筑豊の縄文・弥生

筑豊の考古学は「立岩遺蹟」「嘉穂地方誌」先史編の2冊に凝縮されている。が、80年代以降の大規模調査成果は如何に。

新「気になることども」

2009-08-03 21:40:26 | Weblog
 最近、プログに集中しません。というのも、古八丁越というテーマでここ数年調べたことをなんとかまとめてみました。福岡地方史研究会の例会で発表したものに手を加えて何とかまとめました。これを、文化財保護審議会の調査記録として提出し、古八丁越の一部を市指定文化財にする基礎資料とします。また、福岡地方史研究に投稿予定をしておりますが、現在、ページ数が大幅に増えているため、上・下の2回に分けてと考えておりますが、内容のまずさで落とされるかもしれません。
古八丁越は、寛永年間に新八丁開削によりふさがれ通行できなくなりますが、九州の諸大名がこぞって新八丁を利用するもので、路銀が秋月藩に落ちる。その内、幕藩体制は磐石となり、領地を狙われることもなくなり、「防衛のため」という古八丁封鎖の理由も薄れ、やがて、人々は古八丁を通行するが、秋月藩もお目こぼしになる。藩の宿駅や城下は、もっぱら諸大名の通行で潤っていた。
 ところが、元禄・宝永になると諸大名は冷水越に移り、新八丁はお特異様を全て失うこととなる。そこで、古八丁越の通行を禁止するのが正徳元年で、ターゲットを一般の通行人とし、新八丁往還に全て客を集中させ宿駅や城下を通行させて、経済危機を乗り越えるのである。それが、幕末まで続くが、文久4年突然古八丁越を開くことになる。起因は第一次小倉戦争、緊急時に際し秋月藩は、古・新両八丁越を開いて、肥後藩を中心とする大部隊を小倉に進ませることとなる。
 詳しくは、福岡地方史研究に掲載されたら読んでください。
 それと、以前からしつこく書いておりました、笠置山の輝緑凝灰岩の石材産地について、ぐらつきながらも、中村修身さんに背中を押してもらって資料紹介をしようと決心し執筆に入りました。主となるのは研究史で中山平次郎先生が昭和8年石材産地の確認と周囲の遺跡に注意するよう記され、その言葉に促されるように森 貞次郎先生が踏査により発見されたのが昭和14年、露頭まで発見されたが、その後実質的な踏査や調査はされず、森先生の河床に無数の凝灰岩があるという一文をそのままに、原石の採取と搬出には今日に至るまで正面から向き合ったものが見当たらないというのが基本となり、それに、私が発見した石材の散布地と採集物の実測図等を掲載して書き上げます。
 ところが、老眼で剥離が見えず実測が進みませんが、なんとか仕上げて関心を持ってもらえたらと考えております。
 
 採集品を実測すると扁平な角礫や楕円形の扁平な円礫を使ったものがあり、沢や河床、あるいは採集地点の堆積層から得たものがありそうである。それ以外に露頭から節理に沿って割れていく輝緑凝灰岩を採取し、さらに摂理から割って剥ぎ取ったものや落石の角張ったものを使用したものなど多彩な顔ぶれであることが分かる。詳細はきちんとした調査の上で述べなければならないが、表面加工は粗く行われるが裏面は厚さが問題のように思え、加工がさほどなされていないようである。
所謂主要剥離面側に加工をさほど施さないのは、平坦に仕上がっているからであろう。もし、瘤状の厚味などが生じていれば、粗く加工してある程度の半月形には仕上げているものと思われる。

 立岩石器製作システムが明らかとなる日も近いと考えられる。何故、立岩だけが石材産地から6㎞も離れて存在し、しかも、原石を搬入せず第1次工程を行った後に運び込み、仕上げを行って広範囲に搬出するのか、この過程こそが立岩の真髄であり、中山平次郎先生が今山とある意味で対比される遺跡の解明が必要と記されたゆえんである。1970年代に終結した問題ではなく、さらに深める問題である。と実測をしながら思うのである。

 8月17日、郵便局から古文化研究会に原稿と挿図を送付する。原稿を印刷してハッとした。4おわりにの段落0行となっていた。気付かなかったので明日、宇野さんにメールで送付する。あわてることはなかったが、早く送らないと落ち着かない性格になってしまった。いや、昔からあわて物であったことを忘れていた。

 立岩の石材採取と運搬について研究史をたどると面白い。河床礫であったり板材であったり、はたまた、粗割まで行って搬出するとか様々である。立岩の石庖丁を最も研究した下條さんでさえ、河床礫から板材、そしてまた河床礫に戻っている。このようなゆらぎともいえる考えの変化の裏には、立岩での資料観察という限界があり、原産地の調査がなされなかったことに起因するように思える。

 8月19日ついに出た出た月が出た。うん。なんと70㎡ほどの範囲から土器片が出る出る。土器の破片混じりの包含層というか遺構の切りあったものか、さて、困ったことになった。最初は立会で層状を確認するくらいの予定であったのだが、現場を見た瞬間、「やべー、まじやべー」今時かな。弥生中期の須玖Ⅱ式・6世紀末の須恵器や土師器、それに、8世紀から9世紀と多彩であるが、とにかく、土器の缶詰包含層で40㎝ほどもあろうか、その下に隠れている遺構を考えるとぞっとする。まあーごちゃごちゃしながら月曜から発掘に入る。久々の現場で正直ばてている。暑いのなんのって1.5mほど掘り下げた四角の水なしプール、病気になりそう。とか言いながら、隅で確認した黄褐色の地山を少し削っては旧石器を探している。なんとなく予感はするが竪穴住居4軒が確認され、おそらくその埋土中から出るやもしれん。
 公然の秘密というのがあるが、密かに狙っている。しかし、残暑厳しきおり、皆様方倒れないよう無理せずに、頑張ろう。
 久々に壁面を削って土層を分けるが、何年ぶりだろうか、それにしても遺構が切り合っている中にかく乱層それも牛糞を処理した穴だ、滴り落ちる青絵の具のような液体、その臭いことといったら、せめて涼しくなってから嗅ぐと少しは香水、いやいや、糞尿は所詮糞尿だ。牛糞であるのがせめてもの救い。おー神よ。
 それにしても、役所での文化財の位置は、あるのだろうか。26年目になるが未だによけい物扱い、そのくせ、偉いお客さんが来ると「歴史は古く、この先は文化財係が説明します。」なんじゃそれは、26年前と変っていないじゃないか。何事も無く定年までいれば、笑わせるんじゃないよ、数年のうちに文化財は1人体制で係消滅、あるいは、文化係でいくつかの係掛け持ち、考古学は絶滅危惧種だね。
 今、日本の考古学を底辺で支えているのは、おそらく、各地の文化財担当者であろう。そもそも、文化財でこれだけ多くの人間を食べさせてくれているのだから、先達の偉大さに感謝。それも、時代の流れとともに変化し、退化し、消滅、あらら。
 8月19日の遺跡発見から半月、2週間の猶予をいただき発掘開始、まぁーその暑いこと、夏の現場は何年ぶりだろう。坐骨神経痛が痛み出した。また、包含層の残りがよいので、遺構が深いこと深いこと。70㎡くらいの中に竪穴住居4軒が入り乱れ、何がなにやらさっぱり分からない。
 9月4日約束の日に現場終了。1点の轟式、3点の後・晩期土器片が下部より出土、それより古いものはないようである。暗灰褐色のマサ土が基底の層で、その上に暗黄褐色の粘性土が部分的に堆積している。おそらく、基底のマサ土が凹凸状に侵食された上に堆積した層で、なんとなく古層の感じが漂う。最後に一部を掘り込んでみるが遺物は出なかった。また、旧石器を逃してしまったようだ。

 2週間の発掘調査で得たものは様々である。最も気になるのが弥生中期後半の竪穴住居が方形プランである。飯塚市の立岩や穂波地区では円形のプランで福岡に近いが、遠賀川の原流域では、明らかに方形プランと確信した。古くは八王寺遺跡、千手のアナフ遺跡、今回の一丁五反遺跡と全て方形プランである。
 出土した弥生土器を観察しているが、凹線文を意識したような例が見られるのだが、確実に凹線文は中期末に榎町遺跡で出土している。しかし、今回はやや古式の感があり、立岩遺跡全盛期の頃に瀬戸内方面の影響が見受けられるようである。石器では、旧山田市の遺跡からサヌカイト製の有茎石鏃が出土しており、須玖Ⅱ式に伴うようである。豊前の海岸に面した遺跡で杉原氏が弥生の石鏃に対して、瀬戸内方面の影響を指摘している。凹線文の時もちらほら出ているようで、その流れが田川方面から入ってきているのであろう。
 弥生中期前半はともかく、後半期は立岩一色になるかと思いきや、地域性はなかなか破れるものではないらしい。嘉麻地域は簡単に立岩の傘下に入るものと踏んでいたが、地域の結合を打ち破るにはいたらないようで、上澄み部分の結合にも思える。いわば擬制的結合関係にあるが、その結びつきは結構弱い紐帯かもしれない。
 まだまだ、謎は多いようで、地域のまとまりをまずは解明する必要があろう。
案外、立岩中心組織体の崩壊は、地域力の強弱あたりと関係しているかも知れない。
 一丁五反遺跡の出土品に須玖Ⅱ式と思われる甕の口縁部が、一際特徴的なものがある。やや厚みがあり匙面というべきか、熊本の黒髪式や四国愛媛あたりに見られる口縁部のそりが強く、外面は口縁端部が湾曲して丸みを帯びるものがある。また、跳ね上げは当地方に多く特徴的だが、口縁端部がきれいに切られたような平らな面が見られ、瀬戸内の甕のような様相を呈している点である。確実な凹線文は今のところ見当たらないが、中には、ハケ目を巡らせたもの、1条の沈線文をめぐらしたものもあり、今まで見たものとはどこか違っている。それに、色調が白っぽいものが散見され、特に、凹線文を思わせるものがその色である。元来、当地域の須玖Ⅱ式赤褐色や赤黄褐色系のものが多いのだ。
 近刊の彼岸原遺跡が同時期と考えられるが、住居プランは円形、当方は確実に方形で、嘉穂地域を2分しているようである。その整理はおってやりたいと考えるが、出土した土器の中に瀬戸内系と考えられるものが含まれている。一度、見る必要があろう。
 とにかく、中期後半に瀬戸内系の影響が見られ、今のところ旧嘉麻あたりに強く感じられる。今山系石斧が多く見られるのは、桂川や現飯塚市で、旧嘉穂や山田、稲築にはそれほど見られない。嘉穂地域が鎌と穂波に区分された所以は、自然発生的に嘉麻川流域と穂波川流域で、地域性や交易相手の相違があり相対的に2つの地域文化が成立していたからではないか、と思っている。
しかし、その地域性も当然揺らいでいて、時期的に変化の兆しが見える。弥生前期板付Ⅰ式併行と考えられる土器は、旧穂波・飯塚あたりにあって、周囲は板付Ⅱa式が取り囲むように存在する。この流れは福岡から糟屋や三笠を経たもので八木山・米山越となろうか、このルートはその後も今山石斧の流入の見られる前期末~中期にかけて主に、飯塚の立岩周辺から桂川の土師地区に及ぶ。もちろん、旧嘉麻にも流入するがわずかに過ぎない。特に、桂川の土師地区には集中しており、立岩でもその数は多いように思える。

 何年ぶりか、全同教に参加するため広島県の福山市に行った。目的は2日目の分科会で、奈文研の松井さんが、遺跡から出土する動物の骨により食肉の習慣が日本人の根底にあったこと、古代律令製により平城京や平安京ではそのエリアの中に、動物の解体や骨・角の加工、肉や皮の取り扱いを行う職人集団が取り込まれていた可能性を説かれ、それが、律令制の崩壊とともに分からなくなり、次に登場する時には、河原に住まいしとなる。
 やっと、部落史に考古学が加わるのかと思うと感慨深い。大阪の部落史では、初めてその成果が取り込まれているらしい。京都の場合はそれが無かった。ちょうど、大阪の貝塚市で獣骨が大量に発見された記事が新聞に発表された。その直後だったか、福岡の部落史研究の例会で福岡市の事例が発表された。そこは、砂質土壌で獣骨の残りがよく、土壙からの出土が報じられ、部落史との関連性が取り沙汰された。その後、どのようになったのかはわからないが、興味ある事例であった。
 文献という一面ではなかなかつかめない日常生活、その一端を知る上でも考古学の積極的発言は大いに重要であると感じた。