DIARY

バイマーヤンジンの日記です。

故郷からの情報

2008年05月28日 | Weblog
今さっき聞いたのですが、地震が起きた5月12日にアバ県から成都に向けて出発した3台のバスのうち1台が行方不明になっているのだそうです。

運転手も含めて31人が乗っていたそうですが、当初どこかに避難しているのだろうと皆思っていました。けれども、これだけ月日が経っているのに、運転手、乗客のひとりも消息がなく、バス自体見つかっていません。バス会社もあらゆる手を尽くして捜しているのですが、いまだに発見できずにいます。

他の2台は地震によって汶川県を越えたところで動けなくなり、乗客は都江堰まで歩いたのだそうです。だとすると、見つかっていないバスも汶川県を越えたことになります。その付近の山が全体的に崩れ、土砂が大量に河に流れ込んだと聞きました。もしかしたら、それに巻き込まれたのかもしれません。助かってほしいという気持ちでいっぱいですが、地震発生から16日も経っていることを考えると状況は厳しいです。

今公表されている地震の被害者数は、こういった移動中に被害にあった人や出稼ぎなどで外から来ている流動人口は含まれていないとも聞きました。でも、これ以上人数は増えてほしくないです。

ここ数ヶ月本当につらいですが、明日から3日間、千葉、仙台と公演に行きますので、元気を出して頑張ります。

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今日一日

2008年05月27日 | Weblog
今日の午前中は家の掃除と洗濯で終わってしまいましたが、午後1時から5時まではピアニストさんと6月のコンサートのために練習をしました。それからは今さっきまで地震の救援のためにご寄付いただいた方々にお礼状を書いておりました。

被災した故郷に対しての思い、そして皆様への感謝の気持ちを少しでもお伝えできたらと一生懸命書きました。そうしたら、なんと便箋3枚にもなってしまいました。本当はおひとりおひとりに手書きで出す予定でしたが、こうなりますとどうしても時間的に難しくなってしまいました。申し訳なく思いましたが、文面だけパソコンで書かせていただきました。けれども、皆様方のお名前と私の署名(チベット語の名前も含めて)は直筆で書きました。頑張っているのですが、まだ51名様分しか書けていません。また明日も時間をみつけて書かせていただきます。
皆様の温かいご支援に、本当に心から感謝しております。ありがとうございます。

また「四川大地震救援基金について」は2日かけて書きました。私の下手な日本語では表現しきれていないところも多々ありますが、皆様是非ご一読下さい。

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小さな幸せ!

2008年05月24日 | Weblog
今日は広島で講演をさせていただきました。主催者のご希望に従って、初めてチベットの歴史、現状と宗教心についてお話をさせていただきました。ご来場のお客様は、ほとんど60代、70代の男性の方々でしたが、本当に最後まで真剣に聞いてくださいました。とてもありがたく思いました。

しかしながら、最近はかなりの寝不足で、どうも体がだるくて、頭もぼーっとして、けっこう疲れを感じていました。

帰宅して、息子にトイレをさせている時でした。
息子がトイレットペーパーを指差して「ママ、これ、なにぃ?」と聞いてきました。普段はいろいろとやりとりしてから答えるのですが、今日はそのまま「トイレットペーパー」と答えました。

そうすると、なんと息子が拍手しながら「ママ!しゅごーい!ママ!しゅごーい!」と大きな声で褒めてくれたんです。
息子にそんなに褒められたのは初めてで、なんかジーンときてしまいました。特にあの最高にかわいい笑顔には心底まで癒されました。疲れも吹き飛びました。

明日も元気出して頑張ります!

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余震に対する恐怖

2008年05月22日 | Weblog
実家がある故郷では、この二日間余震に対する恐怖で大騒ぎになっています。

20日の夜、いきなり県政府から「近日中にかなり強い余震が起こる可能性があるから、警戒してほしい」という知らせを受け、町全体が大騒ぎになっているそうです。そのうえ県幹部らは生徒のほとんどが寮生活のチベット語中学校に行き、すべての生徒をグランドに集め、青空の下で寝泊りさせているそうです。今回の地震では、あまりにも学校関係の被害が大きかったため、皆とても神経質になっているのです。その気持ちはとてもよくわかりますし、私も故郷にいたら、外で寝ていることでしょう。

うちの実家も簡素なレンガ造りの平屋なので、大きな余震が来たらひとたまりもありません。今は庭にテントを張って、家族全員その中で暮らしています。

さっき電話をしたら、「小さい頃から放牧の生活を経験しておいてよかった」と弟は私に心配させないよう冗談っぽく言ってくれましたが、内心は不安でたまらないと思います。テントで寝ることがいくら慣れているといっても、私は74歳の母親とすでに臨月に入っている弟の嫁の体調が心配です。

いつになったら安全になるのかという判断は難しいですが、余震だけでも早くおさまることを祈っています。

話が変わりますが、主人の付きっきりの看病のおかげで、息子は熱が引いて、ずいぶん元気になりました。またまた皆様にはご心配をおかけしました。

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息子が風邪をひいてしまいました!

2008年05月21日 | Weblog
今日は大阪の堺市にあるお寺でコンサートをさせていただきました。

帰りに家に電話をしましたら、やはり心配していた通り、昨日から風邪気味の息子が熱を出していました。
母は祖母の面倒も見なければなりませんので、仕事中の主人が急遽家に帰り、息子を病院に連れていきました。
私ももちろんそのまま病院に直行しましたが、息子は40度近く熱があって、けっこう辛そうでした。
帰ってからは、お粥を食べさせて、薬も飲ませて、今は寝ていますが、
10分ごとに泣いたり、ぐずったりしています。

本当は明日とあさって主人とともに泊まりがけで、神奈川県と静岡県の仕事に行く予定でした。けれども、すべての面で介護が必要な祖母と病気の息子を母一人にお願いするのはとても心配です。息子にも申し訳ないし、母もかわいそうすぎます。

仕方がなく、主人は息子の看病のため家に残り、私はひとり、日帰りで行かせていただくことにしました。

静岡は午前の講演会ですので、始発の新幹線に乗らなければ間に合わないのですが、三つの目覚まし時計を準備して頑張ります。

被災したもう一人の甥っ子と姪の話も書きたかったのですが、また時間があるときにします。

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絆 その三

2008年05月20日 | Weblog
引き続きその甥の話をします。

被災一日目は何も食べることができず、二日目の夕方からようやくおかゆが出たそうです。そんな状況でも生徒たちはくじけることはありませんでした。

その理由のひとつは、ある先生の頑張りでした。その先生は今回最も被害が大きかった映秀の出身で、家族、親族皆そこにいました。たぶんそのほとんどが亡くなったと思います。それでも、その先生は学校から離れず、一生懸命生徒の世話をしたそうです。そして、生徒が就寝してから、声を押し殺して、泣いていたのだそうです。その先生の姿を見て、生徒の皆さんはその恩に報いるためにも必ずこの困難を克服しようと励ましあい、団結したのだそうです。甥も不安だったことでしょう。でも、彼なりに頑張ったそうです。

しかし、校門に自分の父親(私の弟)が現れたときには今まで我慢していたものが堰を切ったようにどっと出てきて、大声で泣いて、父親の胸に飛び込んだのだそうです。

やっぱりお父さんは来てくれた!こんなにも大変なときに、自分の命も惜しまず、非常に危険な道のりを乗り越えて来てくれた!お父さんはすごい!と父親の勇気とたくましさにとても感激したそうです。

けれども、少し落ち着いてから、再度自分の父親を見ると、心配のため、げっそり痩せて頬もこけ、顔も服も泥だらけだったそうです。それを見て父親の自分に対しての深い愛情に改めて感無量になったそうです。

電話の最後に、彼は「僕は絶対大学に受かってみせます!そして一生かけてお父さんに恩返しをしていきます!」と言ってくれました。

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絆 その二

2008年05月19日 | Weblog
昨日地震で連絡が取れなかった甥(上の弟の息子)から、電話がありました。
うれしくて、うれしくて、でも受話器を持つ手が震えて、彼から「おばちゃん」と第一声を聞いたときは、声を上げて泣いてしまいました。電話代がかかるので、「こちらから電話をかけなおす」と搾り出すように声を出し、いったん電話を切りました。止めどもなく流れる涙をタオルで拭いて、なんとか気持ちを落ちつかせ、電話をしました。

威州中学は中高一貫の6年制の学校で、生徒は3000名もいます。人数が多いため、ブンセン県に本校、そこから8km離れた郊外に分校があります。彼は本校で被災しました。

甥の話によると、地震があった日は晴天だったのですが、大きな揺れとともに急に粉塵が舞い上がり、空は真っ暗、目の前が見えなくなったそうです。生徒はパニックになりながらも、校舎を飛び出し、運動場に集まりました。運動場にいるとき、周囲の山からはゴゴゴォという土砂崩れの大きな音ばかり聞こえてきたそうです。

地震が発生したとき、昼寝をしていた生徒もいて、着の身着のままのTシャツの姿の子も多かったそうです。またその日の夕方から雨が降りだして、気温も一気に下がりました。風邪をひく恐れもあったのですが、それでも余震で校舎が崩落する危険があったので、先生は2度と生徒を寮や教室に入れませんでした。迎えが来るまでずっと運動場で寝泊りをしていたそうです。(つづく)

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絆  その一

2008年05月18日 | Weblog
18日深夜0時30分に弟が運転する車で、甥2人と姪は実家に帰ってきました。

2番目の兄と弟二人は本当によくやったと思います。理県までは車でなんとか行けたのですが、そこからは道が崩れていて、兄と上の弟の2人は徒歩でブンセン県に向かいました。途中ほとんどのところで崖崩れが起きていて、同じように子供を捜しに行った親御さんの中で、2次災害に遭い、亡くなった人もいたそうです。
本当に何度も死の恐怖を感じ、実際に何人もの遺体を見たとも言っていました。

理県を出て10時間後、なんとかブンセン県に到着したのですが、夜中だったこともあり、生徒たちの安全を守るため、甥に会わせてもらえなかったそうです。仕方がなく二人は路上で一夜を明かしました。

次の日の朝、ようやく甥2人と姪の無事を確認しました。ちょうど一晩の応急処置により、道路もなんとか通れるようになり、下の弟が運転する車もブンセン県に到着しました。その後、学校の許可を得て、その日のうちに少しでも安全である場所、故郷に急いで引き返しました。

しかし、余震のため、今にも土砂崩れが起きそうな場所が何ヶ所もありました。その都度兄は三人の子供を引き連れ、ダッシュで駆け抜けたり、逆に山を登って越えたりしたそうです。弟二人はその間も車に乗り、ひとりは落石や崖崩れを見張り、もうひとりは運転に集中したのです。そのように、みんなで力を合わせて、難関をひとつひとつ乗り越え、なんとか無事に故郷にたどり着いたのです。

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ご心配おかけしました。

2008年05月17日 | Weblog
今日の早朝3時に、実家から「全員助かった!」と電話がありました。
兄と次男は理県の近くで、甥二人と姪はブンセン県で、それぞれ無事が確認されたそうです。

かなり心に傷を負っているようですが、命だけでも助かったことに感謝の気持ちでいっぱいです。皆様には、大変ご心配おかけいたしました。
心からお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

私はほっとした面もありますが、大切な子ども、家族を亡くした大勢の人々のことを考えると、どうしても喜ぶ気持ちにはなれません。

救助にはなにひとつ役に立てませんでしたが、せめて今後の復興のため、
そして生き残った人々が一日も早く元気を取り戻せるよう全力を尽くしたいと改めて心に誓いました。

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お願い申し上げます。

2008年05月15日 | Weblog
たくさんのお見舞いのお電話とメール、本当にありがとうございます。

しかし未だに兄も、甥も、姪も消息不明です。
弟二人と二番目の兄も徒歩でブンセン県に向かったままです。

そのうえ毎日千単位で増える死者の数には、悲しすぎて言葉も出ません。
生き埋めになっている人々の苦しみと救援への渇望を思うと、温かい布団で寝ている自分は罪悪感でいっぱいです。

私の少女時代の温かい思い出がいっぱい詰まっている美しい故郷が、
あんな廃墟になるとは・・・

どうして我々はこんなにも連続して悲しい試練を受けなければいけないのでしょうか?

いますぐにでも飛んで帰りたい気持ちです。
しかし、七月末までは講演会とコンサートの予定でいっぱいです。
身動きが取れません。

今まで長い間チベットで学校建設活動をしてきて、すでにたくさんの方々にお世話になり、ご支援をいただいてまいりました。
本当に心から感謝しており、ありがたい気持ちでいっぱいです。
ですから、最初はこの震災のための特別な募金活動はしないと決めていました。

しかし、ここまで被害が大きくなるとは思いもしませんでした。
たくさんの町と村が壊滅してしまいました。
復興のために、アバで生まれ育った一人として尽力しなければなりません。
たとえどのような支援をするにしても、経済的な支援をしなければ、
口だけになってしまうと思います。

ですから、今までの学校建設基金とは別に、あらたに私自身から100万円を出資し、この度の震災支援基金を設立しました。

厚かましいこととは存じますが、ここでもう一度皆様のご支援とご協力を
お願い申し上げることにいたしました。

どうか皆様の温かいご支援とご協力、よろしくお願い申し上げます。

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