漫画家アシスタント物語 1~3章 22年改訂版 

ブログ「漫画家アシスタント物語」の第1章から第3章までをまとめました。 初めての方は、どうぞこちらから!

漫画家アシスタント物語 第2章 22年改訂版 後半

2022年12月04日 21時45分12秒 | 漫画家アシスタント

          
( この写真は、かわぐち先生が引っ越された三鷹市にある井の頭公園です。《2005年4月撮影》 )  


 【 はじめての方は、どうぞ 「第1章 改訂版」 よりご覧ください。 】


               その13 ・・・・・・・ 2005年05月某日 (公開)


かわぐち先生の所で仕事を始めて、すぐに先輩が一人故郷へ帰りました。 

どうしても家業を継がなくてはならず、漫画家志望をあきらめ、残念そう
に帰郷しました。( 1976年 初夏 )

そして、また新しい漫画家志望者が・・・・・


夏にはかわぐち先生の故郷、広島尾道の向島で2ヶ月ほど共同生活をしなが
ら仕事をしました。 

私にとっては暑くて苦しいタコ部屋生活でしたが、先輩のアシスタントのN
さんは違うようでした。楽しい思い出として後に自身のホームページで回想
されています。

ちなみに、Nさんは今、震災のあった神戸でデザイン会社をやっておられま
す。

尾道の向島というのは、瀬戸内海の小島です。

映画館も喫茶店もありません。東京出身の私にとっては、「 北の国から 」
で突然北海道に連れてこられた「 純 」の心境です。 クーラーの効いた喫
茶店でコーヒーを飲むためにフェリーで海を渡って本土へ行かねばならない
なんて・・・・・・・

実は、この向島での事を思い出すと辛いのが・・・・・

小さな外科病院で受けた「 包茎手術 」( 陰茎の余分な皮を切除 )です。

手術の激痛と、その術後の痛み、茎部をぐるりと巻かれた包帯から血がにじ
む姿は哀れそのもの!

アシスタントの先輩方は面白がって・・・・・・

 アシスタントH「 これ、漫画にしろよ! きっと受ける! 」

 私    「 冗談じゃありませよ! 痛てててッ! 」

 アシスタントN「 小池君、ボクが漫画にしてもいいかい? 」

 私    「 勝手にど・・・・どうぞって、痛ェ~~よォ~~~ッ! 」(涙)


さて、暑い夏も終わり秋になって、かわぐち先生は自宅と仕事場を吉祥寺へ
引越しました。 井の頭公園のすぐそば、玉川上水ぞいのシャレた借家へ・・・・

素敵な場所です。 そこで、私はキレてしまいます・・・・・・。  





          
( この写真は、東京三鷹市の井の頭公園です。この道を通ってかわぐち先生の仕事場へ・・・。公園の道
  は30年前と変わりません。《2005年4月撮影》)


                 その14 ・・・・・・・ 2005年05月某日 (公開)


東京三鷹市、井の頭公園・・・・・。

吉祥寺駅から井の頭公園の枯葉をサクサク踏みながら、玉川上水ぞいのか
わぐち先生の仕事場へ・・・。 ( 1976年 冬 )

山崎ハコや森田童子の曲を聴くたびに、この静かな緑の美しい風景を思い
出します。

アシスタントの入れ替わりは結構早く、一年も経たぬうちにスタッフが半
分入れ替わってしまいます。 

アシスタントのNさんが漫画家として独立。 Hさんも、その年いっぱい
で辞めていく・・・・・。

そして、新人が・・・・・・Aさん、35歳、既婚。 

かわぐち先生より7~8歳も年上の中年アシスタント。 

小柄な元遠洋まぐろ漁船員でものすごく人あたりの良いやさしい人でした。

自分が一番年上の新入りという事で、若いスタッフにそうとう気を使って
おられたのだと思います。 一緒に仕事をしたのは、ほんの1,2ヶ月の間で
したが、そのAさんの言葉でとても印象に残った言葉があります。

 「 毎日、船ん中にいてねぇ たまにケンカしたりすんのよぉ ある
  時ねぇ、片方の奴が包丁持ち出してねぇ・・・・ 」

スタッフ一同、興味津々でAさんの体験談に集中する・・・・

 「 ねぇ、ど~すっと思う? まわりの人間は? ど~すっと思う? 」

スタッフ一同、しばし沈黙・・・・・ ややあって、誰かが・・・・・・

 「 そ・・・・そりゃ誰かが止めに入るんじゃ・・・・ 」

Aさん、その答えを待っていたように・・・・嬉しそうに!

 「 止めれますかぁ? 包丁持って暴れてる奴、止めれますかぁ? 」

Aさん、満面の笑みで沈黙するスタッフ一同を見渡す。

一呼吸おいて・・・・・・

 「 相手方にも包丁を渡してやるです! 」

スタッフ 「 ・・・・・・?! 」

 「 お互いに包丁を持つと安全です。片一方だけが持ってっから刺っ
  しゃうんだよねぇ お互いに持っていると、なかなか刺せないよ
  ねぇ! ホントですぅ! 」


ずいぶん後で聞いたのですが・・・・・

私がここを辞めてすぐに、Aさんもここを辞めたそうです。そして、アダ
ルト漫画家として、独立されたそうです。


しかし・・・・・・

10年ほどたって・・・・ ( 1980年代半ば・・・ )

Aさんの顔が新聞の三面記事に載りました・・・・・・。

奥さんとお子さんの頭を漬物石でつぶしてしまったのです。


恐妻家だったAさん。あんなにやさしかったAさん・・・・・・

そんな人がなぜ・・・・・?

新聞には、犯行理由が何も書かれていませんでした・・・・・。


アダルト漫画じゃ・・・・家族を養うのは大変なのです・・・・・・


 
 

          
( この写真は、東京三鷹市の井の頭公園の近く。玉川上水ぞいの並木です。この辺にかわぐち先生の借家
  がありました。今では当時(1976年)の町並みがすっかり変わってしまいました。《2005年4月撮影》)


              その15 ・・・・・・・ 2005年05月某日 (公開)


どこの公園でも冬景色というものは何か物悲しい。

玉川上水ぞいの並木も寒々としている。( 1976年 師走 )


アシスタントのHさんが、もうすぐ、かわぐち先生の所を辞める・・・・後、
数週間で・・・・・・

アシスタントの仕事場はまるで「 トコロテン式 」のように先輩が辞めて
いく。必然的に後輩がいつの間にか先輩に・・・・・・・


武蔵野の自然の中にあるかわぐち先生のモダンな借家・・・。そこへ毎日、
足を運ぶ事が苦痛で、苦痛で・・・・・・ このHさんとの関係がまさに頭痛
の種だったのです。

その日は潜水艦物の仕事( 29年前の事ですから例の『 沈黙の艦隊 』で
はありません )でしたが、ただでさえペンの遅い私がその日は格別仕事
が遅かったのです。

ふだんアシスタントには小言を言わないかわぐち先生が・・・・

 「 ちょっと遅いよ・・・ 」 と小さな声で。

気があせるばかりでなかなかはかどらない・・・・・まあ、こんな事もたまに
はあります。しかし、12月の年末の忙しさでみんな気が立っていて・・・・

 「 チッ、何やってんだよぉ!いくら何でも遅すぎるぞ! 」 

・・・・と、Hさんが舌打ちしながらデカイ声をあげる。

私の頭の中にはただ一つの言葉がグルグルと渦巻いていました。

 『 やめる・・・絶対やめる! やめる・・・絶対やめる! やめ・・・・・・ 」


   漫画家アシスタント物語、血の教訓


   『 豊かな人間関係を築ける者は、幸せな人生を謳歌するだろう。
     人間関係の苦痛をなめつづける者は、豊かな「キャラクター」
     をペンの先からほとばしらせるだろう・・・・・!』


 
 

          
( この写真は、井の頭公園の入り口にある焼き鳥屋さん。なんと30年前と同様に今でも商売をされてい
  ます。当時、毎日この前を通って仕事場に通いました。)


              その16 ・・・・・・・ 2005年05月24日 22時43分 (公開)


かわぐち先生の仕事場はだいたい夜11時頃に終わる。

その夜は、他のアシスタントが帰った後で、かわぐち先生に仕事を辞め
る事を告げた。 勿論Hさんとの事も話した・・・・・。 ( 1976年 師走 )

スタッフの居ない山荘風の広いリビング、艶やかで静かな仕事場・・・・
・・・・・ 

私はかわぐち先生が、「 H君の事は俺にまかせろ、何も心配するな! 」
・・・・・と、言ってくださるかと思ったのだが・・・・・・・

 「 えェ?! 言われてイヤなら、言い返せばいいだろォ! いつも
  黙っているから、言われるんだよ。 」

責任は「 黙って 」いた私にあるのだろうか・・・? かわぐち先生の話を
聞いている内に・・・・私はしゃべる気力がなくなってしまう・・・・・・・

 「 後、少しでH君は辞めるんだし・・・・・・明日、彼にもよく言っとく
  から・・・・・ 」

・・・・と、言うかわぐち先生の言葉にも、私は「 は・・・ 」とか「 はぁ・・・ 」
とか、ためいきの様な・・・・・・気の抜けた返事を返すだけでした。 

お世話になったかわぐち先生に対していい加減なナマ返事だけして、私
はトボトボ深夜の吉祥寺を後にします・・・・・


かわぐち先生は、明日からも私が来ると信じておられた。

別室で仕事をしていた先生にとって、アシスタント同士のトラブルはほ
とんど耳に入っていなかったのです。

年末の多忙な時期にスタッフが一人欠けたら・・・・・相当キツイわけです。 

後、数日でHさんも辞めるし、年末の一時金も出る。 それなのに・・・・

私は翌日・・・・・・・寝てました。爆睡です。

 「 やっぱり辞めます 」

・・・・と告げたのは、夕方の公衆電話ででした。

 「 年末で忙しい時じゃないか! 今日は来るって言ったじゃないか! 
  みんなが迷惑するだろォ!・・・・・ 」

受話器を置いても、かわぐち先生の震える声が頭の中で響きつづける・・
・・・・・・。


夕暮れの高円寺の住宅街を歩きながら、それでも何故かホッしていまし
た。

 『 明日から仕事探しか・・・・・ とりあえずアルバイトニュースを・・・・ 』

うつむいていた顔を上げる。

もう空は暗い・・・。

 『 明日の事は、明日考えるか・・・・・! 』





          
( この写真は、東京三鷹市の井の頭公園内のベンチです。かわぐち先生の所を辞めて一人ボンヤリして
  いた場所です。《2005年4月撮影》)


              その17 ・・・・・・・ 2005年06月01日 01時13分 (公開)


「 困った事があったら、また来いよ 」

かわぐち先生は、別れ際にそう言った。 頭にくるアシスタントだと思っ
ておられただろうに・・・・・ 『 困った事があっても、もう来るなよ! 』
とかって、仰りたかっただろうに・・・・・・ ( 1976年 師走 )


私は12月分の最後の給料を受け取り、冬の井の頭公園をトボトボ歩いた。

途中で園内のベンチに座り、人気のない公園で枯れ木をぼんやり眺める。

かわぐち先生の所は、あと4~5日は滅茶苦茶に忙しいだろう・・・・・・・ 

せっかく使えるようになってきたアシスタントがこの時期に辞めてしまう
のだから・・・・・・・

でも、私は明日からの生活のメドもたたぬまま公園のベンチで、『 また
1~2週間アルバイトニュースのお世話になるのかぁ・・・・・ 』などと、わび
しく考えていました。

公園わきの道路を自動車が何台も走り去って行くのを見ていると、まるで
自分一人だけが取り残されていく様な孤独感を感じました・・・・・・

今でもハッキリとその時の事を思い出します。


翌日から、さっそくアルバイト探し・・・・・・ もうアルバイト探しもすっか
り慣れているので、時給が高くて、作業も楽そうな仕事はすぐに見つかり、
とりあえず生活はなんとかなりました。

デパート内そば店のホール係、新宿のパブのボーイ、そしてフランス料理
店のカウンター係・・・・・ ( ちなみに、この20数年でこれらのお店はみん
な無くなってしまいましたが・・・ )


そして、はじめて思いました。 自分が大好きな漫画家( 当時2~3人いま
した )のアシスタントになろう・・・・・と。

大好きな漫画家なんだから、これはきっと上手くいく! ・・・・・と。

・・・ついに・・・・・! 一週間しか勤まらなかった先生の所へ・・・・・

当時の青年漫画ファンにとって、敬愛すべき漫画家の一人・・・・・村野守美
先生!

高度な絵画センスと、その背景美術、豊かで愛らしい感性、優しい瞳のキ
ャラクター・・・・・・

憧れだった、村野先生!

 
 
 

          
( この写真は、前回につづいて井の頭公園ですが・・・・・この美しいながめともお別れしました。)


              その18 ・・・・・・・ 2005年06月08日 01時15分 (公開)


はじめて漫画家アシスタントをやる時は、使ってくれるなら誰でも良かっ
たりするのですが・・・・・・

ある程度経験を積むと、どの漫画家が良いか選択するようになるものです。

少し背景処理に自信が付いたので、大好きな漫画家へ飛び込みで会いに行
きました。

当時、漫画ファンの間では絶大な支持のあった村野守美先生。

まず、電話で「 先生に是非、作品を見てほしい・・・ 」と面会を求める・・・・
・・・・・はじめからアシスタント志望と言うと断られる確率が高くなるから
です。

夜、突然見ず知らずの男が電話をする・・・・・・相手にしてもらえるだろうか・・
・・・・・しかし・・・・・・夜遅い時間にもかかわらず面会が即、OKに!

絵を見てもらい、アシスタント志望である事を告げると・・・・これも即、O
K!

かわぐち先生の所で磨いた技術がモノを言ったのか・・・・・・?

調子よく事が運び過ぎる・・・・・・

 『 オレがそんなにラッキーな人間か・・・? 』

・・・・と疑ってかかるべきだった・・・・・・。 ( 1977年 昭和52年 夏 )


東京の西武池袋線、富士見台駅から10分ほどの所にある一戸建て住宅・・
・・・・村野先生の仕事場は6畳ほど、他にアシスタントの仕事場用プレハ
ブ一棟。

ヒゲをたくわえデンと構える先生に絵を見ていただいて、すぐアシスタ
ントになれるとは・・・・・

 『 オレの実力もまんざらではないな・・・ 』

・・・・などと考えたり、運ばれて来た仕出し弁当を見て・・・・

 『 さすが一流漫画家、仕出し弁当か・・・ 』

・・・・などと、アホな事をボンヤリ考えていました。( ちょうど人手が足
らなかっただけなのですが・・・ )

この仕事場の「 緊張 」を思い知るのにたいして時間はかかりませんでし
た・・・・・・


一人のアシスタントが仕事部屋で黙々と仕事をしている・・・・・・

私と同世代で長髪の若者だ・・・・・カッコ良くヘッドフォンを付けている。

さっそく、私は何を聴いているのかたずねると・・・・・・

 「 俺が何聴こうが勝手だろッ! 」

明日からここで仕事ができる事になった・・・・・・。 


 
 

          
( この写真は、漫画家村野先生が当時おられた東京、西武池袋線の富士見台駅です。28年前とはすっか
  り変わってしまいました。《2005年 6月 撮影》)


              その19 ・・・・・・ 2005年06月16日 22時28分 ( 公開 )


正直な話、私は漫画家アシスタントを真剣にやろうと思った事は一度も
ありません。 ( 少なくともアシスタントを始めて20年位は・・・ )       

まじめに「 仕事 」として真剣にやるようになったのは、つい最近の事
です。

私にとっては、漫画を描く事が当たり前なんですから漫画背景の仕事は
「 つなぎ 」「 趣味の延長 」「 まじめな道楽 」・・・・・という感じでした。

しかし、他のアシスタント諸兄は私なんぞとは違い、とても真剣だった
のです。

背景の処理に生きがいを感じている人や、アシスタントの仕事場に入る
と気合が入ると言う人、背景を描いていると充実すると言う人とか、本
当にいろいろな人がいます・・・・・。 

私の様にアシスタントをいい加減にやっている人間は、例外かもしれま
せん。


1977年 昭和52年 夏・・・・・

それまで、新宿のフランス料理店でカウンター係りとして水割りやハイ
ボールを作っていた私は、大好きだった漫画家村野守美先生のアシスタ
ントになりました・・・・・。

仕事初日・・・・・

朝9時頃からと、言われていたのに10時頃行くともう仕事が始まってい
ました・・・!

 『 漫画家の仕事はみんな昼過ぎから・・・ 』

・・・・などと思っていたのは大間違いで・・・・ アシスタントの一人に・・・・

 「 バカヤローッ! 今頃来やがって、これやれっ! 」

・・・・と、どなられて組み立て式の小座卓の上に原稿と消しゴムが投げら
れました。

つまり、最初の仕事は消しゴムかけ。( 原稿の鉛筆書きの下絵を消す ) 

だが・・・・・・

この小座卓は・・・・・・墨とノリでベタベタになっていて、原稿を置けたも
のではない・・・・・・・

まずティッシュでテーブルを拭く事から始め・・・・・・そして緊張しながら
ていねいに消しゴムをかけていると、先ほどのアシスタントが・・・・・・

 「 まだやってるのかっ! 遅せ~ぞっ! 次はトレース!! 」

 ( 先生の描いた一人の兵隊を模写して数十人の兵隊の行進に発展さ
  せる。 トレースの未経験者にはかなり難しい。 )

 『 ト・・・・・トレースって何? 』 

町や森や背景効果は描けるが・・・・・キャラクターのトレースとは・・・・???

生まれて初めて見るトレース台( 曇りガラス版の下に蛍光灯が入ってい
る )・・・・・・

おまけにあの有名な村野先生のキャラクターをトレースして何体も描くと
は・・・・・・

手が震えて描けない・・・・・

時間だけが過ぎていく・・・・・・・・初日から地獄である。 

全然、仕事が出来ないという・・・・・・・無能地獄である!

 
 
 

          
( この写真は、東京西武池袋線、富士見台駅前商店街です。この先にM先生の家がありました。《2005
  年 6月 撮影》)

   
              その20 ・・・・・・・ 2005年06月22日 23時47分 (公開)


ここはまさに「 虎の尾を踏む男たち・・・ 」と言ったところでしょうか・・
・・・・・

1977年 昭和52年 夏。

東京練馬区富士見台の村野守美先生のアシスタントの日課はほぼ以下の
様になります・・・・・・

朝9時、先生宅、仕事場、廊下、階段、トイレ・・・等を掃除、シッカリ雑
巾がけする。

そして、村野先生の仕事机の上は特に注意してかたずける。5~60本もあ
るペン、筆類は整理してならべる。 順番も決まっている。

机周りをキレイに整頓し、書籍やLPの棚もシッカリ雑巾がけする。そ
して、極めつけは犬の世話です。

2匹いる大型犬のクソの始末をし、エサをやる。 これ朝と夕方2回。正
直言って2~3日、仕事( 漫画制作 )らしい仕事はありませんでした。

私が居た頃はちょうど仕事が少ない頃だったので、背景の仕事をしたの
は・・・・・・お世話になった一週間のうちの2日ほどだったと思います。


村野先生は私の絵が大嫌いでした。リアルで緻密な劇画調の背景を何より
嫌っておられました。( 技術があってもセンスが無い )

 「 劇画屋の絵なんかッ! 」

・・・・という言葉を毎日聞かされたものです。

村野先生の絵に対するこだわりや高い理想はとても尊敬できたし、お教え
いただいた事( フランスの絵画技法の何とかカンとか・・・ )も芸術的で崇
高だと思う・・・・・・・・

その意味では、背景の仕事だけやっていれば私には、とてもいい勉強にな
る最高の職場だったのですが・・・・・。

ほとんど仕事らしい仕事がない。

では、何をやっていたのか・・・・・・?

犬の散歩。犬のフン掃除。野球。釣り堀・・・・・・・etc。 

野球といっても、先生は足が不自由で車椅子に乗っているので、バッティ
ング専門。 先輩がピッチャーをやり、私が球拾い専門。

 「 小池(私)、早く球拾え! 」

釣り堀では、金魚を釣るのですが・・・・( 鯉より金魚の方が難しいらしい )

 『 なんで仕事しないで、金魚釣りなんかしているんだろう・・・・ 』

夕暮れ時になると、先生スタッフ一同が自宅へご帰還・・・・・・

夜、食事の支度を手伝い、そして食事後の後かたずけ・・・・・。

皿を洗いながら、いったい自分は何をやっているのか・・・・・ 

スポンジでジャブジャブ・・・・・ジャブジャブ・・・・・・・・泡立ちが悪い。 

毎日、犬のフンをドブへ捨てながら・・・・・・・なぜ自分は今こんな事をしてい
るのか・・・・・・・。

 ポチャポチャッ~ポチャ~~ン

 『 しかし・・・ドブにこんなモン捨てていいのかなぁ・・・もし、途中で詰
  まったりしたらどうなるんだろ~なぁ・・・・また怒られたりして・・・・・ 』

 ポチャチャ~~ンッ

 『 でもぉ・・・ここに捨てるんだよって、○○さん( 先輩アシスタント )
  が言ったんだし・・・・・・・・ 』

時間だけが過ぎていく・・・・・・


 


          
( この写真は、東京西武池袋線、富士見台駅から5分ほど離れた商店街です。この道を曲がった奥に村野
  先生の家がありました。《2005年 6月 撮影》)


              その21 ・・・・・・・  2005年06月29日 21時16分 (公開)


村野守美先生の逸話はたくさんあります。多くは他のアシスタントから「 こ
こだけの話だけどね・・・ 」と、こっそり教えていただきました・・・・・( 1977
年昭和52年 夏 )

逸話のほとんどは、( 有名な )某漫画家とのケンカ話や、手塚先生の虫プ
ロで仕事をしていた頃に、スタッフたちを驚かせた武勇伝など・・・・・

でも・・・・・・特に印象深いのが・・・・・・暴走族を相手に大立ち回りの殴り込みを
やってのけた事( 日本刀で暴走族と喧嘩 )・・・・・・どれも興味深い話なので
すが・・・・・・・・

なにぶん「 伝聞 」による話だし、本人に確認したわけでもありませんので、
残念ながら省略させていただきますが・・・・・

私がいた一週間の間に実際に見聞きした事だけでもお話いたしましょう・・・
・・・・・

まず、出版社とのケンカ・・・・・・・

村野先生が単行本を出版した時・・・・・・印税として約束した金額が売れ行き不
振を理由に減額された事に怒りを爆発。電話で担当編集員を怒鳴りつけてい
ました。

そしてもう一つは、中古のコピー機の調子が悪い事を電話で業者に文句を言
っていた事。 ものすごい剣幕で怒っておられました。

アシスタントが仕事場や路上で怒鳴られるのは毎日の事でした。

私に対しては・・・・・

 「 劇画屋の絵はダメだ! 」 

先輩アシスタントには絵の構図が悪い事で・・・・・

 「 何やってんだ! これは何だ! 」 ( 路上で説教! )

日本で一番美しく、やさしい漫画を描く村野先生が、漫画界一の「 豪傑 」
であると言われている事を知ったのはずっと後の事です。

ここで誤解を避けるために言っておかなければならないのですが、村野先生
は怒る時は怒る人ですが、間違った事は仰ってはいません。

ただの一言も曲がった事は言っていないのですが・・・・・・・私にはどうも・・・・
・・・ついていけないわけで・・・・・・・・


最後に一つだけ・・・・・村野先生が直接話してくださった面白い(?)話を・・・
・・・・

有名な某宗教団体の信者さんが村野先生の所へ勧誘にやって来た時の事です。

宗教の話だけして、さっさと帰れば良かったものを・・・・・・ 

黙ってうなずきもせず一言も発しない村野先生の顔色を判断して。早々にあ
きらめて退散していれば、あんなに恐ろしい目に会わずにすんだのに・・・・・
・・・・・

宗教と命、世界平和と革命精神・・・・・・暗記された宗教理念を村野先生は黙っ
て聞いている・・・・・・

爆発寸前の活火山のように・・・・・・・・
   
    
    
 

          
( この写真は、村野先生がおられた東京西武池袋線、富士見台駅近くの住宅街です。《2005年 6月 撮影》)


              その22 ・・・・・・・ 2005年07月06日 23時34分 (公開)


宗教信者の長広舌を村野先生はジッと耐えておられた・・・ ( 1977年昭和52
年,夏 )

「 静かなること林の如く・・・ 動かざること山の如し・・・ 」その山が・・・・・

ついに動く・・・・いや、噴火する!

その信者は自分の饒舌に酔うように・・・・・・人の生まれながらの不幸や不運を
運命やら宿命やらてんこ盛りで説き続ける・・・・・・

村野先生は、幼少期の事故で足が不自由なのだが、その足の障害について信
者が先祖の因縁だの宿業だのと話し始めた・・・・・・・

その瞬間・・・

信者の目をにらみ付ける。

憤怒の形相でにらみ付ける!

信者はこの時、体の血液が凍り付いた様に固まる・・・・・・・だが手遅れ!

 「 俺の目を見ろぉッ! 」 と、先生は一喝! 

さらにつづけて・・・・・

 「 お前は死ぬッ! 」 先生は、指先を信者の眉間へ突きつける。

彼は完全に茫然自失・・・

 「 俺の目ににらまれた者は必ず死ぬッ! 」

信者、あわてて目をそらし、震えながら・・・・・

 「 そ・・・そんな事を・・・・・ 」

 「 俺の目を見ろぉ~ッ! お前は死ぬんだぁーッ! 」

 「 そ・・・そんな事をしてはいけません・・・! 」

 「 目を見るんだ~ッ! 」

 「 やめて下さ~~ッ! 」

 「 お前は死ぬ~ッ!」

気の毒な信者はそのまま玄関の外へ逃げ出していく・・・・・・。


村野先生はそこまで話してから、嬉しそうにニコニコ笑いながら、目を丸く
して聞き入っている私に・・・

 先生 「 ウソは言ってね~よなぁ? 」 

 私  「 ・・・・・・? 」

 先生 「 誰だって一度は死ぬんだからよぉ! 」

 私  「 ・・・・!」

 先生 「 ガッハハハハハハッ 」


この先生を何て面白い人なんだと思う反面・・・これほど怖い人もいないな・・
・・・・と、一緒に笑いながら少し背筋が寒かったのを覚えています。

毎日が緊張の連続・・・・・・自分のいる場所がないような漠然とした不安・・・・・

そして、凧の糸が切れるように、あっけなく別れの時が来ます・・・・・・・
   
  
    


          
( この写真は、M先生の所で仕事をしていた当時《1977年昭和52年》に住んでいた東京、
  高円寺にあった木造モルタルアパート銀嶺荘の一部です。画面左側に建物の一部がみ
  られます。)


              その23 ・・・・・・・ 2005年07月14日 12時48分 (公開)


とにかく、緊張した毎日でした・・・・。 ( 1977年昭和52年 夏 )

そして、その緊張は一週間しかもたなかった。緊張の連続はつまらない些
細なミスにつながる・・・・・。

毎日、何度ととなく怒鳴られる・・・・・。 

日に何回怒鳴られたか思い出せない・・・・。

勤め始めてから4,5日して・・・・・・

 「 忙しくなってから辞められると困るから、辞めるんなら今辞めろ! 」

この言葉を3回聞いたら辞めようと思っていた・・・・・ 二日と経たぬうちに、
その時が来た。 

簡単だった。

 「 では辞めさせていただきます。 」

一週間何をやったのやら、2~3ページの仕事と犬の散歩、野球につり堀、ゴ
ミ焼きに皿洗い・・・食って、寝て・・・朝起きたら、犬のフン始末・・・・・

それだけで終わった。

しかし、不思議と一つ一つの事が鮮やかに記憶されている。 濃密な一週間
でした。



村野先生の所でのエピソードを最後に一つだけ書いておきます。それは・・・・
・・・・ちょっとせつなく、申し訳ない事・・・・・

村野先生には奥さんと小学生のお嬢さんが一人おられました・・・・ 我々アシ
スタントはよく「 先生は怖いよなぁ~ 」などとぼやき合う事がありました。

ある時、先生の奥さんに呼び止められ・・・・

 「 小池くん、○○( お嬢さんの名前 )の前で先生が怖いって言わない
  でね。あの娘はアシスタントのお兄ちゃんたちが大好きなの・・・・・
  だから先生が怖いって聞くと、とても悲しむのよ・・・・だから・・・ね。 」
      
     
村野先生の所で強い影響を受けた私の背景技法は、後にジョージ秋山先生の
所で発揮されます。 

大胆な構図、斬新な筆使い・・・・・・未熟者がただテクニックを表面的にマネし
た時に起こる悲劇的な結果を・・・・・・当時、予想する事は出来ませんでした・・
・・・・・。

漫画雑誌「 ビッグ コミック オリジナル 」( 小学館 )に連載中の「 浮浪雲 」
の仕上がった背景のその悲劇的な結果を見て、ジョージ秋山先生が・・・・・・・

 先生 「 な・・・何だァ!この絵は・・・・・? おみ~ィのこの絵は何なん
      だよォ! 」

日焼けした黒い顔を赤黒く怒張させるジョージ先生・・・・・・。

 先生 「 おみ~ィはよォ~ッ・・・ 何考げ~てッだよォオオ! 」

 私  「 は・・・はあ・・・・・・? 」
  

   


          
( この写真は、村野先生の所で仕事をしていた当時に住んでいた東京、高円寺にあった
  木造モルタルアパート銀嶺荘、リフォーム後の入り口です。2005年7月に撮影した写
  真です。《30年前の「第2章 その7」の写真参照》)


              その24 ・・・・・・・ 2005年07月21日 22時06分 (公開)


村野先生の所を辞めてから、また例のごとくアルバイトニュースを毎朝、始
発電車が出る頃、駅前売店へ買いに行く日々がつづく・・・・。

アルバイトは意外と簡単に決まった。TBSテレビのスタジオの美術係・・・・
・・・と言ってもTBS本社のバイトではなく、その下請けで建具をスタジオ
内に組み込む仕事をしている会社のバイト・・・・・。( 1977年 昭和52年頃 )

漫画とは全然関係ないんだけど、漫画家志望の私を結構面白がってくれる人
たちが多く、普通のサラリーマンの世界とは違って明るく自由な雰囲気が楽
しい職場でした。

当時のアイドル、ピンクレディー、松坂慶子、南沙織、桜田淳子etc・・・・・

多くの芸能人を見ました。( 「 会えました 」と書くより、口を利く機会も
なく、ただ「 見ました 」「 通り過ぎました 」と書く方が正確 。

中でもドリフターズの「 8時だよ、全員集合! 」のロケや、吉永小百合さ
ん( おもわず敬称付き! )と仕事をした事は最高の思い出です。


さて、第2章もいよいよ終わりです。第3章からは26年もアシスタントをや
る事になるジョージ秋山先生のところでの出来事の数々です。

「 漫画家アシスタント物語 」はここまでが序幕で、ここからがまさに本編と
いう事になります。

アシスタントの生活、漫画家志望者の希望と挫折・・・・幻想と絶望・・・・・その全
てがこの第3章に描かれます。


 
       「 漫画家アシスタント物語 第3章 22年改訂版 」 へつづく・・・・
    

           【 「漫画家アシスタント第2章 22年改訂版 前半」へ戻る 】

 

 

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
             私(yes)の履歴書
          
  1955年昭和30年 東京生まれ 世田谷区立駒沢小学校卒。 14歳より、映画館
          のキップ切り、ビル清掃人、冷凍食品倉庫、等々(10数種)

  1974年昭和49年 19歳より、漫画家アシスタントを始める。以降 漫画履歴・・・

  1974年昭和49年 さがみゆき先生 主に(少女系)怪奇漫画。単行本1冊分、
          3,4ヶ月のお手伝いでした。(19歳)
     
  1975年昭和50年 かわぐちかいじ先生 この当時の氏は今ほど有名ではありま
          せんでした。背景技術をみっちり仕込まれました。(20歳)

  1976年昭和51年 村野守美先生 漫画界一の豪傑と噂され、エピソードには事
          欠きません。たった1週間しか、勤まりませんでした。(21歳)

  1978年昭和53年 ジョージ秋山先生 当時「浮浪雲」(ビックコミックオリジナル
          に連載)が、すごい人気で、渡哲也、桃井かおりの主演でTV
          ドラマ化されていました。(23歳)

  1984年昭和59年 あと1年で、30歳! 焦っていた。 漫画制作に没頭。出版社め
          ぐりの日々。(29歳)

  1985年昭和60年 「ヤングジャンプ新人漫画賞」にて、奨励賞、努力賞、佳作賞、
          受賞。

  1986年昭和61年 「雨のドモ五郎」が、「ヤングジャンプ」新人漫画賞準入選。本
          誌に2色指定で掲載。事実上のデビュー作。これが同誌への
          最初で最後の作品となる。(31歳)

  1989年平成元年 別冊(!)ヤングジャンプ「ベアーズクラブ」にて、100ページ
          読み切りの「蟹工船・覇王の船」(小林多喜二原作)を発表。(34歳)

  1992年平成4年  宇都宮病院事件の「悪魔の精神病棟」を原案とした書き下ろし
          単行本「サイコホスピダー」製作開始 (37歳)

  1995年平成7年  タイ王国チェンマイ郊外の山村にて結婚。(40歳)

  1996年平成8年  三一書房より「サイコホスピダー」初版出荷、初版で絶版。(41歳)

  2008年平成20年 拙ブログ「漫画家アシスタント物語」がマガジン・マガジン社に
          て書籍化、「雨のドモ五郎」収録。(53歳)

  2008年平成20年 TBSラジオ「安住紳一郎の日曜天国」にゲスト出演、漫画家ア
          シスタントについて語る。(53歳)

  2008年平成20年 「劇画 蟹工船 覇王の船」宝島社より「覇王の船」が加筆訂正さ
          れ完全版として出版。小説「蟹工船」収録。(53歳) 

  2009年平成21年 新宿の宝塚大学、漫画学科で非常勤講師になり、「背景美術」
          を担当する。

  2017年平成29年 ジョージ秋山プロを退社、43年のアシスタント人生を終え、タイ・
          チェンマイにて隠居中。(62歳)
             
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ( 注:不確かな記憶によって記されている個所があります事をご容赦下さい ) 





【 各章案内 】   「第1章 改訂版」  「第2章 改訂版」  「第3章 改訂版」
          「第4章 その1」  「第5章 その1」  「第6章 その1」
          「第7章 その1」  「第8章 その1」  「第9章 その1」
          「諦めま章 その1」   「古い話で章 その1」
          
「もう終わりで章 その1」 「移住物語 こりゃタイ編 その1」

          ( 但し、第1~3章は『縮小版』になります )




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 漫画家アシスタント物語 第... | トップ | 漫画家アシスタント物語 第... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

漫画家アシスタント」カテゴリの最新記事