こんにちは 佐竹良夫ブログです。

憲法9条、25条が生きる社会を!

福島原発被災地、楢葉、富田町を訪ね、仮設住宅の被災者を訪問しました。

2013年09月14日 | 日記

福島原発交流ネットワークの皆さんに同行し9月9日、10日福島原発被災地を尋ねました。郡山地区・被災者支援センターの大橋さんに案内いただいて9日は楢葉町、冨岡町を視察、10日には、神山共産党福島県議団長等も加わって郡山市にある富岡町避難者仮設住宅を訪問、交流をしました。


富岡町中心街は津波にさらわれ瓦礫と化した家々や車、2年半たった今もまったく手つかずに残されていました。観光スポットだった桜並木のきれいな「夜の森公園」には立ち入り禁止の黄色と黒のバリケードが立てられ、そこから先は放射能が強く立ち入ることが出来ません。人影もなく、行き会うのは監視パトカーだけ、死の町と化していました。


楢葉町では除染作業が行われていて、田んぼにはたくさんの真っ黒の除染袋(フレコン)が積み上げられていました。これらも最終処分場が決まっていないため野ざらし状態です。雨で染み出しているものもありました。そばにあった計器を見ると空間放射線量は30μSvあわててその場を離れました。事故以前から原発の危険さを訴え続け地下にコンクリート製非難所まで造っていたという宝鏡寺を訪ねると、ちょうど除染作業が行われている最中でした。作業関係者の話では空間放射線量は毎時0.65μSv、許容量のおよそ3倍、除染作業は寺の周り7メートル四方の法面を行っているとのこと。この除染地域の外側には、広大な竹藪や杉林が迫っているがここにはまったく手をつけないという。いったいこの除染にどれ程の効果を期待できるのだろう?今後本当に人が住めるようになるのだろうか?と疑問とむなしさが残りました。




津波被害は翌日から復旧・復興が始められる。しかし、原発事故は事故当日が初日、翌日から被害は広がり続ける。収束はもちろん、復旧、復興のめどさえ立たない進行形にあるのが今の福島原発事故。この性格の違いをいやというほど思い知らされました。 

10日の避難者との交流会では、仮設住宅に住むある方は悔しさを吐き出すようにこんな話をしました。「ダム湖の下になる住民には代替地と一定の生活できる賠償がされるのは当たり前。私たち原発被災者は戻れるかどうかももわからないまま、一人10万円の生活費でこの狭い仮設住宅に押し込まれている。あまりにひどすぎる」また、別の方は「「自宅に帰りたいですか?」と国や東電から問われることがある。これほど避難者を馬鹿にした話はない。帰りたいのは当たり前じゃないですか。こんな質問が許されるのは、「①放射線の心配もなく自宅に帰ることができるようになった」か、あるいは「②新たな生活場所の用意できた」時ではありませんか。そのときに「あなたはどちらにしますか?自宅に帰りたいですか?」と問うことではないですか。国策の原発事故で居住権、生活権を奪っておいて、何の条件整備もしないでこんな質問する。これほど住民を馬鹿にした話はない。私たちに憲法は適用されないのですか」と怒りをぶちまけられました。一言一句が胸につき刺ささります。


原発廃炉やますます広がり続ける放射線被害は40年(?)いやそれ以上にも及ぶともいわれています。これらを考えれば、ダムの話ではないが、進行しつづける放射線被害、見通しをつけらない原発事故、避難者の生活権、居住権を一刻も早く保障させるよう政府、東電に実行させなければなりません。この声を大きくするために全力を尽くそう。こんな思いを強くした被災地訪問でした。

コメント (1)
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