浮世風呂

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China(支那)のカニバリズム【閲覧注意】

2012-05-08 18:25:23 | 資料

2012.05.08

韓国税関、中国からの「人肉カプセル」密輸に対策強化

  死産した胎児などの肉を乾燥させて作った「人肉カプセル」が韓国の税関検査で相次いで見つかり、当局が取り締まりを強化している。同国のメディア各社が伝えた。

英字紙コリアタイムズによると、中国から韓国への観光客を装って人肉カプセル1万1000錠の密輸をはかったとして、これまでに29人が逮捕された。東亜日報によれば、昨年8月以降の摘発件数は35件を超え、税関で1万7000錠以上が見つかっているという。

韓国関税庁の職員によれば、人肉カプセル特有の色やにおいを隠す目的でカプセルに香草を混ぜたり、医薬品の容器にカプセルを入れて税関をすり抜けようとしたケースもあるという。

人肉カプセルは滋養強壮や若返りの効果があると信じて服用されている。だが税関によれば、カプセルにはスーパーバクテリアと呼ばれる耐性菌など人体に有害な物質が確認されているという。

同カプセルの密輸問題は2011年4月に放映されたドキュメンタリー番組で取り上げられ、韓国の当局が摘発に乗り出した。番組では原料を売り渡したとされる中国の病院にも取材していたが、中国の当局者は、同国には医療廃棄物などの転売を禁じる厳格な規定があると述べた。

韓国の当局は密輸を阻止するため、入国者の手荷物検査や国際郵便の検査を強化するなどの対策を講じている。

http://www.cnn.co.jp/world/30006502.html 

需要が無ければ供給はない。まして密輸してまで。

世界中がChina(支那)と呼ぶのに日本にだけは「中国」と呼ばせる国は、21世紀の現在においても唯一人肉を食べる民族である。最近では人肉食とは呼ばず「カニバリズム」と言うが、人肉を食すことに変わりはない。

売られている赤子の脳みそ瓶詰め



胎盤から作られた滋養強壮剤(漢方薬)

実は日本でも胎盤は出産後に刺身で食べられている。

 有名な『三国志』の中で、曹操に敗れ、味方にはぐれた玄徳をかくまった若い主人が、新妻を殺して『狼の肉です、召し上がって下さい』と言って歓待し、玄徳は知らずにこれを食べたが、翌朝別れを告げ発つとき妻がいないことに気づき台所へ行くと妻の死体が横たわっていた。『ああ、これほどまでに我を大切にしてくれたか、ありがたい。』という話がある。このくだりは、三国志の中で最高の美談として中国人が愛読し、語り継いでいる。

しかも、昔の中国の城は都市そのものだったから、強敵が攻めてきたときは、軍隊も市民もすべて籠城する。そして、戦争が長引き食糧が無くなると軍隊が市民を食べ始める。

あの、孔子でさえ、人肉の醢(シシビシオ、ただの塩ずけでなく、干して麹を混ぜ上等の酒に漬けて密封して100日で出来上がり)が好物だったことはあまりにも有名である。(孔子の文献を読めば出てくる)

どの民族でもすさまじい飢餓状態になれば人を食べる。日本では藤吉郎(後の太閤秀吉)が城攻めした鳥取城内で人肉が食われた記録が残っている。籠城4ヶ月目ですさまじい共食いがおこなわれた。

とくに足軽以下は容赦なく屍肉を食い、死体をあさるために夜間柵のそばまで忍びよって味方の戦死者の足を引きずろうとするものも出、それが敵の哨兵に撃ち殺されるや、その男を他の味方が食ってしまおうとするありさまになった。(司馬りょう太郎の太閤記より)

さらに生きているものさえ殺され仲間に食われたという。だが文献として残されているものはこれが唯一のものだ。日本人は同一民族のせいか仲間同士でのいわゆるとも食いはきびしい飢餓の状況においてさえほとんどみられない。

欧米ではどうだろう。アンデスの山中に墜落した飛行機の乗員が死んだ乗員を食べて生還した話はあまりにも有名だが、それ以外で人肉を食べたという話を聞かない。もともと遊牧民族である彼らは屍に東洋人ほどの敬意を払わない。

ベトナム戦争では米軍の兵士が殺したベトコンの耳を切り取って集めて勲章にし、太平洋戦争ではアメリカの大統領が日本兵の骨で作ったペンを愛用していた。こんな野蛮な行動はしても欧米人には人肉を食べる習慣がない。多分、飢餓状態になれば人肉も食べたと想像されるが、キリスト教の影響なのか古今の欧米の戦争でもそういったたぐいの話を聞かない。

だが中国人は違う。あきらかに人肉を食べることを楽しんできた。人肉食、人相食、夫食婦、婦食夫、易子而食(親がお互いに子供を交換して食べる)こういう記録が中国の史書の随所に見いだされる。あの春秋戦国の覇王桓公は子供の丸蒸しを料理として賞味した。宋代には人肉料理のメニューさえある。そのころ食肉用の人間は「両脚羊」と呼ばれていた。

1984年、台湾近郊で炭鉱事故がおこり、ただ一人生き残った炭坑夫は生き残るために人肉を食べた。 そして「息の切れた人間の肉はおいしくない。やはり生きている人間の肉はうまかった」と発言して大きなニュースになった。
人を食べたからではない。どれが美味しかったという点でだ。それについて台湾大学の教授が人肉と牛肉と豚肉のいずれが、より栄養価が高くうまいかを新聞紙上でコメントした。

このことは如実に中国の社会常識とし現在でも人肉は食用たりうることを物語っている。(封神演義  安能 務氏より)

つまり中国にとって人間を食べるという行為は飢餓をしのぐのためではなく、食文化の一つなのだ。

 

つい最近の影像である。一応流産した胎児という但し書きがある。

こういった文化を持つ中国人にとって人体は賞味すべき料理の材料のみならず薬の材料でもある。胎盤を火であぶって乾燥させ粉末にして元気を出す薬として使う。これを紫河車(しかしゃ)という。また人間の毛髪を黒焼きにして血止めに使う。乱髪霜)と呼ぶ。これらの漢方薬は特殊な薬ではなく、普通 に使われる薬にすぎない。

中国人には目が悪ければ目を、肝臓が悪ければ肝臓を食べる習慣がある。同じ肝臓なら人間の肝臓がよい。だから文化大革命の混乱期には多くの人が殺され臓器が食ペられた。

臓器の取りだし方まで解説した本もある。肝臓を取り出すためにわざわざ人を解剖する必要はない。肋骨の下にナイフで切り込み入れ、屍の胸を足で蹴ると肝臓が飛び出るという。

こんな中国人の強烈な享楽的、現実的パワーには驚きを禁じえないが、この貪欲な好奇心が漢方薬を発展させる原動力になってきたこともまた間違いない。

食人は辺鄙な田舎よりもむしろ首都で頻発したこと、これがシナにおける食人の特殊性を象徴しているだろう。それはいわゆる「未開の人食い人種」の食人とは異なり、極めて政治的な出来事であったことを物語っている。

支那帝国の首都は、

前漢(長安)
後漢(洛陽)
隋・唐(長安)
北宋(汴京)
南宋(杭州)
元(北京)
明(南京・北京)
清(北京)

と移り変わったが、いわゆる中原に位置する長安と洛陽の政変、兵乱の度の混乱と荒廃がひどかったようである。
例えば黄巣の乱で略奪され食い尽くされたように、その後長安は帝都として復活することはなかった。

「長安城中、斗米が三十緡(銭指の紐、すなわち貫、一貫は千文)。賊が官軍から軍糧としての人を買いとった。官軍は山塞にこもった民をとらえて売った、人(一体)数百緡、(但し)肥痩で値を決める」と。(『資治通鑑』唐紀)

これは唐中和二年(882年)の首都長安の市場価格だそうだ。米一斗(十升)とは容量の単位であるので人一人の値段とは比較がし難いが、米一升が約1.5キロとすれば、キロ当たりは二千文。斤(600グラム)にすれば1200文。

人一体が約60キロとすると100斤。一斤あたり「数」貫。この「数」が曲者なので幅があるとしても、数千文になり米よりは高いようだ。

しかし、年が降って天復二年(902年)の地方都市・鳳翔でのこと。

「市中人肉を売る、斤あたり百銭(文)。犬肉は五百銭」と。(『資治通鑑』唐紀)

首都と地方の違いはあるにせよ、犬肉の実に五分之一の市場価格とは驚かされる。それだけ人肉の方が入手がたやすいということになる。

また人肉市場が存在した例として、『新唐書』列女伝には、以下のような「美談」がある。

周迪という行商人が行商の道中に畢師鈬の叛乱にであった。

「人は互いに捕まえあい、市に売られ、食われた。周迪も乱にまきこまれ餓死しそうになった。同行していた妻が彼に言った。『こうなったら、二人で故郷に帰るはなりません。あなたの両親は健在なのですから、私を売って帰国の費用にしてください。』周迪は忍びなかったが、妻はむりやり夫を市場につれていって自らを数千文で売った。周は旅費を得て城門を出ようとすると、守備兵が不審に思って入手先を詰問したので市場に戻ってみると、妻の首がもう「枅」(商品見本棚)に掛かっていた」と。

これはあくまでも美談として読まれるべきものなのだが、ここでは数千文という値段に注目。かなり値下がりしているようである。(実に一体の値が以前の一斤の値段の水準に等しい。)

さらに明清時代に降ると、
太平天国をした曽国藩の日記に拠れば、そのころの「江蘇地方では人肉一斤九十文。しかし太平天国の乱の影響で一斤百三十文に値上がった」そうだ。

そこから人肉の価格の暴落と需要供給により上下する市場価格が成立していたことがわかる。

人肉メニュー

「臠」:生肉をスライスして食べる、刺し身。「凌遅刑」という刑で食べられた。

「脯」:干物。刑罰として用いられることが多い。

「羹」:肉鍋。

「醢」:塩辛。干して麹を混ぜ上 等の酒に漬けて密封して100日で出来上がり。孔子の高弟、子路が醢にされた。

「炙」:人肉のバーベキュー(『韓非子』より)。

「変換文字なし」:乾し人肉

「血饅頭」:饅頭に罪人の血を浸し、市民に販売した。1860年頃。北京西郊で罪人を処刑した時、刀手(首切り屋)はその斬り首より噴出する鮮血に饅頭(マントウ)を漬し、血饅頭と名つけて市民に販売した。「千八百六十五年の頃、北京西郊で罪人を処刑した時、刀手(首切り屋)はその斬り首より噴出する鮮血に饅頭(マントウ)を漬し、血饅頭と名つけて市民に販売したという。」(Peking and the Pekingese. Vol. II, pp. 243-244)これもまさに魯迅が『薬』で描くところの伝統的風習である。

「塩屍」:人間の塩漬(『唐書』秦宗権伝より)

「嬰児の水餃子」:正式名称は不明。嬰児の肉をミンチにした水餃子。

 

人肉用語

「喫人」:チーレン。人食いの事

「両脚羊」:人間の肉という意味(二本足の羊)

「不羨羊」:若い女の肉(羊より美味い)

「和骨爛」:子供の肉(煮れば骨まで食べられる)

「想肉」:男の両腿と女の乳房。(懐かしの肉)あまりの旨さにまた食べたくなるから。

「易子而食」:(子を交換して食す)自分の子供を食ぺることだけは避けようと、近隣の子供と交換した。

◆1965年、文化大革命、白昼堂々人肉宴会が行われ、生徒が教師を食べた。

百余の死体が香港に漂流して有名になった。

中国・広西省武宣県では文化大革命の間に、共産党の迫害によって死んだ人間は524人。その内、食われた者は百数十人。武宣県において食人行為を行った者は推定1万~2万人にのぼる。

1968年7月1目、武宣県の桐嶺中学副校長・黄氏は、糾弾大会につるし上げられ殺された。学校の食堂や廊下、区役所の炊事場でや教員宿舎や女子学生宿舎で、人肉を煮たり焼いたりしての人肉料理の宴会が行われた。

  

南京陥落時には、南京には人肉市場が存在した。それが各国にばれそうになると、すべて日本帝国軍の残虐行為にすり替えられた。現在の支那共産党が、何が何でも日本の南京虐殺を言い続けなければならない理由がそこにある。

※写真は、1937年12月15日、南京城内難民区、佐藤振壽・東京日々新聞カメラマン撮影。

人々の中には、日本があたかも「平和な中国」に乗り込んでいって戦争を仕掛けたかのように、思っている人もいる。しかし、当時の中国はひどい混迷と分裂の状態にあり、内乱と騒乱にあけくれる史上最悪の内戦国家であった。

 各軍閥は血で血を争う抗争を続け、その犠牲となっているのは一般民衆であった。民間の犠牲者は、ときに数百万人、また数千万人にも達していた。そのうえ、頻繁に起こる飢饉により、百万人単位の民衆が餓死するといった事態も、何度も起きていた時代である。

それに加え、この隣人である中国の悲惨な状態を日本が座視していられない、もう一つの理由があった。それは当時盛んになっていた西欧列強諸国とソ連(ロシア)による、アジアへの侵略である。

 西欧列強は当時、次々とアジア諸国に手を伸ばし、植民地化を進めていた。アジアの国々から搾取して、自国を富ませるやり方である。主人は白人で、黄色人種は召使いとなるという構図がアジアをおおっていた。

座視していてはやがて日本への侵略が目に見える状態で、独立を守るためにも生命線を死守することは国として当然の行為である。

歴史を冷静に分析すれば、中国大陸が当時どういう状態にあったか判るはずである。映画「北京の55日」を見るだけで、平和な国「中国」に日本だけが「侵略して暴虐の限りを尽くした」などとは決して言えない筈である。

何でもプロパガンダだと否定していては、決して真実は見えては来ない。そういう人に限って日本は歴史の認識をしないと戦後65年言い続けている。

なにが何でも日本だけが残虐な行為をしたと言うまで、永遠と言い続けるのであろう。

 

(此の項に関するブログ紹介)

http://www.tamanegiya.com/sinanosyokujinn20.11.11.html

http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/177.html#id_f90fb5ad 

http://kay-japan.iza.ne.jp/blog/entry/197018/

 


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