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古今東西のアートのお話をしよう

小説 “伯爵夫人”


『傾きかけた西日を受けてばふりばふりとまわっている重そうな回転扉を小走りにすり抜け、劇場街の雑踏に背を向けて公園に通じる日陰の歩道を足早に遠ざかって行く和服姿の女は、どう見たって伯爵夫人にちがいない。』「伯爵夫人」冒頭



三島由紀夫賞(2016年6月)発表時の

“不機嫌な会見”が話題になった

蓮實重彦さん


氏は受賞スピーチで、

『この授賞式が、「自分の気に入ったこと」でないのはいうまでもありません。それは、どこかしら「他人事」めいており、この場は「どこでもない場所」を思わせもします。』

そして、受賞後の「産経ニュース」(2016年8月)によると、好調な売れ行きに、『「伯爵夫人」を「女性の方が真面目に読んでくださっているようで、それは非常に感動的でした」』と話している。

「伯爵夫人」のあらすじは、

『ばふりふりとまわる回転扉の向 こう、 帝大受験を控えた二朗の前 に現れた和装の女。「金玉潰し」の 凄技で男を懲らしめるという妖艶 な〈伯爵夫人〉が、二朗に授けた性と闘争の手ほどきとは。 ボブへアーの従妹 ・蓬子や魅惑的な女たちも従え、戦時下の帝都に虚実周 到に張り巡らされた物語が蠢く。 東大総長も務めた文芸批評の大家 が80歳で突如発表し、 読書界を騒 然とさせた三島由紀夫賞受賞作。』文庫本背表紙より



男装のボブヘア ルイーズ・ブルックス


“金玉潰し” “青臭い魔羅” “熟れたまんこ” “父ちゃん、堪忍して” “ぷへー” というお下劣な言葉や表現、伯爵夫人の回想の卑猥さに、格調と猥雑が入り乱れる…


『そのうめき声が相手を刺激したものか、背中では魔羅の動きが加速する。つとめて 正気を保とうとしながら、この姿勢では「熟れたまんこ」を駆使することもかなわず、 やがて肛門の筋肉も弛緩しはじめ、出入りする魔羅に抵抗する術さえ見いだせないまま、ふと意識が遠ざかりそうになる。あとはただ、倫敦の小柄な日本人を相手にした ときのように、父ちゃん、堪忍して、堪忍してと、小娘のように声を高めてしまうことしかできない。』


『わたくしのからだを小気味よくあしらいながら、足の小指と薬指のあいだまで舌と 唇で念入りに接してまわり、熟れたまんこに胸の隆起にも触れ はせず、こちらの呼吸の乱れを時間をかけて引きよせようとするところなど、 久方ぶりに本物の男と交わっているという実感に胸がときめきました。』「伯爵夫人」より


女性にも人気が高いという「伯爵夫人」、その理由は「春画」に通じるのではないか…

「ユリイカ」(青土社)2016年1月臨時増刊号で、ジェンダー論・女性学などを専攻とする社会学者の上野千鶴子氏と、江戸文化研究者の田中優子氏が、女性が「春画」に魅せられる理由について語り合っている。

上野千鶴子(1948〜) 東京大学名誉教授
田中優子(1952〜) 法政大学前総長(2014〜2021) 法政大学名誉教授
歌麿 歌満くら 第一図

そのなかで、喜多川歌麿の「歌満くら」と葛飾北斎の「喜能会之故真通」について語っている部分が興味深いので引用します。

北斎 喜能会之故真通

『田中「喜多川歌麿の『歌まくら』に河童に犯されている女性の画があります。水面下に河童と女性、そのそばの石の上に女性が描かれている。あれは、二人の女性ではなくて、石の上の女性の想像や欲望が水面下に投影されている。こういう春画をみて楽しむというのは女性だけなのかもしれませんね。女性はこの春画を見て自分の快楽の一部を思い出す。そういう連想ができる。別にタコや河童だからというわけではなく、表情や身体の表現からそれを連想するわけです」女性たちが絵を見ながら、こうして「性」をめぐる連想ができるのは、「春画」が女性の快楽を肯定しているからに他ならない。』

『上野「春画には女の快楽がきちんと描かれています。『喜能会之故真通』でも快楽はタコの側ではなく女の側に属している。もうすこし込み入った分析をしていくと、「快楽による支配」が究極の女の支配だと言うこともできますが、快楽が女に属するものであり、女が性行為から快楽を味わうということが少しも疑われていない。この少しも疑われていないということが他の海外のポルノと全然違うところなんです。能面のような顔をした、男の道具になっているとしか思えないようなインドや中国のポルノとは違う」』


『女性はこの春画を見て自分の快楽の一部を思い出す。』

『快楽が女に属するものであり、女が性行為から快楽を味わうということが少しも疑われていない。』

田中氏と上野氏の「春画」に対する“女性の見方”は、そのまま「伯爵夫人」への評価に繋がるような気がする

“伯爵夫人”が二郎をなじる、江戸の“べらんめい”口調について蓮見氏は、

『「一つには、ある時代の日本人の言葉をつなぎ留めておきたいという気持ちがありました。昭和10年代“に私が聞いていた母や父や親類などの言葉が、あまり最近の文学には出てきませんからね。無駄な反復も普通は避けるべきなのでしょうが、ええい、構うまいと。言葉が言葉を引きずり出してくれた、という感じでしょうか」』産経ニュースより


『まだ使いものにはなるめえやたら青くせえ魔羅 をおっ立ててひとり悦に入ってる始末。これはいったい、なんてざまなんざんすか。

そんなことまでやってのけていいなんざあ、これっぽっちもいった覚えはござんせんよ。ましてや、あたいの熟れたまんこに滑りこませようとする気概もみなぎらせぬまんま、魔羅のさきからどばどばと精を洩らしてしまうとは、お前さん、いったいぜん たい、どんな了見をしとるんですか。』「伯爵夫人」より



そして氏は、

『とはいえ、この小説は虚心坦懐(きょしんたんかい)にエンターテインメントとして読んでもらえたらと願っている。「呵々(かか)大笑するかはともかく、にんまりおかしいというところがあれば、満足ですね。今は笑いの質があまりにも落ちているので、これが高級な笑いかどうかはともかく、少なくとも文学には笑いがあるということを分かっていただきたい。きまじめであればあるほどおかしいというものが、ここにはあるような気がします」』産経ニュースより


…と結んでいる。



白いコルネット姿の尼僧が手にするココア缶、盆にもココア缶、無限に続く…



この著者の目論見は見事に成功し、ラブレー、サド、バルザック、フローベールなどフランス伝統の艶笑滑稽譚につらなり、


アポリネールの「一万一千本の鞭」では、稀代の蕩児を打つ最後の鞭音が満州国で響き、伯爵夫人の出奔は、『音としては響かぬ声で、戦争、戦争と寡黙に口にしているような気がしてならない。』と結ばれる。



ルイス・ブニュエル 昼顔 1967年


二郎と伯爵夫人の一昼夜は、「昼顔」の白日夢のようでもある…

【作者のプロフィル:蓮實重彦】

 はすみ・しげひこ 昭和11年、東京生まれ。東大仏文科卒。東大教養学部教授をへて東大総長。専門は表象文化論。文芸批評のほか、映画雑誌「リュミエール」の編集長を務めるなど、映画評論でも活躍。

立教大学でも教鞭をとり、教え子に

映画監督の黒沢清、青山真治、周防正行、ロックミュージシャンの佐野元春などがいる。

日本における艶笑滑稽譚の傑作
お勧めします 
(不快になるかどうかの責任は持ちかねます)

★★★★★

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