テレビとうさん

知識は人をバカにする。
智識はバカを人にする。
信じるか信じないかは、自分次第です。

「哲学」 と 「政治」

2024年07月14日 | 思想・思考
 どうやら「現代哲学」には2系統あって、

・イギリス哲学:経験論
・大陸哲学  :合理論

他に、古くから、

・ギリシャ哲学:教育論
・イスラム哲学:神学論

などが確立しているようです。

 影響を受けているかどうかは判らないのですが、日本は「ギリシャ哲学」に近く「教育的」です。「ギリシャ哲学」は、理想(観念)を主題にしているので、「定義が正しければ」学問として最も有益な思考と言えます。

 例えば、「人類は皆平等」は理想的(観念的)ですが、「平等とは本質的に違いが無いこと」と定義した場合、親子・男女にも違いがなくなり「人類の為の学問」によって「人類が滅亡する」ことになり、この定義は間違っていると理解できます。

 数学や物理学などで使用する「確立した定義(包括的には正しいとは限らない)」の場合は、その有効な定義域をはみ出さない限り「正しい」とされ、学校教育には最も優れた手法と言えます。

 「イスラム哲学」のような一神教(神学論)では、「正しさ」は一つしかなく「定義」自体が不要なので「科学(間違いを対象にする学問)」の範疇では有りません。但し、「神学論争」と云うように、結論が出ないことを利用して既得権益の保全には役立つので、「宗教国家」から「宗教系の学校」に至るまで、その利用価値は高いようですww

 「大陸哲学」は、「正しさ」が最初に有るのではなく、「結果」を正しいとする為に屁理屈・嘘・出鱈目など何でもありで、「文系」の得意分野かも知れませんww

 「戦勝国連合(通称、国連)」は、大陸哲学が軸になっているようで、そこから派生した「占領統治法(通称、日本国憲法)」なども、理系の私には「ナニそれ」ですww

 最も厄介なのが「イギリス哲学」で、「経験論」と云うように過去の経験が正しいとする一方、複数の経験に矛盾が生じた場合は勝手に「アウフヘーベン(止揚)」されてしまうので、過去の犯罪すら昇華されてしまいます。当然ながら「現在が最も正しい」ので、過去に犯した大罪を気に留めることなく、大きな顔してモットモらしい事を言います。

 アウフヘーベンが好きな「何処かの都知事」はイギリス哲学の達人のようで、多くの都民も騙されたようですww




「正しさ」 と 「知識人」

2024年07月11日 | 思想・思考
 人それぞれに「正しさ」は様々あるのですが、例えば「現在の正しい行為が、正しい未来をまねく」と考えても不思議ではありません。若しもそれが否定されると、「正しい事」を行う意味がなくなります。

 この事象を少し過去にずらすと、「過去が正しかったお陰で現在も正しい」となります。口が裂けても「過去の過ちのお陰で、正しい現在が生まれた」とは言えないと思いますww

 ここに「達観した自分」が居ると仮定して、当然にして自分は「正しい」のですが、その自分は「過去の結果」として生まれた成果です。例えば、間違った過去から正しい自分が生まれたと考えるのなら、「正しい未来」の為には自分が間違いである必要が有り、平仄が合わなくなります。

 平仄を合わせるには、「正しい過去」⇒「正しい現在(と認識する自分)」⇒「正しい未来」となり、「間違い」が入り込む余地は有りません。少なくとも、マクロで観ると「人類を含めて、生物には間違った行動は無い」と言えます。

 過去に様々な形態の戦争が起こりましたが、確実に現在が在ります。つまり、過去の戦争の一つでも欠けていたら「今の自分」は存在していない可能性が大きく、これは「自分の正しさ」は戦争によって齎せられたとも言え、「戦争の正しさ」を補強することになります。勿論、「戦争の当事者」は正しいと信じて戦っています。

 「過去の過ち」を反省した事で「正しい現在が有る」のなら、現在が間違っていなければ将来に反省することは出来ないので、正しい未来は保障されません。歴史を顧みても、多くの反省を重ねた結果として、更に戦争を繰り返しています。

 絶滅危惧種は、様々な生存競争に負けた結果であり、何れ自然淘汰されます。同時に、「その種の亜種」が繁殖の機会を得ることになり、これを「進化」と言うようです。「進化」とは言っても、人類は「腕力や尾が退化」した結果であり、危険な地べたを這いずり回る事しか出来なくなって、「知恵」を得る為に大脳皮質が「進化」しました。

 現在の人類は、大きく分けて「知識を持つ人類」と「智識を持つ人類」に二分できます。

注)
知;見聞きした事を覚える。
智;その曰を知る。

 「知識」とは過去の経験で正しいとされた事象で、「智識」とは知識を科学(間違いを対象にする学問)した結果ですが、「結果」が正しいとは限りません。

 近代では「知識人」が社会の上層部に居座っていて、その亜種である「智識人」が、今ではネット界隈で成長し始めています。近い将来には「知識」はAIが受け持ち、知識人は不要となります。

 過去の「間違い」に対し、サルでもできる「反省」を繰り返す大多数の「知識人」と、先人の行為は「抑々、反省の対象にはならない」とする少数派の「智識人」の、どちらが「進化系」と言えるかは明らかだと思います。

 「反省」は、自身の行為に対して自らするものであり、先人を含む他人を対象にするものでは無い、と、私は思う。



「屁理屈」 と 「詭弁」

2024年02月08日 | 思想・思考
 百田尚樹大先生が「月は永久に地球に落ち続けてると思ってる」と言った事に対して、武田邦彦博士は「そう云う言い方をしたら、そうとも言える(常識的な見方では周回軌道を回っている)。」と答えていました。

注)
「そう云う言い方」;月は地上に落下し続けているが、地球が丸いために球面に沿って落下し、地面に衝突することは無い。

 月の起源は、地球に巨大隕石(小天体?)が常識的言い方では「落下(客観的には衝突)」し、その反動で地球のマントルが飛散し常識的な言い方では「上昇(客観的には部分飛散)」して、遠心力と引力(重力)がバランスした位置で再集結し「地球の衛星」となった(有力説)とされています。

 なので、”そう云う言い方”を月の起源にまで遡ると「月は永久に上昇し続けている」とも言えます(常識的な見方では周回軌道を回っている)。但し、「宇宙膨張論」が正しければ、「月と地球は永久に離れ続けている」ことは確かなようです。

 同様に「見方を変える」と様々な「屁理屈」「詭弁」が生まれますww

 例えば、地面に落ちる「ニュートンのリンゴ」を月から見ると、
「リンゴは地球に向かって上昇している」とも言えます。

 例えば、1万年以上前から縄文人が住んでいた北海道に、8百年前の記録しか確認できない「アイヌ」が現れ、江戸・明治以降に生まれた縄文系日本人よりも先住していた事から
「アイヌは先住民族」と言える。

 例えば、着用が任意だった「コロナマスク」でも、他の全員が着用している場所では「憲法で保障された基本的人権」を無視し強制された場合でも、「当時の状況ではやむを得なかった」とする最高裁判決は、判事の能力からするとやむを得ないww

 例えば、任意接種の「コロナワクチン(治験中)」を「お願い」に応じて自主的に接種した場合は自己責任なので、たとえ担当大臣が「全責任をとる」とは言っても、大臣の最大の責任の取り方は「辞任」であり、「この大臣」の責任には「被害者の救済」は含まれない。

 例えば、「共産主義」は絶対に正しいので何をしても許される。民主主義にしても「死者には発言権は無い」ので、共産主義革命での虐殺や共産主義下での粛清は、結果的に正当と言える。何故なら、環境不適合生物が死に絶える事で、人類が進化してきたのは科学的帰結。

 例えば、単に「加齢とともに血圧が上昇し、死亡率も上昇する」にしても、「(年齢区分を取り除き)高血圧と死亡率との相関性」を示す事で、病的な血圧上昇を起こさない塩分摂取を控えさせ、降圧剤を売りつけても問題は無い。

 上記の幾つかは「詭弁」なので、「屁理屈」と混同しないでくださいww

詭弁 ;命題を証明する時に、実際には誤っている論理等を展開する推論。
屁理屈;  〃      、確実には否定できない理論を展開する推論。



「演繹」 と 「帰納」

2023年12月29日 | 思想・思考
 今回は「人の思考手法」について考察します。

① 演繹法(ディダクション);規則「AならばBであり、BならばCである。」が正しければ、「AならばCである」が成立しますが、各要素[A][B][C]の定義が確立(固定化)されている必要が有ります。

 例えば、「米は食料品であり、食料品はスーパーで売っている。」ならば「米はスーパーで売っている」が正しいように思えますが、「人の食料ではない米(動物の餌など)」や「米を売っていないスーパー」「米が品切れ中」の可能性も有り、事実が固定化されていません。

 また、「Bの結果としてAが出来た」としても、AがB以外から出来る場合も有り、自然界では良く見られる「AならばBであるが、例外もある」場合は、「A=B」が常識だとしても、間違いである可能性は残されていて「科学」の対象になります。

 当然ですが、「(正しいとされる)規則」を独裁者や民主主義(絶対多数も含む)で決める場合は「科学的」とは言えず、人類は多くの間違いを経験してきました。


② 帰納法(インダクション);「AならばBである確率が高い」は自然現象を良く説明していますが、「常識」の部類であり「科学」とは言えません。

 「帰納法」は社会生活には必須のアイテムで、「思い込み」も多いのですが、個人で利用する場合は、統計的に処理(自然淘汰)されるので然ほど問題にはなりません。但し、為政者が利用すると「人工(人口)淘汰」に繋がる恐れがあります。

 卑近な例では、「ワクチン接種とマスク着用で、感染症を防ぐ確率が高くなる。」は常識と言われるだけあって、何れも「科学的証拠」は存在しません。寧ろ現実を①の「演繹法」で言うと、

「感染予防対策を徹底した国は混乱が長引いた。」「混乱が長引く国は政治が未熟。」から、

「感染予防対策を徹底する国の政治は未熟。」

が成立し、これが正しいかどうかは科学的に証明でき・・・そうですww


③ 逆行推論法(アブダクション);観察された事実(と思われる)集合を対象に、その成立過程を考察し最良の結論(前提の規則)を得る手法。集合体の個別の事象に対する説明は充足していても、全体を推論した場合には、その「説明の正しさ」から導かれる結論は保証(一般化)されません。当然、「合成の誤謬」もあり得ます。

 例えば、太った人の食生活を観察すると大概はカロリーの取過ぎなのですが、大食いギャル曽根の例があるように、大食いだから太るとは限りません。だからと言って、「事実を精査した結果、食べ過ぎても太るとは限らない」は、結論にはなりません。「例外の科学的根拠」を示す必要があります。

 事故や故障の原因を調査する時には、当然ですが「逆行推論法」が有意です。「結果」が起こる前に何が起きたかを調査して、経験則で分かっている事象をその「原因」とします。但し、「その原因」によって必ず「その結果」が起こる保証は有りません。

 例えば、マスク着用者が増えた原因を調査すると、「風邪の流行」「花粉の大量発生」などが過去の経験から分かりますが、最近の例では「マスクの着用は政府によるお願い」だったり「他人に対する思いやり」「仲間外れにされるのが嫌だ」などがあり、科学的ではないので「逆行推論法」が成立しない場合もあります。

 それどころか、「政府の命令」でもないのにマスク着用者が増えているのは「感染症が大流行しているから」と「演繹法」で解釈されて「エピデミック(パンデミックの地方版)」に繋がる可能性すらあります。

 「逆行推論法」を正しく利用するには、「間違った人為の介入(政治など)」を排除する必要が有ります。共産主義革命は「逆行推論法」を(逆)利用した結果なのですが、「例外」を強調する、現在で言う「Woke;(例外的な)目覚めた人」にありがちな「PoliticalCorrectness;(例外的な)政治的正しさ」を多用した事から、革命には成功してもその結果は悲劇です。

・マスク着用とワクチン接種で、感染症を抑えることが出来る。
・労働者階級が国を統治すれば、平和で平等な社会が生まれる。

などは、科学的に何の根拠もない「うわさ話」なので、結果として混乱を招いただけです。

 「人為」と書いて「偽」と読むww



「壺的宗教」 と 「科学的宗教」

2023年10月04日 | 思想・思考
 「アブラハムの宗教」と呼ばれるユダヤ教、キリスト教、イスラム教では偶像崇拝は禁忌とされていて、神を可視化してはならないとされているようです。但し、「可視化」の定義が定かでない事も有り、「偶像」は十字架の例も含めて、それ自体を崇拝しなければ許されるような気もします。

 噂で聞いた事しか無いのですが、イスラム教では厳密な「偶像崇拝の禁止」があるようで、神を偶像化する事も罪になるようで破壊されるかもしれません。なので、私にはイスラム教徒の前で「神を偶像化しても、そのモノ自体を崇拝しなければイスラム教に反しない」と屁理屈をこねる勇気は有りません。

 「イスラム教の神」は唯一絶対神で、人が確認する事は出来ず、何かに内在する事も無いとされていることから、預言者である「アダム、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマド(等)」は、人ではない事になります。何故なら、「神の声を聞いた」とは言ってもそれが「神」であるかどうかは、人には確認できないからです。

 「神」でも「人」でも無い預言者が何であるかは、私には判らないのですが、「人以外の生物」や「偶像」である可能性は否定できません。また、例え誰かが「偶像」を造ったとしても、それは「神とは無縁なモノ」で有ることはイスラム教徒自身が知っているので、何の問題も無いように思えますが、ムスリムの気に障るようです。

 日本の「神道」は道(道徳)であり宗教では無いのですが、萬物に神は内在すると考える事から、「最終宗教戦争」は[イスラム教 Vs 神道]になる可能性があります。神道の「内在神」と、イスラム教の「唯一神(アッラーフ)」とは、日本語で「神」とは書いていますが、定義そのものが違うので、話し合いで解決する問題ではありません。

 私は、仏教葬儀で神妙になり「お経をモゴモゴ言ったり」、神社などでお参りする時は「両手を合わせる」のですが、それは単なる「演技」です。それは、コロナ対策禍での「マスク着用」と同じで、「マスク効果」を自ら否定していながら諍いを避ける為にマスクを着用するのも、単なる演技です。一部の「イスラム教徒」は、そのような「神社仏閣の内在神」を破壊する例が多発しているそうです。

 但し、私は「神は萬物に内在する」ことは科学的にも信じています。当然、「絶対神(GODなど)」と「内在神(現在のところヒッグス粒子?)」とは、その定義が違うので比較しようが無いのですが、「絶対神」を信ずる人からは「邪教の信者」に見えると思います。

 標語である「多様性と包摂」の観点から見ると、日本が「多様性の無いイスラム教」を受け入れると云う事は、「多様性が無い事」を認める事になり「包摂の否定を許容する」と云う矛盾を生じます。

 「自由と平等」「多様性と包摂」など、反意語を並べる標語は混乱を齎すだけなので、DSの「思う壺」です。