テレビとうさん

知識は人をバカにする。
智識はバカを人にする。
信じるか信じないかは、自分次第です。

「世界の多様性」 と 「地域の多様性」

2024年03月13日 | 倫理・道徳
 日本は「多様性を包摂する国」らしいので、多様な意見を書こうと思いますww

・多様性を包摂する国家ならば、国家として土葬が原則禁止の場合でも、土葬を習俗とする民族の入国と土葬を認める必要がありますが、総ての地域で認められると日本の「多様性」は失われます。

・多様性の包摂国家ならば、公共の場での裸身が原則禁止でも、裸族の入国と公共の場での裸を認める必要がありますが、総ての地域で認められると「多様性」は失われます。但し、自由移民党の政治団体が特定の場所で「公費で裸族を招き、口移しでチップを渡す」のは「多様性の包摂」と言えるかもしれませんww

・多様性を認めるのなら、銃の携行が認められている国からの入国者は、銃の携帯が許される可能性があります。

・「不法入国者」は犯罪者ですが、多様性を包摂すると「違法行為」ではなく、「非正規移民」とか「入国未申告者」と言うそうですww

・アメリカでは、「正規移民」と「非正規移民」との間で論争や暴力沙汰が起きているようですが、これも「多様性の包摂」の一環と言えるかも知れません。

・「不法滞在者」は犯罪者ですが、社会的包摂(社会的弱者を支え合うこと)の観点からは「違法行為」とは言えません。この場合は「法適用外残留者」のようで、多くは任意同行の上、直ちに解放されます。

・民主主義国の国民は、相対多数で選出された議員によって作られた法律に縛られ、その遵法(尊法)者は「社会的包摂」の対象外になります。それは当然で、「相対多数者は強者」だからです。

・「適法入国滞在者」は当該国の法律に従った人なので、滞在国による「社会的包摂」の対象外となりますが、法律に従わない国民や外国人は、絶対少数者なので「社会的包摂」の対象者です。

・憲法第十四条(すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。)に書いてあるように、総ての遵法国民は「社会的包摂」の対象外です。

・同様に「LGBTQ・・・XYZ」でも、日本人である限り「社会的包摂」の対象外なので、これに特化した法律・条令は憲法違反となります。

・外国人で「土葬・水葬・風葬」を望む人に対しては、これを認めなければ「社会的包摂」は成立しません。

・多様性包摂国家が、「多様性を認めない民族」を大量に受け入れると、その国は「多様性」を失います。

・地球の全地域に、世界の多様性を根付かせると、世界は一様になり「多様性」は失われます。

・地球の全地域で、国や地域の独自性が保証されれば、多様性のある世界になります。



「倫理」 と 「道徳」 ⑤

2021年09月21日 | 倫理・道徳
  世の中には私の様に「偏屈な人」も多いとは思いますが、実は、それは「自分に素直(能動的)」だからです。

 逆に「素直な人」は、例えば、敵対する人の主張でも「素直(受動的)」に受け入れます。それは「自分に素直」ではないからです。

 多くの人が良いと思う事象を「倫理的」と言います。例えば、国民の多くが「開戦すべき」となびいた時の「倫理的行為」は、戦争に参加する事になります。これは民主的でもあり、総体として否定は出来ないのですが、ここに「偏屈な人」が入り込むと厄介なことになります。

 その「偏屈な人」が信念として「戦争に反対」ならば、自分に素直な行動は「非倫理的」な行為を取る事になります。但し、それは「道徳的」です。

 以前、「中国が攻めて来たら、直ぐに白旗を上げれば戦争にはならない」と言ったテレビタレント(才能が有るかどうかは分からない)がいましたが、この人は「素直(受動的)で良い人」かも知れません。しかし、経験にでは無く歴史に学べば、それは更なる戦争を誘発し、終戦後の粛清・虐殺が待ち受けている事は容易に理解できます。

 タレントの無い「タレント」にこれを理解させるのは困難なので、如何に偏屈な私でも閉口します。これは「道徳観(他人の道徳)と道徳感(自分の道徳)の違い」なので、説得する事は出来ません。

 そこで「倫理」が役に立ちます。凡そ「タレント」と自称する輩は「倫理」を持ち出されると日和ります。勿論、タレントのある「タレント」は、それにもめげずツッパるのですが、多くの場合はテレビ画面から消え去ります。

 この「倫理」を最大限に利用したのが「西洋型(戦後)民主主義」です。その過程や善悪は兎も角、結果として最大多数を得た事象を「倫理的」とし、国民を強制します。

 カメの鼻にストローが刺さっていたり、魚の内臓からプラスチックが出てきた映像を見せ付けると、プラスチック製品の使用は「非倫理的」とされ法制化されます。石油精製時の廃棄物から製造されたレジ袋を使わないで、その多くは有用な石油製品から製造されたマイバッグを使用すると云う「非合理」が蔓延ります。

 これは「倫理観」が勝利した一例ですが、「非道徳」です。例えば、カメの鼻の穴にストローが偶然入る確率と「人間がカメの鼻にストローを故意に差し込む確率」、或いは、自然の好きなダイバーがサンゴ礁に傷を付ける確率と「新聞記者がトピック欲しさや世論誘導の為に、自らサンゴに傷を付ける確率」。これらを考えると、「倫理」とは単なる思い込みを利用した民主主義的な誘導に過ぎない事が分ります。

「常識とは、十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。」
           by Albert Einstein

「倫理とは、十八歳以降に身につけた偏見のコレクションのことをいう。」
「道徳とは偏見そのもので、生涯自分を自分たらしめるアイテムである。」
           by Arbeit Einstein



「道徳」 と 「宗教」

2020年09月20日 | 倫理・道徳
「神仏習合」は科学的見地からすると明らかに間違いなので、宗教では無い「神道」と、宗教である「仏教」を分離するのは合理的と言えます。

「神道」は「記紀」を起源としていて、「記紀」は当時としては正しいとされた「歴史」ですが、「史実」とは限りません。。
「仏教」は「釈迦」の教えを起源としていて、その「教え」が正しいとされる「宗教」ですが、「真理」とは限りません。。

「釈迦」が最初に「総てを悟ったと感じた」時には「この真理は世間の常識に逆行するものであり、法を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」と思ったそうです。つまり、ここまでは「宗教」では無く、
「道徳感」の認識に過ぎないと言えます。

ところが、梵天(神)が現れ「衆生に説きなさい」と繰り返し請われたことから、世の中の煩悩の汚れが少ない者たちに教えを説けば理解できるだろうと思い「開教」を決意したそうです。少し「宗教」に近付いてきましたが、まだ「道徳」の範疇です。

釈迦が死ぬ直前に、弟子の阿難陀に対し悟りに至る為の「四念処観」を示していた事から、阿難陀は瞑想をして「アーナンダ、そうだったのか」と阿羅漢に到達し、「記憶に基づいて」釈迦の教えを口述し、経典が編纂されたそうです。これが「仏教」の始まりですが、この時点では経典は完成せず、後に多くの「弟子」によって多くの「仏典」が編纂され、多くの宗派が生まれました。「仏典」には「教え」と「規範」が書かれていて、従う義務が課されています。これを「宗教」と言います。「宗教」が正しいとすると「真理」は宗派の数だけある事になります。

「記紀」には、何が正しいのかが書かれていないので、読んだ人が各自判断する必要があります。それは「偽史」と判断しても「正史」、或いは「事実」「虚構」と判断してもでも構わないのですが、少なくとも概略は千年以上「肯定的」に扱われてきました。現在に於いても何が事実かが判らないので、最高裁判決を「正しい」としているだけであり「それが真実」である証拠は有りません。

「穢れ」は神道では、「否定的な自然現象」の事を言い、例えば「血が体から出る自然現象」は男女問わず「穢れ」とされています。当然「糞便や出血した状態の男女」には祭祀の資格は有りません。「穢れ」とは「気枯れ」の状態を言っているだけであり、「死ぬ現象」は「穢れ」ですが、「死者」が穢れている訳では有りません。「記紀」にも、死んで「黄泉の国へ行ったイザナミ」では無く、生きていながら「黄泉の国に行ったイザナギ」が「穢れた」とされています。これは、死んだ人の後を追ってはいけない事を「穢れ(気枯れ)」で暗示していますが、決して、強制的に教えている訳では有りません。

外国では「女性」を穢れた生物として扱う場合も有るかも知れませんが、「神道」では男女問わず「穢れた状態」を忌避しているだけです。また「穢れ」は禊祓(みそぎ・はらい)で払う事が出来、「穢れ」自体は罪では無いので罰を受ける事もありません。言い方を変えると「罪によって穢れる」場合と「自然現象によって穢れる」場合があり、罪によって「穢れた」場合ても、自然現象の「穢れ」でも、「穢れ」は「禊祓」によって払われると言えます。罪によって「懲役刑(穢れ)」が科されても、服役を完了する事で罪人では無くなるのと似ています。

誤解があるようですが、豊穣の神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、「記紀」には明記されていないようですが「女性神」とされ、大相撲の土俵に女性が上がれないのは「女性神が嫉妬」するからと言われています。「穢れ」とは何の関係もありません。

「神道」は「宗教」では無く「道徳」なので、各人が「正しい思っている事」が各人にとって正しいのであって、他人の主観が入り込むことは出来ません。これは、「昭和憲法」にすら「思想信条の自由」が書かれている事なので、「大相撲の土俵」に女性が上がりたければ憲法を改正する必要があります。「女性の思想は男性に優越する」と。

「道徳」とは「自分が正しいと思う事」で、「宗教」では「教祖が正しいと言う事」に従います。また、「倫理」は「他人が正しいと思う事」を言います。



「嘘」 と 「思い込み」 ②

2020年07月14日 | 倫理・道徳
  蝦夷地(北海道)では、15世紀以前から和人とアイヌとの交易が行われていた記録がありますが、17世紀ころから和人・アイヌ共にある程度統合され、江戸時代になると蝦夷地の和人側の交易は松前藩に独占されるようになりました。つまり、アイヌではなく和人の自由取引を規制したと言えます。

 松前藩がアイヌを統制しなかったためにアイヌ同士の争いが絶えず、その中で頭角を現してきたのが
「シャクシャイン」です。その頃に、アイヌの首長の一人が感染症で死亡し、これが「松前藩による毒殺」と流布され、1669年6月に勘違いした「シャクシャイン」が他のアイヌ部族に呼びかけ、記録に残っているだけで婦女子を含む356人の和人を殺害しました。一方、アイヌの被害は30名ほどだったようです。

 これが「シャクシャインの戦い」の原因ですが、「本戦」では「松前藩側に付いたアイヌ」の方が「シャクシャイン側」よりも多く、同年11月には和睦に応じましたが、その後謀殺されたそうです。今では「シャクシャイン」は英雄として銅像にもなっていて、観光などでこの銅像を見た人は「侵略者である和人と、勇敢に戦ったアイヌ民族の英雄がシャクシャイン」であると「思い込み」、評論家や学者までが信じ込んでいるようです。

 
「嘘と思い込み①」でも書きましたが、「純粋経験」によって得た「意識」は何気ない時に、それが恰も真実であったかのように語られます。良く考えれば矛盾が有る事は判るのですが、何気なく一度口外すると引っ込みがつかなくなり、特に知的水準が高い人ほど無意識に自己肯定をして、相手をネジ伏せる傾向があります。

 「嘘」でも「思い込み」でも、無意識に目の前の現象を見ていると大人でも「純粋経験」に陥ります。これを利用したのが「サブリミナル効果」で、意識と潜在意識の間の視覚・聴覚・触覚に刺激を与えると得られるとされる洗脳効果です。

 「純粋経験」では、子供(幼児)が無意識に大人の様子を繰り返し見て「道徳」になり、これは「正当」である保証は無いのですが、大人に成っても正しいと「思い込み」ます。ところが「サブリミナル効果」は、他人の誰かの「道徳」を押し付ける事になり、「倫理」として信じ込まされます。「道徳」の押し付けは、例えその道徳観に正当性が有っても、意識的に他人に影響を及ぼす場合は「嘘」と言えます。それは
「道徳」ではなく「倫理」だからです。「自粛警察」も「道徳」と「倫理」をはき違えた事で発生した現象です。

 7月12日に
「ウポポイ民族共生象徴空間」が開業しました。其処には「アイヌは先住民族である」と云う *表現* 展示は無かったようですが、「先住民族」であると云う証拠は一切ないので当然とも言えます。しかし、2008年に国会では「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択されました。これは、歴史(科学)の正しさと、民主主義の正しさの何方を選択するかの問題ですが、取り敢えず「民主主義よりも科学の方が正しい」とされたようです。

 アイヌ語の「ウポポイ」はシャモ語では「(大勢で)歌うこと」を意味しているそうですが、どのアイヌ部族の言葉かは判りません。少なくとも言葉の違う「アイヌの集団」は5部族ほどいて共通語は無かったとされています。また「アイヌ」が、蝦夷地に定住していたどの民族を云うのかも判りません。蝦夷地でアイヌの歴史が確認できる13世紀には、和人系の部族、所謂「アイヌ系の部族」、他にミシハセと推察される「樺太、千島列島出身の民族」も確認されています。何よりも「縄文人」は何処に行ったのでしょうか?

 「民族共生」ならば、民族は複数いる事になりますが、「ウポポイ」には「縄文人」と「アイヌ」しか共生していないようです。「日本民族」は何処に行ったのでしょう?

 「科学」で証明された少数意見の正しさが、「嘘」と「思い込み」による民主主義で掻き消されそうです。

*展示は無かったようですが、映像では「アイヌは先住民」の表現が有ったようです。

「嘘」 と 「思い込み」

2020年06月02日 | 倫理・道徳
 子供の頃に「夢(寝てみる夢)」を見て、大人になってから思い出しても、それが「夢だったのか現実だったのか」の確証が持てない時が有ります。また、「過去の事件」で強烈な印象が残った場合、忘れたころに「似た事件」が起こると現実には起きていない記憶と重なり合って、恰も現に「強烈な事件」が起こっていると錯覚する人もいるようです。

 これは、他人には見えない虚象(虚像)なのですが、「実際に見える」と思う人にとっては「事実」となります。この現象で「本人にとって不利」になると判断された場合にはPTSDと診断される事もありますが、「本人とって有利」に思える場合は「嘘」や「思い込み」と判断されます。

 「虚言癖」のある人は、「自分がウソをついても何の得にもならない」と言って「ウソ」をつきます。また、妙に自尊心の高い人が「他人から助けられた」ことが有っても、自分が助けられた事を否定したり忘れるために「自分は助けられる価値のある人間だ」と「思い込む」のも自然な行為で、裏切りとか「嘘の意識」は有りません。

 幼少期の「
純粋経験」で、嘘で儲けた人や嘘で損した人に対して「強烈な印象」が残っている場合は、「嘘」が本人の「道徳」として定着しやすいので、他人がこの「特有の道徳心」を正す事は難しく、若しもその人が「良い人」なら「倫理」を教える事で本人の「気づき」を俟つしかなく、「悪い人」なら無視する以外に手の打ちようは有りません。「悪い人」にも人権派弁護士が付いているので、糺すと逆に「人権侵害」で訴えられます。

 現在の法律(刑法)では、「罪を犯すと罰せられる」事は書いていますが「悪い事をしてはいけない」とは書いていません。
 
第三十五条 法令又は正当な業務による行為は、罰しない。
第百九十九条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。
第二百四十六条 人を欺いて財物を交付させた者は、十年以下の懲役に処する。

等、罰するか罰しないかを書いているだけで、「罪を犯してはならない」とは書いていません。それなりの覚悟が有れば、或いは「罰」を望むのなら、犯罪を推奨しているようにも見えます。

 日本人の様に見える法学部を卒業した国会議員や官僚などにも平気で「嘘」を吐く人がいますが、自分自身は正しいと「思い込んでいる」のかも知れません。それは、法律には「”正しい”行為は罰しない」と書いてあると「思い込んでいる」ような気もします。

 「正しい」かどうかは自分の判断で決めれますが、「正当」の場合は法律や道理にかなっていなくてはなりません。