「道徳」は個人的な思考であり、「もの心」がついた頃にはほゞ備わっています。英語で「道徳」は「モラリティ」で、「もの心」は「ディスクレション」です。ところが「モラル」は日本語で「倫理(観)」の意味合いが強く、第三者から見た基準です。また「ディスクレション」は「裁量・思慮分別」の意味で、「もの心」の本来の意味である「世の中の物事や人情について、おぼろげながら理解・判断できる心。」とは少し違います。
「純粋経験」の積み重ねによって「道徳(心)」が生まれるのですが、自己認識が出来るようになると「純粋経験」が難しくなるため、形成された人格を持った人間に「道徳を教える」事はその定義上不可能と言え、「道徳」と「価値観の押し付け」とは何の関連性も無い事が理解できます。
純粋経験:反省を含まず、主観・客観が区別される以前の直接経験。
「道徳の押し付け」を可能にするのが「洗脳」で、人格を破壊し無意識状態で「純粋経験」を強制します。これで思い通りの新しい人格が形成され、ロボットとして利用可能になります。これは特別な事では無く、一部の「優秀な大学での教育」で普通に見られ、一方的な「知識」を自分の判断を許さない状態で詰め込みます。大学とは、本来「学問の府(問いを学ぶ場)」なのですが、偏った「知識」を教える場と化しています。
「倫理」は思想なので、社会性を持っています。現在では一部の教師が生徒に「自虐史観」や偽善的な「平和思想」を押し付けようとしてますが、これは「価値観」の押し付けと言えます。「倫理」は社会性を持っているので、「道徳」とは違い、反省や主観・客観の区別が必要な「疑似(間接)経験」で教える事が出来ます。勿論、本や新聞を自主的に読むことでも「倫理」は構築されます。
これを利用したのがGHQによる事後検閲と焚書です。今でも「倫理の強制」が続いていて、報道機関は偏った報道をして、「焚書」の如く真実のニュースを消し去ろうとします。また、「事後検閲」の如く真実を言う人に対しては「ヘイト認定」によって口を封じようとします。
「道徳」とは、自分自身が自分の行動を正しいと思う観念です。他人の行動を参照しますが、他人から「強制」されることも、他人を「強制」する事もありません。古事記では神や天皇が行った事を書いているだけであり、「正しさの強制」はしていません。これは「道徳的」です。
「倫理」とは、他人との関係性や、他人から見て正当と思われる観念なので、法律や規則が必要になり他人から「強制」されます。聖書では人間のすべきことが書かれていて「正しさを強制」しています。これは「倫理的」です。「倫理」は英語で「エシックス」で、「エシックス」は日本語で「倫理」です。
欧米には、日本語で言う「道徳」の概念そのものが無いと思われます。若しかすると、日本以外には無いのかも知れません。明治以降、日本の欧米化が進み、日本からも「道徳」の概念が無くなってきたように思えます。
「道徳教育は思想の押し付けだ。」と言う人がいますが、「道徳」は「思想」ではなく「思考」なので、洗脳教育でない限り、押し付けられる事は有りません。
現在では一部の教師が生徒に「自虐史観」を教え込み、偽善的な「平和思想」を押し付けようとしてますが、これこそが「倫理観」の押し付けと言えます。
「道徳」とは、自分自身が自分の行動を正しいと思う観念です。他人の行動を参考にはしますが、自分自身で善悪を判断する必要があり、他人から「強制」されるものでは有りません。
井上毅(いのうえ こわし)と元田永孚(もとだ ながざね)によって起草された「教育勅語」の文末に「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ (私は国民と共に常に心中に銘記し、皆でこの徳を共有することを願う。)」と、明治天皇が自ら「国民と共に実践したい」と書かれていています。これが「道徳」であり、「倫理」では有りません。
「倫理」とは、他人との関係性や、他人から見て正当と思われる観念なので、法律や規則が必要になり、「儒教」も「倫理」の経典として利用されました。
儒教では「五倫」にある様に、先祖を敬う義務が有り「先祖は正しい」事が大前提です。これを拡大解釈し、自分の先祖の悪事を隠し、良い事だけを選別して記録に残します。それどころか、実際には無かった事でも「善人の先祖」を創作する事も良いとされる場合があります。
一方、他人の先祖は良い必要は無く、他人の「悪い先祖」を創作してでも、自分の先祖を相対的に善人とする事も有りがちです。これが一部の儒教国家での「倫理観」になっています。
多くの組織では、組織内部に「倫理(審査)委員会」を立ち上げ、自浄作用を発揮しようとしていますが、あくまでもこれは内部の倫理であって、外部から見ると違和感を覚える事が有ります。それどころか、その内部組織である「倫理委員会」が外部に対して強制する場合が見られます。また、これに本来従う必要のない外部組織が、権威があるとされる「倫理委員会」に、法的根拠が無いにも拘らず忖度し、これに従う例も見られます。
例えば、放送禁止用語や差別用語には法的根拠がないにも関わらず、心から差別意識の無い人たちに対して「言論の自由」を脅かします。逆に差別意識のある人達に対しては、その内心まで変えることは出来ず、偽善と言えます。
「道徳」は思考であって、思想では有りません。自分の行動の正しさを、自分で判断するのが「道徳」であり、その根拠を八百万の神に求めるのが神道です。神道は道徳を規範としているので、神がどう判断するかを自分自身が決めなければなりません。「神道の神」は自分自身を含めて萬物に内在しているので、正しさには調和が必要になります。
「和を以て貴しと為す」は同調圧力や予定調和ではなく、議論を尽くして調和を諮ることです。「諮る」は決して「謀る」ではありません。「道徳」は自分自身の問題なので、他人と価値観が違っても、「自分の道徳」を他人に押し付ける事は出来ません。
「倫理」は思想であって、思考では有りません。自分の正しさを他人が判断する事を「倫理」と言い、その根拠を神(God)に求めるのが多くの一神教です。一神教では「神の言葉」を聴いたとする人がいて、その人が正しいと判断した事が正義になり、これに従う事が「倫理」になります。例えこれが不合理だったとしても、従わなければ倫理観の無い人にされ、ガリレオもその被害者の一人です。「倫理」とは同調圧力や予定調和そのものです。
独善的な人が自分に反対の人達を攻撃する時は「倫理」を武器に出来ます。これを利用して宗教覇権を狙い、悲惨な宗教戦争が起きます。
つまり、「倫理」は宗教的と言えますが、「道徳」とは「ヒトが人である事を証明する命題」とも言えます。この事からも「神道」は宗教とは言えません。
何れにしても人間が判断するので、正当性を与えるだけであり、正しさを証明するものでは有りません。
道徳的行動は自分の価値観に依存し、倫理的行動は他人の価値観に依存します。小学校の道徳の教科書には「自分が良いと思う事は、すすんで実行しましょう。」と、書かれていますが「・・・をしましょう。」は道徳的ではなく、その行動が正しいとすれば倫理的です。
自分が良いと思っても、他人は必ずしも善いとは思わない事が有ります。例えば、反基地闘争等に於いて、活動家の多くは平和の為に善かれと思って行動しています。この道徳教科書で勉強した人には、道徳的に正しい行動となりますが、多くの場合、違法行為も含めて倫理感の欠如が見られます。近くにいる仲間も、自分と同様に、善かれと思って行動しているので倫理的にも正しく見えますが、更に外側の多くの他人の価値観を考えると、倫理的な正当性が有るとは限りません。
自動車の運転で制限速度を10%程度超過しても、流れに沿って走るのならば妥当と考える人は多いと思いますが、これは多くの他人の価値観と同じなので倫理的に正しいとも言えます。実際、違反行為なのですが捕まる事は殆ど有りません。ところが、これを道徳的にも正しいと思い込み、単独で走っている時も常に超過速度で走行する人がいます。これは倫理的にも間違っています。
・民主主義国家での違法行為は、道徳的には正しい事も有り得ますが、倫理的には必ず間違いとなります。
・自由主義(リバタリアニズム)国家では、道徳や倫理が優先され、法律は付随的に必要になります。
・自由民主主義(リベラリズム)国家では、法律が優先され、道徳や倫理は法律の範囲内で認められます。
・独裁国家では、独裁者の決めた倫理規定のみが有効となり、それが法律になります。当然ながら自分自身が善悪を決めることは出来ないので、道徳の観念自体が否定されます。
・共産主義国家では、共産党が定める法律に反する事は総て悪事となるので、道徳や倫理は無効です。
・ユートピア国家は論理的に存在し得ないのですが、道徳や倫理だけで行動し、法律の存在そのものが無効となります。
江戸時代は道徳的に正しい事は絶対で、更に倫理的に正しければ違法行為でも名誉は保障されました。但し、切腹等、自ら裁断を下す必要があります。これは、死を含めて自ら総てを決定すると云う意味からすると、リバタリアニズムとも言えます。自由主義の行きつく先は江戸封建社会かも知れません。