浮世風呂

日本の垢を落としたい。浮き世の憂さを晴らしたい。そんな大袈裟なものじゃないけれど・・・

史上最悪の殺人鬼『毛沢東』

2013-07-12 20:35:17 | 資料

毛沢東 マオ・ツォートン

1893年12月26日生まれ(没1976年9月9日)

現代世界史に大きな功績を残した人物とされているが、おそらく人類史上最も人々を死に追いやった人物である。彼の政策による犠牲者は最低でも数千万人とも7千万人ともいわれている。

1907年、弱冠14歳で羅一秀と最初の結婚をするも、1910年、年上の妻はわずか20歳で死去した。

1917年、孫文の同志だったアジア主義者の宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省を訪れ、講演を行った。毛はこの講演会に出席し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。

1919年、長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。この頃、新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。

1921年7月23日、毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会(党大会)に出席する。1923年6月、第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれた。

1926年広州農民運動講習所所長。この頃「農村で都市を包囲する」といった思想が確立していったといわれる。

井崗山を最初の革命根拠地として選んだ毛沢東は、1929年から1931年にかけて、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に農村根拠地を拡大し、地主・富農の土地・財産を没収して貧しい農民に分配するという「土地革命」を実施していった。

しかし抗日戦を戦っているのは国民党軍であり、彼の共産党軍は土地の搾取ということに変わりはない。なおこの根拠地に潜伏中、江西省出身の女性・賀子珍と暮らすようになり、1929年には長女が誕生している。

1931年11月、瑞金を首都とする「中華ソビエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となった。しかし、江西ソビエトを始めとする中国共産党の根拠地は国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。

国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日、ついに江西ソビエトを放棄して敗走、いわゆる「長征」を開始する。この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに周恩来を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。

しかしこの「長征」は、後から作られた創作で、現実は毛沢東自身は洞窟に隠れ住み蒋介石からは洞窟のゲリラどもと呼ばれていた。

毛沢東は中央書記処書記に選出されて新指導部の一員となり、周恩来の補佐役となった。しかし、毛沢東は周恩来から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処の決定により、毛沢東は周恩来に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。

1936年12月12日に西安で起きた張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件(西安事件)で、宿敵である蒋介石と手を結び、第二次国共合作を構築する。

1937年7月7日に始まった日中戦争では抗日戦線を展開、国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。

しかし、日中戦争において日本軍と交戦したのは主に国民党軍であった。

共産党側は、朱徳率いる八路軍が日本軍へのゲリラ戦を行う以外は日本軍と国民党軍の交戦を傍観し、戦力を温存して、共産党支配地域の拡大に傾注したのである。この時期、毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。

1938年には長征時代の妻・賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優・江青と結婚した。

この時の毛沢東の主な政策は、阿片の生産である。共産党支配下で栽培しそれを連合軍に売り資金を蓄え、来るべく国民党軍との内戦に備える戦略である。

日中戦争末期の1945年5月、中国国民党は第6回全国代表大会を開催し、孫文が提唱した革命の第3段階である「憲政」に入ることを示した。

一方、毛沢東は同時期に開催されていた中国共産党第7回党大会で『連合政府論』を提唱し、国民党案に不同意を表明した。日中戦争当時、共産党と国民党は表面上協調関係を結び、毛沢東も蒋介石の権威に従っていたが、戦争終結を目前にして、毛沢東は「蒋介石と対等な指導者」としての立場をめざし、共産党と国民党の対立は深刻になっていった。終戦直前の8月13日、毛沢東は蒋介石との武力闘争を内部指示として発した。

1945年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を連合国側に通告、8月15日に終戦を迎えた。

1946年国共内戦が起きると、毛沢東は、地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得していった。

毛沢東率いる中国人民解放軍(1947年9月、八路軍から改称)はソビエト連邦からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によって軍事支援を削減された国民党軍に対して大規模な反撃に出た。

1949年1月、人民解放軍は北平(北京)に入城し、4月23日には国民政府の根拠地・首都南京を制圧した。

 1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。しかし、この段階では国共内戦は終息しておらず、11月30日に重慶を陥落させて蒋介石率いる国民党政府を台湾島に追いやったものの、1950年6月まで小規模な戦いが継続した。

◆毛沢東の犯罪を忘れるな!

【大躍進政策】

  1957年春、毛沢東は知識人階級に対し、自由に共産党批判をするよう求めた。「百花斉放」政策である。しかし毛沢東は同時に「引蛇出洞」(ヘビをねぐらからおびき出す)と言う秘密発言もしていた。

前年の秋、ハンガリー暴動が起こり、中国でも知識人たちが同様な穏健・自由主義路線を望んでいることが分かっていたので、毛沢東が先手で罠を仕掛けたのである。

多くの知識人から共産党の独裁化を批判されると、毛はこれを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。

1957年、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、ソ連が15年以内に鉄鋼、石油などの生産高の面でアメリカを上回るだろう、と 宣言した。

当時モスクワに滞在していた毛沢東は、兄貴分であるソ連の後について、中国は15年以内にイギリスを追い越すだろうと語った。この発言は、世界各国共産党首脳たちの熱烈な拍手を浴び、中国国内でも盛んに宣伝された。

 そこで毛沢東は1957年に約535万トンであった中国の鉄鋼生産高を翌年には倍の1070万トンにするよう命じた。ここから全人民製鉄・製鋼運動が展開されることになった。

 しかし本格的な製鉄コンビナートを作るだけの資本も、時間もない。いらだった毛沢東は、産業革命以前の「土法高炉」を全国に展開し、人海戦術で鉄鋼生産を行うことを命じた。

   「ワイルド・スワン」の作者ユン・チアンは、この年、小学校に入ったばかりであったが、その校庭にかまどと「るつぼ」の形をした大きな鉄の桶が据えられた。先生たちが24時間休みなしで薪をくべ、生徒たちが拾い集めてきた鉄くずをその桶に入れる。

先生たちが製鉄に動員されているので、授業もなく、ユンは先生の家で掃除や子守りもした。  
ある先生は、とけた鉄を浴びて、両腕に大やけどを負い、病院に見舞いに行ったユンは、そこでも医師や看護婦が、土法炉の火を絶やさないように、走り回っている姿を見る。

   
  
  しかし、素人が薪をくべて作った鉄は、農機具用にすらならなかった。ユンの家の鍋や釜も、ベッドのスプリングもすべて、溶かさてしまった。

6000万人の労働力を投入して、308万トンの何の役にも立たない「牛の糞」のような鉄が作られたのでる。

 無駄になったのは、膨大な労働力だけではない。土法炉の燃料として、大量の石炭が使われた。そのために、逆に正規の製鉄所が燃料不足に陥り、操業停止に追い込まれる所が出てきた。

さらに石炭を買えない農民は、樹木を伐採して、薪とした。全人民製鉄・製鋼運動はたちまち、全人民樹木伐採運動へと一変した。この環境破壊は、数十年後にも続く悪影響を残す。

山はハゲ山になり、土地もやせてしまった。一度大雨が降れば土砂が田畑に流れ込み、肥えた土地も荒れ地になってしまった。これでどうして豊かになることができるのだろうか。

  また、かまどを作るには、レンガが必要である。そのために古代からの城壁を破壊して、そのレンガが用いられた。前漢時代に国都長安を守る東の関門として、2千年の歴史を持つ河南省の函谷関の2層の楼閣、甘粛省威武県の唐代からの城壁など、いくつもの由緒ある建造物がこうして破壊された。

   毛沢東の一言で、なぜ全人民がこれほど、愚かな運動に全力をあげて取り組んだのか? 共産党の幹部たちは、鉄鋼生産のノルマを課され、毎日生産高を報告することが求められた。

上級幹部の関心は、毛沢東の命じた「1070万トン」という数字 のみであった。その鉄を使うあてがあるわけでもなく、品質もどうでも良い。当然、下からの報告は水増しされる。
  
水増し報告に反対した良心的な幹部は、統計局長を含め、「右派」のレッテルを貼られ、労働改造所か、牢獄に送り込まれていた。残る党幹部、官僚も、専門技術者たちも、この運動がいかに人民を苦しめ、経済発展を阻害しているか、分かってはいても、保身のためには、口を閉ざすしかなかったのである。

   鉄鋼増産と並んで、毛沢東の念願であった人民公社による農村の共産化が進められた。「共産主義は天国だ。人民公社はその掛 け橋だ。」というスローガンが、1958年以降、中国全土に響き渡った。

   2千から2万戸を一つの単位として、人民公社を作り、その中では、人々は田畑や森林、家畜、農機具などすべての私有財産を提供し、共有化する。自宅での食事は禁止され、農民は農作業が終わると、公共食堂で食事をとる。収穫はすべて国のものとされるので、誰も農作業の能率など気にしない。農村にも鉄鋼生産のノルマがあるので、農耕作業は二の次にされた。そして食べたい だけ食べるので、食料備蓄はまたたく間に底をついた。
  
  人民公社は地方の共産党官僚の管理化におかれ、やがて各公社が、毛沢東の歓心を得ようと、食糧増産の大ボラ吹き競争を始める。ある公社が、今まで1畝(6.7アール)あたり200斤(100k g)程度しか小麦がとれなかったのに、2105斤もの増産に成功し た、とのニュースを人民日報で流した。毛沢東が提唱した畑に隙 間なくびっしりと作物を植える「密植」により、出来高が10倍にもなったというのである。
  
すると、他の公社も負けじと、水稲7000斤、1万斤などという数字を発表し始めた。8月には湖北省麻城県で、1畝あたり稲の生産高3万6956斤というニュースが報道された時、人民日報は四人の子供が密植された稲穂の上に立っている写真まで掲載した。
  
これらは完全なでっちあげであった。農民に徹夜作業で何畝かの田畑の稲や麦を1畝に移し変えさせたものだ。しかしこれだけ密植すると、風が通らず、蒸れてすぐに作物がだめになってしまうので、農民は四六時中、風を送っていなければならなかった。
  
  出来高の水増し報告により、上納すべき量も増やされ、農民たち自身の食料がさらに減らされた。こうして、農民たちの製鉄運動への駆り立て、人民公社化による効率低下、さらに上納分の増加により、食糧備蓄も底をつき、1960年から61年にかけて、中国全土を猛烈な飢饉が襲った。

農民が口にしたり種用にする穀物はもちろん、家畜用の飼料も取り立てられ、60年春には、
人民公社の「優越性」の象徴としてだれでも腹いっぱい食べられると宣伝された「公共食堂」は
機能しなくなっていた。

ひどい村では80日間、一粒の穀物もないというありさまだった。栄養失調から浮腫(むくみ)病がまん延し、餓死する者さえ出る惨状で、農村を逃げ出す農民があとを絶たなかった。

それでも路憲文党委員会書記は、「穀物がないのではない。9割の者は思想に問題がある
のだ」と言い、民兵に村を封鎖させ、都市部の各機関や工場には、農村から逃げた者を
受け入れないよう指示した。

  幹部の粛清の後、59年には毛沢東はさらに大々的な反右傾運動を展開した。農民や人民公社の幹部・役人で、少しでも政策に不平不満をもらすものは、どしどし摘発された。その総数は中国全土で1000万人にのぼったと小平は述べている。

 中国全土での餓死者は、2~3千万人と言われている。55年から58年までの平均人口増加率2.29%を適用すると、61年末の人口は7億632万人になるはずなのに、実際にはそれより4,638万人少なかった。

  毛沢東の「大躍進」政策によって、中国人民は近代史上、最大規模の大量餓死に駆られたのであった。 

 

  61年初めには、毛沢東も「大躍進」政策を続けることができなくなり、劉少奇や小平などの実務派に政治運営を譲った。鉄鋼増産運動は中止され、農民の収入も働きに応じて分配されるようになった。

小平が「白猫でも黒猫でもネズミをとるのが良い猫だ」という発言をしたのは、この頃だ。「ネズミをとる」とは、「国民を食わせる」という事なのである。

   実務派の市場主義的舵取りにより、2年ほどで中国経済はふたたび好調に動き始めた。しかし、一時後退した毛沢東は、権力奪還を狙って、逆襲に出る。中国人民の前には「文化大革命」という次の悲劇が待ち受けていた。

 

【文化大革命】

文化大革命とは『中国共産党中央委員会通知』が発布された1966年5月から、1976年10月の「四人組」の失脚までの10年間の中国の政治過程を指す。

中国政府の公表では、文化大革命当時、四分の三の幹部が打倒(迫害・虐殺)され、被害者は1億人に達したという。これは当時の人口の九分の一を占める。
そしてこの数の数倍もの加害者や盲従者がいたはずである。

文化大革命の悪影響は今日の中国社会に色濃く残っている。
紅衛兵が破壊した多くの文化遺産や名所旧跡は、もう復旧できない。

1982年の政府発表によると、中国に2億人以上の文盲、半文盲がいるという。
それは文化大革命の10年間、学校教育を怠ったことと大きな関係がある。
また、数字に表わせない無形の影響として、国民全体の素質の低下は今後も長く残るだろう。

さらに文化大革命後、農村に下放された知識青年が、一斉に都市部へ戻り深刻な失業問題に見舞われた。今日に至ってもそのツケが回ってきている。

毛沢東は良識ある人たちすべてを憎悪し、抹殺を指令した。

毛沢東皇帝名語録:
  
『俺はスターリンの轍は踏まないぞ!フルシチョフ的人物、すなわち、無謬の毛沢東皇帝を、いささかでも、批判するものは、たとえ、何千万人でも、すべてぶっ殺せ!生かしておくな!』

 毛沢東は、党中央と中央所属の各機関、中央政府、各省、各市、各自治区、さらには、すべての教育機関、学術界、マスコミ界、文芸界、出版界など、あらゆる領域において、それぞれ、おびただしい数のフルシチョフ的人物(毛沢東を批判する人物)がいると指摘し、どんなに人数が多くても、これらのフルシチョフ的人物(毛沢東を批判する人物)の反社会主義的な反動思想を摘発し、徹底的に批判し、残虐に痛めつけ、彼らから指導権を奪取しなければならないと指令した。

フルシチョフは1953年~1964年にわたりソ連共産党第一書記を務め、ソ連の第4代独裁者であった。1956年、党大会で激烈なスターリン批判演説を行い、スターリンの数々の悪業を徹底的に非難したことで知られている。

毛沢東は「自分は無謬の皇帝である」とし、いささかでも毛沢東の政策を批判する「不心得者」は、すべてフルシチョフ的反革命分子であるから、容赦なく摘発し、残虐に痛めつけ、ぶっ殺せと指令した。怖ろしい悪魔の指令である。

この毛沢東の手前勝手な、滅茶苦茶な悪魔の指令によって、北京から始まって、中国全土で各段階の行政機関・教育機関、あらゆる産業分野、あらゆる職業において、種々様々なフルシチョフ的人物(毛沢東を批判する人物)とみなされた良識あるリーダーたちが摘発され、まつたく理不尽、かつ残虐・非道な迫害を受け、ぶっ殺された。

この残虐・非道な行為は、毛沢東によって、人間としての理性、倫理観、道徳を奪われ、鬼畜化した若い紅衛兵によって実行された。世界の歴史において、かって無かった毛沢東の悪魔としての偉業である。

中国では、文化大革命に触れないという中国政府の教育方針により、小学生、中学生にもそれを知らない者が多くなったと報道されている。

しかし30代を超えた大半の中国国民は文化大革命を忘れることはできない。

日本に来ている中国の留学生たちと文化大革命の話をした時、親を文化大革命時に紅衛兵に殺されたというある女性は声を上げて泣き出した。

▼1965年(昭和40年)11月10日、姚文元は上海の新聞「文匯報」に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表した。毛沢東はこれを機に、大躍進政策の失政を理由に、自分を最高権力者の座から実質的に追放した劉少奇、小平、彭真ら実権派、すなわち、当時の中国政府の最高指導者たちに対する攻撃を始めた。
毛沢東の最高権力奪還闘争の開始である。

実権派攻撃は成功した。毛沢東は再び最高権力を掌握した。1966年5月16日、中国共産党中央政治局拡大会議で毛沢東による「中共中央通知」が採択された。
中央文革小組=新しい権力中枢機関の設置が決定された。

1966年5月25日、中央文革小組の支持を受けた講師7人が北京大学指導部を激しく批判する壁新聞を張り出した。

1966年5月29日、精華大学付属中学の学生によって紅衛兵が組織された。
毛沢東はこれらの動きを積極的に支持した。これを契機に暴力団組織として悪評高い紅衛兵組織が、中国各地で続々と結成された。
毛沢東が天安門上から接見した紅衛兵の人数は1,000万人以上といわれる。

1966年8月8日、中国共産党十一中全会で、「プロレタリア文化大革命についての決定」が採択された。
「資本主義の道を歩む実権派を叩き潰すこと」と「思想・文化・風俗・習慣面での四旧の打破と四新の創造」という二つの目標が決定された。
劉少奇の党内序列が8位に格下げされた。小平は平の党員に格下げされた。
劉少奇、小平は軟禁された。

  劉少奇国家主席

★劉少奇国家主席をなぶり殺し

軟禁された国家主席・劉少奇は病におかされるが、散髪や入浴も着替えも許されず、監視員には殴られ続け、医師には注射針をいたるところに突き刺されるなどの執拗な暴行を受け続けた。高熱をだしても治療も受けられず放置された。体中の皮膚が膿に冒され悪臭を放つようになった。1969年10月,開封市に移送された。
寝台にしばりつけられて身動きができぬ状態で、地下の暖房のない小部屋に幽閉された。
ついには劉少奇は発狂した。死亡の際には白髪が2メートルの長さに達し、かっての面影は全く失われ、まさしく幽鬼と化していた。
この残虐な復讐方法は毛沢東が人間性を持たない悪魔であったことを示している。

★彭徳懐元帥に対する毛沢東の酷い仕置き

1950年6月25日、金日成の北朝鮮人民軍は、200機のソ連製戦闘機の支援を受け、ソ連製T-34/85戦車300両を先頭に韓国に侵攻した。
米韓軍を釜山周辺にまで追い込んだ。一時は金日成の朝鮮半島武力統一は成功かと思われた。

しかしマッカーサー元帥率いる米韓軍の仁川上陸に始まる反撃で、ソウルを奪還され、ピョンヤンを占領され、北朝鮮人民軍は北の中国国境近くにまで追いつめられた。

この時点で彭徳懐が指揮した中国人民志願軍が参戦した。中国人民志願軍は、米韓軍が思いも及ばなかった、煙幕をはっての大部隊の冬山踏破で、米韓軍の背後に大部隊を送り、補給路を断ち、北朝鮮に侵攻した米韓軍を殲滅した。
ピョンヤンを奪還し、ソウルを再占領した。この大敗北に怒り狂ったマッカーサー元帥は、中国に原爆を投下せよと主張した。しかし彼はトルーマン米国大統領に総司令官を罷免された。

100万人といわれる中国人民義勇軍の総司令官であった彭徳懐は、北朝鮮から「朝鮮民主主義人民共和国英雄」の称号を贈られた。中国においては元帥に昇格した。
国務院副総理、初代国防部長を務めた。しかし大躍進政策を批判して、毛沢東の逆鱗にふれ失脚した。

文化大革命では、哀れ、紅衛兵たちに、反革命分子として曳きたてられ、大衆の面前で容赦なく吊し上げられた。さらに、紅衛兵たちの凄まじい暴行を受け、肋骨を2本折られた。その後遺症で下半身不随となった。その後、癌による死の床では、鎮痛剤の注射を拒否され、下血と血便にまみれた状態のままのベッドとシーツに何日も放置された。監禁病室で全ての窓を新聞紙に覆われたままで約8年間を過ごした。
死の直前、窓を開けて最後に空を一目見せてほしいと嘆願したが拒否され拷問死した。

中華人民共和国の建国と国防に、必死に、誠実に尽力した、忠誠心あふれる愛国者であった老軍人の、あまりにも悲惨な、歴史上にも類をみない拷問死であった。

★『ある紅衛兵の告白』より抜粋

私の学校においては、先ず校長がフルシチョフ的人物(毛沢東を批判する人物)として摘発され受難した。

私たちは、校長に、いちばん高い三角帽子をかぶせた。私たちは、校長にいちばん重い札をかけた。頭を虎刈りにして、顔に墨を塗りつけた。

私たちは、延々と校長批判を続けた。批判演説で私たちの感情は異常に昂ぶっていった。
何人かの革命的生徒は興奮して、ついに、校長を棒で叩きのめし、足で踏みつけた。

さらに彼らは、校長を足で踏みつけただけではあきたらず、校長の首に縄をくくりつけ、台の下に引きずり下ろし、犬のように吠えさせ、犬のように運動場を這い回らせた。

紅衛兵は自分たちの教師たちを軟禁し、毎日、10時間以上の重労働を課した。
わずかな時間も休むことを許されず、少しでも動作が鈍いと、すぐさま木刀や革靴で殴りつけた。夜になると、夜通し、教師たちの尋問とリンチが行われた。
(抜粋終わり)

恩師に対するこのような残虐・非道な行為は、何時の時代においても、どこの国においても、決して許されることではない。

しかし、毛沢東の指令によって、このような、鬼畜化した紅衛兵の残虐・非道な行為が中国全土で行われたのである。

 

◆1965年、文化大革命、白昼堂々人肉宴会が行われ、生徒が教師を食べた。

百余の死体が香港に漂流して有名になった。

中国・広西省武宣県では文化大革命の間に、共産党の迫害によって死んだ人間は524人。その内、食われた者は百数十人。武宣県において食人行為を行った者は推定1万~2万人にのぼる。

1968年7月1目、武宣県の桐嶺中学副校長・黄氏は、糾弾大会につるし上げられ殺された。学校の食堂や廊下、区役所の炊事場でや教員宿舎や女子学生宿舎で、人肉を煮たり焼いたりしての人肉料理の宴会が行われた。

★文化遺産の徹底的破壊

中国4,000年の歴史の中において、「自分より偉い者はいない」と豪語した毛沢東は、
1966年8月8日・中国共産党十一中全会の「プロレタリア文化大革命についての決定」で
「実権派を叩き潰す」と並んで、「思想・文化・風俗・習慣面での四旧の打破と四新の創造」
という余人にはマネできない発想で文化遺産の徹底的破壊を紅衛兵に指令した。
毛沢東によって理性的判断を失い鬼畜化した紅衛兵は、この毛沢東の気違い指令を100%忠実に実行した。

紅衛兵は文化遺産を徹底的に破壊した。

寺廟などの宗教施設が徹底的に破壊された。例えば、後漢時代に建立され、文革当時、現存する中国最古の仏教寺院であった洛陽郊外の白馬寺、及び、後漢時代から残る
貴重な文物の数々はことごとく破壊された。

山西省代県にある天台寺の1600年前に作られた彫刻や壁画も破壊された。
四川省成都市にある蜀時代の城壁は現存する世界最古の城壁であったが破壊された。

明王朝皇帝の万暦帝の墳墓が暴かれ、万暦帝とその王妃の亡骸がガソリンをかけられて焼却された。

中国屈指の書道家王羲之が書き残した書も破壊された。
あらゆる仏像が破壊され、経典が燃やされた。

   

チベットでは6,000箇所の仏教寺院がことごとく破壊された。
文化大革命が終わったときには8箇所しか残っていなかった。

こうして中国民族や周辺諸民族が数千年かけて築き上げてきた文化遺産はことごとく破壊されてしまった。そのため、現在、中国の諸都市には、人口数百万人の都市に1つか2つ程度の寺院しかないのが一般的であり、それらも、ほとんどが80年代以降に再建されたものである。
再建したところで歴史的価値は戻らない。

★エスカレートした紅衛兵の暴力行為

紅衛兵の暴力行為が際限なく広がるなかで、訴えるすべもなく、本当に悲惨だったのは、「地主」や「資本家」という搾取階級の肩書きをつけられた人々だった。

手に重い物を持たされた彼らは、膝を剥き出しにしたまま、石炭ガラやガラスの破片の上にひざまずき、少しでも動けば殴る蹴るの憂き目にあった。

文句を言おうものなら、袋だたきにあうのはまだましな方で、ひどいときは、その場で殴り殺された。事実、殴り殺し事件は、頻繁に起こっていた。

凶暴だったのは、男子ばかりではない。女子紅衛兵も凶暴だった。
サクランボウのような可愛い唇をした、女子大生や女子中学生が、布を巻いて胸を押さえつけ、髪を短く切り、粗暴な言葉を吐き、じつに凶暴だった。

北京での家宅捜索では、「地主婆あ」とされた老女を皮ベルトで殴り殺した。
女子紅衛兵のベルトのバックルが、老女のこめかみに命中したのだ。
15歳の女子紅衛兵が、「搾取階級」の女性の口に指を突っ込み、力まかせに引っ張っている光景を見たことがある。相手がうめき声を上げなかったので、ヒステリー状態になった女子紅衛兵は、暴力行為を止めず、被害者の血で手を真っ赤に染めていた。

彼や彼女らは、数百メートルの長さで北京駅前に二列の列を作った。
腰に手をあて、あたりをにらみつけ、皮ベルトやいろいろな凶器を手に持っていた。

家財を差し押さえられ、仕方なく北京を逃れ、原籍の田舎に戻る「搾取階級」の人々は、駅に入る前にまずこの長い列の間を通り、帰郷に先だつ洗礼(暴力)をあびなければならなかった。

四中と同じ男子校だった六中の紅衛兵は、校内にトーチカを築き、鉄条網をめぐらして、「労働改造所」と称していた。実質は私設の刑務所で、同級生を含む大勢の犯人を監禁し、連日のように拷問にかけていた。

じつにさまざまな罪状が用意され、また暴行のすさまじさで、北京中に勇名が鳴り響いた。

彼らは、数人を殴り殺すと、鮮血にまみれた手で、犠牲者たちの血で、壁に「赤色テロ万歳!」と大書していた。

当時の公安相・謝富治はこう演説したものだ。「大衆が人を殴り殺すのには、反対する。
しかし、大衆が悪人を骨の髄まで恨み、我々が制止しきれなければ、それも仕方がない。」

紅衛兵が、勝手気ままに、見境なく、善良な市民を多数虐殺しても、それが殺人罪にならなかった。毛沢東が創り出した文化大革命は、世界歴史上、まれに見る鬼畜化社会であった。

共産党の創立記念日、国慶節、元旦などの祝日には、中国各地で群集を集めて、紅衛兵による反革命分子公開処刑(殺害)大会が行われた。とはいっても、建国以来十数年、中国共産党はひたすら、虐殺に次ぐ虐殺を繰り返していたので、対象となる反革命分子は、もう、ほとんど存在せず、簡単に見つかるはずもなかった。

そこで、紅衛兵たちは、無実の市民を反革命分子であるとでっちあげた。
毛沢東の政策に少しでも疑問を述べたり、毛沢東語録を不注意で汚してしまったり、毛沢東の顔写真を載せた新聞紙を使って野菜を包んだりするだけで、反革命分子として紅衛兵に殺害された。

紅衛兵による無差別大量虐殺が頻発した。
1966年8月、紅衛兵は、地主、富農、知識人階級など、良識ある人々とその家族たちを殺害すべく、北京市大興県を襲撃し、325人を虐殺した。
1967年8月、湖南省道県では4,139人を虐殺した。

1967年から1968年にかけて、内モンゴル自治区ではモンゴル族に対する大量虐殺が行われた。34万人が逮捕、監禁され、少なくとも5万人が虐殺された。

虐殺は、紅衛兵が無実の人たちを虐殺するというパターンに留まらなかった。
紅衛兵は分裂し、互いに相手を、反革命分子と罵って激しい殺し合い戦争を行った。

1967年3月から6月にかけて、江西、青海、浙江、湖北、山西、河南、安徽、内モンゴル、陝西、復建、広東、寧夏などで、凄まじい殺し合い戦争が行われた。

殺し合い戦争は中国全土に広がった。紅衛兵、労働者、農民、さらには、軍隊をも巻き込んだ、主導権争いのための、激しい殺し合い戦争展開された。
まさに中国全土が中国人同士の殺し合い戦争状態であった。

こうした中国全土の無警察状態に善良な中国国民は恐怖におののいた。

いつ、反革命分子のレッテルを貼られてぶっ殺されるか。
いつ、誰かに裏切られるかとの恐怖と猜疑心がつのり、ひたすら、狂信的に毛沢東を崇め奉ることが救いの道であるとのムードが広がった。
毛沢東個人に対する極端な個人崇拝、神格化がますます強化された。

【用済み】

紅衛兵は農村や辺境地域に追放された。

1968年、紅衛兵活動の停止措置がとられた。

毛沢東の忠実な走狗(そうく)であった紅衛兵は、毛沢東の最高権力奪還後は、【用済み】ということで、「知識青年・下放運動」が展開され、彼らは、農村や辺境地域に放逐され、肉体労働を強いられた(懲役刑に処せられた)。

毛沢東の支配下においては、毛沢東語録以外の余計な知識は全く不要だから、農村や辺境地域で、肉体労働で毛沢東語録を実践せよとのご託宣であった。
年間167万人~267万人の知識青年が下放されたといわれる。

中国には「狡兎(こうと)死して、走狗(そうく)煮らる」ということわざがある。
「獲物であるすばしこい兎が死んでしまうと、猟犬は用がなくなり、煮て食べられる」
という意味である。つまり、事が成ってしまうと、それまで役に立っていたものは必要なくなり、処分されるということである。

毛沢東の走狗(そうく)であった紅衛兵は、『用済み』となり、島流しにされた。

権力亡者で悪の権化ともいえる毛沢東の邪悪非道性・精神的異常性は、
劉少奇ら実権派を打倒して最高権力を奪還した後、彼の忠実な走狗(そうく)であった紅衛兵を島流しにして、教育を受ける機会を永遠に奪い、奈落の底に突き落としたことで遺憾なく発揮された。

手にした最高権力は絶対に手放さない

毛沢東は文化大革命を死ぬまで継続させた。国民の幸福を願うとか、健全な国家を建設するとかいう考えは毛沢東の頭の中にはまったくなかった。

毛沢東の頭の中にあったことは、手にした最高権力は絶対に手放さない、自分を凌ぐ者の登場は絶対に許さない、ということだけであった。
いささかでも、自分の意に逆らうものは、問答無用でぶっ殺した。

権力亡者・毛沢東が死亡して、やっと文化大革命が終わった!

虐殺と破壊と狂気に満ちた10年間の文化大革命は、
1976年(昭和51年)9月に毛沢東が死亡するまで続いた。

1977年8月に文化大革命の終結が宣言された。

 支那大陸に暮す、漢民族とよばれる様々な民族こそ「毛沢東」により歴史を奪われ、共産党の都合よく 歪められ、現在ネットでしか真実を学ぶことは出来ない。
そのネットすら国内においては検閲されてしまうと言う この上なく気の毒な膨大な数の人民である。

この歴史を改ざんされてしまった一億を超える中国共産党の奴隷達はその政策により盲目的に「勝戦国という被害者」と訳の解らない立ち位置から、ゆがんだ歴史認識で、我が国、或いは支那国益関係諸国に目を向け、海賊と化してしまっている。

歴史を紐解くと、支那大陸の皇帝の意識は常に「公」ではなく「私」であった。
それは唯一大陸の長き歴史で一貫してきたもので、現在も変わる事はない。
中国共産党も 「党」ではなく「私欲」なのである。
支那の民よ、同民族として「台湾」を御手本に、精神的に成人してほしい。

 毛沢東が蒋介石と国民党を追い払い中華人民共和国を建国した当時、長年の混乱に陥っていた中国は「一窮二白(貧乏で何もない)」な状態であった。

しかも、朝鮮戦争に義勇軍を出兵して多大な犠牲を払ったにもかかわらず、ソ連から十分な援助を得られたわけでもなかった。

こうした中で米国との(そして50年代末以降はソ連とも)核戦争の危機に備えて国力を蓄えるならば、結局のところ農民を徹底的に管理することで、彼らが生み出した農作物の価値のほとんどを国家に留保し、それを元手に工業を興すしかない(マルクス主義経済学で原始的蓄積という)。しかしそれだけでは、農民は働いても報われず窮乏して反乱を起こすしか行き場がなく、それではゼロから興す計画経済は成り立たない。

そこで必要とされたのは、喜んで窮乏生活に甘んじつつ生産への意欲を持続するという「都合の良い農民」であり、それは一般的な人間的欲求を捨てるようマインドコントロールされた農奴と同義である。

毛沢東が用意したものは、農村社会における階級闘争という名の劇薬である。贅沢は悪であり、毛主席の教えに従って貧しさに甘んじ、生産を党と国家のために捧げ奮闘することこそ革命的で善である。

このような論理を、もともと共同体が脆弱で個別の農家のフリーハンドが大きい中国の農村社会(小農社会)に持ち込まれた結果、ある倒錯した事態が生じた。すなわち、自ら汗水流して得た富を地道に蓄え拡大再生産に励む自作農は「反動」な「富農」であり、経営能力が低く借財を重ねて転落してきた貧農・小作農・ごろつきは「革命的」だということになる。

そこで毛沢東の支配のもとでは、優秀な自作農がことごとく「階級の敵」として殺害された。

そして国家による計画=厳格な収奪のもと、配給は微々たるものにとどまり、しかも「平等」の名の下ではどれだけ働いてもみな同じ配給である以上、真面目に働くことは無意味になり、あらゆる創意工夫の契機が失われていった。

その代わりに、階級闘争において大胆に敵を打倒することで「革命性」や「刻苦奮闘」が表現され、さらには「革命的」に振る舞わなければ即座に「反動」扱いされるというヒステリー的な社会構造が蔓延した。これが合作社・人民公社制度に象徴される毛沢東時代の集団化の真相であり、国家農奴制がたどった悲劇である。

◆習近平が感受性の強い10代から20代にかけて毛沢東思想に大きな影響を受けたことは否定できない。彼は当時、毛沢東が打ち出した方針に従って知識青年として陝西省の片田舎に下放され、そこで毛沢東語録を暗唱し、彼の教え「農民から学べ」を体現しようとした。一人娘に毛沢東から一字を取って習明沢と名付けたことからも毛への傾倒がうかがえる。

 習近平と薄熙来は同年代で同じ時期に下放された。そこで毛沢東の政治スタイルを刷りこまれたのだろう。習近平は昨年秋の党大会直後、政治局常務委員たちに「私は毛沢東思想を決して捨てない。それは党の根本思想を失うことになる」と強調した。

この習近平の思想は、鳩山由紀夫元首相(65)、山口那津男(なつお)公明党代表(60)、村山富市元首相(88)ら日本の政治家らが中国側の招待で相次いで北京を訪れた。さらには再び鳩山由紀夫や野中広務、古賀誠といった引退議員を招待したことからも、毛沢東の外交手法を真似ていることが伺える。

結果として中国側の巧みな外交術にはまり、日本の世論を分断させるために利用された。しかし、あまりにも古い手法では返って逆効果だった。日本人は誰も相手にはしない。


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