ソチ五輪 山中大地君の健闘を讃える

2014年02月15日 | インポート
ソチ五輪 山中大地君の健闘を讃える

 私の応援している、山中大地君が出場したスピードスケート1000mは、2月12日の夜中。
 あっという間に終わってしまいました。

 ソチ会場での山中選手の映像です。もちろん、TV画面をカメラで撮影しました。
    
  スタートラインに立つ山中選手(左)    スタート直前   

    
   コーナーを回る山中選手          あっという間にゴール

     
     MSN産経ニュースから勝手にお借りしました。迫力の滑りです。

 1分11秒93で36位。世界は強いと言うべきか。
 ああいう場面で力を出すのは難しいのか。

 頑張って滑っている山中選手は見ていて爽快でした。
 健闘を讃えます。

 私のソチ・オリンピックはほぼ終わりました。


 ソチ・オリンピックは中盤。
 羽生結弦選手がフィギュアスケート金メダル。もちろん嬉しい。



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DIC研究所通信「最終号」編集 蛇足

2014年02月11日 | インポート
DIC研究所通信「最終号」編集 蛇足

 現在も、時折山田先生関連のお手紙、メールをいただいくことがあり、研究所通信「最終号」の影響の大きさと言うより、山田先生の存在の大きかったことを改めて感じております。

 最終号を今になって見直すと、あちことに不備が見当たり申し訳ありません。
 山田先生と読者の皆様に「辛抱」していただくことになってしまいました。

 ページをまたぐ記事は極力見開きにしたつもりですが、そうなっていない箇所があり、これなどは編集中の緊張感の欠如でしかありません。

 投稿して下さいました皆様の所属も不統一になってしまいました。
 写真をお寄せいただいた皆様のお名前は極力書いたつもりでしたが、「写真」と「写真提供」の区別がおかしくなっています。

 最終ページ下段の写真には提供者のお名前が入っていません。
 これは、山田先生を偲ぶ会で配布されたパンフレットから取り込んでちょっと整形したものです。

 原版は矢島久志様からいただきました。矢島さん、ありがとうございました。
 それを下に載せます
     
 先生の言葉の最後が、この写真では「今日はありがとう」になっています。
 最終号では私が勝手に「これまでありがとう」に変更して掲載しました。

 著作権侵害になる話で、申し訳ありません。

 その他、ミス、要改善という箇所は数知れずですが、ご容赦を。

 「最終号」に多少の残部があります。
 ご希望の方は山本まで連絡をいただけましたら、残部のあるかぎりお送りさせていただきます。
 いつの間にか、山田先生とは疎遠になってしまった方もおられるかと思いますがご遠慮なく。
 山本へのメールは、下の「HPの入口へ」をクリックして、そこの最下段からお送りいただけます。




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ソチオリンピック・山中大地選手頑張れ

2014年02月09日 | インポート
ソチオリンピック開幕・山中大地選手頑張れ

 オリンピックが始まって、時差が5時間というから、アウトドアの競技は夜になれば見られるかと思っていたら。
 モーグルも現地時間の夜。日本の放送は夜中から未明。
 こんな時間は起きていません。

 上村愛子選手は4位。すごい。もちろん、朝7時のニュースで見ました。
 「メダルでなくてすみません」と言っていた。
 周囲の応援を考えればそうなっちゃうのかな。謝ることはないんでけれど。

 浅田真央選手は団体でトリプルアクセルをミス。団体戦とはそういうプレッシャーがあると思う。

 ところで、スピードスケートの山中大地選手がマスコミではさっぱり出てこない。
 まったく、何を報道してんだよ、と言いたくなるが、そういうものかもしれない。
 そんなこと無関係に頑張って欲しい。
 
 年末の代表選考会に応援に行けなかったのでせめて4年前の写真を載せます。
 古い写真で山中選手ごめんなさい。
 長野市のMウェーブで行われた1500mの第2コーナー付近の連続写真です。
  
  

  


  


 最後は、最近の画像を電算のホームページから借用します。
 堂々としたフォームです。
 4年間で凄く成長したのが感じられ嬉しい限りです。
  

 山中大地君頑張れ。
 長野高専卒業生頑張れ。
 TVで応援しています。




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DIC研究所山田 一先生追悼(6)

2014年01月14日 | インポート
DIC研究所山田 一先生追悼(6)

DIC研究所通信「最終号」編集記(その4)
 
 研究所通信の発行を終えたら少し気が抜けています。
 そろそろ感傷で山田先生を思い起こすのはやめにして、これまでの教えをしっかりと踏まえて歩み出す時期が来たと考えています。

 最終号を送付できなかった方につきまして、多くの皆様から情報をいただき、何名かにお送りすることができました。
 ご協力に感謝致します。

 「最終号」の発行費用につきましては、全て支払いを終え、残額を寄付し、会計を終了致しました。
 皆様からの多額のご援助にお礼申し上げます。
 決算報告をする場がありませんが、ご了解をお願い致します。
 領収証等は保存してありますので、ご覧になりたい場合はお知らせ下さい。

 山田 一先生追悼というタイトルは今回を最後にします。
 今後は折に触れて関連情報をお伝えしたいと考えています。


 それにしても、存在感の大きな先生であったことに思いを新たにしています。
 
 思い出の写真から
  
        DIC研究所にて 2010年2月

  最後の事務所はマンション・ベルエールの1室であった。
  左奥にパソコン、その上に電話機、その右下にプリンタ。
  右側に事務用デスク、その向こうにファイリングキャビネット。常に整然と整理されていた。
  手前右側のパソコン机にはTVが置かれていた。
  有線TVと契約したら「つたや」へDVDを借りに行かなくなったと笑っていました。

 話は転じて
 松本市美術館で開催されている「モローとルオー」を見てきました。
 この有名な師弟コンビは多くの作品を残していますが、2人の往復書簡集が翻訳付きで展示されていました。
 弟子のルオーが師のモローに当てた手紙に対するモローの返事の中に、使われていた言葉(単語)に対する指導がていねいに書いてありました。

 山田先生にメールを出したら、内容以前に書き方が悪いと何回も指摘されたことを思い出し、思わず「ニヤリ」としました。
 立派な師にはそれを受け止め、さらにそれを越える弟子がいたことに感動するとともに、自分の至らなさを実感。
 でも、私を除く大勢の弟子は、それぞれ山田先生を超えていたことを考えるとき、山田先生も喜んで下さっていると思います。

 地方の美術館の良さは、これくらいの作家の展示があってもすいていることです。
 往復書簡の前でじっくり読んでいても他の人の鑑賞を妨害しなくて済んだように思います。それも日曜日に。


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DIC研究所山田 一先生追悼(5)

2014年01月09日 | インポート
DIC研究所山田 一先生追悼(5)

DIC研究所通信「最終号」編集記(その3)
 
 博士国際協同研究所の名のとおり国際的な交流がありますが、編集準備では外国の読者には原稿依頼をしませんでした。
 信州大学の卜穎剛先生が連絡をしてくださいましたので、
 中国から3名の連名で追悼文が寄せられました

 卜穎剛先生に日本語に翻訳していただき、「最終号」29ページに掲載しました。
 中国語の原文を以下に掲載します。



 上の3名とは別に卜慶華博士からも追悼文が寄せられました(最終号29ページに掲載)。

 上記4名の皆様に「最終号」をお送りしました。
 航空便で7日後に配達されたとのことです。
 卜慶華博士は現信州大学工学部の卜穎剛先生の父上であり、親子2代で山田先生のご援助を受けて博士学位を取得されました

 チェコのDr. Roubicekから
 通信の「No.56が届かないので心配している」とのメールが山本栄博士に届きました。
「最終号」を送付した後、山本行雄宛に再度問合せがあり、事情をメールしたところ以下の返事をいただきました。

Dear Dr. Yamamoto,

Thank you very much for your e-mail. I repeat - I am very grieved at the memory of Professor Yamada, DIC Institute and DIC News Letter.
Thank you very much for your memory of your stay at Prague.

With best regards
Ota Roubicek

 心配をしてくださった海外の皆様にお礼申し上げ、これもまた、山田先生のこれまでの心の通った交流の結果であろうと感じております。


思い出の写真から
   
  色あせしていますが、1963年12月頃、卒研室での撮影と思われます。
  左から、山本、山田先生、櫛谷辰己氏

 櫛谷氏とは、山田先生のご逝去をきっかけに連絡がとれました。
 なぜか、このころ私は写真を撮るときは学生服でした。
 卒業式も学生服で出た記憶があります。
 他に着るものがなかったらしい。


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DIC研究所山田 一先生追悼(4)

2014年01月06日 | インポート
DIC研究所山田 一先生追悼(4)

DIC研究所通信「最終号」編集記(その2)
 
 
●原稿が沢山集まりました

★予想を大幅に上回って最終号は72ページになりました。

★ページの形式や製本などは極力、これまでの研究所通信に近いものにしました。
 実際の作業には前回の編集を手伝ってくれた修士1年の井上君の助力が大きかった。
★写真が少ないので、矢島久志様、小林学様、加藤寛様にお願いして写真を提供していただきました。
 見開きにしたとき、最低左右どちらかのページに写真や図が配置されるようにしました。
 これは山田先生の編集方針にならったものです。
 
 
●山田先生の自分史を入手

★伊東茂司様が山田先生の「青年期の自分史」のコピーを提供して下さいました。
 これをスキャナでとって原稿にしました。これだけで最終号は十分という気がしました。
★奇しくもこの自分史にふさわしい内容で石田隆至先生の寄稿がありました。
 また、山田先生の弟様に寄稿をお願いしたところ、心のこもった原稿をお寄せいただきました。

★自分史をトップに、続いて石田先生の原稿を、最後は山田力様の原稿にすることはすぐに決まりました。
★それから先が決まらない。
 皆様の原稿を読みながら感傷に陥ってしまい、どうまとめて良いのか見当がつかない状態になりました。

★連日パソコンに向かって編集作業を続けたせいでしょうか、11月中旬に3日ほど寝込んでしまいました。
 かかりつけの内科医院へ行って「風邪を引いたと思う」と言うと
 診察の後で「最近ひどいストレスを感じるようなことはありませんか」と言われました。
 医者にバレバレの体調でした。

★良くしたものです。寝込んで編集作業から離れたお陰で、頭がすっきりして全体の構想がまとまってきました。
 構想がまとまれば、それからの作業は順調にゆきました。
 
 
●発行は年内に

★発行日を予定より早めて12月27日に決めました。
 山田先生の誕生日が4月27日なので27日にこだわりました。

★12月24日には製品が納入され、26日には140人の皆様に発送。

★その後、何通かの追加送付があり、結局、のべ160人にお送りしました。
 有料購読者は100人にちょっと欠けるくらいでしたから、少し範囲を広げてお送りしたことになります。

★残部が多少あります。2部以上欲しいという追加のご希望がありましたらお送りしますのでご連絡下さい。
 
★次の方の住所がわからずお送りできずにいます。ご存じの方がおられましたらご連絡をいただければ幸いです。
   渡辺(広)様
   木村(信)様
   佐藤(聖)様
   細川   様
 
 
★また、山田先生にゆかりの方で最終号が欲しいという方がおられましたら残部がある限りお送りさせていただきます。
 
(つづきは後日に)

 
 思い出の写真から
 
 黒海に注ぐライン川とサバ河を背景に、後方はベオグラード市街 1984年
 左から、長坂先生(安川電機)、山田先生、海老原先生(武蔵工大)、山本
   (所属はいずれも当時)

 若く体力があった時代で、プラハでのコンファレンスの後ベオグラードへ
 ベオグラード大学構内で、ニコラ・テスラの銅像を見上げた時は感動した。

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DIC研究所山田 一先生追悼(3)

2014年01月05日 | インポート
DIC研究所山田 一先生追悼(3)

DIC研究所通信「最終号」編集記(その1)

 DIC研究所通信「最終号」をなんとか皆様にお届けすることができました。
 ミスがあちこちにありますが、終わってしまいましたのですべて目をつぶっていただきますようお願い致します。

 山田先生への思いに溢れた記事が満載されていることで十分に目的は達成されたとの思いでおります。
 皆様のご支援に厚く御礼申し上げます。

 編集の経過といくつかの裏話を書くことにします。
 
 
10月4日:最終号を出そうということになる。

★「山田先生を偲ぶ会」で多くの出席者から研究所通信の最終号を出して、山田先生を追悼してはどうかという提案をいただいた。

 正直言って私は余り乗り気ではなかった。
 どうせ私がやることになるから。
 それに山田先生とのお別れにふさわしい方法を別に考えたかった。ただ、その具体的方法は思い浮かばなかった。

★熱心な提案は無視できず、私自身、山田先生の近くにいながら何の役にも立てなかったことに後ろめたさを感じていました。
 何かしなくてはいけないという思いに加えて、酔った勢いもあり、「えーい、何とかするか」。

★2次会で、「最終号を発行する」と勝手に言ってしまいました。
 帰りの新幹線でちょっと後悔しながらも「こうなれば、実行しかない」と言い聞かせる。
 
 
●編集方針

★原稿をどなたに依頼するか、どういった紙面にするか、費用はどうするかなど、編集方針は立ちませんでした。
 編集の企画が事前にほとんど立てられなかったというのが特徴の最終号となりました。
 
 
 ページ数が多くなりそうなので、これまでのように水野研究室に印刷をお願いするのも申し訳ないと考え、印刷は外注と決めました。
 カラー印刷はちょっと高い。
「費用の不足分は自分が負担すればいいや。50年分の恩返しと考えれば安いものだ。」

★結果としては最終号の決算中間報告に書きましたように、残金が出るほどのご支援をいただきました
 残金は「ユニセフ」他の基金にすでに全額寄付しました。金額は決算書の残額の通りです。

 (つづきは後日に)
 
 
 思い出の写真から
  
    卒業生の結婚式でピアノを弾く山田先生(1976年)
    写真提供/加藤寛氏
  山田先生がピアノを弾けたということはあまり知られていません。
 

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DIC研究所山田 一先生追悼(2)

2014年01月04日 | インポート
DIC研究所山田 一先生追悼(2)

中国語、ロシア語、英語、日本語

 山田先生は外国語も堪能であり、国際会議なのではその力をいかんなく発揮されていた。
 分かりやすい英語での発表は定評があった。
 それ以上にすごかったのが中国語とロシア語である。

 小学校から大学2年まで中国で過ごされたわけであるから、中国語がぺらぺらは当然か。
 そんなことはない、中国へ行っても学校は高校まで日本人学校だった。

 中国の山西大学に合格したということは、山田青年の中国語の実力が極めて高かったことを示している。
 すごく勉強したに違いない。
 私は学生時代に、先生が毛沢東の矛盾論を中国語で読んでいるのを見たことがある。

 ロシア語も中国で学んだ。
 革命後の中国であったから必須の言葉であったろうが、ロシア語の本を書いたり、キエフへの留学中はロシア語で生活したりと、すごいレベルに到達している。

 日本語について言うと
 「引き揚げて北海道にいたころ地名が読めなくて困った」という話を先生から聞いたことがある。
 まあ、北海道は難しい地名が多いから、苦労されたと思う。
 私はずっと日本にいてもほとんど読めません。

◎山田先生の代表的な読み間違えを幾つかあげて、遊ぶことにします。

★凡例:ボンレイ
    私がハンレイですと正すと、お前がわしにボンレイと教えたはずだと責任を私に押しつけた

★善し悪し:ヨシワルシ
    これも上に同じ。どこで私の責任になったかは不明

★妻女山:ツマメヤマ
    武田信玄と上杉謙信の戦いで有名な、標高たった411mの山、サイジョザンです
    北信濃の人間ならほぼ間違えないが、外から来た人には読めなくても仕方ない。
    蛇足:道は狭いが車で頂上まで行ける。展望台もある。

★鬼無里:オニナシサト
   こう読まれると北信濃の人間はビックリ。
   でも、この漢字を外から来た人にキナサと読めと言う方が無理かもしれない。
   オニナシサトと言えば、漢字が思い浮かび気持は通じる。

 ローカルな地名は読めなくて当然である。

 山田先生は、
 「漢字の読みを間違えてなぜ笑うか、信州に特有の風潮だ」と言って嫌っていた。
 もちろんその矛先は私に向けられていた。
 部外者もしくは外国人がが変な言葉を発すると、信州人もしくは日本人はこれを笑うが、悪弊の一つであろう。

 中国語、ロシア語、英語、日本語すべてに堪能な山田先生なので、上のことぐらいは笑って勘弁してもらえると思う。

 でも、先生が生きておられたら、いつものように
「お前は信州人の悪いところばかり身につけている」と言って怒るかもしれません。

 思い出の写真から1枚
     
     電磁センサ研究会での山田先生。2008年10月、東京

  ここでもタバコ。
  山田先生がタバコを吸っていない写真を探し出すのは難しい。

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DIC研究所山田 一先生追悼(1)

2014年01月03日 | インポート
DIC研究所山田 一先生追悼(1)

 チェコ・プラハの採石場

 2014年の新年はボヤッとした気分で明けました。
 DIC研究所通信「最終号」の編集が終わって気が抜けたのかもしれません。
 ボヤッとしていなかった新年がこれまであったかどうかは別ですが。

 これからしばらくは恩師山田 一先生をしのんで、いくつかの思い出などをアップしようと考えています。

 比較的若かった頃の1枚の写真から
     
   1984年9月25日、チェコにて(この時は、まだチェコスロバキアだった)
 左から、海老原大樹先生(東京都市大学、当時武蔵工業大学)、山田 一先生、
 山本行雄、長坂長彦先生(当時安川電機、後に九州工業大学教授、故人)

 ブルタバ河(モルダウ)の上流にある採石場(左後方)を見学した。

 この採石場には、採掘した土砂を粒子の大きさによって選別する「ふるい(篩、sieve)」を振動させる動力源にLOA(リニア振動アクチュエータ)が使われていた。
 見学の主目的は、この強力なLOAを見ることであった。
 LOAがふるいの駆動に使われたのはおそらくここが世界でただ1箇所。
 当採石場での可動実績は良好とのことであった。
 開発者は、チェコ科学アカデミーの研究員:ルビチェク博士であり、山田先生の長い友人である。
 DIC研究所通信「最終号」の33ページに、ふるい機の前に並ぶルビチェク博士と山田先生の写真が掲載されています。

 見学後、土地の名産品の一つ「ローズヒップティー」をおみやげにいただいた。

 プラハは山田先生にとって、街並み以上にすばらしい友人がおり、お気に入りの街であった。
 その後も何度か訪れている。

 私は、プラハの街並みの美しさと共にすっぱいローズヒップティーの味を思い出します。


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スピードスケート山中大地君・続報

2013年12月30日 | インポート
スピードスケート山中大地君・続報

 やっと、新聞などに山中大地君が登場しました。
 思わず見入っています。
 例によって、勝手に応援しています。


 五輪予選の写真 Densanのマークが良く見える(朝日デジタルから)
   

 五輪代表に選ばれた長野県出身者 山中選手は上段左端(信毎から)
   

 今になると、こういう写真は際限がなくなりそうですからこの辺にします。
 山中君、期待しています。

 それにしても、今決まって2月にはソチまで行って大会に出るのは忙しいですね。
 体調に気をつけてください。
 楽しい、実りあるオリンピックになりますように。

 長野高専出身のオリンピック選手は、前回カーリングの山浦麻葉さんに次いで2人目。
 すごい卒業生です。


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スピードスケート山中大地君オリンピック代表に

2013年12月29日 | インポート
スピードスケート山中大地君オリンピック代表に

 山中大地君が長野市エムウェーブで行われたソチ・オリンピック予選で1000mに優勝。
 オリンピック選手に選ばれました。

 長野高専電子情報工学科卒業。現在電算所属。
 嬉しいです。

 今回は日程の都合がつかず応援に行けませんでした。(いつもはヒマなのに)
 あちこちのウェブを見ましたが、山中選手の写真があまり見当たりません。
 長島圭一郎選手に勝った山中選手なのに、扱いが小さなぁ。マスコミは何をしている?

 それはともかく、あちこちから借用します。

 ウェブ五輪毎日から
 全日本選手権の時の写真。うーん、力強い滑り。
 

 信濃毎日新聞からコピー
 これも力強い
 

 ウェブ 産経ニュースから
 表彰台。手前の長島選手に勝った。これも全日本選手権
 

 扱いが小さいと言う前に私が応援に行かなかったのが悪かったか
 下の写真は私が撮影した4年前の大会の山中選手。やはりエムウェーブでオリンピック予選
 ものすごく成長したのが上の写真と比べると分かります。
 

 頑張れ、山中大地君。
 ソチ・オリンピックはテレビで応援しています。

 ところで、山中大地君とは面識がありません。
 勝手に応援していることになりますが、本気で応援しています。


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恩師 山田 一先生をしのんで

2013年12月29日 | インポート
恩師 山田 一先生をしのんで研究所通信「最終号」を発行しました

 恩師 山田 一先生が9月1日に亡くなられて、10月に偲ぶ会が行われました。

 先生が社長をされていたちょっと変わった名称の博士国際協同研究所(DIC研究所)では機関誌(季刊誌)「DIC研究所通信」を発行してきました。
 このまま終わらせずに、せめて最終号を出そうというご意見が沢山あり、私が編集を引き受けました。
 引き受けた理由:
  お付き合いが長かった
  沢山迷惑をかけた
  これまで校正のお手伝いをしてきた
  酒を飲むと山田先生に絡んでいた

 DIC研究所通信の読者がどうなっているのかも分からず、連絡のつく皆様に原稿と発行費用のご寄付をお願いしました。
 59名の皆様に原稿をお寄せいただき、また69名の皆様に費用の援助をいただきました。

 DIC研究所通信最終号の概要
  発行日:12月27日(先生の80歳誕生日から8ヶ月)
  体裁:A4,72ページ、カラー版
  山田先生の自分史+59件の寄稿原稿+先生の写真集など

 下に抜粋を置きます。
 pdfでアップする方法を知りませんので、jpgファイルにしてあります。
 画像をクリックすると拡大画面でご覧いただけます。

★目次
  

★本文の一部


★先生の写真の一部


★最終ページ


 沢山の皆様からご支援とご協力をいただきました。心よりお礼申し上げます。
 山田先生を偲ぶに相応しい、心のこもったそして明るい最終号になったと感じております。

 ご関係の皆様にはこの「最終号」を12月26日にくろねこメールで発送致しました。

 名簿に不備があり、自分には届かないという方がおられるかもしれません。
 この場合、ぜひ山本へご連絡をお願いします。

 また購読者ではないけれど欲しい、という方がおられましたらご連絡ください。
 部数に余裕がありますのでお送り致します

 山田 一先生のご冥福をお祈りしています。
                     しみじみと、合掌。


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2013年の年末は「しもやけ」

2013年12月29日 | インポート
しもやけと年末

 ごぶさたばかりです。お元気でしょうか。
 あっという間に1年が終わって、それにしてはいろいろあって・・・。

 無事に年末を迎えたかと思っていたら、
 何年ぶりかで、足にしもやけができました。
 足が温まると、かゆ-いのです。

 ★しもやけ対処
 昔教えていただいた方法で治りました。同症の方にちょっとお勧めです。
 風呂に入ったとき、1分ずつ温水と冷水交互に足を浸すという簡単なことを5回から10回繰り返す。
 温水は浴槽で、冷水は洗面器で(足首から下で良い)

 2日目にはかゆみがとれました。
 赤みが抜けるまでは10日くらいかかりました。
 今回は初めて薬を塗りました。ユースキンAです。
 塗ったから良かったのか、どちらか片方だけでも良かったのかは不明です。

 こんなことで年末が終わりそうです。

 良いお年をお迎え下さい。

 

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台風26号直前のハイビスカス

2013年10月15日 | インポート
 9月4日に最初に咲いたハイビスカスの続編

 10年に1回かもという台風が近づいて、明日未明に上陸するかもしれないという予報が出ています。
 我が家は午後5時半頃、久しぶりに停電がありました。1分弱くらい。

 一昨日開いたハイビスカスが1輪、朝のうちはまだ咲いていましたが昼からの雨であえなく落下。
 今年はこれで6個目。
 1輪ずつ日をおいて、下から順に。1週間間隔くらいで。

 蕾はまだ何個かついていますが。今年はこれで終わりでしょう。
 何事にも遅れ気味な私にふさわしく、ゆっくりとこんな時期まで咲きました。



 たった1本のハイビスカスを楽しんでいます。
 いただいた方に感謝です。

 


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恩師 山田 一先生をしのぶ会

2013年10月05日 | インポート
恩師 山田 一先生をしのぶ会

 2013年9月1日に逝去された(私の)恩師山田一先生をしのぶ会が
 10月4日(金)東京品川で25名が出席しておこなわれました。

 お世話になった卒業生・企業関係者が集まりました。
 卒業生の矢島さんと小林さんが企画から実行まで担当して下さいました。感謝!

 故人をしのぶ会にふさわしく、酒が入り、思い出を語り、思わず涙ぐんだり。
 やっぱり人物だったなあ。

 
 幹事の小林さん(三菱電機)の挨拶
 

 先生をしのぶには、早速ビールです。
 もちろん山田研究室卒業生でも酒を飲めない人はいる。
 

 山田先生との思い出を語る。
 大崎先生(東大教授)
 

 山田先生をしのんでの挨拶。
 山口先生(元富士電機、元熊本工大教授)
 

 入院中の写真など沢山の資料を持参してのお話。
 加藤先生(三重県立高校教諭)
 
 
 心のこもった挨拶。
 ユーモアを含んだエピソードをを話す内に笑いと涙。
 
 
 
 山田一先生の略歴 
19933年4月27日 東京に生まれる
1957年3月  室蘭工業大学電気工学科卒業
1959年3月  東京工業大学大学院原子核工学修士課程修了
同年 4月  信州大学工学部電気工学科助手
1969年11月  工学博士(東京工業大学)
1983年5月  信州大学工学部教授
1984年7月  中国・太原理工大学名誉教授
1995年8月  電気学会 産業応用特別賞受賞
1998年5月  医学博士(広島大学)
1998年5月  電気学会 業績賞受賞
1999年3月  信州大学退官
 同  4月  信州大学名誉教授
 同  4月  博士国際協同研究所代表取締役
2013年9月1日 ご逝去(享年80歳)

経歴を見ると、月並みな大学の先生みたいであるが。
 大学を卒業した年齢は24歳である。
 小学生の頃、朝日新聞記者をしていた父親と共に家族で中国に渡り
終戦、共産党革命の中で青年期を送った。

22歳の時、室蘭に住む叔父さんを頼って、ただ一人で引き揚げ船「興安丸」で帰国。
 室蘭工大へ編入学した。

 中国語は自由自在。学生時代に習ったロシア語も堪能。

 私が国際会議に山田先生と同行したときに中国の研究者に言われた。
 「彼の中国語はすばらしい。時々西安のなまりが出るようだ。誰に習ったんだ?」

 またロシア人に言われたのは、「彼にはウクライナなまりがあるね。」
 これもまた、凄いことである。
 ロシア科学アカデミーへの留学も、言葉では不自由がなかった。

大学院は、原子力の将来を夢見て、東京工業大学修士課程、原子核工学専攻の第1期生となった。
 しかし、原子力は彼の夢を満足させなかったようで、卒業後は信州大学へ就職し、再び電気工学の道を進む。

 当時、長野へ就職することは都会の学生にとって「都落ち」と言われるくらいに人気がなかったようであるが、結果としてはこれが成功。
 変位センサとリニアモータの研究開発で一線の活躍をするようになる。

ところで、かつて電気学会の各種委員長には旧帝大の教授しかなれないという不文律があった。
 山田先生はリニアモータ調査専門委員会を立ち上げ、電気学会では初めて地方大学の助教授が委員長になった。

長野には40年くらい住みながら「信州の風土にはなじめなかった」とはご本人の弁である。
 でも、ネイティブな信州人である私から見れば、立派な信州人に成長した?ように見えました。

------ しのぶ会での私の開会挨拶のほぼ全文 -----
 長野市の山本行雄と申します。
 本日の出席者のなかでは、最も長い間山田先生のお世話になり、そして時にはお世話をしました。
 山田先生のご逝去を深く悼みます。

 本日の会は、小林学様と矢島久志様のお二人が中心となって、企画から実行までのすべてを担当してくださいました。
お二人に心からお礼申し上げます。

 皆様ご存じのように、山田 一先生は7月30日に日赤長野病院に入院され、
8月27日に田園調布中央病院へ転院、9月1日にご逝去されました。
 あっという間の出来事でしたが、最後は奥様のお近くで息を引き取られたことに、安堵の思いをしております。

 今年4月27日、山田先生の80歳の誕生日には、傘寿のお祝いを、長野市で大勢の皆様にご参集いただいて実施しました。
 また、5月25日には少人数で山田先生を囲み話す会をおこないました。
 山田先生はとてもお元気で、また喜んでいただけたと感じておりました。

 実はその頃から、先生の体力は急速に落ち、幾つかの病院で診察を受け、3ヶ月後に入院となりました。
 私はそれ以前から山田先生の脚力の弱ったことを心配して
 「先生にもしものことがあったらどうされますか」と先生のいやがる質問を繰り返していました。
 お応えはいつも曖昧か「お前が心配することじゃない」とのことでそのままにしてきました。
 先生が亡くなられてみると、どうも生活に関しても仕事に関しても、はっきりしたことは誰にも言っておられなかったようです。

 結果として、長野市の事務所と生活兼用のマンションの撤収、DIC事務所の閉鎖に関しては、奥様が専門業者と法律事務所に依頼して、措置をしたというのが実情です。
 山田先生が、生前にはっきりさせておいたことは、遺体を大学病院に献体することくらいで、これは奥様によって即日慶応大学病院に献体となりました。
 そして、当面はご家族だけでミサをおこなう程度にしたいとのことでした。

 なお、本日のしのぶ会の開催を奥様にお知らせし、ご出席はご無用との趣旨でお電話をいたしました。
 奥様からは「ありがとうございます。お世話になりました皆様にくれぐれもよろしくお伝えくださいませ」とのことでした。

 私はいつも山田先生のお近くにいながら、結局いざという時に何のお役にも立てなかったことを申し訳ない思いでおります。
 ただ、返す刀で言わせていただきますと、7年前に、私が5年生存率が20%以下という胆嚢がんの手術を受けたとき、山田先生は私に向かって
「お前はもうすぐ死ぬな」
と言われましたので、山田先生に私の葬儀で弔辞を読んでくださるお願いをしておきました。
「引き受けた」
 と快諾して下さいましたが、これは守っていただけずに私が本日のご挨拶をすることになってしまいました。
 まことに残念な思いでおります。

 今になって、山田先生の存在の大きさを改めて感じております。
 本日ここにお集まりくださいました皆様とご一緒に、山田先生をしのび、そして山田先生の業績、私達が受けてきたご恩を心に刻みたいと思います。

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 やはり、山田先生のことを書くと長くなってしまいます。
 続編は後日ということに。

 山田先生のご冥福をお祈りいたします。



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