テレビとうさん

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智識はバカを人にする。
信じるか信じないかは、自分次第です。

「倫理」 と 「道徳」 ② Ⅱ

2020年02月04日 | 倫理・道徳
 【ネタ切れに付き、過去記事の「編集・加筆」です。】

  「道徳教育は思想の押し付けだ。」と言う人がいますが、「道徳」は「思想」ではなく「思考」なので、洗脳教育でない限り、押し付けられる事は有りません。現在では一部の教師が生徒に「自虐史観」を教え込み、「偽善的な平和思想」を押し付けようとしてますが、これこそが「倫理観」の押し付けと言え、憲法の保障する「思想、良心の自由」に違反します。

  「道徳」とは、自分自身が自分の行動を正しいと思う観念です。他人の行動を参考にはしますが、自分自身で善悪を判断する必要があり、他人から「強制」されるものでは有りません。

 井上毅(いのうえ こわし)と元田永孚(もとだ ながざね)によって起草された「教育勅語」には「朕惟フニ・・~~・・我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス(私が思うに、・・~~・・これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。 )」と書かれています。

 「・・~~・・」の内容は、明治天皇の「純粋経験(道徳)」であり、「教育(倫理)」は「道徳」に基づくとされています。

 文末には「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ (私は国民と共に常に心中に銘記し、皆でこの徳を共有することを切望する。)」と、明治天皇が自ら「国民と道徳観を共有したい。」と書いています。

  「倫理」とは、他人との関係性や、他人から見て正当と思われる観念なので、法律や規則が必要になり、「儒教」も「倫理」の経典として利用されました。

 儒教では「五倫」にある様に、先祖を敬う義務が有り「先祖は正しい」事が大前提です。これを拡大解釈し、自分の先祖の悪事を隠し、良い事だけを選別して記録に残します。それどころか、実際には無かった事でも「善人の先祖」を創作する事も良いとされる場合があります。一方、他人の先祖は良い必要は無く、他人の「悪い先祖」を創作してでも、自分の先祖を相対的に善人とする事も有りがちです。これが一部の儒教国家での「倫理観」になっています。

  多くの組織では、組織内部に「倫理(審査)委員会」を立ち上げ、自浄作用を発揮しようとしていますが、あくまでもこれは内部の倫理であって、外部から見ると違和感を覚える事が有ります。それどころか、その内部組織である「倫理委員会」が外部に対して強制する場合が見られます。また、これに本来従う必要のない外部組織が、権威があるとされる「倫理委員会」に、法的根拠が無いにも拘らず忖度し、これに従う例も見られます。

 例えば、放送禁止用語や差別用語には法的根拠がないにも関わらず、心から差別意識の無い人たちに対しても「言論の自由」を脅かします。逆に差別意識のある人達に対しては、その内心まで変えることは出来ず、偽善と言えます。

  「道徳」は思考であって「思想」では有りません。自分の行動の正しさを、自分で判断するのが「道徳」であり、その根拠を八百万の神に求めるのが神道です。神道は道徳を規範としているので、神がどう判断するかを自分自身が決めなければなりません。「神であるスサノウノミコト」のように、他人から見て明らかな悪行も有り、これは「倫理的」とは言えませんが、それを含めて自分で判断するのが「道徳」です。 

 「和を以て貴しと為す」は同調圧力や予定調和ではなく、議論を尽くして調和を諮ることです。「諮る」は決して「謀る」ではありません。「道徳」は自分自身の問題なので、他人と価値観が違っても、「自分の道徳」を他人に押し付ける事は出来ません。

  「倫理」は思想であって、思考では有りません。自分の正しさを他人が判断する事を「倫理」と言い、その根拠を神(God)に求めるのが多くの一神教です。一神教では「神の言葉」を聴いたとする人がいて、その人が正しいと判断した事が正義になり、これに従う事が「倫理」になります。例えこれが不合理だったとしても、従わなければ倫理観の無い人にされ、ガリレオもその被害者の一人です。「倫理」とは同調圧力や予定調和そのものです。

 独善的な人が自分に反対の人達を攻撃する時は「倫理」を武器に出来ます。これを利用して宗教覇権を狙い、悲惨な宗教戦争が起きます。

  つまり、「倫理」は宗教的と言え、「道徳」は「ヒトが人である事を証明する命題」とも言えます。この事からも「道徳である神道」は宗教とは言えません。

  何れにしても人間が判断するので、正当性を与えるだけであり、正しさを証明するものでは有りません。


「支配」 と 「管理」

2020年01月25日 | 倫理・道徳
 支配:
① ある地域や組織に対して、権力者の意のままに動かせる状態に置くこと。
② ある要因が人や物事に影響を及ぼして、その考えや行動を束縛すること。
③ 仕事を配分したり、監督・指揮したりして、部下に仕事をさせること。

 管理:
① ある地域や組織に対して、規準などから外れないように統制すること。
② ある要因が人や物事に影響を及ぼさないように、注意を払うこと。
③ 法律上、財産や施設などを維持し、また、目的にそった範囲内で運用・改善をする事。 

 人間は、「大脳(皮質)」が「本能(:遺伝子)」を制御しているようにも見えますが、実は「本能」だけでは人体を継続的に維持できない為に「大脳」に「管理②」を任せ、「本能」は自身の遺伝子を次世代に繋ぐことに専念しています。これを、「遺伝子」が「本能」を「支配②」すると言います。

 自分が欲望を「支配②」する場合の、自分とは「大脳」の様にも見えますが、実は「本能」の食欲によってエネルギーが補給されています。つまり、「大脳」は「本能」によって「管理②」されていると言えます。

 自分が「倫理観のある人」と言われる場合は、自分の欲望を自制心で抑え込んでいるようにも見えますが、実は自身の大脳の勢力争いでしかなく、「倫理」自体も「他人から見て、他人である当人に有利な状態」でしかないので、自身にとって最良の状態とは限りません。

 自分が「道徳観」のある人と言われる場合は、それを言った人は「無知」か、或いは「洗脳」を試みようとする人です。「道徳」は通常「純粋経験」によって得られるので誰にでもあり、テロ行為も当人にとってみれば善悪以前の行動なので「道徳的」と言えます。絶対神を利用した洗脳がこれに当たります。この「道徳観」は、欲望も自制心も関係なく、朝の挨拶に「お早う御座います。」と言うのと変わりは有りません。

 35億年前に遺伝子が誕生し、小脳、大脳が生まれ、人類が妄想と共に誕生しました。後から生まれた方が正しいと思うのを「進歩主義」と言い、「共産主義者」がこの罠に嵌まり、現在は「グローバリスト」が同じ轍を踏もうとしています。

 生物は「遺伝子の命令」に従って生きているだけです。


「多様性」 と 「自由主義」

2019年12月27日 | 倫理・道徳
 Wikipediaには、「自由主義」とは「自由と平等な権利に基づく政治的および道徳的哲学である。」と書かれています。

 以前にも、「倫理」と「道徳」で書いたように、「道徳」は「純粋経験の結果」なので、「洗脳」以外では他者の意志が入り込む余地は無く、相対性を持った「学問」の対象ではありません。「学問」には客観性が必須な為「自由主義とは倫理的哲学である。」と言うべきです。

 「和製リベラル(自己保身の自由)」は、他人の自由を否定しているので放って置くとして、世界で蔓延している「リベラル」は「多様な倫理観」の戦いです。ある人が他人の「多様性」を認めると云う事は、多くの場合「矛盾」を生じます。例えば、動物愛護を主張する人には肉食の反対運動をする自由が認められ、鯨肉が好きな人には捕鯨を推進する自由が認められます。この矛盾を解決する手段としては、現在の所「民主主義」が有効とされていますが、多数決で何方かを規制すると「多様性」が失われ、何方かが「不自由」を強いられます。

 動物は、その「純粋経験」によって自らの行動規範を獲得し、適者生存や食物連鎖を含む「多様性」のある自然を形成します。自然に由る事を「自由」と言い、これを人間の思想に取り込むと「自由主義」になります。しかし人間界では、概して「多様性」と「自由主義」とは衝突する場合が多く、それは、「自由主義」は倫理的哲学の範疇であり、「多様性」は道徳によって決定づけられるからです。

 「自然」の「然」は「そのまま在る状態」を言い、ある環境で「自ら」その状態を保つことが「自然」です。「自」とは言っても「個」ではありませんし、「自立」している訳でもありません。「道徳」は自然と相性がよく、食物連鎖として生き物を殺す事は有っても、「多様性」を破壊する事は有りません。

 道徳的な「多様性」のある自然に、倫理的で人工的な「自由主義」が入り込むと軋轢が生じ、「多様性」を破壊します。つまり、「リベラル」が「多様性」を破壊していると言えます。自身は都会に住んで何不自由の無い生活を送りながら、自然環境の大切さを訴える人は、「自然破壊の結果として自分が其処にいる」事を知らないのか、或いは知らないふりをしている「セクシー偽善者」です。

 「自由主義社会」が成立するためには「自由意思による行動」を規制する事が必須になります。それは、誰かの行動は、他の誰かの行動に影響を及ぼす事が十分に考えられるので、自制か規制が必要になるからです。不十分ながらでも「多様性」を保障する為に、「自制」が成立する社会を「自由主義社会」と言い、「規制」が強化された社会を「社会主義社会」と言います。

 「多様性」は周囲が多様である事を意味しますが、何故か「多様でなければならない」と云う「一様な考え」に憑りつかれている人もいます。これも「リベラル」の特徴で、自分が他と違う事を「多様性」の名のもとに、他人を無視してでも自己主張を通す正当性の根拠にしています。


「倫理」 と 「道徳」 ①Ⅱ

2019年12月26日 | 倫理・道徳
 ネタ切れに付き、過去記事の「編集・加筆」です。

道徳: 人間が「無意識」の内に、世の中に存在している正邪・善悪の個人的な認識。
倫理: 人間が「有意識」に於いて、世の中から与えられる正邪・善悪の集団的な認識。

 道徳的行動は自分の価値観に依存し、倫理的行動は他人の価値観に依存します。小学校の「道徳」の教科書には「自分が良いと思う事は、すすんで実行しましょう。」と、書かれていますが「・・・をしましょう。」は道徳的ではなく、その行動が正しいとすれば「倫理的」です。

 自分が良いと思っても、他人は必ずしも善いとは思わない事が有ります。例えば、反基地闘争等に於いて、活動家の多くは平和の為に善かれと思って行動しているとされています。この「独善的な”道徳教科書”」で勉強した人には「道徳的」に正しい行動となりますが、多くの場合は違法行為も含めて「倫理感」の欠如が見られます。近くにいる仲間も、当人と同様に、善かれと思って行動しているので「倫理的」にも正しく見えますが、更に外側の多くの他人の価値観を考えると、「倫理的」な正当性が有るとは限りません。

 「道徳」と「倫理」が相反関係になる事はよくあります。

 自動車の運転で制限速度を10%程度超過しても、流れに沿って走るのならば妥当と考える人は多いと思いますが、これは多くの他人の価値観と同じなので「倫理的」に正しいとも言えます。実際、違反行為なのですが捕まる事は殆ど有りません。ところが、これを「道徳的」に正しいと判断し、単独で走っている時も常に超過速度で走行する人がいます。これは「倫理的」には間違っています。

 他人の視線は兎も角、制限速度に拘わらず「自分の判断で安全速度で走行」するのが「道徳」であり、安全かどうかに拘わらず「集団で決めた制限速度以下でで走行」するのが「倫理」です。

【 違法行為 と 主義 の関係性 】
・民主主義: 道徳的には正しい事も有り得ますが、倫理的には必ず間違いとなります。
・自由主義(リバタリアニズム): 道徳や倫理が優先され、法律は付随的に必要になります。
・自由民主主義(リベラリズム): 法律が優先され、道徳や倫理は法律の範囲内で認められます。
・独裁主義: 独裁者の決めた倫理規定のみが有効となり、それが法律になります。当然ながら自分自身が善悪を決めることは出来ないので、道徳の観念自体が否定されます。
・共産主義: 共産党が定める法律に反する事は総て悪事となるので、道徳や倫理は無効です。
・理想主義(ユートピア): 論理的に存在し得ないのですが、道徳や倫理だけで行動し、法律の存在そのものが無効となります。

 江戸時代は「道徳的」に正しい事は絶対で、更に「倫理的」に正しければ違法行為でも名誉は保障されました。但し、切腹等、自ら裁断を下す必要があります。これは、死を含めて自ら総てを決定すると云う意味からすると、リバタリアニズムとも言えます。自由主義の行きつく先は「江戸主義」かも知れません。


「倫理」 と 「道徳」④

2019年12月09日 | 倫理・道徳
 空間の歪み(光速波動)が「ヒッグス機構」の作用を受け、その「動き難さ」によって素粒子が生まれ物質が誕生するのですが、「倫理」や「道徳」にも同じような作用がある様に思えます。

 脳は、本来は自由な思考が出来る筈ですが、「神」によって「動き難さ」を与えられ「道徳」が生まれるとも言えます。生物には「萬物に神は宿る」事を原理として遺伝子に組み込まれていて、本来の日本人はその特性を失われていないので、容易に「道徳」を身に付ける事が出来、その「道徳」は自らの行動に制限をかけ、自分自身に「動き難さ」を与えます。それは、日本人の抑制されて行動に見て取れます。

 一神教を信じている人、特に「キリスト教徒」は「アダムとイブの犯した罪が全人類に及ぶ」と、二千年以上に亘り刷り込まれてきた為、PTSDに陥り、「純粋経験」を自ら否定し、或いは否定しなくても、家族など周囲の人から否定される為に、「純粋経験」で得た「道徳心」を失い、その隙間に「倫理観」を押し込まれ、一見すると「人道的」にも見える「独善的な正義感」の持ち主に変貌すると思われます。それは、日本人以外の自由奔放な行動に見て取れます。

 「あらゆる神」を信じない人は、単なる「独善」なので、一神教の方が「無神論の唯物論者」よりはマシかも知れません。ここで言う「神」は「内在神」や「ゴッド」以外にも、物質の根源である「波動とヒッグス機構」等を含んでも問題はないと思います。つまり、「唯物論」とは言っても「モノの本質」を信じている人は「ヒッグス機構」を信じている事になり、ただそれを「神」と認識していないだけかも知れないからです。

 逆に、「神」がモノに実態を与えている事を認識している人でも、それが「ヒッグス機構」である事を知らないだけとも言えます。

 最近、「倫理」や「道徳」も無く、平気でウソを言ったり、他人の取るに足らない行動をしつこく論う人が、永田町付近で目立つようになってきました。そう云う人に限って、自分の事を言われると、「裁判に訴える」とか「#MeToo」とか言って、相手の意見を封じようとします。これをされると自由度が失われて「動き難く」はなりますが「生産的」ではありません。若しかすると「反物質」を生んでいるのかも知れません。

 「反物質」に、それに対応する「物質」をぶつけると「消滅」します。混沌とした初期宇宙での「物質と反物質の対生成と対消滅」において、ほんのわずかですが、反物質だけが消滅し物質だけが取り残されるケースがあり、無限に近いほどの回数の生成・消滅の結果、宇宙は物質だけで構成されるようになったとされています。

 今の国会は、初期以前の宇宙状態かも知れません。何故なら、反物質と物質が衝突する事は無く、ブーメランのように、生成された「反物質」が、自分自身である「反物質」にしか当たらないので、何も生まれないからです。「国会ビッグバン」が必要かも知れません。