そろそろ始まったなー。
と、思ってこっそり携帯版公式サイトの速報を見たら0-1の表示。
一気に脱力。なんだよ試合見に行けなくてよかったぜふん、と逆ギレ気味に残務処理をしながら、「でもまだ前半15分だし最近無得点はほとんどないし」と期待しながらどたばたしていて、どうも思ったよりも大分早く帰れるぞと職場を出たところでまた更新画面をみたら、クリスティアンくんが同点にしてくれていた。
その後地下鉄に乗る直前の更新で、クリスティアンくんの2点目が決まって逆転を知り、これで今日はもう勝ちだな、と何故か安心した。まだ前半だったのに。そしてたぶん後半の中継には間に合うだろうと部屋に戻った。
部屋でテレビ埼玉の中継を見たとき、後半の18分くらいで、だから西村の華麗な突破・ドリブル・ゴールを見ることが出来た。
でも、イマイチ集中出来なかった。
最後に勝った瞬間も、やったこれで何位になったかなー、という数字が気になるばかりで、勝利の共感はあまりなかった。
点差が開いていたということと、相手が(失礼ながら)大宮との残留争いに絡んでくる可能性が高い大分、つまり実力的には今まで戦ってきた強豪チームよりは与しやすいと思えたことも関係しているかもしれない。
けれど、やっぱり自分自身のあの高揚感の欠如は、試合がやっているまさにその時間に、自分がその場にいないということをのみこめないからだと思う。
僕は「スタジアムに行くこと」自体に至上性を要求するつもりはない。自分があまり行けないということもあるけれど、チームサポートを生活の中心に据えることが出来る人は多くないし、自身の日常があるから試合を見ることができると思っているからだ。
今までは、試合時間はそのまま仕事中だったのであきらめがついていたけれど、昨日は試合が行われている時間に自分は部屋で試合を見ている、という状況が、むしろとても悲惨な状況な気がしていた。僕は今時間がある。そして今試合が行われている。なのになんで、僕はテレビを見ている?なんで、スタジアムにいないんだ?
自答すれば、仕事が終わってから大宮公園へ向かっても、終了時間に間に合わなかったからだ。後半からでも行ければ行きたかったけれど、大宮駅から大宮公園サッカー場まで、走っても僕の足(と体力)では20分を切れるかどうかだろう。職場からは電車の接続がうまくいっても1時間20分はかかる計算。
そういうことは分かっている。分かっているけれど、分かることと納得することは違う。昨日は違った。
だから勝利そのものを喜べなかった。楽しめなかった。スタジアムにいるサポを羨み、妬む気持さえあった。何かもう、救えない。
去年の夏、台湾のマクドナルドにノートPCを持ち込んで、無線LANをつかってひたすらJ’sGoalのライブ更新を見続けていた時の方が、ずっと興奮出来た気がする。絶対に観られない、立ち会えない、という状況が、90分間(+ハーフタイムとロスタイム)、ただ1分毎更新のスコアボードを眺め続けるだけという周りの台湾人がみたらアホかと思われるような行為に何の疑問も抱かせなかった。ような気がする。
こういうことを書いていながら、僕はすでに明後日に迫った清水戦に行くか行くまいか迷っている。どうかしてる。行けない時に行かないことをわめいていながら、行ける時に行かないかもしれないとつぶやくなんて。
自身の日常があるから、と繰り返す。「日常」という言葉を言い訳につかっているのだろうか。たぶんそうだろう。でもそういうしかない。
せめて連戦の選手・スタッフ・サポーターの人々に、敬意を。
僕はまず、もっとオトナになることだ。
もう三十なのにね。