いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

Pure再考。

2004-09-23 12:06:00 |  Study...
Pureであることについての再考。
前回のはコレ。

さて、前回、Pureに「戻れるかどうか」の議論において、「Pureに戻ろうとすること」自体が、「穢れ」を知らなければ出来ないので、Pureであろうとする限り、Pureにはなれない=Pureであることは不可逆、という結論を出した。

しかし、『これがニーチェだ』(著、永井均 講談社現代新書)(←ちなみに読み途中)のアクロバティックな議論に触れるうちに、逆説的な可逆性が見出せた。

そもそも「穢れ」とは何であるか、といったことを考えるに、穢れなるもの(客観的存在)が存在するのではなく、それはある共同体における共通の認識によって作り出されるものであり(共通認識による存在)、それゆえ「穢れを知る」とは、それが穢れと「される」ことを知ることである。
日本という共同体におけるは、それすなわち「恥」を知ることに近いと思われる。

さて、そうすると、穢れていく、とは、穢れとされるものを知っていったうえで、穢れとされる行動をすることだろうか?
いや、そうではないだろう。
例えば子供がPureである、といわれるのは、ある行動において、その行動が「穢れとされる」ものであるにもかかわらず、それが「穢れとされるもの」であると知らないがゆえに、Pureである、とみなされるのだ。
言うなれば、「恥」を知らないのである。そして、それゆえにPureなのだ。

そして、逆に言えば、「穢れていく」とは、つまりPureであることが出来なくなっていくことに他ならず、すなわち「恥」を知り、「穢れとされる行動をとらなくなっていく」ことに他ならない。

なので、「Pureになろうとする」行動――「穢れをなくしていこうとする」行動は、「穢れとされる行動をとらなくしようとする」行動に他ならず、それはPureになるのとはまったくの逆方向に向かうことになり、それではPureにはなれない。
これは前回の帰結と一致する。

しかし、だからこそ逆に、「Pureになろうとしなければ」――穢れとされる行動を「意識的に」避けたりしなければ、いかなる行動にも「恥」を感じなければ、それは、(本人はともかく)周りにはその行動からしかその人の心理状態を図ることが出来ないので、「穢れとされる行動を知らない」もしくは「恥を知らない」と見なすことしか出来ず、それゆえその行動はPureである、といえることになる。
もちろんその姿は、「穢れとされる行動」を知る人たちからは「穢れている」と見なされるであろうが、しかしその姿こそ「Pureである」姿に他ならない。

つまり、「穢れとされる行動」を「しないようにする」というのは、一見「Pureになろうとしている」ように見えて、実際はまったく逆の方向に進んでいて、それゆえPureにはなれず、しかし「穢れとされる行動」を「意識的に」避けなければ、その姿は一見「穢れている」ようだが、実際はPureなのである。

ただし、それを「狙って」することは、すなわち「『Pureになろうとしない』ということしようとする」ことは、上のようなことを知った上(つまり、「Pureになろうとしない」ことがPureであることなんだ、ということを知った上で)で「Pureになろう」としていることに他ならないから、その姿はPureではない。
つまり、「Pureになろうとする/しない」のどちらにおいても、そこに能動性が生まれた時点で、その行動はPureではなくなると言えるのだろう。