けぶる稜線

ひいらぎのとげが語る

日本は安全だと宣伝しているが、そうだろうか

2024-05-19 16:57:47 | 日記

町中でギターを搔き鳴らす若者の姿が見られない日本。町の広場や公園でギターを鳴らし歌っていたり曲芸を披露しているのは公権力に広場使用許可を受けた人だけ。それはそれでいいだろうが、官製はがきのように形も見栄えも同じ。ひっくり返して見ても同じ官製はがき。空いた店舗の前やちょっとした通りの空間で音楽を奏でる若者もいない。取締りの警官といたちごっこをするような一匹狼の生き方をしている人たちやそれに類する人たちのいない日本の町中の風景。本日休業の札の下がっている店舗の前でギターを鳴らせば、巡廻のポリ公が来る前に良き市民という名の偽善者が警察に通報する日本。江戸時代のお上に対する奴隷根性意識は旺盛でも、罪のない些細な行為に対する寛容の心が非常に狭い日本人。

北欧の広場や街角、パリの地下鉄の中に出没して音楽を奏でる個人や集団。非合法の行為ではあるが人々はそんな素人音楽家を容認し、仕事に疲れ家路へと向う束の間の時間に出合った音楽に耳を傾ける。味気ない街角や地下鉄の中で遭遇した音楽を楽しんでいる。うるさいから出て行けといった雰囲気の乗客は、パリの地下鉄では遭ったことはない。音楽が終ると、「音楽家に寄付を」と言って演奏者自身や共演者の一人が小さな袋を持って乗客の間を回る。小銭を入れる人もいるし、そのまま無視する人も多い。観ていると、男性が袋を持って回るよりも若い女性が回る方が袋の中にチャリンチャリンとする音が多くなる。キリスト教国であるからとか施しの習慣があるからとかいう理由ではないだろう。市民生活を脅かす行為でもない些細なことに目くじらを立てないのだろう。1970年代初頭の北欧ではそんな日本人も少なからずいた。路上に空き缶や投げ銭を入れるものを置いて演奏し、それで米国行きの資金を貯めたと話した日本人の若者に会った事もある。翻って、そんな寛容な気持ちや態度が日本国内の日本人にあるだろうか。ないだろう。繁華街でペルー音楽を奏でる集団は知られているが、彼らとて管轄する官庁の許可を取っているのだろう。路上で音楽を奏でる人たちが東南アジア系やインド周辺国からの人たちだったら町を行く日本人はどんな反応を示すであろうか。狭量な考え、寛容の心が乏しい日本人のやることは、警察へ通報する、だろう。

都庁見物を終り、木枯らしが吹いている都庁前広場のベンチで寝転んで低く垂れている雲を見ていた。1990年代後半だった。歩き疲れ目も疲れていたが寒さに震えるという日でもなかった。ベンチに体を横たえ、冬空を見ながら曇天の中をゆく雲の濃淡を見つめていた。すると、突然、その視界の中に現れた警備員の制服。広場には、コートの襟を立てて早足で去ってゆく人はいても誰もベンチに座っている人などはいなかった。それなのに、ベンチに寝転んでいるだけで警備員が警備室の監視モニター画面に映った私を確認し、わざわざやってきて警告する。「ベンチで横になるな、寝るな!」と。誰もいない冬空の広場でベンチに体を横たえてはいけないのだろうか。その警備員は、なぜ、という質問に答えなかった。官民共々、隣国の一党独裁国家を自由がないと非難するが、市民の行動監視という点では大同小異ではないだろうか。イチョウの枯れ葉が寒風にクルクルと舞う都庁前の空に向って叫んだ。くそったれ日本!

日本は安全だというが本当だろうか。何処にでも目を光らせている警官。駅前に設置されている交番の多さ。パトカーの巡廻頻度や日中に自転車に乗る市民に不審者と疑って尋問する。自転車の盗難が多いからと決まり文句の言い訳を唱えるが、その実は、暇なのだ。日中に出歩いている市民に理不尽な尋問をして勤務点数を上げたいだけなのだ。

駅前スーパーの前にある植え込みの中までも調べる巡廻警備員。町中の通りから撤去されたゴミ箱。遊歩道沿いにある猫の額のような広場に入るにも、装甲車を制止できるような障害物が置かれている。その広場の中には、座る人のいない貧弱なベンチがうす汚れて置いてあるだけ。味気ない空疎な何とか広場という名前だけが地図に載っているのみ。座らせない、人々を集まらせない、ということによる安全を謳う。米軍が戦争をしていたイラクに見る光景と同じだ。

雨に降られた隣の住人の乾し物を取り込む日本人のおせっかいが嫌だと言った1970年代中頃に東京に滞在していたイギリス人。彼女の気持ちが分からないでもない。他人に自分の生活領域内に踏み込んで欲しくないのだ。隣人だからといっても個人の生活の中まで干渉されたくないのだ。それによって、洗濯物が雨に濡れるということになってもいいのだ。個人の生活に他人の手や目配りが入り込むことへの拒否感があるのだろう。物事において、人生において、たとえそれらが失敗したとしてもそれはそれでいいのだという許容感覚というか個々人それぞれの考え方行動を咎めずに彼は彼だ、彼女は彼女だと見ている。旧来の社会慣習から一歩退いて自由な生き方を容認している人たちが多いのだろう。そんな自由な社会空間で小中高生活を送った帰国子女といわれた若者が日本での見えない天井にぶつかって嘆き壊れていった物語が週刊誌をにぎわしていた時期もあった。今現在では、どうなのだろうか。
(2020年投稿)
(パリ五輪の近づく2024年現在でもそうであるかは分かりません)





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