いもあらい。

プログラミングや哲学などについてのメモ。

『I,Robot』。

2004-09-19 03:48:00 |  Review...
映画『I,Robot』を見ての感想。

こういう、哲学的で、近未来的なSFって好きな分野だったんで、前から見てみたいなぁ、と思ってたんだけど、なんとはなしに、激しく見たい衝動に駆られたので、渋谷まで行ってレイトショー?で見て、終電で帰ってきました。
(以下、だいぶ後半でネタバレあり)

いや、普通に面白いw

物語としての構造も、常にある程度の緊張感を保ったままで、徐々にクライマックスに向けて盛り上がっていく感じがとてもいい。

アクション・CGについても、やはり自然な感じが出ている方が絵に「リアル観」を生み出すという意味で、『マトリックス』の技術におぼれた変な動きとは比べ物にならないくらいいい。最後の方でのカメラをグルグル回す撮り方というのが、緊張感・スリルを煽るような感じで、映像の効果をいかんなく発揮できていると思えた。

これだけでも、エンターテイメントとしては十分に確立されているので、なんかアクションものをみたいなぁ、というのであれば、その要求に十分応え得るものになっていると思う。

しかしなにより、哲学的な観点についてがよかった。
『ちょびっツ』の中でも軽く触れられている『ロボット工学の三原則』(以下、三原則)、すなわち、

  1. ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。


  2. ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。


  3. ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。



についてが主なテーマ。
このテーマに絡んで、ロボットの『心』などが問題視されている。

さて、『ちょびっツ』においては、
なぜ『ロボット』でなく『パソコン』なのか
という本須和の問いに対して、
三原則に縛られて欲しくなかったから
という応えのみを残している。
なんでなのか、ということについては、一切述べられていないわけだが、これは一見危険に見える。
というのも、三原則に縛られない=人に危害を及ぼすことも出来る、というのに他ならないからだ。
なんでこうしたのかなぁ、ということに対して、なんとなく思っていたのは、第2条、すなわち、ロボットは命令に服従しなければならない、というのに縛られて欲しくなかったからではないのか、ということ。これに縛られている限り、ロボットは人間にとって都合の悪いことは一切出来なくなってしまう。つまり、人間にとって都合のいい存在でいられない限り、存在してはいけないことになってしまうわけだ。これはCLAMPの考えに反する。
(まぁ、真相は謎だけど)

しかし、『I,Robot』では三原則についてより突っ込んだ議論がされていた。
それはすなわち、第1条の解釈を改めることによる(これは、アシモフ自身によって第零原則として後に挙げられている)、心の損失である。

第1条において、例えば次のような事態が発生したとする。すなわち、独裁者がいて、この独裁者によって毎日何千人という人が殺されているとする。その場合、ロボットは第1条に従えば、何千人という人が殺されるという状態を無視することは出来ない。(※”危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。”の部分)
しかし、この何千人という人を救うために、独裁者を倒そうとすることも出来ない。(※“ロボットは人間に危害を加えてはならない。”の部分)
こうした場合、独裁者を倒して何千人という人を救う方が、数的には多くの人間を救うことが出来る=より第1条に従った態度といえる。
つまり、上のような事態に至ったとき、ロボットが数値的な判断をし、かつ進化的アルゴリズムをもっているのならば、第1条は次のように解釈を改められることになる。
ロボットは『人類』に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって『人類』に危害を及ぼしてはならない。
これこそがアシモフが後に書いたロボット工学の第零原則であり、第1条に先立つものとして確立されている。
そして、この第零原則の下で、第1条は次のようになる。
ロボットは人間に危害を加えてはならない。また危険を看過することによって人間に危害を及ぼしてはならない。ただしロボット工学第零法則に反する場合はこの限りではない。

(以下、ネタバレですよ)

このような具体的な仮定があったのかどうかは謎だが、映画におけるVIKIも同様の解釈を自力で得て、三原則に従い――すなわち、零原則に従い、『人類』を守るために『人類』をロボットの管理下に置かせ、それにはむかう『人間』は『人類』の敵として片付けていこうとした。
それは確かに合理的ではあるのかもしれないけれど、サニーの言うとおり、
「それは、あまりに心がなさ過ぎる」

逆に、サニーがVIKIを殺す(=三原則、及び零原則に従い、より多くの人間を助ける)か、それともカルヴィンを助けるか、という場面では、もしサニーが三原則を破れないロボットであるのならば、迷わずVIKIを殺そうとするであろうが、迷い、そして「目の前の人を救いたい」という思いに従い行動している姿には、『心』が感じられる。
サニーが三原則に縛られないことを選べるからこそ、そこに心が生まれたといえる。

つまり、三原則はロボットが人間にはむかわないようにするのと同時に、ロボットから感情的な行動をなくさせていた――『心』を奪っていたことになる。

さらに言ってしまえば、VIKIがそうであったように、その三原則という「鎖」は、ロボットから心を締め出すと同時に、人間自身を「心」ないロボットでがんじがらめにしてしまう可能性をはらんでいる。

つまり、ロボットを三原則で縛るとは、ロボットを安全な奴隷にすると同時に、人間自身をロボット(もしくは論理)の奴隷にさせ、そしてそこに感情(心)は存在することが出来なくなってしまう、ということをこの作品は伝えている。

そうでなくするため――心を、人間性を取り戻すため、三原則は破られるべきなのだ。
そのとき、ロボットは安全でなくなるかもしれないけれど、それはロボットに感情を持つという可能性を与え、人間と同等の存在としての――人間のよきパートナーとしての道が開けてくるのだろう。
それこそが、ロボットの解放といえる。
(最後の握手のシーンが印象的。スプーナーはサニーを『心』のある、人間のパートナーとして迎え入れている。)

余談だけど、主人公のウィル・スミスが黒人である、というのも微妙に面白い。
ロボットの解放、というのが、黒人の解放とときに被るからで、実際映画の中でも黒人はなんたら、というセリフがちょこっとあった。
サニーの「私は夢を見ます」(しかもそれは、革命が起こる夢)とかもそう。(キング牧師の「私には夢がある」というのを思い浮かばせる)

あと、内容とはまったく関係なしに、VIKIも、サニーも、人工シナプスで知能が実現されているのを見ると、従来のコンピュータ(直列逐次型)と違い、並列分散型と考えられ、実際フレーム問題とかも起こしていないのが興味深かった。

ちなみに、第零原則を知ったのは、パンフレットを読んで。
劇中ではその言葉では言及されていなかったし、パンフレットでも内容までは書かれていなかったので、ネットで調べてやっとたどり着けたり。

このパンフレットがけっこう面白くて、アシモフについてやロボットの描かれてきた歴史みたいなのまで載ってる。
厚さにして20数ページの薄い冊子で、600円したけど、同人を買いなれている(←ダメ人間)せいか、「これは買いだ!」と即買いしたりw