花岡での大きな落盤事故は七つ館坑ですが、1944年5月29日におきています。坑内には日本人11名、朝鮮人11名が残されて亡くなっていますが、かつて母からこんな話を聞きました。その年のお盆に友達と遊んでいると七つ館から大きな火の玉が一つ立ち上り、亡くなった人の住んでいた長屋へ落ちていったのを見たそうです。その日は花岡のお祭りで8月15日だってそうです。
また、斎藤末広さんは坑内へ取り残された人たちがしばらく金属をたたいて生きていることを知らせていたこと。その後遺骨を掘り出そうと試みたがガスが出て失敗したというようなことも言っていました。
歴史に記録されるのは一行ですが、その一行に人間的な話が纏わり付くことに心が引かれていきます。花岡川改修工事の際、現在の花岡記念館まで引いてくる工事の際、「土が硬くて中国人が泣いたど」と、聞いたことを教えてくれた同級生がいました。彼は桜町のラーメン屋でしたから、耳にしたのでしょうが、いかにも坑内で土と格闘していた坑内夫だから言えた言葉ではないかと重く受け止めました。ラーメン屋の同級生は「実は俺、落第して一つ年上なんだ」とも言っていました。何時も腰に日本手ぬぐいを下げて、洟を拭きながらラーメンを配達していましたが、数年前に亡くなりました。
母の経験した話も、同級生の話も、斎藤さんの話も日を重ねることで消えていく話ですが、私には忘れられません。
また、斎藤末広さんは坑内へ取り残された人たちがしばらく金属をたたいて生きていることを知らせていたこと。その後遺骨を掘り出そうと試みたがガスが出て失敗したというようなことも言っていました。
歴史に記録されるのは一行ですが、その一行に人間的な話が纏わり付くことに心が引かれていきます。花岡川改修工事の際、現在の花岡記念館まで引いてくる工事の際、「土が硬くて中国人が泣いたど」と、聞いたことを教えてくれた同級生がいました。彼は桜町のラーメン屋でしたから、耳にしたのでしょうが、いかにも坑内で土と格闘していた坑内夫だから言えた言葉ではないかと重く受け止めました。ラーメン屋の同級生は「実は俺、落第して一つ年上なんだ」とも言っていました。何時も腰に日本手ぬぐいを下げて、洟を拭きながらラーメンを配達していましたが、数年前に亡くなりました。
母の経験した話も、同級生の話も、斎藤さんの話も日を重ねることで消えていく話ですが、私には忘れられません。