最後です。どぞ。
傲慢かもしれない。野球の面白さなぞ、個々人の感想でしかなく、展西たちにはそう思えないかもしれない。彼らは中学で野球を棄てた。もともと、それほど野球が好きではないと言っていた。
だが、それほど好きでなくて、中学の部活動という一種変則的な野球形態に、果たして成績のためだけに2年間も耐え続けられるだろうか。
高校で始めた硬式野球――自分たちのための野球に、ブランクを抱えつつもあれほどに打ち込めるだろうか。
『欲、なあ』
ぽつりと電話先で瑞垣がつぶやいた。どこか噛み締めるような響きがあった。
海音寺は目を細める。そう言えば、こいつも一旦野球を棄てたはずだった。いや、違う。門脇を棄てたやつだった。自らの煩悶に疲れ、野球とまったくかかわりのない環境に自らをおくことで切り捨てようとした。
そして今、変わらず傍らに在る。
どこで瑞垣自身が観念したのかは知らない。しかし瑞垣は戻った。おそらく、喫煙発覚だとて、彼らしい偽悪的な演出に過ぎない。素直に戻れない、彼らしい意地の張り方というか。
『そんなら、仕方ないか』
「瑞垣、今なんて言った?」
予想外の寛容に、海音寺の方がうろたえた。
『あほ。おまえのためやない。秀吾がな、おまえんとこのカントクさんから断られたとき、妙に悟った口調で諦めたんじゃ。ばかはええよな。いろいろおれみたいに繊細に思い悩まんともつき抜けとって。あれだけ執着しとったくせに、仕方ない、言うてそれでおしまいにしよった』
ふうん、と相槌を打ちながら、以前偶然に香夏と街を歩いているところで出くわした門脇の顔を思い出す。あれは、瑞垣編入直後のことだった。
門脇の「欲」は、時間と距離を経て、原田の球よりももっと大切で切実なものを、門脇に知らしめたのかもしれない。
『まあ、何にせよ、性悪姫さんをぼこぼこにできんのは残念じゃけど、こちとら高校野球じゃからな。出さんのならそれはそれでええ。新田なんぞ蹴散らしたる』
「そう簡単には蹴散らせんよ。言うたろ、カントクが。ウチの緑川ナめんなよ」
『あっの生意気な小娘もけちょんけちょんにしたるわ。大卒出たてが』
世間一般と変わらぬ瑞垣の沢村評に、海音寺は苦笑する。
「あれであの人三十路とっくじゃぞ。一見童顔じゃけど、結構いいトシじゃ」
『ふん。おばはんか。ならなおのこと楽勝じゃ』
「……将来の義兄と思うて忠告しとく。あの人易く見たらおえん。おれはこの世で逆らったらいかんヒトのトップ3にいれとる」
『おれの逆らわんトップ3は秀吾んとこのおばちゃんが入っとるわい。じゃあな。さっさと香夏と別れろよ』
「香夏ちゃんによろしく言うといてくれ。明日は香夏ちゃんからの電話待っとるて」
キショイー、海音寺ほんまおまえとなんかキョーダイ絶対お断りや、とやかましく言い立てる瑞垣をいなして、海音寺背は電話をきる。ほっと息をついた。
窓の外を見やる。
あと数時間もすれば、闇は明け空に変わる。そしてまた、白く灼かれたグラウンドへ帰っていく。
なあ、いいよな。
ひとりごちる。そして3年生、今年が最後の仲間の顔を思い浮かべた。
おれは、おまえらと野球がしたいんじゃ。
あの感動を、おまえらと分かち合いたい。そしてそれは、きっとできる気がする。
なあ、だからいいよな。
祈るように天を仰ぎ、目を閉じる。
決断を、幾度となく省みた。本当によかったのだろうか。自分自身の去就には惑わなかったが、チームの主将として、チームの去就には思い切り揺れ惑った。
自分は未熟だ。3年経った今も、あの頃と比べてさほど成長したとは思えない。
東谷あたりが絶対視してくれるのは面映いが、そこまですべて計算し、納得ずくで動くことなど実はできていない。
けれど、決めたことだった。すべての責を自分が負うつもりで、沢村の方針を是とした。
エースピッチャーは緑川。捕手は展西。入れ替わりはあるものの、硬式球を扱いなれていない1年ではなく、2、3年生を主体としたレギュラー布陣とした。
原田は、投げさせない。控えにすら、いれない。それが、チーム布陣をともに組み立てた沢村と交わした絶対条件だった。
今度は今年入った1年生部員の顔を思い浮かべる。口元に笑みが浮かんだ。
原田にはじまり、捕手の永倉といい、非凡な面々がそろった彼らの代は、どんな野球を秋から組み立てていくのだろう。素直に楽しみだ。
おまえらはおまえらの野球をすればいい。思うままに。感じるままに。自らの目指す野球を、追いかけろ。
道は交わらずともよい。
ただ、感謝を。
あの一瞬が、今の自分を形作っている。
海音寺はゆったりと手にしていた携帯を机におき、身じまいをするために階下へ向かう。
明日も早い。瑞垣ではないが、そろそろ寝ないと沢村の傍若無人かつ的確なしごきに耐えられない。
寝静まった家族を思い、静かに自室のドアをしめ、海音寺は階段を下りていった。
これが、わたしなりの先輩たちへの答えです。海音寺先輩には、今度こそ緑川や展西たちと野球をさせてあげたかった。当事者が傷ついたのはもちろんですが、何も知らされず、いきなり夢と仲間をもぎとられた海音寺先輩も、ひどく傷ついたと思うので。つーかわたしなら暴れるね。センパイ人間デキすぎです…大好きだ。
で、いよいよあのカタの登場です。すいません別人過ぎて…高校入って、彼も変わったのねと生温かい……ううう苦しい。おミズさまはわたくしには難しすぎました!(開き直るな)
『もーしもぅーし。コレは海音寺一希くんのケイタイですかぁー?』
「オカケニナッタ電話番号ハ現在ツカワレテオリマセン。番号ヲオ確カメノ上――」
『香夏のケイタイ(こいつ)火にくべたる』
「なんだ、香夏ちゃんのお兄さんの瑞垣俊二くんじゃありませんか」
『ええそうですとも。何べんヤメロ言うてもこんなタチの悪い男に騙されとる瑞垣バカナのお兄ちゃんの俊二君ですよー』
「喫煙がバレて、名門城山から港北に都落ち編入するハメになった瑞垣俊二くんですか」
『――いっぺんどつきまわしたろうか、おまえ』
「やだなぁ。将来義兄さんと呼ばせてもらうかもしれんのに。仲良くせんと」
『ぜっっっっっったぃイヤじゃ。何としても阻止したる』
電話口から心底いやそうな答えが返って、海音寺は表情を緩めた。
深夜、おそらく世間一般で言うところのカノジョである、瑞垣香夏のケイタイから電話があった。
これは無論よくあることで、彼女と付き合い始めてからは、日常となっていた。学校でのとりとめのない話から、他愛ないヤキモチまで、海音寺と香夏は中学生と高校生らしく、温かくも微笑ましいおつきあいを続けてきている。
だが、今夜香夏からのコールで、手元のケイタイが鳴ったとき、海音寺の脳裏に浮かんだのは、香夏のかわいらしい笑顔ではなく、今電話口で対している男の不遜な皮肉笑いだった。
同年の瑞垣俊二とは、中学以来のつきあいであるが、中学3年生のあの1年間以外は、それほど濃い付き合いでもなかった。香夏経由で高校1年の冬に港北に編入したことは聞いていたが、それ以降対戦することもなかったし、何より自分の方が他者を気にしていられるほど野球環境が穏やかではなかったからだった。
しかし今日は、昼間沢村から申し出を聞いた。当然瑞垣の兄のほうから連絡が入るであろうことは予期していた。
『ラチもないあほ話はおいといて、今日は新田高主将に話があるんや。出し惜しみか、海音寺』
いきなり直裁に本題に入られて、海音寺はまじまじとケイタイを見つめた。
どちらかといえばラチもない話で人を煙にまいて、いきなりばっさり切りつけてくるのは瑞垣の得意とするところだったはずだ。
『何や。答えられんのか』
「いや……余裕のない瑞垣いうのが珍しくて、つい黙ってしもうたわ」
『あほ。誰が余裕ないんじゃい。こちとら面倒でうっとうしい話はさっさと終わらせて就寝タイムに入りたいだけじゃ。どこぞのチーム主将どもと違っておれは繊細な造りなんじゃ。睡眠不足で朝の5時からしごかれたら貧血起こして倒れてしまうわ』
「あははは。おまえら朝練5時からか。たいへんじゃなぁ甲子園狙っとるとこは。ウチは6時からじゃぞ」
――といっても生徒たちの中には、海音寺たちのように自主練として5時半くらいからがんばっている者もいる。そして、現在の野球部員の多くは、そうした筋金入りの野球好きしか残っていないのが実情だった。
昨年春、それまでの監督が定年退職をして、女性である沢村に代わったとき、20人近くいた部員のほとんどが部をやめていってしまった。
もともとが進学校、野球にたいしたこだわりもなく入ってきた者たちが次々と他の部や帰宅部へとうつっていってしまった。一時は総勢9人をわってしまい、真剣に部の存続が危ぶまれるまでになったほどだ。
それ以降、緑川や展西たちの新規参入のおかけでどうにか試合に出られる頭数はそろったものの、人手不足は深刻で、海音寺たちの代が引退すれば、また9人をわってしまうことになる。
今年の新入生たちは、ほとんどが海音寺のよく知る新田東の後輩たちで、彼らは中学時代に全国レベルの試合を経験している有望な選手たちだ。何とか部を存続させたいというのは海音寺だけでなく、部員皆の願いでもあった。
『欲はないんか。おまえ』
唐突な瑞垣の低いつぶやきに、もの思いから覚める。そして、言わずとも察してくれる相変わらずの相手の頭のよさに感心し、海音寺は瑞垣の言葉を反芻する。
欲、か。
窓の外、夜闇に閉ざされた庭先を見るともなく見つめ、細く息を吐いた。
全国を勝ちあがれる器量を持った投手がいる。まだ、広く知らしめてはいないものの、新田高のレベルは決して他校に劣るものではないと海音寺自身自負している。
正直、今年彼らが入学した時点で、心は揺れた。しかし、惑いはしなかった。
「欲は、あるとも。瑞垣」
窓の外、淡い街灯に照らされた、場所。
6年間、いや、それ以上、ずっとバットを振ってきた場所だった。試験中も、受験中ですら、決して欠かすことのなかった素振り。それは、何を求めてだったのか。
「けどな、多分おれの欲は、おまえの言う欲とは、違うところにありそうなんじゃ」
勝ちたくないわけではない。勝てば嬉しい。甲子園に行くのが、野球を始めたときからの夢だった。
けれど、今、自分にとって本当に大事なのは。
(マジおもしれえよな、野球って)
あれを味わわせてくれたのが、他ならぬこの瑞垣たちと、今年入ってきた原田たちだった。あんな感動は、おそらく後にも先にもないだろう。魂の奥底が揺さぶられるような、自身の根核を定めるのに決定的な一瞬は。
いや、もしかしたらあるのかもしれない。まだまだ野球は奥深い。けれど。
一緒に、やりたかったのだ。
叶えられなかった夢。中学3年生の1年間。空白の、あの夏を。
諦めかけていた矢先に、彼らは戻ってきてくれた。
無論、中学と高校ではケタが違う。おそらく、自分たちが甲子園を狙える位置につけることはないだろう。
だがそれでもよかった。それでも、海音寺は、展西たちと野球をしたかったのだ。もう一度、まぶしい夏の日差しの下、彼らと白球を追いかけてみたかった。
(マジおもしれえよな、野球って)
そう、彼らと言い合ってみたかった。
えーと、瑞垣サンは頭の良い方ですので、悩んでうんと悩んで、最後はこうかなーと。あはははご都合主義かんべん。でも、囚われて逃げることの敵わないものから、往生際悪く逃げ出した後、潔く戻るのはとても勇気の要ることであり、おミズはその勇気を持ち合わせているヒトだと思います。……すいません瑞垣サンの賢さの万分の一も出せてなくて。とほほ。
担任に日誌を渡し終えて、教務室を出ていこうとしたら、沢村に呼び止められた。
向かうと、今は日本史教師の仮面を被った烈女が、やや苦笑気味に用件を切り出した。
「練習試合、ですか」
申し出てきた学校名を聞いて瞠目する。昨夏の4強だ。今年こそは甲子園をつかみとるだろうと専らの噂の強豪校。
主将の名前に覚えがあった。3年前、他ならぬその相手に、無謀を承知で練習試合を申し込んだのは自分からだった。
「しかもおもしろいことに、向こうは練習試合で投げる投手を名指ししてきとるんよ」
すぐにぴんときた。
「原田を、ですよね」
「うん」
鮮烈な高校野球デビューを飾っておいて、それでもあの球には囚われたままらしい。港北高校野球部の主将、門脇秀吾の思惑が手に取るようにわかって海音寺はそっと苦笑した。
沢村は黙って海音寺の反応をうかがっていたが、海音寺が目立った反応を返さずにいると、おもむろに首をかしげてとぼけてみせた。
「確か、新田東と横手が、海音寺くんの代に対戦したことはなかったと思うけど」
「ええ、ありません」
涼しい顔で答えた海音寺に、沢村がため息をつく。知っているだろうに、という海音寺の無言のうながしに、時間の無駄と見切りをつけたのだろう、さっさと手の内をさらけだした。
「確か、卒業したての3月末じゃったよね」
「はい」
「で、あんたたちが勝ったと聞いとるんやけど、そのときの『お遊び』のピッチャーも原田くん?」
「はい」
「なら、そのとき打てなかった?」
「いえ。一打席目をきれいにスタンドに放り込みましたよ。ランナーがいなかったので、1点止まりでしたけど」
「で、次からは」
「原田は打たれませんでした」
それだけで沢村には通じたらしい。またあの子はめんどくさいのに目ぇつけられて、と苦々しげにつぶやく。発端を作ってしまったのは他ならぬ自分だということを海音寺は賢明に黙っていることにした。
「で、話をもとに戻すけど、どうする主将。練習試合」
「断っといてください」
即答した海音寺に、沢村はにっこり笑った。
「そらよかったわ。悪いけど、申し出てきた時点で断らせてもらったんよね。ウチのレベルではとてもそちら様のレベルに太刀打ちできません。堪忍したってください、て」
「そうですか」
無論、この烈女のことだ。そうそうしおらしい態度で断ったわけはないだろうが、自分と同じ思いでいることが分かって海音寺は安堵の息をついた。
県下4強だ。申し込まれれば欲も出る。原田を投げさせないと明言してはいるが、彼女が次代に自分たちとは異なる道を示しているのは薄々気づいていた。
「それとも、啖呵きっとけばよかった? ウチの緑川ナめんなよ、て」
確信犯の笑みに海音寺は内心天を仰いだ――言ったのだこのヒトは。もう既に。
嬉しい反面、後で確実にかかってくるであろう、もう一人の港北野球部員、影の実力者からのクレーム電話への対応を考えてげんなりした気分になる。
だが、まあいい。なぜなら、まごうことなき本音だ。
「きってくれてかまいませんよ。今度また何か言ってきたらどうぞ。4強だろうと何だろうと、今年の評価は今年で決まるんですから」
「海音寺くんが主将でほんと頼もしいわ」
満面の笑みのもと、顔に似合わぬ怪力で肩を叩かれる。どうやら海音寺の答えは、烈女のお気に召したらしい。彼女のメインは野球部監督だが、高校教師としての自覚もどうやら一応はもっているらしかった。
笑顔で送り出されて、海音寺は教務室を後にする。
伝統といえば聞こえはいいが、古めかしいコンクリ造りの校舎の窓から、午後の遅い日差しが入ってきて、室内から出てきた海音寺の目をやいた。
「今日も暑くなりそうじゃな」
ごちて、遠く、日差しに灼かれて彼らを待つグラウンドを見やる。
この3年間、学校のどの場所よりも思い入れのある地は、午後の日差しに白くかすんでいた。
あと2、3時間もすれば、また皆があの場所に集まり、白球を追う。素直に待ち遠しかった。
夏が、始まろうとしていた。
あう。すいません。主役二人ともに出てこないうえ、単発でなく。ううううすいませんすいません。でも書いてる本人は海音寺センパイたくさん書けて大満足であります。そして次は今まで扱いが難しすぎて放置しといたお方が。……なんつーか、ツケを払っている気分でやんす。
最後です。
巧が東谷に7組に呼び出されたのは、その翌日のことだった。
豪には内密にと注文をつけられ、さてどうしたものかと思案していたが、巧が何かするまでもなくその日豪は日直にあたっており、授業の準備などでちょくちょく教室を空けていた。
「……これも仕組んでたりしたら怖いよな」
「何が。別に何も企んどりゃせんよ。けど立石がおまえ呼び出したら、サワだの豪だのいらんおまけがついてくるのは必至じゃろ。なんでおれが一肌脱ぎました」
「意外に苦労人だな。東谷」
「ええそりゃもう。ダレカサンにいれあげてるあの二人の暴走なんざ中学三年間でいやというほど見ましたから」
ため息混じりの皮肉をいなし、移動教室らしく無人の教室内で、示された席に巧が腰を落ち着ける。
それを見計らって、一足早く来ていたらしき立石が、来訪に謝意を示し、話し始めた。
あの夏のことを覚えているか、と。
うなずく巧に、真摯に彼は謝罪した。結果的に巧からマウンドを奪ってしまうことになったあの失投を。そしてとりなそうとする東谷をさえぎり、ぽつりとつぶやいた。
笑ったのが、と。
巧が、打席で笑ったのが目に焼きついたのだと。
「原田が? おまえそりゃ目の錯覚じゃろう。この無口ブアイソ仏頂面が」
「いや、東谷、待て……そういえば何か覚えがある。確かこいつが捕手とちゃんとコミュニケーションとって投げるの見て、そういやおれ今日首振ってないなと思ってそのとき笑った」
思い起こすように視線を宙に投げ、巧がつぶやくと、沈痛な面持ちでかつての相手方投手はそれをカン違いして頭に血が上ったのだと告げた。
「何だか、格の違いを笑われてる気がしてさ。……おれの代、ウチの中学投手経験者不在で。肩をかわれておれが投手することになったんだよ。おれはもともと野手あがりで、カーブにしたって2年生くらいから急遽覚えさせられたんだ。ウチって打撃中心のチームだったろう。決勝までだって点の取り合いで競り勝ってきたんだ。だから、原田の投げる新田東には、離されるだけ離された」
その辺りは巧も東谷も知っていた。試合の組み合わせの妙で、早い段階で新田東は、いわゆるともに優勝候補と呼ばれる学校と対戦し、くだしていた。決勝で対戦した立石の中学校は、言葉は悪いが対戦相手として新田東がそれほど警戒すべき相手ではないと戸村ですらが断じていた。
だからこそ大事をとってあの場面で関谷を投げさせることができたのだ。
「最終回、ウチのベンチはおせおせムードだったけど、結局負けた。おれは、みんなには悪いけれど、正直ほっとした。だって、ベンチにいるのすら、苦しかったよ。どうしよう、てもうそれしか考えられなかった。逃げ出したかった。マウンドなんかのぼりたくなかった。だから原田が痛みを押して5回を投げたとき、ほんとに感動した」
そこで顔をあげて、立石はまっすぐ巧を見つめた。
「痛むだろうに、そんなのおくびにもださず投げる原田見て、投手はこうあるべきだって教わった。それで決めたんだ。絶対、高校は原田と同じとこ行こうって」
まっすぐで純粋な視線に、巧がこころもち身を引きかけると、ついと傍らの東谷がひじでつついてきた。
『モテモテじゃのう。原田』
言いたいことが分かって、巧は苦虫をかみつぶす。いい迷惑だ。
「だから、おれの高校生活、原田と野球するためにあるんだ。前も言ったけど、そのためなら何でもする」
「おれは別にあんたのために投げたわけじゃない。あんたの高校生活預けられるなんていい迷惑だ」
けんもほろろな巧の返答に、しかし立石は萎れなかった。逆に対抗心をかきたてられたかのように身を乗り出す。
「別に原田に何かしてもらうつもりはないよ。おれが勝手に原田に惚れ込んで原田につきまとうだけだから」
「おれはそれがイヤだって言ってるんだ」
今度はあからさまに身を引いた巧に、なおもめげずに立石はせまる。
「おれお買い得だよ。そこそこ打てるし。第一おれいないと頭数そろわないでしょ」
「あーもうそこまでにしとけ」
乗り出した立石の額を力ずくで押し戻して、東谷が嘆息する。
「立石よ、おまえの原田ストーカーっぷりは理解できたけどな。そのへんにしとけ。原田は見たとおりかまわれるの大嫌いじゃ。しかも原田のそばにはさらにうるさいのが二人ほどおる。おまえの心積もりは分かったからいらん波風部内に起こすな」
「1年のリーダーは沢口で東谷じゃないだろう」
「その沢口が目下おまえを目のカタキにしとる。悪いこと言わんから大人しくしとれ」
重々しく東谷に説かれて、渋々立石は元の位置に戻った。しかしいきなり、巧の左手を握って引き寄せ胸に抱きこんだ。
「何す――」
「おれ遠慮なんてしないから。原田」
そしてにっこり笑うと、あまりの暴挙にかたまったままの巧と、あっけにとられた東谷を尻目に、颯爽と7組を後にした。
いまだ固まったままの巧の耳に、今のはサワや豪には絶対言えんと、ほとほと難渋した口調で東谷がつぶやいたのが届いた。
ヒガシはヨシくんと一緒に原田さんガードに徹していただきたい。つーかしっかりしろ女房!(ウチの骨モウソウの永倉さんの甲斐性なしっぷりったら…)
スイマセンやっとこれで元通り…って、今日月曜日。あああああだって入らないんだモン。いいさたいして変わらない。たわごともモウソウも。
巧、いい匂いがする、と唐突に豪がつぶやいたのは、何分くらい経ってからだろう。
「そりゃ風呂あがりだもん。つか、おまえこそいつまでそんなカッコしてんだよ」
「分からん。とりあえず飯は食ったと思う。……頭ん中、わやくちゃになって、なんかもう、ガッコ出てから今までの記憶が曖昧じゃ」
「ぼけんなよ。若いうちから」
言うたな、とようやく口調が明るいものに転じた豪を、引き離そうとして思いがけない抵抗にあう。
「豪」
「もう少し、こうしとって」
幼い子がむずかるような言葉に、けれど巧はそれ以上邪険にできず、はがそうと動いた腕の力を抜く。おおいかぶさってくる長身が、いい加減重かったが、豪の今までの鬱屈を考えれば、強引にはできなかった。
代わりに、一言だけ告げる。
「焦るなよ」
ふ、と耳許で笑う気配が伝わってきた。
「何だよ」
「いや。巧に言われるなん、おれどれだけ空回ってたんじゃと思ったらおかしくなった」
そして巧が何か言い返す前に、ようやく豪が手を緩めた。
向かい合った豪の面からは、先ほどまでの危うさが払拭されていた。
「うん。なんか元気になった気がする」
ほっと息をつく豪に、呆れまじりの視線を投げかける。けれど豪は、やわらかい視線で巧を見下ろした。
「いかんな。捕手があせってテンパるなんざ」
そうつぶやく豪は、もういつもの泰然とした食わせ者が前面に出ている。
「しっかりしろよ。キャッチャー」
「お前も悪いんじゃ。高校入った途端、急にもの分かりよくなるから。お前がワガママ言わんから、おれの調子が狂ったんじゃ」
「何だよそれ」
巧が眉をしかめると、巧のワガママもなくなってみると寂しいもんなんじゃなあと、とんでもなく失礼な発言をして豪が天を仰いだ。そして、聞こえないほどかすかな声でぽつりとつぶやく。
「……あんま、急に大人になるなや」
気恥ずかしい発言に、何だよとぶっきらぼうに返せば、天を仰いだまま豪はさらに続けた。
「巧が急に大人になると、おれが困るんじゃ。置いていかれた気になる」
巧が投げる、最高の環境を整えるのが自分の仕事だと豪は言う。巧を煩わせることなく、投げたさせたいのだと。
「違う。豪」
巧はきっぱりと言い切った。
豪の気遣いが嬉しくないわけではない。ただ、違うと思った。どう言えば分かってもらえるのか分からない。うまく説明する自信がない。だから、ただこれだけ伝えた。
「おれたちは、バッテリーだ」
ついと豪が視線を下げる。意外げな、本当に思ってもみなかった言葉を聞いたように、軽く瞠目して巧を見る。
「バッテリーだろ。豪」
重ねた巧に、ややあって豪はああ、と穏やかに破顔した。
「そうじゃった。そうじゃな」
それからゆるく目を閉じて、気息を整えるように深く細く息を吐いた。
「……」
巧は踵を返すと、無言で帰り道をたどる。促さずとも豪もついてきた。
伝えることができただろうか。
分からない。
けれど、他にうまい言葉が見つからない。いつもそうだ。自分は。
思いを伝えようとしても、言いたいことの半分も伝えられていない。昔からそうだった。けれどそれでいいとしてきた。豪に会うまでは。
今は、それが口惜しい。
ちゃんと、伝えたい。豪にだけは。
「ああ、もうすっかり夏の夜空じゃな」
不意に背後で豪がつぶやいた。振り返ると、豪が先ほどのように天を仰いでいた。
「夏の大三角形が真上じゃ」
「どれだよ。分かんねえ」
「小学校で習ったじゃろ。天の川の両岸。明るいのが琴座のベガ。織姫星」
「そんな大昔のこととっくに忘れた」
言うなり、もう一度歩き出した巧の耳に、ひそやかな言葉が届く。
「……明日も5時な」
背後から聞こえたちいさな謝礼に、巧は短くそれだけ返した。
ぐぐぐ…七夕終わったというのに…。いやいや気長にいこう。健康第一。
!!!!!注意&お詫び!!!!!
恐ろしいことに、その24は(3/7)がまるまるすっぽり抜けていたことに今日になって気がつきました。
大わらわで直したのですがそんなわけでモウソウが1こずつズレこんできています。
3/7が4/7に、4/7が5/7に、という具合です。なので昨日と同じモウソウですがご容赦。
そして先週の日曜日のが新たに割り込みました。
うううう、いくら1ヶ月ぶりだからって、ヒドすぎる。
告げられた言葉に、巧は少しだけ息を飲んだ。そして、沢村の徹底した秘匿ぶりに、かすかに苦笑をひらめかせた。
何が何でも、巧に投げさせたくないらしい。
「怒らないんじゃな」
「豪?」
ひどく打ち沈んだ声が、耳に届いた。真横を歩き続ける豪は、声音どおりの顔つきで巧を見ずに言葉を紡ぐ。
「巧は、なんで、黙っとるんじゃ。何で、投げたい、言わんのじゃ」
「……」
「カントクの言葉も、約束も、もちろん覚えとる。あの人が、約束破るとも思っとらん。けどな」
心が、ついてこないと。
「分かっとっても、やりきれなくなる。じゃあ、何のためにおれはいるんじゃ。何でおれは」
「おれの球を受けるためにだろう」
立ち止まって断言した。同じく立ち止まった豪を、真正面に見据えて。
「お前言ったよな。全部寄越せって。まだ足りないって。だから、おれは投げる。投げてるだろう。豪」
「……」
毎早朝、約束は違えず守られている。カーブはすでに形になってきている。今朝だって、それを受け、ほっと息を漏らしていたのは、他ならぬ傍らを歩く自分のキャッチャーだったのだ。
罰当たりにも境内に盛り土をして、18.44m、マウンドとはいかなくてもブルペン並みの環境を整えた自称「通りすがりの新田市民」も、寝起きと思しきぼさぼさのおかっぱ頭を揺らして欠かさず巧の投球を観察している。
言ってみれば朝練の先触れのようなもので、決して二人だけの個人的な練習でもないし、非公式の練習でもない。時間帯と場所が違うだけでれっきとした部活だった。
「分かっとる」
低く、寧猛なつぶやきが地をはった。
「分かっとるけど、焦れるんじゃ。何で秋なんじゃ。せめてバッティングピッチャーでもいい。緑川さんの控えで全然構わない。表に立てとは言わん。けどおれは巧に投手であってほしい」
「勝つためだ」
決然と言い切った。
「今度こそ、勝つためだ。おれの力で、最後まで投げて、最後までマウンドに立って、もぎ取るためだ」
それは、巧の中で投げるのと同等の意味を既にもっていた。
今度こそ。
今度こそ絶対に。
「何でそこまで勝ちにこだわるんじゃ。おまえそんなん違うじゃろう。巧の野球は」
「勝ちたいんだ。おれは」
重ねて断言する。巧の、絶対の意思を滲ませた言葉に、とうとう豪は言葉を詰まらせた。
やがて、ゆるゆると弱い息を吐く。
「……ほんと、何でこんな強情なんじゃろ。ウチのピッチャーは」
「そんなの今さらだろ。諦めろ」
弱々しく豪が笑みを浮かべる。
一瞬、泣くのかと思った。と――。
「うわっ」
突然しがみつかれ、まったく無防備だった巧は大柄な身体にすっぽりと拘束されてしまった。
「ちょっ――豪」
「……あー、なんか、サワの気持ち分かるかも」
肩口でくぐもった声が届く。
「は?」
「巧に触ると、ほんとじゃ。ほっとする」
「……」
おれはぬいぐるみか何かかと邪険に振り払っても良かったのだが、そうはしなかった。できなかった。耳許で聞こえた吐息が、震えていた。
やがて、ぽつりと、ちいさなちいさなつぶやきが届いた。
「巧の球、受けたい」
「……受けてるだろう」
全然足りん、とまたぽつりと付け足された。自分の肩に額づいた大男は、身体に似合わぬちいさな声で、搾り出すようにもう一度重ねて言った。
「巧の球、受けたい」
「……うん」
今度はただうなずいた。少しだけ、巧を拘束する腕の力が強まって、だが、息の震えが止まった。巧もゆっくりと視線を落とす。
今まで、何にも強い執着を示さなかった豪が、唯一望んだのが巧の投げる球を捕ることだった。それはつまり、豪にとって巧の球を捕ることが、彼の中で最大最重要の位置を占めているということで。
いちばん大切なものをとりあげられる辛さは、知っている。自分は納得し、自ら望んだ選択肢だ。けれど豪は。
酷いことをしているのだと、ようやく分かった。気がついた。でも豪の気持ちを汲んでやれない。機会は限られている。最大限の好機を生かして、どんなことをしても手に入れてみせると決めた。
あと、3年。
3年だけ、許した。だから。
「ごめん。豪」
素直に謝った。謝るべきだと、思った。豪は、それには答えず、じっと巧を抱きしめたまま、密やかな呼吸を繰り返す。
ただ、何も言われなかったが、豪の中で膨れ上がり、噴出した思いが、徐々に鎮まっていくのが、体温ごしに伝わってきた。
ウチの豪ちゃんは、なんつーか、カイショナシと烙印を押されても仕方ないような…。何でだろう。アタシはカッコイイ豪ちゃんが好きなんだが。…いやそれ以上に巧さんがオットコマエなので、仕方ないのかのう。オットコマエの巧さんはもちろんもっと好きです。
午後9時を過ぎる頃に、部屋で風呂あがりのストレッチをしていた巧は、窓ガラスがちいさな音を立てたことに気づいた。
ごく僅かな衝突音。ちいさなちいさな石のようなものが、軽くガラスを叩いた音だ。
「豪?」
窓辺に寄って驚いた。いまだ制服姿の豪だった。
降りてこれんか、と請われて、つかの間逡巡したものの、巧はくるりと身を翻すと、寝衣のまま階下を抜け、外に飛び出した。
「おまえ、どうしたんだよ」
夜闇に浮かび上がる大きな体躯を見上げる。
ひっそりと音もなく佇む長身は、なぜかひどく不安定で、どこか儚げに見えた。
「豪?」
「すまん。寝るとこじゃったな」
「別に。おまえこそどうしたんだよ。家帰ったろうな」
うん、とごく短い答えだけが返ってきた。言葉少ななその様子に、巧はかすかに眉をひそめる。
自分のキャッチャーは、くわせ者の仮面を手に入れてからは、容易に真意を見せなくなった。穏やかで曖昧な笑みの裏に、苛立ちも焦りもきれいに隠して見せてくれない。中学時代、あれほどに衝突した自分たちだったが、いつの頃からか、その衝突自体少なくなってしまった。
巧の強情に豪が慣れたところもあるし、巧自身も折れることを覚えたからだが、それよりも豪がどこか深いところで何かを決意したからだろうと漠然と感じていた。
唯一の例外が巧の投げる球に対してだけで、それにだけは豪は我慢も普段の思慮深さもかなぐり捨てて素を見せた。
だからこそ巧自身慢心していたのかもしれない。
今、豪は、何かにひどく傷ついて見えた。
「……」
けれど、言葉が出てこない。何と言葉を紡げばいいのか、分からなかった。
傷つき憔悴したものを、慰める言葉など持ち合わせていなかった。それは、今まで巧に必要ないものだった。弱きは棄てる。そうしてきた。打てない打者も、捕れない捕手も。
追い詰められ、不安に慄く沢口にすら、労わりの言葉をかけてやれなかった。
「ちょっと、歩かんか」
豪の方から言い出した。黙ってうなずく。それから、川土手に向かって黙々と二人で歩を進めた。
8時ともなれば残照はすっかり消えうせる。今は、かすかに空と稜線の区別がつく程度で、藍をとかした夜空が頭上をおおい、支配していた。
静かだった。遠くかすかに田圃の蛙の鳴き声を聞きながら、ゆったりとした歩調で肩を並べて豪と歩く。
思えば、豪と並んで歩くことの多い道だが、自分たちには、あまり会話らしい会話はなかったように思う。時たま、豪が新田の四季について情報をくれる程度で、あとは野球に関することが主で、それも吉貞たちと違い、延々と続くものではなかった。
沈黙が、苦にならない相手でもあった。
「巧、去年の夏の全国決勝、覚えとるか?」
不意に豪が尋ねてきた。首肯だけで返す。
忘れるわけがなかった。暑い、夏の日だった。不本意な形で奪われた。あの日を忘れたことなど、一日たりとてない。
「じゃあ、立石が、何モンかも、分かるじゃろ」
――豪の言葉で、ようやく思い至る。
どこかで会ったどころではなかった。昨夏、自分と同じマウンドに立った相手側の投手。落差のあるカーブが決め球の。
「何で、あいつ」
ついて出た巧の疑問に、かすかに豪は首を振る。
「理由は、口にせんかった。ただ、絶対に野手希望とだけ、言うとったことは事実じゃ。おれもヒガシも、あいつが投げるとこ見るまで、思い出せんかった」
「投げる?」
巧の問いに、豪は低く告げた。
「明日っから、バッティングピッチャーに、立石が加わる」
!!!注意&お詫び!!!
恐ろしいことに、まるまる1回分お話がズレていたことに遅まきながらに気づきました(7/18)。
うわあそりゃあ不自然だろう。
すいませんすいません病み上がりなんです。いや、上がってないのか手遅れなのか…そうかも。
「ああ疲れた。おれはもうだめだ」
帰り道、いつものごとくたっぷりと練習でランナーとして走りこんだ吉貞は、よろよろと芝居がかった仕種で脇の電柱にすがりついた。
「吉貞おつかれー」
「おつかれー、って素通りすんな! え? 沢口と原田だけ? 永倉と東谷は?」
「何やカントクが話あるて引っ張ってったわ。じゃから今日はおれと原田で帰るの。じゃあなー」
「おお。じゃあなー、ってお前はじゃから何でそう原田べったりなんじゃ。待てまてい。そういうことならお前らだけで帰すわけにはいかん。女房から愛人のおれにカントクフユキトドキて苦情が来たらかなわんからな」
「だれが愛人だ。薄寒い」
にべもない巧の拒絶に、しかし吉貞はいっこうに頓着することなく、巧や沢口と並んで歩き出す。
敷地内にはもはや人影はなかった。
進学校ゆえか、新田高校の部活動はさほどさかんとは言えない。巧の祖父洋三がいた頃は違ったのだろうが、7時をまわれば、どこの部も帰り支度を済ませているのが常だった。おそらく今校内にいる生徒は、野球部員ばかりだろう。
その部員たちも、部室の片付けなどで1年生が最後になることが多かった。
「で、何の用じゃ。あいつら二人て。連絡係は沢口じゃろ」
吉貞の疑問に、返す沢口の言葉は素っ気ない。
「知らん。ただカントク、中学で部長だったヒガシとキャッチャーの豪に用があるみたいじゃった。確認して呼んでったもん。あと、そう、立石と」
「立石?」
これは巧も初耳で、吉貞が聞き返すのと同時に沢口を見やる。
「あー、立石はもともとなんかな。ヒガシたち二人にはカントク『来て』てお願いしとったけど、立石んことは目顔だけで呼んどった」
「ふふーん。何やらヒミツの匂いがするのう」
吉貞は不敵ににやりと笑った。
初対面からさわやか全開のいかにも女ウケしそうな立石に、吉貞は勝手に敵愾心を燃やしている。何かにつけちょっかいを出そうと試みているのだが、立石がそれらをひらりひらりと軽やかにかわしているので、なかなか核心に迫れていない。
「大体、あいつ一体ナニモンなんじゃ。関東からわざわざ原田と野球するために引っ越して来たて、いくら何でもそりゃ嘘じゃろう」
「あー、でもそれホントみたいじゃで。おれ連絡係じゃから、住所教えてもらったけど、あいつ、市内のアパートで一人暮らししとるもん」
沢口の何気ない情報リークに、吉貞と巧はそろって目をむいた。
「はあ? て、あいつマジで原田ストーカーだったんか」
「子ども一人でアパート借りられるわけないだろう」
同時に発せられた二人の疑問でも、もちろん沢口が優先させたのは巧の方である。
「ええと、何や横手に、あいつの父ちゃんの妹のダンナの知り合いだとかが住んでる縁らしいで。その人が保証人だとか言うてた」
「そりゃアカの他人て言うんじゃ。何、じゃほんとにあいつストーカーじゃんか。――何じゃタクちゃん。難しそうな顔して」
吉貞の問いに、巧はかすかに首を振った。自身でもはっきりとした確証はない。ぼんやりとした記憶のひっかかりを、うかつに口に出すのはためらわれた。
しかし、次の瞬間、まったく同じ事を沢口が口にしたことに驚く。
「おれ、あいつ前にどっかで会ってる気がするんじゃよな」
「沢口? ほんとか」
「いや、気がする、てだけでいつとか具体的には分からんのじゃけど。何やあいつの顔、どっかで前に見た気がする」
気のせいじゃないんか、と疑わしげな吉貞に、そう言われると自信ない、と沢口が弱気になる。そこで巧も口を開いた。
「いや。おれもだから二人して気のせいてことはないと思う」
「原田もなんか?」
いよいよ不審げに吉貞は眉を跳ね上げた。そして、腕組みをすると顎に手を当てて、どこぞの探偵を気取った仕種で首をひねった。
「ナゾはますます深まるばかりじゃな。東から来たオトコ――うわ、なんか推理モノのタイトルになりそうじゃんか。よし、としたらここは一つこのヨシ様が一肌脱いで真相をキュウメイしてやろう諸君」
「そんなことせんでも直接本人に聞けばええじゃろ」
無駄に胸を張る吉貞に、冷静に沢口が突っ込む。
「甘い。あのさわやか笑顔がクセ者なんじゃ。都合のいいでまかせ並べられるに決まっとる。見とれ、早速明日から調査開始じゃ。まずは身辺調査じゃな。ここの事務のセンセは中村サンじゃったっけか。オレサマの魅力であっという間にろーらくさせちゃる」
「個人情報の漏洩はさすがに無理だろ」
「うるさい原田。このオレサマの辞書に不可能という文字はないんじゃ」
呵呵大笑する吉貞に、呆れ気味で残りの二人が顔を見合わせたのは言うまでもない。
ものすごく間があきましたが、6月のモウソウの続きです。すんません。
入学から一ヶ月半が経ち、新田高野球部の活動は、夏の大会に向けて本格化してきた。
地区二回戦どまりだった春の大会は、すでに過去のことである。
ランニングや柔軟が終わると、入念なキャッチボール、その後、緑川と展西のバッテリーを軸に、2、3年生が中心となったレギュラー陣がランナーをおいての守備練習や、内外野の連携プレーの練習など試合を想定したな練習になる。
沢村は基礎を重視する方向から、次第に実践的な場面を想定した練習に力を入れるようになってきていた。
『急造チームじゃからね。連携が一番の要になる』
そう言って苦笑いしつつも、常に彼女は冷静な計算を忘れていない。幼げな外見や、くるくる変わる表情に騙されて、つい見落としてしまいがちだが、沢村という人間はいかに効率的に練習を「できる」かを考える優秀なプランナーだった。
ランナーの配置、飛んだ打球の方向、どれをとっても新田が弱い場面を確実についてくる。部員たちがいちばん嫌がる場面を作り出してさあどうすると提示して見せるのが天才的にうまい。
そんな沢村の手足となってランナーで走ったり打席で打球をとばしたりするのが新入部員の役目である。走るのは主に吉貞や巧、足の速い者で、豪や立石など長打を打つものは打席に立たされて言われた方向へと打球を飛ばす。この指定もやたらに細かくて、走る側も打つ側も、沢村の指示に常に気を尖らせていなくてはならない。へたに損じようものなら盛大な罵声が浴びせられた。
それは走塁も同じで、あの能天気な吉貞が、ランナーをしているときばかりは、いつもの軽口もたたかずひたすら走ることに集中している。
会ったばかりの時は、吉貞と似ているなどという感想をもった巧だったが、年の功というやつか、沢村の方が一枚も二枚も上手のようだった。第一、こうまで吉貞を見事に黙らせることができた人間を、巧は彼の母親以外知らない。
そしてそういう巧だとて、無論沢村の企みの例外ではありえない。
「原田―っっっっ、今のはアンタが捕らんでどうするん! ヌケさく!」
およそ2回に1回の割合で、2年生に代わって一塁手を任されるが、フィールディングでは、慣れない守備位置ということもあって、罵声を浴びせられることが多かった。またその声がよく通る。小道具なしでバットを振り回しながら彼女の怒声は小学生の子どものようにグラウンドの隅々まで響き渡った。
「――っ、の」
しかしムッとする間もなく、計ったように同じ位置に同じ強さの打球が飛んできて、捕ってカバーに入った緑川に放る。今度は何とか間に合ったが、どうだと見返した沢村は、すでに次のコースに打球を放っていた。
新入部員が飛ばすどんな球より、沢村自身が飛ばす球の方が、よりえげつなくいやなコースに飛んだ。しかも正確無比に、だ。とんだ烈女である。
「ライト! 四つ」
同じく今回ライトに代わって入っていた豪が、危なげなくフライをキャッチし、ホームへと送球する。待ち構えていた展西のミットがいい音を立て、すかさず走っていた2年生をタッチアウトにする。きれいにブロックが決まった。
「……」
見ていた巧に、急造外野手は不敵に笑って見せた。それがカンに障って、巧は心の内で地獄に落ちろばかやろう、と呪いの言葉を浴びせた。
豪は依然巧のコンバートに不服らしかった。事あるごとに巧の翻意を促す。控えでもベンチでも何でもいいから、とにかく投手一本に絞れと重ねて言い募る。
無論影でだ。表立って口にしようものなら、烈女の怒りは必至である。またそれが、豪当人にも冷静な判断からでなく、感情論でしかないこともよく分かって上でのことである。たちが悪かった。
だが、巧は豪の意に添うつもりは毛頭なかった。いや、こうしてファーストについてみて、さらにその気持ちはなくなった。
投手はただ投げればいいものではない、というのが、高校進学に際しての、祖父の餞(はなむけ)の言葉だった。
野球という行為を、独りよがりに捉えることのなくなった孫への、二つ目の訓示というところか。
もちろん、それまでだとてピッチャー返しの打球の処理や、一塁手との連携など、少年野球の頃から練習は積み重ねてきた。だが、こうしてファーストを務めてみて、あらためて気づかされる点があることに、巧は新鮮な驚きを感じていた。
投手との連携や、ライトとの補い合い、何より、背を向けなければならない、投手だった頃よりずっと、守備の動きに目がいく。海音寺が緑川の一球ごとに微妙に立ち位置を変えているのを興味深く見つめた。
そしてそれは、巧がマウンドに立った際に、必ず生きてくる。
今だとて、巧の本分は投げることだ。自分は投げるために在るのだということに一部の疑いも抱いていない。それは火を見るほどに明確なことだ。
ただ、投げるためのことを考えるようになった。より速い球を投げるために走り込みをするように、思うとおりに投げるために周囲を見極める目を養おうと思った。
「1つ!」
三遊間を抜ける痛烈な当たりに、くらいついた海音寺から正確なボールが巧に届く。身体をいっぱいに伸ばした巧のグラブに、処理されて勢いを失ったボールはおさまった。
「最後――っっ。フリーバッティング」
合図を機に、それまでグラウンドに散っていた部員が、わっとホームに駆け寄る。
どんな汚い手を使って予算をもぎ取ったのか、公立の高校にしては破格の設備、最新の性能を備えた真新しい三台のマシンが、倉庫から引っ張り出され設置された。
「さーあ時間ないよ。打てるだけ打っとくんよー」
あれだけの球を何球も飛ばしておきながら、軽く息を弾ませただけの一見小学生の烈女が、先ほどとはうらはらにおっとりと声をかける。
フリーバッティングのとき、沢村は姿勢などのチェック以外では滅多に声をかけない。本人のやりたいようにやりたいだけやらせる。短時間で終わろうとも何も言わない。
しかし本来バッティングは皆楽しい練習だ。好きなだけとなれば欲も出て自然皆が長い時間をと限界まで欲張るのが常だった。
普通であればここで新入部員である1年生は球拾いにまわされるものだが、何しろ人手が圧倒的に不足している。ボールだけは豊富にそろえて、全員が打ち終わった後、一斉に拾うのがきまりごととなっていた。
そう考えると、確かに変に名門なとこいくよかも、よっぽとおれら恵まれているよな、というのは根が単純で前向きな沢口の言である。
展西たちとの確執も、はじめはかまえがちだったものの、向こうが本当に無関心なのを見てとって、次第にかまえなくなっていった。
「整列―っっ」
暮れなずむ夕影のグラウンドに、海音寺の声が響き渡る。午後七時を大きく回って、新田高校野球部の練習は終わりを迎えた。
予告どおり捏造がハバをきかせはじめました。そしてズブの素人、まったくの野球オンチがモウソウしていますので、練習の内容については生温かくご寛恕くださると嬉しいです。
風薫る5月。
新田を囲む山々は、萌え出づる深緑を身に纏い、鮮やかな青空の下、くっきりとした稜線を描き、市内を見下ろしている。
外で過ごすのに、一年のうちで一番心地よい季節だった。
「はらだー、柔軟一緒に組もう」
ランニングの後、背後からかけられた、聞きなれないものやわらかな標準語に、巧が振り返るのとほぼ同時、巧の視界を遮るように間に割って入った者がいる。
「生憎じゃったな。原田はおれと組むんじゃ。おまえは豪あたりと組んどれ」
らしからぬ険のある表情で、敵意むき出しに声をかけた者を威嚇するのは、誰あろう沢口である。
ここ数日、というか新入部員立石誠が入ってからずっと、野球部では毎日似たようなやりとりが繰り広げられていた。
「またー? たまにはいいじゃん。おれと組んでも。大体、沢口と原田じゃ、体格的につりあってないだろう。お前と吉貞が組めばいいじゃんか」
大柄なカラダに似合わず、顔のつくりがやわらかい立石は、標準語もあいまって不平不満を言ってもインパクトが弱い。見下ろされて立場的に弱い沢口のはずだが、20センチ近い身長差などものともせずに、長身を見上げてへんと鼻で笑った。
「お前だってつりあっとらんわ体重的に。おまえみたいなんが乗っかったら、原田がつぶれる。しっしっあっち行け」
「うわー。何そのあからさまな牽制。おれは標準体重。原田が痩せすぎなの。そして沢口は原田にべったり過ぎ。そんなんじゃ原田だって息がつまるだろ」
「うるさいわぼけ。大体お前も毎回まいかい、懲りもせずに原田誘うなや。原田がメーワクがっとるじゃろ」
「だっておれ原田と組みたいもん」
「ああもう、いい加減にせい。毎回毎回。東谷、おまえが原田と組め。立石は永倉。沢口は吉貞と。たった6人しかおらんのに、なんで毎日毎日おまえらはそうにぎやかなんじゃ」
背後から海音寺がしかめ面をして立石と沢口を押しのける。心得たとばかりに、海音寺に心酔している東谷は、巧を促すとさっさと柔軟を始めてしまう。
まだまだ言い足りないという顔の二人だったが、さすがに主将に叱られて、言いつけどおりにそれぞれの柔軟相手のところへ散っていった。
「しっかし、まいんちあいつも懲りないね」
巧の背を押しながら、東谷が立石を評する。
中学後半であっという間に巧を追い越してしまった東谷だったが、豪に並ぶまでには至らず、巧と豪の中間あたりの高さで打ち止めとなったようだ。昨日までは彼が立石と組んで柔軟をしていたが、よく考えれば海音寺が示したこの組み合わせが一番妥当な線だろう。
時期外れの麻疹のために、半月遅れで入ってきた新入部員立石誠は、熱烈な原田贔屓を標榜した。当然一見さわやか好青年、しかし巧にすれば得体の知れない胡散くさい新顔に、巧が良い顔をするわけもなく、加えて本来なら誰にでも当たりのよい沢口が初対面から敵意をむき出しにしたため、新入りは野球部に温かく迎えられるのとは程遠い歓迎を受けた。
ところが敵もさるもの、穏やかそうに見えて意外にしたたからしく、どんなに巧本人に邪険にされても立石はめげない。
「そのうち送球ミスでぶつける」
「……不穏な発言は聞かんかったことにする。つーか原田、何であいつそこまで毛嫌いするんじゃ」
「東谷だっておれの立場になってみりゃ分かるぜ」
「うーん、確かにいきなり男にコクられたら退くな。けど、あいつも豪と同じクチだろ。きっと。おまえの球見て惚れ込んだ、て」
そこで手を止め、姿勢を起こすと、東谷と交替しながら、ぽつりと巧はつぶやいた。
「豪のときだっておれは最初こんなもんだった」
「ははっ。そういやそうじゃったな。そんで豪が、やっぱりあいつ並みにメゲんかったんじゃもんな。歴史は繰り返す、てやつか」
「そんなもの繰り返すな」
苦々しげな巧に、くつくつと声を殺して東谷が笑う。
「かんべん。おまえ笑ったんじゃないで。あの頃のきらきらしとった豪思い出して笑ったんじゃ。――はいっ、すみませんっ。ちゃんと柔軟やってます」
東谷の笑い声を耳ざとく聞きつけた海音寺の視線に、途端背筋を伸ばして東谷は柔軟に集中する。
その東谷の背を、少々手荒く押しながら、巧は今の東谷の言葉を反芻していた。
出会った頃の豪は、巧の球への憧れを隠そうともせず、今の立石と同じく初対面から積極的に巧とかかわってきた。どんなに冷淡にされても、メゲず飽かず巧の前にい続けた。
思えば、あの辺りから、周囲の状況が一変したのだ。
それまでは白いボールしかなかった巧の世界に、煩雑なものをいろいろと持ち込んだ張本人が豪だ。
今でこそ、それらのものの必要性や重要性を理解できるようになったが、当時は巧の価値観を根幹から揺るがすような激震だった。
柔軟を一足先に終えた、豪と立石が立ち上がるのをぼんやりと見やり、東谷と巧も立ち上がる。
格段に背が伸び、もはや成人男性と並んでも遜色ないほどに身体ができあがった豪に、あの頃の面影は薄い。きらきらと東谷は評したが、そうした、いつも笑顔を絶やさなかった豪は、既に遠い存在だった。
巧自身は、その変化を悪いとは思っていないが、果たして豪本人はどう思っているのだろう。
聞いてみることはできなかった。
と、いきなり背後から軽い衝撃があって、ひじつきをくらわされる。
「なーにナニナニ? タクちゃんたら。じっと自分のオクさん見つめて。新顔と自分の女房がフリンしそうで不安なのー?」
「吉貞ハウス」
しっしっ、と犬を払うように追いやりながら、巧は用具の置いてあるダッグアウト脇に向けて足を速める。
そんなことを聞いてどうにかなるものではない。
今も昔も巧にできることは、誰より速い球を投げ、豪の正面にい続けることだけだった。
はははは。5月の描写がイタイ。まあ、今年はなぜか半月ほど気候が遅れているようなので、それでヨシとしといてください。
思いっきり捏造人間がハバをきかせていますが、ご寛恕を。立石の反対は石立ということで…安易な名づけ方ですな。野菊とかが出てきたらもうこいつダメだとスプーンを遠くに投げてやってください。イメージとしてはマルマの次男てとこですか。さわやかイケメン……でもあんなぐるぐるはしないはず。(超失礼)
分かれ道で豪と別れの挨拶をし、家路を辿る最中、東谷がぼそりとつぶやいた。
「分かっとるじゃろーけど、行ったらおえんで」
「……」
傍らでそわそわと落ち着きのなかった沢口が、途端むすくれる。
「お前まで行ったら、今度は原田が困るじゃろ。今日んとこは譲れや、サワ」
重ねられた言葉に、ますます沢口の顔は不機嫌になった。
夕方。部活動が終わり、皆が着替えている部室で、巧が展西に呼び止められた。文字通り血が引く思いがした。しかも巧は物騒な申し出に応じた。無茶だとやめろと言って聞かせ、絶対に一人置いてくるつもりなどなかった。
けれど豪が。巧の絶対の意思を感じた豪は、引き下がることを容れた。巧の意思を尊重した。
沢口は、過保護と言われても決して巧から離れたくなかったのに。豪だけでなく、東谷や吉貞にまで宥められながら、のろのろと、途中で巧が追いついてはくれまいかと後ろ髪引かれる思いで帰途についた。
そして今、いつもの分かれ道で豪と自分たちは別れた。
「豪に、任せられんか」
ぽつりと尋ねた東谷に、不機嫌な顔のまま、それでも沢口は首を横に振る。
今頃豪は、きっと来た道を全速力で引き返している。そしてそれは多分正しい人選なのだ。
分かっている。自分相手では、決して巧は本心を語るまい。あのとき、真実を口に出す勇気がなかった沢口を責めるのではなく、ただ、沢口に心配をかけるのをよしとしないために。
分かっている。そしてたった一人、豪だけが。
バッテリーだからというわけではない。豪だから。巧は選んでいる。無意識に。けれどあんなにも明確に。温かい気持ちと同じくらい、悔しい気持ちが沸き起こる。巧と、仲間の中では破格に親しいと言われていても、最後に巧が振り向くのは自分ではない。振り向くのは、手を伸べるのは――。
「あーもーなんかフリンする大人の気持ちが分かりそうじゃ」
突然天を仰いでわめいた沢口に、傍らの東谷はぎょっとしたように立ちすくんだ。が、すぐに苦笑をひらめかせて、随分と差のついてしまった目線を下げ、なだめるように肩をぽんぽんと二回叩いた。
「頼むからサワ、ここだけの話にしとけよ。ヨシあたりが聞こうもんなら、小躍りしてまたあいつらおちょくるネタにしかねん」
「だいたいヨシごときにおちょくられるのが悪いんじゃ。そもそも豪は、原田に対して冷淡ちゅーか妙に距離おいとるちゅーか、とにかく冷たい。だからおれは」
力説する沢口を、なおも宥めるようにぽんぽんと叩いて、東谷がつくづくと言った風に嘆息する。
「ほんと原田いうのは無自覚天然じゃなぁ」
「何が」
「いや。こっちのこと。前に聞いた原田評を思い出しただけ。とにかくサワが原田大好きなんは、よう分かったら帰ろうや。おれ腹へって死にそうじゃ」
「そんならうち寄ってけや。母ちゃん最近自家製小麦粉でパン作るの趣味にしとって、少々余り気味なんじゃ」
へえ、そりゃうまそうじゃな、と話が平和的な方に流れていきながら、二人とも沢口宅へと歩を進める。春の夕暮れは、急速に辺りを暗闇に染めつつあった。
ウチの沢口さんたらトンデモ発言してますな。さて高校時代は巧さん未曾有のモテ期に入っていきそうです。サワはもちろん群がるオナゴども、アヤしい永倉妹や新入部員など捏造人間も盛り込んで、少し永倉さんにアセっていただきたい。…ウチの永倉さんではこんだけやっても不安が残りますよ。
再び、室内には二人だけになった。
「お前、帰ったんじゃなかったのかよ」
「帰れるか。あほう」
苦虫を噛み潰したような渋面の豪に、口元が緩む。
おそらく、警戒する沢口たちを宥め、分かれ道まで一緒に帰った後、大急ぎで戻ってきたのだろう。まったく。心配性な母親さながらだ。
「殴り合いのケンカするわけじゃないっての。あれだけの目がある中でおれを呼び出したんだ。不意討ちも闇討ちもないよ」
しかし豪は表情を緩めない。依然厳しい表情のまま、巧を見ている。
「展西さんがな、礼言うとった」
「は?」
「先刻。出ていきざま、何かつぶやいたじゃろう。聞きとれんかったけど、口の動きで分かった。『ありがとう』て言うとった」
「ふうん」
巧はつとめて気のない風に返事する。しかし豪はごまかされなかった。
「和解したんか?」
「いや。謝るつもりはないとさ。おれも許すつもりはない。ただ、グラウンドに持ち込むことはしたくない。で、一時休戦した」
「休戦?」
「明日からファーストの練習始める」
「っ――本気か、巧」
巧の宣言に、ますます豪の顔は険しさを増した。
巧の一時的なコンバートに、誰より難色を示し――はっきり言ってしまえばおえんを連発し、しまいに沢村に濡れタオルの顔面直撃で喝を食らったのは誰あろう永倉豪だった。
言葉を尽くして説明を受け、必要性を理解していても、どうしても心情がついてこないらしい。当の巧が納得済みだというのに、いまだ許容できないでいるらしかった。
捕手として格段に成長し、試合を組み立てたり平気で心理戦をしかけたりできるほどになったのに、豪の巧の球への執着は変わらず度を越している。指導者が、友人が、どれほど危惧しても改めない。
どころか、覚悟を決めて巧の正面に戻ってきてからは、以前のように簡単に表に出さなくなった分、より深く重く彼のうちでうねっているような印象があった。
今でもはっきりと覚えている。夜のグラウンドで、全部寄越せと強請られた。まだ全然足りないと。飢えた眼差しは巧を見据えて強く求めた。
魂まで縛り上げられるような、希求だった。
巧は意図して表情を緩める。だが――それも豪だ。自分が必要としている豪の一側面だった。
「そんな顔するなよ。別に、投げないとは言ってない」
「じゃが、部活で格段に投げられる時間が減る」
それには敢えて答えず、巧はすいと眼前に右腕を掲げ、ボールを握る仕種をして見せた。
「とりあえず5月は――カーブ」
豪が息を飲む。構わずに続ける。
「それにスライダーとできたらもう一つ。秋までにはモノにするぜ」
豪の顔が次第にほころんでくる。現金なものだ。まあ、自分も同様だろうが。
「なら、朝の時間もう少し早めんといかんな。5時でどうじゃ」
「のった。寝坊すんなよ」
――折れたつもりも譲ったつもりもない。礼など本当はいらないのだ。
自分はただ欲張ろうと思っただけ。投げるのが最優先の命題なのは変わらない。ただ、投げるのも勝つのも両方ほしい。
今度こそ。
今度こそ、最後まで。
「勝つからな」
「当たり前じゃ」
即答に苦笑がわく。まったく。誰だこいつをやさしくて思いやり深い、謙虚が服来て歩いてるようなヤツなんて言ったのは。
だが、そんな聖人君子みたいな豪より、こうして当たり前に不機嫌を見せたり傲岸な物言いをしたりする豪のほうが豪らしい。
自分が知っている豪は、とりあえずそんな豪だ。
「巧、帰ろうや。腹へって死にそうじゃ」
一転、世にも情けない声を出して腹部を押さえた豪とともに、今度こそ巧も部室を出る。海音寺から預かった鍵で施錠した。
辺りはすっかり夕闇に覆われている。春到来、新田の名物桜の木々も花開き始めたとはいえ、日が落ちてからの外気はひんやりと肌寒いくらいだった。
「マック寄ってくか?」
「そこまでもたん。コンビニのおにぎりでええ」
「お前おにぎりの趣味までおっさんだよな。普通ツナマヨだろ。なんで昆布」
「お前だって高菜じゃろうが。人のこと言えん」
それから、延々とコンビニまでおにぎり批評を続けて、巧は豪と煌々と明るいコンビニに駆け込んだ。
高校生活は、始まったばかりだ。
えー……何か今回不自然な気がされる方はスルドイです。そう。後半のこの回をわたしはまるっと書き直しました。ウチのサワが引き下がるわけないのよー。そして気がつけばいつもの面々が豪ちゃん押しのけるようにして部室の戸の向こうに。
ひきょーなのは承知で強制退去願いました。ああああああしっかりしろ永倉! いえ、しっかりしなきゃなのはもちろんワタシです……。
さて次回はもいっこコレ。おまけがつきます。
意外だったな、とぽつりとつぶやかれて巧は我に返った。
部活終了後、自分たちのほかにはだれもいない部室だった。
展西の言葉を巧は受けた。とんでもないと沢口あたりが激高したが、思うところがあったらしい豪に、力ずくで共に帰途につかされた。
つくづくと巧は正面に対する上級生を見やる。覚えのある顔はしかし、以前とがらりと印象を変えていた。あの当時、ひたすら憎悪と恐怖の対象でしかなかったニキビ面が、いまはニキビがおさまりつつあるのか、ひどくのっぺりとした能面を思わせる端整と言えないこともない顔に見えた。面影こそ残るものの、以前感じた淀んだほの暗い何かを払拭し、どちらかといえば大人の男のもつ落ち着きが前に出ている。
神経質そうな、癇の強そうな目元は相変わらずだが、それを自制するだけの意思の強さと輝きが瞳に宿る。他者の言いなりに自分を抑えて生きるのでなく、自ら望むことを謳歌している姿だった。
「新田にくるとは、思わんかった」
「……おれも、野球を続けているとは思いませんでしたよ」
巧の返しに、展西は軽く瞠目し、それからすぐに皮肉げな笑みを浮かべた。
嫌味になるのは承知の上での返答だったが、逆に展西は自分だって同じだ、と肩をすくめて見せた。
「事実、去年の今頃までは、ミットもバットも、あれ以来、一切触ってもいなかった」
触れれば、イヤでも思い出すからな、という低い呟きが続く。そこに確かな自嘲を読み取って、巧は展西を凝視した。展西は、巧の不躾なまでに真っ直ぐな視線を怯むことなく淡々と受け止める。
「お前にとってあの件は、確かに傷になったろう。沢口にも原田にも、悪いことをしたと今なら思える。けどな、おれたちが全く傷つかんかったとは思わんでほしい」
真摯な口調だった。
以前の、どこか投げやりな、決して自らの奥底までは見せまいと、頑なに鎧うような刺々しさが感じられない。野球など興味ないと、辞めてせいせいしたと告げる奥底で、彼らが何を考えていたのか――。
ふと展西は口元を緩めた。
「まあ、加害者が何言うても弁解にしかならん。謝って済むことでもない。だから、謝ることはせん。お前と沢口は、おれたちを憎む資格がある。おれは、これからもずっと、自分のしでかした事を忘れん。許されようとも思わん。だからお前たちは遠慮なくおれを憎悪すればいいし、先輩面するつもりもない。けどな」
そこで一呼吸置いて、展西はひどく生真面目な、必死にすら見える表情で言った。
「この野球部を、お前らのために作り変えるのはやめてほしい」
「……」
無言の巧に、きっぱりと展西は言い切る。
「ここは、おれたちの部だ。おれたちが、一から作り上げてきた部なんじゃ。――去年、それまでの監督が定年を迎えて、今の監督が就任した。それまでいた部員があらかた抜けて、残ったのは海音寺たち5人だけじゃった」
「それが理由で、入ったんですか」
「はじめは、頭数あわせのつもりじゃった。海音寺には、借りがある。あいつは、本当に野球が好きなんじゃ。だから、あいつがせめて人数なんかのせいで好きな野球を諦めんでもいいように、て」
そこで展西はふと口元に笑みを浮かべた。初めて目にする、温かな、どこか面映そうな笑みだった。
「つきあいで、練習に出とったつもりだったのにな。気がついたら、家で素振りしとるんじゃ。緑川と、休みの日にまで、キャッチの練習とかな……あれほどイヤじゃった、野球の練習に、なぁ」
巧は黙って展西の言葉に耳を傾けていた。
巧が、豪が、何よりこの新田を選んだ最大の理由。ガチガチに固められた体制の中で「させられる」野球を巧は野球とは呼ばない。自ら考え、選び、真率な姿勢で野球に臨む、だからこそこの野球部に惹かれた。あれほどに疎んじていた展西たちですら、再び野球に引き戻した、沢村の示す野球に興味を覚えた。
無論、彼らの野球は「勝つため」の野球ではない。以前の自分だったら、所詮慣れ合いだと小ばかにしたかもしれない。
けれど、違うのだ。まったく、違う。
上手くなろう。もっと送球を速く。もっと脇をしめてコンバクトに振り切って。もっと走塁に躊躇せずに――端々から、伝わってくる。それは、弟の青波の野球と似ていた。
もう、始めて3年をゆうに超えた。巧にまったく及びがつかないレベルでも、青波は辞めない。レギュラーになれなくても、野球を諦めない。しなやかで強い。どんなに母に、巧に反対されても、決してグラブを脱がなかった。
今はもう知っている。あれは、青波の野球だ。他者がとやかく言う資格はない。人それぞれ顔が違うように、人の数だけ野球の形がある。その野球を集約して、チームは出きあがっている。巧のように、己の目指すものに対して突き進むためにする野球も、沢口たちのように、誰かと共にプレイすることに興奮と楽しみを覚える野球も、すべて呑みこんで。
『野球はみんなでするもんじゃ』
では、自分と展西たちとは、どうなのだろう。果たして、展西たちの野球と、巧の求める野球とは、反発しあわないのだろうか。
答えはすでに出ていた。だから沢村は手を差し出した。秋まで待てと彼女は言った。言葉を返せば、秋になったら、彼女はこのチームを甲子園を狙うチームに作り変えていく気でいるのだ。しかも本気で。
ゆっくりと唇の端を吊り上げる。上等だ。大言壮語でもこの際何でもいい。望まなければ始まらない。そして傲岸なまでに自らの球を巧は信じている。
「おれはファーストだそうです」
巧の言葉に驚いたように展西が視線を戻す。
「よろしく、先輩」
つかの間、巧の言葉に絶句し、やがて呆れたようにカントクも相変わらず無茶苦茶を、とぼやいて展西は天を仰いだ。
「まあ、いい。あの人の腹づもりなんか、後になってからじゃないと分からん。それに、これ以上お前拘束して、外のダレカサンに牙むかれるのも怖いしな。つか永倉、入ってくれば? 聞いての通り原田とはもうケンカせんよ。沢口ともじゃ」
展西が声をかけると、部室の戸が開いて、この場で誰よりも長身の大男が剣呑な目つきでうっそりと部室の中に入ってきた。
「騎士健在か」
「どちらかというと過干渉な母親です」
冷やかしを巧があっさりかわすと、そりゃ大変じゃなと笑い声を立てて、豪と入れ替わるように展西が出口へ向かった。
「――」
戸をすり抜けざま、展西が何事かつぶやく。
聞き返す間もなく展西の姿はそのまま戸外の夕闇にのまれていった。
うー……これがわたしなりの彼らへの答えです。夢見すぎはほんとご勘弁ですが、たくちゃんと巡りあって、人生変わったヒトといえば、この方もだと思うのですよ。でも、彼にも傷はできたろうけど、できればそれを治して前を向いててほしいなと思ったのです。甘ちゃんかもしれないけど、転んで擦りむいてもまた立ち上がれるのが、ちぅがくせいたちの特権だと思っているので。……わたしなんか今転んだらそのまま野垂れ死にですよ。ぶるぶる。恐ろしい。
えーと、時間的には22よりまた前の時間になります。4月初旬。入部したてです。なら最初こちらからいけばよかったのに、なぜ向こうを先にしたか。カンタンです。BBがそうすると春を過ぎてしまうからです。ギリギリ春、に決着をつけられたと安堵しているのですがさて。
何にせよBTのほうにはいいメーワクですな。
野球部の練習に、入学して早々、巧たちは加わった。
練習初日。午後。
初めて沢口たちは新田高校のグラウンドに足を踏み入れた。そして。
3年生の部員の中に、彼らを見つけて案の定沢口は固まった。
おもしろいくらい顔を強張らせて、機械仕掛けの人形のようにギギ、と音がしそうなぎこちのなさで、巧たちを振り返った。
「はら、だ」
顔色は血の気が引いている。
それはそうだろう。中学時代最大最悪のトラウマだ。野球好きさで何とか克服したかに見えたが、あれほどの恐怖を味わっておいて、簡単になかったことにはできない。
けれど。
「沢口。ここは中学じゃない。そして、おれたちもあの頃のおれたちじゃないんだ」
断言した。
巧だとて、まったく平静なわけではない。年明け、豪にともなわれ、ここを訪れたとき、グラブを手に野球をしている姿に、正直息を飲んだ。よもや再び野球に携わっているとは思わなかった。
だが向こうも同様だったらしく、巧と豪にすぐ気がつき、しばし固まった後、まるでイヤなものを見たかのように目を背け、すぐ沢村を呼んだ。
彼らは、紛れもなく、居合わせた展西と緑川たちだった。
そして今に至る。
本音を言ってしまえば、二度と会いたくない相手だった。
あの夜のことは、忘れない。惨めで非力な自分を思うと、言いようのない衝動がつきあげてきそうだ。
だが、だからといって逃げ出してしまうことはやりたくなかった。あの仕打ちに、屈したとは絶対思われたくない。
「顔をあげてろ。目を背けるな」
傍らで毅然と顔をあげ、相手を見据えたまま、巧は沢口を叱咤した。
負けない。決して。
臆さない。
ふうっと、息をつくのが聞こえた。ちらりと見やると、沢口が肩を落として、まだ僅かに高い巧を見上げて笑っていた。
「そうじゃな。もうあの頃のおれじゃないものな。……今度あの人たちが何か言ってきたら、原田、おれを頼れよ」
「その言葉そっくりそのまま返すぜ」
破顔してそろって足を踏み入れる。
傷は残る。けれど触れてももう血は出ない。
「おー、来たかヤンチャ坊主ども」
高校でもキャプテンらしい。覚えているよりずっと大人びた面差しで、海音寺が笑って手招きした。
練習は、思っていたよりさらにずっとしっかりしていた。
中学の頃と、そう大きく変わるものはない。面白みを見つけられない、地道な練習も多い。けれど中学と決定的に違うのは、部員が望んでそれらの練習に取り組んでいるところだった。
「声出せーっ」
海音寺の掛け声にも威勢のいい返答が返る。
「やらされている」感がなくなるだけで、こんなにも練習の景色は違ってくることを、巧はしみじみと実感する。
『ここは高校じゃもの』
彼女は断言した。
『望まなければ、やる必要なんてないんじゃよ野球なんて。実際、お話にならないような部員数だけどね。でも、だからこそ今いる子たちは真剣に野球を好きでいる。野球を楽しんでくれている。それだけは自慢できるんよ。わたし』
私立の強豪校では、決して味わえない、もの。野球を、生涯のスポーツとして愛しんでいける下地を作っているのだと彼女は言った。
『勝つだけが野球じゃないなんて、陳腐なセリフ吐くつもりはさらさらないけど、できれば、勝つこと以外の楽しさも、味わってほしいんよ』
だから、と言った。彼女は断った。
『君たちの望む野球は、秋からしかできん。今のこの野球部をかなぐり捨ててまで、君たちの手助けは正直できない。秋まで待てる? それでもいいん?』
それでも巧はうなずいた。後から聞いたが豪も同様だった。
勝つために。それはある。けれど、それだけでもない。
自分たちの思うとおりの野球をしてみたい。それが本当の望みだ。縛られず、押さえつけられず、そんなことができるのは、ここだと思った。
無謀だと、高校時代を棒に振るとつもりかと勧誘に来て断られた各校野球部関係者は冷笑したが、かまわなかった。
沢村に、新田高校に賭けたつもりはない。賭けたのは自分へだ。そしてそれは何よりも確固たる根拠だった。
「次、ランパス!」
馴染みはじめた硬球を手に、豪と組んで走り出す。
そう。走り出しのだ。豪と。沢口たちと。漠然と見えてきた、白い球の向こうにある世界へ。
「――」
不意に視界に展西たちが入り込む。ここまでの練習中、接点はほとんどなかった。
どちらも意図して避けているつもりはないが、淡々と練習をこなしているうちに、おもしろいくらい彼らの存在は意識の中に入ってこなかった。あちらも同様だろう。
『ごちゃごちゃ考えんでも、なるようになるっちゅーことじゃ』
先ほどの休憩でとくとくと吉貞が沢口に語っていたが、そうなのかもしれなかった。それくらい過去のことなのではなく、意識の外に追い出してしまえるほど、練習のほうが「濃い」のだろう。
「今」はこれほどに鮮明だ。
「巧?」
少しだけペースが緩んだ巧を、怪訝そうに豪が見やる。何でもないと無言で首を一振りして、ランニングパスを再開する。
彼らはどうだったのだろう。あれほどにあっさりと捨ててしまえた野球を、何故今になってやっているのか。しかも、自ら望んで。
何が彼らを――。
分かるはずもなかった。彼らは彼らでしかない。推測するつもりはなかった。何がきっかけとなったかは知らないが、野球に戻ってきたのなら、戻ってきたで彼らなりに取り組めばいい。
自分とはもう関わりはない。関わるつもりもない。それでよかった。
けれど。
練習を終えて、規模から言えば分不相応なくらい広々とした部室で。
巧は話がしたいと引き止められた。
静かな口調でそう切り出したのは、展西だった。
……とうとう、彼らが登場しました。ある意味、巧さんたちより下手に動かせない人々です。決してワタクシごときがいいようにしてはいけないのだと、重々分かっておるのですが、それでも。何とかしたかったのですよ。彼らを、あのままにしたくなかった。ですので、分かりきったことですが、夢見ています。野球をもうしないだろう彼らに、もう一度、野球をしてほしかったワタクシめの浅はかな願望です。ご寛恕あれ。
「はーらだ。4時間ぶりっ」
教室の戸を開けるやいなや、飛び込んできた沢口を、教室出入り口すぐそばの席に座ったまま、淡々と巧は受け止めた。
ぎゅむっとあつい抱擁が繰り広げられているが、ここ1年2組の教室の皆は、既に慣れたもので、昼食を準備しつつ、ほのぼのと眺めている。クールで無口で無愛想な巧が、唯一スキンシップを許しているのがこの隣のクラスの沢口だけらしいことは、早くも周知の事実となっていた。
4月半ば。
新年度がスタートして、早や半月が経とうとしている。
ここ新田高校普通科の新入生たちも、ようやく高校生活のリズムに慣れ始めてきたところだった。
「しっかし沢口よ、お前毎日毎日よう飽きんなあ」
しみじみとそう評したのは、続いて入ってきた同じく隣のクラスに所属する、新田東中出身の生徒だった。
彼もこうして他の2組の仲間のところに、昼食をとりにくるお仲間である。
「クラスに馴染んどらんとか、そういうことはないんじゃけど、その原田ラブっぷりだけは、おれはついていけん」
しかし沢口は相変わらず巧の首にかじりついたまま、あかんべえを返した。
「うるさいわ。4時間近くも引き離されとるんじゃ。再会に浸って何が悪い」
そして再びよしよしと宥める巧に懐く。
受験時よりの沢口だけの特権である。しかも絶大なリラクゼーション効果を発揮するらしく、新しい生活が始まり、進学校の名に恥じぬ授業が展開される中で、沢口が巧に懐く度合いは一向に減る兆しを見せない。
「さしずめ、飼い主と犬ってとこじゃなあ」
失礼なことをさらりと口にして、長身が弁当を片手に教室の対偶から近寄ってくる。今年度巧の級友となった豪だった。
既に180を越えている豪は、クラスの連中の中でも抜きん出て高い。豪ほどではないが、やはり高い部類に入る巧と、早速教室の後方に追いやられていた。
「はははは。言えとる」
ちょうど吉貞と共に教室に入ってきた東谷が同意する。東谷は7組で、吉貞が9組、いずれも昼食をとりに2組に集まる面々である。いつものメンバーが複数いるのが2組だけだったので、必然的に皆がここに集まる様相を呈していた。
「大体あの入学式のときからして沢口は既に有名人じゃろうが」
ちゃっかりいつの間か机を組んで、いそいそと弁当を開きながら、吉貞が指摘する。
「クラス発表の掲示板の前で、今生の別れかっちゅーくらい嘆いて原田にしがみついて離れんかったのは、語り草になっとるぞ」
「だって、クラス離れるなんて思ってもみんかった」
「あのなあ。それに、タクちゃんもタクちゃんじゃ。沢口ばっかりトクベツ扱いするから。見ろ。すっかりお前らセット扱いじゃんか」
「別に。前からそうだったろ」
促されて、巧も、くっついていた沢口も、昼食の準備をしながら吉貞の言に答える。
実際、中学時代の二人を知っている面々は、ああまたかと微笑ましく思ってくれたようで、そこから巧と沢口の往年の親密ぶりも伝わり、早々と新田高校でもそれが固定観念として定着しつつあった。
「前は前じゃろうが。このヨシさまの次くらいじゃろうけど、女子間で注目されとるおまえに、コクろうと思っとる子が二の足踏んだら可哀想じゃろう」
「あー、それ遅いわヨシ。もう昨日一人玉砕した」
のほほんと聞き捨てならないことを口にしたのは、同じく東谷と隣り合って弁当を広げた豪である。
「結構可愛い子じゃったのにな。イットウリョウダン」
たまたま部活に行く途中、居合わせた豪の前で「話があるんだけど」「おれはない」の二言で会話を強制終了させてしまった場面を、忠実に豪は報告する。すかさず巧から消しゴムが飛んできたが、捕手の反射神経で易々とかわした。
「まあなあ。新田東の女子は、原田の冷淡にも慣れとるじゃろうから、そうへこまんじゃろうが、高校入って他校のコも随分おるからなぁ。原田しばらくはそのコらへの対応におわれそうじゃな――痛っ」
他人事とにやにや予言する東谷にも消しゴムつぶてをお見舞いしておいて、巧は不愉快な話題を切り上げる。
「それより沢口、今日は?」
「あー、何かカントクが新入部員が入るかも、て言うとった」
1年部員の連絡係を務める沢口は、沢村の言葉を思い出してぼやく。内容が内容なのに、覇気がないのは、これまで2回ほどあった朗報が、いずれも肩透かしで終わっていたからだった。
新田高校野球部の部員数は、今日現在で14人。巧たち5人以外は、新入部員がいない。
無論、進学校だからというのもあるだろうが、やはり女性監督というのは、あまりに馴染みが薄い。高校野球を本気でやろうと思った者は、相応の学校に進学しているし、野球に興味がある程度では、女性監督への心理的抵抗を克服できないからだろう。
「入ってくれるといいけどなあ」
沢口が牛乳パックにストローをさしながらつぶやく。
「なるようになるじゃろ。それより豪、おまえ、江藤見んかったか」
「江藤?」
東谷の突然の発言に豪が聞き返す。
「やっぱり見間違いか。おまえが気がつかんかったら。入学式のときに、おれあいつを見た気がしたんじゃ」
「帰ってきたとは聞いてないけどな」
江藤は、中学進学時に広島にある全寮制の中学に進んだ、元少年野球のメンバーだ。
「江藤て、あいつか。バントやたらウマイ」
「ああ、ヨシも何度か対戦しとるから分かるか。そうじゃ。その江藤が、帰ってきとったら、声かけてみようかと思ってな」
しかし東谷のほかには、誰も見た覚えがないらしい。
「ま、それはおいおいでええじゃろ。それより、今日の新入部員、楽しみにしようや」
豪の一言で、話題は次に流れていきながら、その場で新入部員の話は終わりになった。
しかし。
「今日から入部する立石です。原田巧くんに会いたくてここ新田高校を受験しました。なので監督が女性だからって、やめる気は毛頭ありません。ポジション希望は外野。4番も狙います。以上」
豪とはる上背の持ち主は、そう自己紹介して爽やかに笑った。
東谷の予言は的中し、これより先、巧の周りは群がる女子共の他に、熱烈な自称シンパ立石、とさらに華やかに盛り上がることとなる。
当人にとっては災難以外の何ものでもなかった。
ということで、捏造ニンゲン第二段。この人も後々いっぱい出てきますのでご容赦ください。アタマよし顔ヨシ、野球上手と何拍子もそろいまくった手強いライバルになる予定です。…誰の? さて。サワじゃないはずなのですけどね。ふふ。(遠い目)
ところが、新学期始まったのに、しばらくBBの方へかまけまくります。あっちがちょっと佳境なので。ああああほんとは野球部センパイたち、ちゃんと出したかったのに。特に海音寺さんとか海音寺さんとか。