テレビとうさん

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「幸福」 と 「科学」

2023年05月25日 | 思想・思考
 「科学」とは、あらゆる事象に対して学ぶ事ですが、学んだ結果が正しいかどうかは「科学」としては判断できません。その「結果の正しさ」は、独裁主義の場合は独裁者が、人民民主主義の場合は人民の支配者が、国民民主主義の場合は国民が、それぞれ決定します。

 「科学に従え」は、科学の結果が正しいと誰かが判断した場合に言える事であり、「政治的」とは言えても、決して「科学的」ではありません。

 「幸福」を学ぶ場合は「幸福学」と言えますが、これが「科学的」である場合には、当然ながら「幸福」の正しさが定まっていない事が前提になります。例えば、宗教として定まっていた「天動説(当時は説ではない)」の場合は、「常識」であり「科学」ではありません。

 「ワクチン万能説」「マスク万能説」など、様々な説が有るようですが、この「説」が絶対に正しいのなら「説」ではなく「常識(科学の結果も含む)」となり、もはや学問の対象ではありません。つまり、「マスク」はマナーであり「倫理(他人からの干渉)」の対象でしかなく、また自ら信じる場合は「道徳(大脳皮質による自身の体に対する干渉)と言えます。

 倫理に従う事や、自ら道徳的であると認識する事が「(自らの)幸福」に繋がるのなら「社会的」に最善と言えても、それが「科学的」でない事は歴史を振り返れば明らかです。

 「倫理」や「道徳」、或いは「説」や「常識」などは時代と共に変遷するのは当然として、同時代の「政治体制」や「宗教・宗派」が、「幸福」を目標に成立しているにも拘らず、対立的である場合が多いようです。

 一般的な「幸福」は対立が無い状態で得られますが、皆が同じ主張をしていて対立が無ければ「科学」としては成立しません。

 一般的ではない「幸福」は、例えば「独裁者」や「精神異常者」などの場合は「他人の対立」を糧に幸福感を得る場合が多いようです。また、幸福感を得ているかどうかは別にして、(自称を含む)神や仏、或いは聖者は、その存在意義が「無知な者に対する教え」なので、その思考は一般大衆とは対立的と言えます。

 其々の「幸福」が対立的であれば「科学」は成立するのですが、ユートピアでの一律な「幸福場」では「科学」は成立しません。

 つまり、共産主義やマニフェストデスティニーの様にワンワールドを目指す場合には、その過程では対立的なので「科学」を利用できるのですが、最終結末は「科学の無い社会」となり、自然に科学者がいなくなるか、最悪、科学者は不要になって抹殺されます。

 対立的な「幸福の多様性」を容認するのも「科学に従う」事になり、「絶対善」を目指す宗教や政治は「科学の否定」を意味します。但し、「性の多様性」や「民族の多様性」など、政治的な分断を目的とする場合は結果が決まっているので、対立が有るように見えても「科学」の対象にはなりません。




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