のびのびのぶログ

水彩画や好きな音楽について語ります。なんでも伸び伸びと書いていきます。でも忙しくて更新が延び延びになるかも。

心を込めるとは・・・ある介護の話

2018年01月28日 22時45分01秒 | 日記
両親の介護のことが頭から離れません。毎週会うたびに弱っていく両親。一緒に住んであげられない後ろめたさと、自分の弱さ。また、日々の職場での愚痴や不満。自分はどうやってそれを乗り越えていけば良いのでしょう。そんな時、ある本で出合った一つの手記が今の自分の心にリンクして忘れられません。ご紹介します。
 
 
「仏さま 」
 
八十八歳の義父は、米寿のお祝いをしてからしぱらくして、トイレに行く途中に時々廊下を汚 すようになり、その内だんだん回数がひどくなり足もとがおぼつかなくなったため、ポータプルトイレを買って寝室におきました。 最初の間はそれでよかったのですが、だんだん一人では出来なくなり、私が手伝うようになりました。その頃から、奇異な行動が目につき、汚物をもて遊び、衣服や寝具、畳にまで汚物をまき散らしたり、しまいには塗りつけるようにもなり、毎日洗濯、掃除に追われました。元来、口数の少ない義父でしたがますますものを言わなくなり、孫の名前や顔さえも分からなくなりました。
痴呆が始まったのです。一ときも日が離せなくなり、私はついに来るべきものが来た感じで、覚悟せざるを得なくなりました。以前お世話になった医院の先生に、往診をお顧いしましたところ、
「完全に老人性痴呆です。気長にお世話をしてあげなさい」
と言われました。
 
私は、三年間自宅で続けていた点訳奉仕の仕事を休ませて頂き、義父の看病に専念致しました。
だんだん足が弱り、部屋の中のトイレにも立つことが出来なくなり、遂に寝たきりでおむつをするようになりましたが、これがまた大変で、少し油断をすると、おむつをはずして、畳の上へ ポンと放り出してあるのです。大便も小便も何時出るかわからず、寝巻はすぐに濡れてしまい、 着替えをして洗濯をして、部屋に戻って来るともう汚しているのです。そんな毎日を繰り返していると、泣きたくなる日もありました。食事は何でもいくらでも食べられました。かわいそうに、何を食べているのかもわからず、といっても、食べることにのみ、意欲を燃やしている義父は、人間の本能か、生き甲斐か、何も言わずに唯食べるだけでした。人間のはかなさ、みじめさを見せつけられて、悲しくてなりませんでした。私も障害者で足が不自由でしたので、何とかして無駄な動きをせずに、長期戦に備えねばと、いろいろ工夫をしておむつを外されないように、結び目を固くするのですが、いつの間にか外して放り出してあるのです。おじいちゃんは知らぬ顔をしています。それからは時間を決めて点検することにしました。二時間毎におむつの点検、少し遅れると後の祭、大便は一日に一回か二回、小の方は幾度となく出ますので、おむつの中で、さらにビニ―ルの袋を結びつけました。その点検を頻繁にやりました。それで衣服の汚れをだいぶ防ぐことができました。洗濯の量もだいぶ少なくなりました夏場はよいのですが、雨の日や寒くなってくると乾かなくて困りました。そのころはまだ乾燥機もありませんでした。義父はおむつの中に手を入れようと必死になるのです。それを止めさせようとすると、私の手をパチンとたたくのです。おむつをするのが気に入らないようです。
「おじいちゃん。おしっことりましょうか。」
といっても知らん顔をしています。まったく赤ちゃんのようです。汚物で遊びたいようですが、それはさせられません。汚れた手で顔まで撫でまわし、洗っても臭いが取れないで困るのです。おむつの点検と、食事の世話、家族の食事、洗濯、掃除、来客の対応、まったく目の回るような毎日でした。
もちろん夜もおじいちゃんの横に布団を敷いて寝るのです。おじいちゃんがちょっと動くと目が覚めます。夜中にも二、三回ビニールの袋を取り換えるのです。日がたつとだんだん上手になりました。あまり汚さなくなりましたが、油断をしているとやられてしまいます。おじいちゃんの手を縛ろうとも思いましたが、それはかわいそうでできませんでした。
 
おじいちゃんが寝込んでから、ちょうど一年が経ちました。二度目の夏が巡ってまいりました。私もくたくたに疲れました。体が不自由ですので、余計疲れるようです。起き上がれない日がありました。主人や子供にも手伝ってもらうのですが、それぞれ勤めのある身、仕事に差し支えてはと、極力私がするようにしましたが、主人も見かねて、どこか預かってくれる病院はないかと。特養にも掛け合ってくれましたが、義父の場合、付添婦をつけねばならず、
費用の点やいろいろとても経済的には続きそうにもなく、親戚にもすがってみましたが、皆それぞれ生活が手いっぱいで、こんな世話のかかる病人を預ってくれるところはありませんでした。 唯一人主人の妹が遠方に嫁いでいましたのが、最後の親孝行になるかも知れないから、しばらく預ってみようと言ってくれました。娘だったらと安心してその厚意に甘えることになり、明日車で迎えに来てくれるという前日、荷物の準備をしていますと、修行僧が見えられ門口に立れました。報謝に出ると、そのお坊さんは、
「奥さんは大きな悩みを抱えて居られますね。右か左か、大変迷って居られますね。」
と言われましたので、私はびっくりしました。私の悩みが分かるとは、大変な修行をされた方だと思い、簡単に事情を話しました。すると即座に、
「おじいちゃんを家から出してはいけません。今までの奥さんの苦労が水の泡になります。一生 後悔が残ります。もうしばらく辛抱しなさい。そして今までと違う心でお世話しなさい。お父さんはもう人間の心を失っておられます。人間ではありません。仏さまです。仏さまに仕える心で、毎日手を合わせてお世話しなさい。必ず変ったことが見られます。お父さんは必ず満足して、成仏されるでしょう。その後の奥さんは、後悔もなく、さわやかな一生を送ることが出来るでしょう。もう一息頑張りなさい。」
と、言われました。
 
私は恥ずかしくなりました。おじいちゃんを憎らしく思った日もありました。嫌だと思った日もありました。今、ここで、修行された方に、心の底を見透かされた思いで、本当に恥ずかしく、申し訳ない心になりました。私も及ばずながら信仰させていただいている身です。
「有難うございました。必ずそうさせていただきます。」
と心からお誓いさせていただきました。
それから早速、明日迎えに来てくれる方に断っていただきました。そして、おじいちゃんに心からお詫びを致しました。
「おじいちゃん、かんにんしてね。もう決しておじいちゃんを他所へはやりません。私が最後までお世話をさせてもらいます。かにんしてください」
と叫びました。涙が溢れて来ました。私は行き届かぬ嫁でした。自分が精一杯やっていると思い上がって、私の真心なんて、ちっともこもってはいなかったのだと、心から懺悔しました。涙がとめどなく頬を伝いました。おじいちゃんは相変らず何も言いませんでしたが、私には仏さまに見えました。手を合わせて拝みました。
それから心を取り直し、いろいろ集めて作った荷物を片付け、夕食になりました。例によって、半身を起こしてタ食を食べてもらいました。食事が終ると驚きました。
「ごちそうさん。」
おじいちゃんの口から言葉が出たのです。今まで一度も言われなかったことを、おじいちゃんがたった一言、それだけ言ったのです。頭はかなり痴呆が進んでいるのです。それだけではありません。おしっこを取ってあげると、
「ご苦労さん。」
と、はっきり聞こえました。私は空恐ろしくなりました。思わず手を合わせました。おじいちゃんと思って不満に思ったり、腹を立てたりしたことが申し訳なく、ただただ悔やまれました。仏様だったのだと、真実そう思いました。おじいちゃんの顔が一変して、円満なにこやかな顔になりました。
それからは、本当に手を合わせてお世話をさせて頂きました。あんなに疲れて苦しかった私は、うそのように元気になり、「ごちそうさん。」「ご苦労さん。」の声が毎日聞けるようになり、私も心 からお世話が出来て、楽しい日が流れました。もう汚される心配もほとんどなくなりました。熱いお湯で体を拭いても
「おおきに、ご苦労さん。」
と言われてびっくりしました。
こうした日が続き、秋も過ぎ、師走の候となりました。暮れも押し迫った土曜日、久し振りに 小春日和の穏やかな日でした。 主人が半休でお昼に帰って参りました。珍しくおじいちゃんに、お昼ご飯を食べさせてくれました。私もお茶を持って行ったりして、二人でおじいちゃんのことを 話していました。ご飯を半分食べた時、急にむせ返り、喉がつまり、あわててお茶を飲ませようとしましたが、お茶も飲めなくなり、あっと言う間に息を引き取りました。あっけない最後でしたが、苦しみもなく、九十歳の天寿を全うした大往生でした。床に就かれて一年半、長いようで 過ぎれば短い日々でした。
あれからちょうど十七年、法要も過ぎました。今も当時のことが鮮やかに思い出されます。私は貴重な体験をさせて頂いて、本当に有維いと思います。修行のお坊さんに出逢わなかったら、私は一生。後海の日々を送ることになったでしょう。体は不自由ながら元気に、見守って頂き、少しでも社会に貢献出来たらと、結婚相談を始めて十四年、まだ百組には届かないですが、幸せなカップルが育っていきました。人間は、日ごろの心遣いがいかに大切か、感謝の日々を送らせていただいています。  合掌
 
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿