恩師 山田 一先生をしのぶ会

2013年10月05日 | インポート
恩師 山田 一先生をしのぶ会

 2013年9月1日に逝去された(私の)恩師山田一先生をしのぶ会が
 10月4日(金)東京品川で25名が出席しておこなわれました。

 お世話になった卒業生・企業関係者が集まりました。
 卒業生の矢島さんと小林さんが企画から実行まで担当して下さいました。感謝!

 故人をしのぶ会にふさわしく、酒が入り、思い出を語り、思わず涙ぐんだり。
 やっぱり人物だったなあ。

 
 幹事の小林さん(三菱電機)の挨拶
 

 先生をしのぶには、早速ビールです。
 もちろん山田研究室卒業生でも酒を飲めない人はいる。
 

 山田先生との思い出を語る。
 大崎先生(東大教授)
 

 山田先生をしのんでの挨拶。
 山口先生(元富士電機、元熊本工大教授)
 

 入院中の写真など沢山の資料を持参してのお話。
 加藤先生(三重県立高校教諭)
 
 
 心のこもった挨拶。
 ユーモアを含んだエピソードをを話す内に笑いと涙。
 
 
 
 山田一先生の略歴 
19933年4月27日 東京に生まれる
1957年3月  室蘭工業大学電気工学科卒業
1959年3月  東京工業大学大学院原子核工学修士課程修了
同年 4月  信州大学工学部電気工学科助手
1969年11月  工学博士(東京工業大学)
1983年5月  信州大学工学部教授
1984年7月  中国・太原理工大学名誉教授
1995年8月  電気学会 産業応用特別賞受賞
1998年5月  医学博士(広島大学)
1998年5月  電気学会 業績賞受賞
1999年3月  信州大学退官
 同  4月  信州大学名誉教授
 同  4月  博士国際協同研究所代表取締役
2013年9月1日 ご逝去(享年80歳)

経歴を見ると、月並みな大学の先生みたいであるが。
 大学を卒業した年齢は24歳である。
 小学生の頃、朝日新聞記者をしていた父親と共に家族で中国に渡り
終戦、共産党革命の中で青年期を送った。

22歳の時、室蘭に住む叔父さんを頼って、ただ一人で引き揚げ船「興安丸」で帰国。
 室蘭工大へ編入学した。

 中国語は自由自在。学生時代に習ったロシア語も堪能。

 私が国際会議に山田先生と同行したときに中国の研究者に言われた。
 「彼の中国語はすばらしい。時々西安のなまりが出るようだ。誰に習ったんだ?」

 またロシア人に言われたのは、「彼にはウクライナなまりがあるね。」
 これもまた、凄いことである。
 ロシア科学アカデミーへの留学も、言葉では不自由がなかった。

大学院は、原子力の将来を夢見て、東京工業大学修士課程、原子核工学専攻の第1期生となった。
 しかし、原子力は彼の夢を満足させなかったようで、卒業後は信州大学へ就職し、再び電気工学の道を進む。

 当時、長野へ就職することは都会の学生にとって「都落ち」と言われるくらいに人気がなかったようであるが、結果としてはこれが成功。
 変位センサとリニアモータの研究開発で一線の活躍をするようになる。

ところで、かつて電気学会の各種委員長には旧帝大の教授しかなれないという不文律があった。
 山田先生はリニアモータ調査専門委員会を立ち上げ、電気学会では初めて地方大学の助教授が委員長になった。

長野には40年くらい住みながら「信州の風土にはなじめなかった」とはご本人の弁である。
 でも、ネイティブな信州人である私から見れば、立派な信州人に成長した?ように見えました。

------ しのぶ会での私の開会挨拶のほぼ全文 -----
 長野市の山本行雄と申します。
 本日の出席者のなかでは、最も長い間山田先生のお世話になり、そして時にはお世話をしました。
 山田先生のご逝去を深く悼みます。

 本日の会は、小林学様と矢島久志様のお二人が中心となって、企画から実行までのすべてを担当してくださいました。
お二人に心からお礼申し上げます。

 皆様ご存じのように、山田 一先生は7月30日に日赤長野病院に入院され、
8月27日に田園調布中央病院へ転院、9月1日にご逝去されました。
 あっという間の出来事でしたが、最後は奥様のお近くで息を引き取られたことに、安堵の思いをしております。

 今年4月27日、山田先生の80歳の誕生日には、傘寿のお祝いを、長野市で大勢の皆様にご参集いただいて実施しました。
 また、5月25日には少人数で山田先生を囲み話す会をおこないました。
 山田先生はとてもお元気で、また喜んでいただけたと感じておりました。

 実はその頃から、先生の体力は急速に落ち、幾つかの病院で診察を受け、3ヶ月後に入院となりました。
 私はそれ以前から山田先生の脚力の弱ったことを心配して
 「先生にもしものことがあったらどうされますか」と先生のいやがる質問を繰り返していました。
 お応えはいつも曖昧か「お前が心配することじゃない」とのことでそのままにしてきました。
 先生が亡くなられてみると、どうも生活に関しても仕事に関しても、はっきりしたことは誰にも言っておられなかったようです。

 結果として、長野市の事務所と生活兼用のマンションの撤収、DIC事務所の閉鎖に関しては、奥様が専門業者と法律事務所に依頼して、措置をしたというのが実情です。
 山田先生が、生前にはっきりさせておいたことは、遺体を大学病院に献体することくらいで、これは奥様によって即日慶応大学病院に献体となりました。
 そして、当面はご家族だけでミサをおこなう程度にしたいとのことでした。

 なお、本日のしのぶ会の開催を奥様にお知らせし、ご出席はご無用との趣旨でお電話をいたしました。
 奥様からは「ありがとうございます。お世話になりました皆様にくれぐれもよろしくお伝えくださいませ」とのことでした。

 私はいつも山田先生のお近くにいながら、結局いざという時に何のお役にも立てなかったことを申し訳ない思いでおります。
 ただ、返す刀で言わせていただきますと、7年前に、私が5年生存率が20%以下という胆嚢がんの手術を受けたとき、山田先生は私に向かって
「お前はもうすぐ死ぬな」
と言われましたので、山田先生に私の葬儀で弔辞を読んでくださるお願いをしておきました。
「引き受けた」
 と快諾して下さいましたが、これは守っていただけずに私が本日のご挨拶をすることになってしまいました。
 まことに残念な思いでおります。

 今になって、山田先生の存在の大きさを改めて感じております。
 本日ここにお集まりくださいました皆様とご一緒に、山田先生をしのび、そして山田先生の業績、私達が受けてきたご恩を心に刻みたいと思います。

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 やはり、山田先生のことを書くと長くなってしまいます。
 続編は後日ということに。

 山田先生のご冥福をお祈りいたします。



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