向かう事になるが、道が必ずしも平地を通行するとは限らない。山際の谷筋を通ることも十分考えられる。
そうそう、奈良の遺物が急斜面に貼りつくように点在する所は、幅10mくらい、高さ2m以上の落ち込みが観察できる。斜行する第三紀層に掘り込まれ、埋土は霜降り状で赤土と灰白色の粘質土が詰まっていて1色のみ、直接埋土に須恵器が含まれている状況は発見できなかった。何の落ち込みかわからないが調査の必要はあろう。案外、官道の切通しの断面かもね。ちょっと違うかな。
久々に自転車に乗り遺物採集に、車に自転車をのせてとりあえずハローデーにビン・缶・ペットボトルを分別して捨ててから、ロト6を購入し中に入って昼食のパンと水を買ってから旧穂波公民館に自転車を置いてからと思うと、何かのイベントがあっている。「これはまずい」急きょ王塚古墳館へ、そこから自転車で大分廃寺から鶯塚へ、鶯塚は古墳ではなさそうで独立丘の岩盤むき出しタイプと考えられる。形状は円墳だが、地表に露出する岩は河川流路にできるような凹凸のあるもので、雨水や風化も原因か、天明年間の亀井南明?(めいの字がわからない)と思われる人物の碑文あり。一里塚かな、とにかく塚には間違いないようである。人工的な整形も見られ信仰の対象にもなっている。
そこから、トリバミ池に向かう。池はまだ水が引いているので、是非、見てほしいのは堤防の奥に接する丘陵断面にきれいに落ち込みが観察される。米山越えの道から見ると、第三紀層にきれいに掘り込まれた大きな落ち込みが見える。色調はピンク、赤土と白い土が混じっているのだろう。土色は近くで見ても1色、遺物はない。休憩場がありパンを食べ再び戻るが、古代官道に関連する何らかの遺跡があるのか興味は尽きない。灰釉陶器の道ではないが、点をつなぎ合わせていくことが重要であろう。
11/16 また、トリバミ池に行く。「おまはんもすっきやのー」と言われそうだが、どうにも落ち込みが気になりデジカメ片手に日が暮れかかった池に到着。さすがに、誰もいない。相変わらず乗用車が不気味に出迎えてくれるが、釣り人がいないことは拾いやにはとてもいい環境だ。すでに、日陰になっているが落ち込みは見える。先ずは遠景を撮影、続いて近景である。やはり、幅は広い広すぎる。土は見えるが土器は見えない。つまり、薄暗くなっている。それでも、落ち込みの層を観察している私は、「ばかねー」といわれる対象か、この年になって改めて感じる面白さ、なのに、老眼と抜け毛は加速化している。
土層は最初1色かと思いきや、堆積した様子が見えてきた。これが数人で観察すると1回でわかることが、1人ではおそくなる。それでも1人でやるのが拾いやの哲学か、遍路が同行2人なら我々は孤独なのかもしれない。
土層があるようで、最下部に角礫、それが周囲から底部と続く。その上に数枚の土層がありそうである。
「うーん」と池畔でうなる。人工物は1点もなし。・・・埋もれ谷・・・写真をもってみんなと相談してみよう。
11/19今にも雨が降りそうな中、穂波公民館前に駐車していつもの自転車に乗り、3時30分予約の歯医者の時間までウロウロ。歯医者にかよい1年3カ月になるが、実に長い治療である。お金もかかるが、歯を削るのがなんとも辛いものである。自然と汗がにじんでくるのをじっと我慢する。したがって、なるべく平地を選んで走りながら飯塚のはずれにある笠置山の近くまで行ってから、穂波の公民館まで帰り、汗をふいてから歯医者に向かった。
11/20朝は曇っていたが、10時くらいから晴れてきたので本日は、須惠町の資料館に行くことにした。篠栗のオアシスに車を置いてから出発する。いつものように川沿いに下り、左折して勢門小学校の横を通って乙犬へ、それから下って201号線に出る。これは、中学生からのコースで門松で加与丁池コースか古大間池須惠コースに分かれる。もちろん、今日は須惠に向かうのだが自転車で行くのは実に34年ぶりであろう、登り道を何度か間違えてしまった。宗教施設がやけに大きいのだが、もちろん昔はなかった。ようやく、土壁の古い家置が並ぶ旧道を見つけた。田原という表札が続くが、眼医者の田原家があった場所で、今は土壁に落書きがされ以前の面影はなくなりつつある。いよいよ登り坂だが、きついのなんのって途中で降りようかどうしようか、考えながらようやく赤土の切通しが見えた。確実に覚えていたが、この先に資料館がある。気は軽く足は重い、青息吐息で到着した。
この資料館は、九州歴史資料館とあまり変わらない古い建物で、町レベルで資料館が建設された県内でも最初の例と思う。確か建設当時、建物は出来たが中に入れる資料がないとして、テレビで放映された記憶がある。その後、すぐに集められたようだが、なかなか、厳しい状況下で立てられたことがわかる。その後、資料が増えることで建て増しを行って今の形がある。その後、蒸気機関車や西鉄電車が加わった。そういえば、古大間池発掘の竪穴住居跡をモデルに竪穴住居跡があったなぁー。古大間池発掘といえば、遺跡の重要部分が削り取られたのちに、その上方斜面で発見された一群である。今なら工事の前に連絡してすべて発掘できたのであろうが、悔しさがよみがえる。
久々に中に入った。無料の資料館だが、100円くらいは徴収してもいいと思いますね。とにかく、考古資料を中心に展示を見ると、まず、細石器と縄文石器があった。発掘資料であろう。その横に弥生土器が並び、旅石で出土した前期の甕棺の口縁部がある。高校くらいの時に旅石で甕棺が出た話は、須惠町資料館が行った歴史散策で覚えていた。それは、岳城から下り守母神社で休憩、説明を聞きながら1本の木になんとかマイマイという珍しいカタツムリの一種が住みついていた。それから近くの古墳群を見学して旅石に到着、神功皇后云々を聞くころには午後の3時くらいになっていた。私は自転車を須惠の資料館に置いていたので、これから歩いて戻ると・・・そこで、解散となり車で資料館まで乗せて行ってもらう。その時の説明が、藤口悦子さんと高山さんであった。懐かしい話であるが集合が岳城の現地集合だったのはすごい。今なら、マイクロバスを準備して、昼食は弁当か食事処を予約、必ず土産物屋に案内して、所定の解散場所までお見送り、本当に考古学や郷土史の好きな人間は何人なのか、「歩けよ」といいたくなる。どこまで、過剰サービスは続くのか、それが文化財担当者の生きる道なのか、はなはだ疑問だ。資料館に到着したあと、「いつでも来ていいよ」とかなんとか言われた覚えがある。有頂天になり愛車のブリジストン「ユーラシア」をこいで自宅に帰った。
それにしても、岳城から続く丘陵は粕屋町へと続くが、ナイフ形石器から細石器まで、さらに、縄文と連続的な古式の遺跡が点在している。昔から、知られていることだが多々良川を挟んだ両側の丘陵に点在し、下流域へと広がる。この多々良川流域は、石器採集の格好のフィールドである。
11/24 体中に不明の湿疹ができている。両足から腰部、腹部へと広がっていて、かゆみはそれほどでないから、ほったらかしにしてもその内なおるか、なんて考えていたが、一向におさまる様子はない。1年ほど前左足のすねに内出血性の発疹ができて、皮膚科に行くと、「原因不明で治らない」といわれ、ステロイドである程度おさまったが、治らないのであればそのままでいいかと、1年以上経過、患部は打ち身のように紫色になったが、そのままにしていた。そんな所に、体中になんとも知れない湿疹が、そこで、再び皮膚科に行く。
そこで、先生は「これはひどくなっている。幹部はすでに別物になっている。これが足全体に広がっている。紫斑部と両足の湿疹、体の湿疹はすべて別物で、とにかく塗り薬を出します。」
歯医者、内科と通っているが、さらに、皮膚科が加わる。病院通いでお金が飛んでいく。ついでに、健康も飛んでいく。
11/26 飯塚歴史資料館に電話すれども、本日は誰も資料館にいないとのこと。いつになったら嘉穂東高所蔵の資料にお目にかかれるのか、目前にあらわれたチャンスだが、なかなか身近で見ることができない。昭和27年代に立岩丘陵で採集された遺物、弥生の石器が中心であるがその中に、サヌカイトの尖頭器を見つけている。局部磨製石斧が以前に発見され、同じ材質の尖頭器が伴えば・・・神子柴か、想いだけはふくらむ。
そもそも、嘉穂地域で旧石器を追いかけて何年になるだろう。縄文の刺突文土器までは追いついた。また、細石刃が桂川町で確認されつつある。また、穂波町出土の尖頭器に縄文晩期と記されているが、もっと古い石器に見える。もう一点、気になるのが、飯塚歴史資料館に昔から展示されている土器片で、鯰田の川床から採集された中に、非常に薄手、口縁に刻目、外面には押圧縄文と沈線文が繰り返される怪しげな土器がある。私的には多縄文を意識しているが、これもルーペで観察する必要がある。
12月も7日になった。早いものである。立岩丘陵の尖頭器は昭和28年採集で、まだ、土がついている。鉄剣型石剣と書かれている古いラベルには、採集場所の記入がみられる。おそらく、万年筆かペン書きであろう、長い歳月の間に薄くなりにじんでいる。場所が判明、再び岡崎・森・児島各大先生の文献を追う。必要なら、名和洋一郎さんの日記を読むべきかも知れない。場所は局部磨製石斧(サヌカイト)と尖頭器(サヌカイト)が一致しそうな気配がする。
一方、土器は古くから考えられている曾畑式かもしれない。というのも、近似した土器は宮崎や熊本といった九州の南半から発見されており、北部九州では見られないようである。一気に自信喪失。万に一つチャンスがあればそれでいいのだ。
膨らむ夢と現実
憧れは大学の先生、「日本の考古学」の著者紹介の欄に連なる著名な先生方、それぞれの紹介の中に出身大学が記されている。中学生の身には「へぇ、この大学に入ると大学の先生になれるのか」との思いが先走る。やがて思いは風船のようにふくらむのだ。「おまえ、勉強しないとそんな大学に行けるはずはない」と何度もくり返す両親の声は、両耳を素通りしていく。「まずは高校に受かることだろう」という現実の声に振り向きもせずひたすら物集めをくり返した。現実が見えない。というか、高校受験から逃避していたと言ったほうがピッタリくる。
現実は、成績の下降に過ぎなかった。というのも、自分の中で高校という過程が抜け落ちていたのだ。膨らむ夢は現実をおびてきて、いつしか、自分の将来の位置が決定したように感じ始めていた。
来る日も来る日も、学校から帰ると友人たちと石器拾いに出かける。当然、誰もいない場合は1人で向かうことになる。そんな時、一番多く通ったのが蒲田池で、山々に囲まれた静かな場所、周囲から見られることはほとんどない。そんな環境に加え、周囲の山々に赤松の大木が何本も自生していて、他の池とは雰囲気が違っていた。それに、近くのパルプ工場から香ってくるチップの、なんとも言えない心地よい臭いが好きだった。夕暮れに1人水面に映る周囲の木々の姿を追う。そろそろ帰る時間が近づく。前回より随分と低くなった水面に並ぶ小さな波紋、小魚の仕業であろうか、秋も深まりさすがに夕暮れともなると底冷えが体を包む。依然として米松であろうか、心地よい香りが漂っている。
石器拾いは、夕日が赤く染まり、自分の影が細長く伸び始めると限界である。さすがの黒曜石の漆黒色も、何やら赤味をおびて周囲の赤土色に重なる。ビニール袋に入った数点の獲物が、ズボンを少し膨らませている。これが、何もなくても満足感だけはあるのだ。受験勉強から逃げおうせた解放感であろう。所詮一時でも現実から逃れた気持ちはなんとも言えない。清々しさと表現すれば何か変であろうか。
薄暗くなり始めた帰り道を、自転車のスピードを上げながら急ぐ。池を離れ和田の村中を通り、神社脇の購買店あたりから現実が頭をもたげる。帰宅すれば何やらかにやらとうるさく言われることは毎度のこと。しかし、いわれるほどに反発するのが通常か。
学校で担任教師がおいでおいでをすると、「お前ちょっと座れ」と1対1の面談。「お前勉強しようとや」「いえ、しよりません。」「なんや、お前は進みたい道があろうが、それには最初に高校受験があるとぜ」「お前途中が抜けとろうが」こんな会話の繰り返し、3年になり担任がかわっても引継ぎがなされていたのか、相変わらず同じことをいわれる。
私はそういわれると、逆に走り出す。ますます、表採にのめり込む始末。その分野においては、オンリーワンとなる。それが心地よく思考はマヒしてしまう。両親と自分との間に考えの違いが幅広い溝となって横たわる。「勉強せずとも成績が良ければ」という考えから、わざとせずにその考えを押し通せばカッコいいかな。そんな考えが頭を支配する。
池畔で1人採集しながら、将来の姿を想像する。秋風・松の香り・野鳥のさえずり環境は整っている。緩やかに傾斜した赤土まじりの土が乾燥して、細かな粉になって、私の足跡を残す。チラリとのぞく黒曜石の角に思わず駆け寄り、周囲を探す。意外と何個か固まっている場合がある。そのうち、最初の獲物がわからなくなってしまったりして、最初に見つけた場所にもどって同じ視線で眺める。「あった」ホッとしてそれをポケットに入れる。
将来の姿が浮かぶ、まるで白日夢である。そんな心地よさから抜け出せるはずもない。脳の中に麻薬のような物質ができるのだろう。勉強には決してそんな面はないのだ。どちらを優先するか自ずとわかる。つまり、楽で面白い方へと流れていくのだ。当然であろう。鉄の心は持ってはいない。
「楽あれば苦あり」昔の人たちはたいしたものだ。その通りの結果になった。父母は随分迷惑をかけた。それでもなんとか高校に通い、再び石器拾いの日々を送る。親はすでにあきらめていた。私の現実逃避は続いた。
大学に引っかかった。なんとか専門分野に入れ、これから思う存分考古学をやれる。と思ったが、2年間の教養課程だと、専門分野はしばらくさようならだな。それより、考古学研究会に入部した。体格のせいか、色々体育会系に誘われたが断り続け、やっと叩いた研究会の入り口のドア。思い切って「入部したいのですが」と丁寧に物申す。
その頃、私は委託寮という名前は寮だが、一見すると養鶏場の鶏舎に見えた。入寮翌日から正座のしごきが始まる。挨拶の仕方から清掃、ふろ掃除、電話のとり方から放送での呼び出し。悪夢だ。2週間続いた。そこで学んだものは、体育会系からの入部の誘いには、丁寧かつ真剣に対応してお断りするよう。間違っても部室や道場に行かないように。
その教えから、考古学研究会入部に際しても、つい、「自分は」という軍隊言葉とでも言おうか、その口調が抜けなかった。「うちはそのような言葉遣いはいらないから、普通に話してくれればいいよ」「それに、学問を行うにあたって先輩後輩はないから」あたりを見回すと、黒ヘルに機動隊からうばったというカシの長い警棒があった。
「なんやここは」??? 部室の隅に新聞かな?「プロレタリア考古」・・・日本考古学協会で会長を缶詰にした協会解体がどうのこうの、おや、この写真にのっている会長は、たしか、すごい時代があったようだ。
昭和57年3月大学を卒業した。卒論は「東北地方南部の古墳について」評価は良、指導教授はこう言った。「ようやく、問題点が出てきたようだね、ところで、就職はどうするの、考古学の道に進むのかね」「いえ、就職は決まっていますので、二度と考古学の方にはもどらないでしょう。」そんな会話をしたように覚えている。
私が古墳を選んだ理由とは、とんでもないものであった。大学の1・2年次まで旧石器研究の道を望んでいた。しかし、「英語と第二外国語に堪能でないと将来はない。」との話が私を悩ませた。私がお世話になっていた県教委の方は、ひたすら縄文研究を勧めてくれた。私は、元来、天邪鬼らしい。もっとも、その方の推薦で東大の赤門をくぐり、旧石器の大家にお会いした。旧石器で卒論を書くと豪語していたからだ。3年から旧石器の道を断念したとは、さすがに言えなかったのだ。
一時期、地域を限定して縄文の遺跡群の動態を明らかにしたいと考え、山形県の高畠を中心とした地域を考えたことがある。しかし、当時は遺跡が点在するがいずれも採集資料であった。次に、縄文草創期のことを考えたが、いずれも、土器型式が引っかかった。当時、縄文土器研究は果てしないとも思える型式細分を続け、それがいつまで続くのかという藤森の問いに、「そこに山がある限り」ではないが、佐原の回答がある。もちろん、集落等をとりあげ縄文社会の研究に進む研究も多かったが、主流は型式細分であった気がする。
しかし、考古学上何をするにも、型式を抜きにした方法は考えられなかった。遺構の切り合いと炉石の抜き取り例から、各住居の同時期数を明確にして行く方法など、土器型式に頼らないやり方も試みられたが、現実には、土器型式の順序と齟齬をきたしたらしい。そのように、型式とは、必要不可欠であった。
以上は、とりとめもなく過去の回想録、考古少年回顧録のダイジェスト版であった。しかし、10月2日の日曜日、私は何十年ぶりに蒲田池の鬼ヶ鼻に立つことができた。「はじまりは雨」のあの蒲田池である。すっかり様子は変わってしまったが、初心に帰ることができた。もちろん自転車で行ったのである。
そこで思ったことは、このブログを回顧録にしてはいけない。前に進むべく今からの体験日記をつづることにしよう。蒲田池の雰囲気が、懐かしさが、私を再びフィールドに戻してくれた。・・・感謝
何十年ぶりの鬼ヶ鼻は様相が一変していた。ようやく見えている所は、土が残っておらずすべて軟らかな挟炭層ばかりになっていた。長年に渡るさざ波はすっかり土を取り去り、基盤層をむき出しにしていたのだ。昔の小さな松は私の背丈以上となり、鬼ケ鼻の鼻筋にそってわずかに土層が残っているだけで、先端部は植物もなく、岩盤がむき出している。黒曜石が拾えない。土さえ残っていれば、どこかに残っているのだが、おそらく、多くの剥片が池の深みに流れ落ちていったのだろう。
それでも、石鏃の脚部片と黒曜石のチップを拾った。それも、メガネをかけかがみこんでやっと拾ったのだ。何度も石炭を拾っては棄て、木の葉を黒曜石に間違える始末、情けない。これほど力が衰えているとは思わなかった。そんな悔み事を呟きながら、水鳥の糞の間を歩き回ると、なんと、土器片を発見した。蒲田池で過去に手に入れた土器片は3点、2点は時期不明、もう1点は条痕文土器である。今回ものは表面の磨滅が著しく型式は不明だが、早期以前の臭いがする。ここは、草創期のマイクロリスが拾えるところで、なんとか、土器がほしい。できれば、隆起線文か多縄文、無理かな、しかし、早期の撚糸文や縄文につながるのだが。なんて一人で考えながら、しばらく地面とにらめっこ。すると、1点の土器片を発見、一瞬、これは古いぞ、しかし、表面はすり減り何もわからない。しかし、口縁部片らしきもので、細かい波状口縁を示すようで、表面にウッスラと押捺したような縄目が・・・うーん、見えるような。また、条痕文のようなラインも見えるような、なんとも分からない。色調は灰褐色、胎土は、一定の細かな石英や長石といった粒が多く、しかも、一定量が全体に見受けられる。混和材が多く、しかも丁寧にこねることにより全体に混和材が行きわたったようである。
続いて、お決まりの久山町高橋池に向かう。1年ぶりに池畔に立つと、懐かしいヒッツキボウが一面にたわわに実るていうのか、ふと笑ってしまった。よく、この小さな栗のイガのようなものを手元に集めては、誰かの服やズボンに投げつけていた。今は投げつける仲間はいないが、とにかく、下を向いて拾い始めた。相変わらずの珪化木の砂漠のようだ。その間に、メノウや水晶などが落ちている。その時、後ろからヘルメットをかぶりヤッケを着用した人物が、1本のスティックをもって近づいてくる。散歩かな、釣り人には釣り人には見えないが、なんて思っていると、「石器か何かをお探しですか」と声をかけられた。「えぇ」、考古学をやり始めて40年、かつてこのような質問を受けたことは皆無である。「ここが遺跡だとご存知ですか」と尋ねてみた。これも初めてである。まず「はい」という返事はないだろうと思っていると、なんとイエスである。この人はひょっとして、福岡考古などで名前を見る松尾さんかなと思って、しばらく会話をしていると、私の名前はご存じのようであった。しばらく、旧石器の採集話に花が咲いた。遅れてしまったが名前を尋ねるとやはり松尾さんだった。
特に、久山の首羅山遺跡の件が話題になった。というのも、中学生のころ高橋池の奥のあたりで、鉄滓か銅滓の山を踏みしめた記憶があった。松尾さんは、そのあたりの情報が詳しく、近代まで採掘していたらしい。問題は、上限である。高橋池奥の山が古代や中世から鉱山としての機能を果たしているとすれば、工人集団が存在し、それに関与するあらゆる人々の居住が考慮されよう。首羅山が博多商人との関係云々といわれるそうだが、足元のハイテク産業との関連、当然、古ければ渡来人の関与も考えられる。例えば英彦山と山麓の金属鋳造関連遺跡、寺院、香春岳など要因は様々、添田の庄原遺跡は、青銅のヤリガンナ鋳型に注目が集まったが、鉄斧等の鋳造がすごい。もちろん、無文系土器の出土もありなかなかいい感じである。最近、土器を見直すと前期から中期初頭である。かなり早い時期に金属の鋳造がなされたなと感じている。ぜひ、再整理作業をお願いしたい。
話しを戻すと、基本として金属鋳造にかかわる集団が存在し、それと、首羅山の山岳宗教との関連がどうかという話である。松尾さんは、銅滓を採集した畑で須恵器を拾ったそうだ。また、首羅山の麓からタタラ関連の遺構も検出されたという。高橋池から東を見ると首羅山の山頂が見える。
2人は30~40分ほど立ち話をし結局何も拾わずに別れた。40年に1回の確率で採集者と出会うわけだから、次は、93歳の80週年記念に会うのか。うーん。
自転車で走り回る。新大間池を左に見て、あの池畔から汲田式甕棺がいくつか出土したのか、あの土取りされた丘陵は、高校の2年までは存在した。前方後円墳のイメージから中村君を連れて中学の頃見に行ったことがある。その時、ハゼの木にふれかぶれたことを覚えている。同時に、前方後円墳ではないことを痛感した。しかし、水が引くと周囲で須恵器が拾えた。その後、ことさらに、この場所を訪れることはなかった。
高校になりあいもかわらず自転車で通っていた時、この丘陵に重機の道を発見した。早速、削られた道を登ると、弥生前期の土器の欠片を拾った。今でも持っているが、壺の肩部と甕の口縁で、前者は一段高くなった肩部に無軸の羽状文が施してある。板付Ⅱ式の壺、そして、甕は如意形口縁のもので両者に矛盾はない。しかし、重機の道は、土取りの前触れ、やがて、丘はすべてなくなりかけた。当時、粕屋町に担当者はいない。当時、須惠町の藤口さんに連絡し現地を見てもらうが、行政地が違う。そして、全て終了。途中で高校の考古学クラブで少し掘った。岡崎先生の娘さんの靖子氏も一緒だった。
やがて、丘陵はなくなった。土坑や竪穴住居、土器棺もあった。だが、何より、博多女子高のグランドとなった、とんでもない遺跡の隣接地である。何とも口惜しい。古大間池の破壊が脳裏をよぎる。今でも鮮明に覚えている重機を風が過ぎ、鳴き声をあげる。これを読む人、読み続ける人には解るだろうか、遺跡が潰されるとき、置き去りにされている重機が後悔の念を込めて「うおーん」と泣き声を上げる。機械は先祖の営みの痕跡を壊したくはない。しかし、子孫は何も感じることなく破壊する。鳴き声が聞こえない。機械は泣く。人は何も感じない。何の恐れもなく、平気で「しらんかった」と行政職員が言い放つ。今でも、文化財は内部の敵らしい。機械の泣き声を耳にしない、耳にできない大多数の人間である。私は少数派、換言すれば診療内科の患者にすぎない。病院通いも5年目になる。
岡崎靖子さんは、元気かな。高校卒業以来あってはいない。当然、苗字は変わって、佐賀の陶磁器博物館の学芸員とご結婚されたそうである。岡崎先生は私が原田遺跡を発掘調査し、その年の暮れに開催した文化財展に、ご夫婦でお越しくださった。ご不自由なお体で階段を登られ、展示品の一つ一つを丁寧にご覧いただいた。正直うれしかった、高校生1年の頃研究室にお邪魔し、大学4年の考古学協会の時には、階段を降りられる先生を追いかけて名刺を頂戴した。大学の中庭で、岡崎・乙益・森の3巨人が椅子に腰をおろされご歓談されていた。その記憶は今でも鮮明である。その写真が森貞次郎先生の記念論集か何かに使われていた。その写真と同じ光景が、脳裏に焼き付いている。
新大間池に突き出た丘陵はすっかり削られてしまい、池の周囲にかろうじて姿を残すが、そこから近年甕棺墓が発掘調査され、報告書が刊行されている。私は何十年ぶりに訪れ調査の終わった発掘地を注意深く歩き回っていた。赤土の中に石英片が多く含まれているからである。もちろん、かなり離れた丘陵から以前石英製の石器かと思われる剥片を拾っていた。自然礫と後にかったが、どうにもあきらめられずに赤土の断面を観察していた。しかし、露出する礫に人工的な加工は見られなかった。それよりかなり深く重機で削られた断面に、過去に大きな穴でもあいていたのかといった跡が見えた。赤土層が深くえぐられ、その上に礫層がのっていた。「隕石孔なら」なんて想像しながら帰ったが、調査された甕棺が汲田式と古式のもので、嘉穂地域の彼岸原にあるスダレ遺跡で出土した汲田式は、ひよっとして粕屋から八木山を越えて入ってきた可能性が出てきた。かつては、穂波川沿いに上穂波地域から入ってきたと考えたが、八木山越えを考える必要があろう。
11月4日(金)今日は昼から代休をとり、九州国立博物館に向かった。途中、当然ながら旧筑穂町のトリバミ池の横を通過する。この池は嘉穂地方史の先史編で縄文遺跡としてとりあげられ、曾畑式土器と石匙、石鏃、スクレーパーが採集されている。ここは、開析谷の最奥に位置していて縄文以前の遺跡立地としては文句のないほどいい場所である。娘の大学への送迎もあって週に1度は通るのだが、まぁここ何年も水が引いたところを見たことはない。ところが、なんとこの日は水がすっからかんになっていた。一気に血が逆流した。すぐにでも車を止めて採集に向かうところをぐっと我慢、急いては事をなんとかで「大人になったなぁ俺も」なんて思いつつ、実は大宰府に急いでいた。
心はむしろ九国博の「旧石器展示」であり、福井洞窟15層出土石器実見にあった。前段に杉原君に立岩の昭和20年代採集遺物にサヌカイト製の尖頭器があることを確認、嶋田さんに告げるとすでに気づかれていたようで、先に発見された局部磨製石斧と何らかの関係がありそうだと意見は一致した。実は、局部磨製石斧については、立岩とだけあって出土地点が不明なことから紛れ込んだとも考えられ、縄文以前の遺物が拾えない丘陵から採集されたとは正直考えられなかった。しかし、尖頭器の下にはラベルがあり詳細な地点がわかりそうで、尖頭器と局部磨製石斧がセットにでもなればすごいぞと、電話連絡していた。その中で、福井15層が話題になり、是非、見たほうがいいとアドバイスを受け、そのことが私を急がせていた。
話は旧石器展からはじめるが、見た瞬間「大きい、やはり、ハンドアックスでいいんじゃないか」風化面は茶色に変色している。黒色から白色が混じり青灰色、このあたりが縄文後晩期、早期あたりは白色が強くなり若干茶色がのってくる。さらに、旧石器になると和白の三稜尖頭器のように茶色が強くなる。しかし、福井15層のスクレーパもしくはハンドアックスがかは知らないが、茶色に変色している。いかにも古そうで、あんな感じの色調はそうそう見れない。
次に目についたのが尖頭器、「えっ、この尖頭器は伴出するのが問題視されたものか、剥離がよく見えないが整っているようである。おおふりの尖頭器、断面をのぞくとけっこう厚い、「ひょっとしてハンドアックスの先端かな」なんて勝手に想像し、下に並んだ厚手の剥片を見る。やはり厚みがあって大きい、しかし、色調がうすい。何と表現したらいいのか、なんだか時期が違うような感じがした。福井洞窟を見学した際にトレンチが残されているが、あの狭いスペースでよく、あれだけの成果がと感心することしきり、20年以上前かな、それにしても並べてみると色の違いが気になりましたね。
次に気になったのが沈目遺跡の鋸歯状石器・・・・何だか韓国のハンドアックスを思い出しましたね。ひょっとしてハンドアックスのつくりかけで右側上部が破損したのか、中途で廃棄したかも、そんなのありで、福井15層のものも何だかそんな感じで製品なのか、剥片2点も出土していてその可能性は否定できません。観察すると、不定型な大型の剥片を整形し、特に左側縁の上部に調整剥離を施している。問題は、その上部に突起状に残る部分がそのまま残っていて使用しにくい感じがしました。未成品じゃないかなぁ
私の心は、旧石器展に触発されすでにトリバミ池に向かっていた。何しろ雨が降りそうで異様に暖かい。この期を逃すといつ池にはいれるのかわからない。旧石器を採集できるのはこの池と密かに自信を持っていた。何せ刺突文土器までが確認されている地域である。九国博をあとに急いで池に向かう。池につくと何と自動車が池の真ん中に捨ててあった。これが筑豊か・・・死体・・・なさそう。急いで池畔を歩く、狙うは奥の平たん地、しかし、何も拾えない。まったくのスカである。このままでは帰れない。骨片は拾ったが、すぐに捨てる。何にもないし、くもり空はいつ雨になるのか、粘りに粘ったが石屑の一つも拾えない。「帰るか。飲み事もあるし、福井15層は見たし」酒飲みムードに切り替える。
帰りに、丘陵の断面に入り込む変な層を確認、それを見ながら歩いていると須恵器が斜面に貼りついている。「えぇ須恵器、しかも、奈良かい」と自分に突っ込んだ。結構斜面に落ちているではないか、ここは、大宰府官道の近く、これ結構いけるかもとの思いから、拾ってしまいました。日曜に西谷先生の講演があるが、飯塚に持っていて奈良の遺跡ポイントとして確認してもらおう。地図を確認するとその位置から北上すると、大分の鶯塚(古墳)から大分廃寺に向かう事になるが、道が必ずしも平地を通行するとは限らない。山際の谷筋を通ることも十分考えられる。
そうそう、奈良の遺物が急斜面に貼りつくように点在する所は、幅10mくらい、高さ2m以上の落ち込みが観察できる。斜行する第三紀層に掘り込まれ、埋土は霜降り状で赤土と灰白色の粘質土が詰まっていて1色のみ、直接埋土に須恵器が含まれている状況は発見できなかった。何の落ち込みかわからないが調査の必要はあろう。案外、官道の切通しの断面かもね。ちょっと違うかな。
久々に自転車に乗り遺物採集に、車に自転車をのせてとりあえずハローデーにビン・缶・ペットボトルを分別して捨ててから、ロト6を購入し中に入って昼食のパンと水を買ってから旧穂波公民館に自転車を置いてからと思うと、何かのイベントがあっている。「これはまずい」急きょ王塚古墳館へ、そこから自転車で大分廃寺から鶯塚へ、鶯塚は古墳ではなさそうで独立丘の岩盤むき出しタイプと考えられる。形状は円墳だが、地表に露出する岩は河川流路にできるような凹凸のあるもので、雨水や風化も原因か、天明年間の亀井南明?(めいの字がわからない)と思われる人物の碑文あり。一里塚かな、とにかく塚には間違いないようである。人工的な整形も見られ信仰の対象にもなっている。
そこから、トリバミ池に向かう。池はまだ水が引いているので、是非、見てほしいのは堤防の奥に接する丘陵断面にきれいに落ち込みが観察される。米山越えの道から見ると、第三紀層にきれいに掘り込まれた大きな落ち込みが見える。色調はピンク、赤土と白い土が混じっているのだろう。土色は近くで見ても1色、遺物はない。休憩場がありパンを食べ再び戻るが、古代官道に関連する何らかの遺跡があるのか興味は尽きない。灰釉陶器の道ではないが、点をつなぎ合わせていくことが重要であろう。
11/16 また、トリバミ池に行く。「おまはんもすっきやのー」と言われそうだが、どうにも落ち込みが気になりデジカメ片手に日が暮れかかった池に到着。さすがに、誰もいない。相変わらず乗用車が不気味に出迎えてくれるが、釣り人がいないことは拾いやにはとてもいい環境だ。すでに、日陰になっているが落ち込みは見える。先ずは遠景を撮影、続いて近景である。やはり、幅は広い広すぎる。土は見えるが土器は見えない。つまり、薄暗くなっている。それでも、落ち込みの層を観察している私は、「ばかねー」といわれる対象か、この年になって改めて感じる面白さ、なのに、老眼と抜け毛は加速化している。
土層は最初1色かと思いきや、堆積した様子が見えてきた。これが数人で観察すると1回でわかることが、1人ではおそくなる。それでも1人でやるのが拾いやの哲学か、遍路が同行2人なら我々は孤独なのかもしれない。
土層があるようで、最下部に角礫、それが周囲から底部と続く。その上に数枚の土層がありそうである。
「うーん」と池畔でうなる。人工物は1点もなし。・・・埋もれ谷・・・写真をもってみんなと相談してみよう。
11/19今にも雨が降りそうな中、穂波公民館前に駐車していつもの自転車に乗り、3時30分予約の歯医者の時間までウロウロ。歯医者にかよい1年3カ月になるが、実に長い治療である。お金もかかるが、歯を削るのがなんとも辛いものである。自然と汗がにじんでくるのをじっと我慢する。したがって、なるべく平地を選んで走りながら飯塚のはずれにある笠置山の近くまで行ってから、穂波の公民館まで帰り、汗をふいてから歯医者に向かった。
11/20朝は曇っていたが、10時くらいから晴れてきたので本日は、須惠町の資料館に行くことにした。篠栗のオアシスに車を置いてから出発する。いつものように川沿いに下り、左折して勢門小学校の横を通って乙犬へ、それから下って201号線に出る。これは、中学生からのコースで門松で加与丁池コースか古大間池須惠コースに分かれる。もちろん、今日は須惠に向かうのだが自転車で行くのは実に34年ぶりであろう、登り道を何度か間違えてしまった。宗教施設がやけに大きいのだが、もちろん昔はなかった。ようやく、土壁の古い家置が並ぶ旧道を見つけた。田原という表札が続くが、眼医者の田原家があった場所で、今は土壁に落書きがされ以前の面影はなくなりつつある。いよいよ登り坂だが、きついのなんのって途中で降りようかどうしようか、考えながらようやく赤土の切通しが見えた。確実に覚えていたが、この先に資料館がある。気は軽く足は重い、青息吐息で到着した。
この資料館は、九州歴史資料館とあまり変わらない古い建物で、町レベルで資料館が建設された県内でも最初の例と思う。確か建設当時、建物は出来たが中に入れる資料がないとして、テレビで放映された記憶がある。その後、すぐに集められたようだが、なかなか、厳しい状況下で立てられたことがわかる。その後、資料が増えることで建て増しを行って今の形がある。その後、蒸気機関車や西鉄電車が加わった。そういえば、古大間池発掘の竪穴住居跡をモデルに竪穴住居跡があったなぁー。古大間池発掘といえば、遺跡の重要部分が削り取られたのちに、その上方斜面で発見された一群である。今なら工事の前に連絡してすべて発掘できたのであろうが、悔しさがよみがえる。
久々に中に入った。無料の資料館だが、100円くらいは徴収してもいいと思いますね。とにかく、考古資料を中心に展示を見ると、まず、細石器と縄文石器があった。発掘資料であろう。その横に弥生土器が並び、旅石で出土した前期の甕棺の口縁部がある。高校くらいの時に旅石で甕棺が出た話は、須惠町資料館が行った歴史散策で覚えていた。それは、岳城から下り守母神社で休憩、説明を聞きながら1本の木になんとかマイマイという珍しいカタツムリの一種が住みついていた。それから近くの古墳群を見学して旅石に到着、神功皇后云々を聞くころには午後の3時くらいになっていた。私は自転車を須惠の資料館に置いていたので、これから歩いて戻ると・・・そこで、解散となり車で資料館まで乗せて行ってもらう。その時の説明が、藤口悦子さんと高山さんであった。懐かしい話であるが集合が岳城の現地集合だったのはすごい。今なら、マイクロバスを準備して、昼食は弁当か食事処を予約、必ず土産物屋に案内して、所定の解散場所までお見送り、本当に考古学や郷土史の好きな人間は何人なのか、「歩けよ」といいたくなる。どこまで、過剰サービスは続くのか、それが文化財担当者の生きる道なのか、はなはだ疑問だ。資料館に到着したあと、「いつでも来ていいよ」とかなんとか言われた覚えがある。有頂天になり愛車のブリジストン「ユーラシア」をこいで自宅に帰った。
それにしても、岳城から続く丘陵は粕屋町へと続くが、ナイフ形石器から細石器まで、さらに、縄文と連続的な古式の遺跡が点在している。昔から、知られていることだが多々良川を挟んだ両側の丘陵に点在し、下流域へと広がる。この多々良川流域は、石器採集の格好のフィールドである。
11/24 体中に不明の湿疹ができている。両足から腰部、腹部へと広がっていて、かゆみはそれほどでないから、ほったらかしにしてもその内なおるか、なんて考えていたが、一向におさまる様子はない。1年ほど前左足のすねに内出血性の発疹ができて、皮膚科に行くと、「原因不明で治らない」といわれ、ステロイドである程度おさまったが、治らないのであればそのままでいいかと、1年以上経過、患部は打ち身のように紫色になったが、そのままにしていた。そんな所に、体中になんとも知れない湿疹が、そこで、再び皮膚科に行く。
そこで、先生は「これはひどくなっている。幹部はすでに別物になっている。これが足全体に広がっている。紫斑部と両足の湿疹、体の湿疹はすべて別物で、とにかく塗り薬を出します。」
歯医者、内科と通っているが、さらに、皮膚科が加わる。病院通いでお金が飛んでいく。ついでに、健康も飛んでいく。
11/26 飯塚歴史資料館に電話すれども、本日は誰も資料館にいないとのこと。いつになったら嘉穂東高所蔵の資料にお目にかかれるのか、目前にあらわれたチャンスだが、なかなか身近で見ることができない。昭和27年代に立岩丘陵で採集された遺物、弥生の石器が中心であるがその中に、サヌカイトの尖頭器を見つけている。局部磨製石斧が以前に発見され、同じ材質の尖頭器が伴えば・・・神子柴か、想いだけはふくらむ。
そもそも、嘉穂地域で旧石器を追いかけて何年になるだろう。縄文の刺突文土器までは追いついた。また、細石刃が桂川町で確認されつつある。また、穂波町出土の尖頭器に縄文晩期と記されているが、もっと古い石器に見える。もう一点、気になるのが、飯塚歴史資料館に昔から展示されている土器片で、鯰田の川床から採集された中に、非常に薄手、口縁に刻目、外面には押圧縄文と沈線文が繰り返される怪しげな土器がある。私的には多縄文を意識しているが、これもルーペで観察する必要がある。
12月も7日になった。早いものである。立岩丘陵の尖頭器は昭和28年採集で、まだ、土がついている。鉄剣型石剣と書かれている古いラベルには、採集場所の記入がみられる。おそらく、万年筆かペン書きであろう、長い歳月の間に薄くなりにじんでいる。場所が判明、再び岡崎・森・児島各大先生の文献を追う。必要なら、名和洋一郎さんの日記を読むべきかも知れない。場所は局部磨製石斧(サヌカイト)と尖頭器(サヌカイト)が一致しそうな気配がする。
一方、土器は古くから考えられている曾畑式かもしれない。というのも、近似した土器は宮崎や熊本といった九州の南半から発見されており、北部九州では見られないようである。一気に自信喪失。万に一つチャンスがあればそれでいいのだ。