久しぶりのモウソウです。まったくの事実無根です。烏は主をのとこで書いてたモウソウをちょっとだけ自分で文字にしてしまいました。ああヤマイもち…。ひらにご寛恕を。
少し縮んだように見える背中を見咎めて、梓はほんのり笑みを浮かべた。
桜が終わり、梅が青々とした実をつけ始めるこの頃、自分の夫が火を起こしていない炉辺に座り込んで、ぼんやりと物思いにふける姿を見るようになった。
普段は信頼厚き郷長として、職務に精をだし、郷吏たちと共に垂氷の安寧のために多忙を極めている夫だが、たまにわずかな時間が空くと、何をするでもなくこうして座り込んでいる。視線を冷たい灰に落とし、灰ではなくどこか遠いところに心を彷徨わせている。
そうした時は決まって、垂氷にはいない次男坊に思いをはせていることを梓は承知していた。
以前、まだくだんの次男坊が、ぼんくらの皮をかぶっていた頃、ひょんなことから一年間だけ宮仕えをすることになった。あの時も暇さえあれば夫は、かの次男が粗相をしていないか、ちゃんと務めを果たしているかと気をもんでいた。一年が終わって早々に、放逐されたと垂氷に戻ってきたときは、やはりお前は、と頭を抱えてうなっていたものだ。
だが失望を露わにしつつも、夫が内心ひどく安堵し喜んでいたことを、梓だけは知っている。
出来が悪く、のらりくらりと気楽な立場を満喫している次男を貶しつつ、内心誰よりもその姿に夫は安堵していた。いつまでも手元に、自分のそばにいてくれることを、ずっと密かに願っていた。手近な娘と添わせ、やがて郷長となる長男を盛り立てて、生涯垂氷の郷長の縁者として終わることを。
北家嫡流の血筋をもち、望めば中央で官としてのし上がっていくことすら可能なのに、頑ななまでにその可能性を否定した。出来の悪さを言い訳にし、北家にすら出入りさせることを嫌がった。
思い出す。あれは、まだ雪哉が二歳くらいの頃だった。突然来訪し、雪哉を引き取りにきたと申し出た北家の使者を、自分が独断で追い返したことがあった。あの時夫は、平身低頭で非礼を詫びつつ、自分はあくまで北家の意向を尊重するが、まだ二歳という頑是ない年頃であり、もう少し手元で養育したい旨を書面に綴り、都にいる北家当主に送った。その後でぽつりと自分に、よくやった、礼を言うと告げた。
主家にあたる北家相手に、郷長である夫は、面と向かって歯向かうことはできない。しかし北家当主夫妻と面識をもち、彼らに家族同然に扱われていた梓の「願い」ならば、おそらく聞き届けられ、雪哉は北家の手から逃れられる。
そのことへの感謝の言葉だった。
梓自身、雪哉を手放すことなど到底したくなかった。ただ、あまりに理不尽で醜い思惑にさらされて、雪哉が手駒のように扱われることが我慢ならなかった。力ない自分たちよりも、いっそそうした思惑すべてを退ける力をもつ、雪哉の祖父母に預けた方が、彼のためになるのではないかと考えたこともあった。矢面に立つ夫には、自分以上の圧力がかかっていただろう。政治的判断とやらを振りかざし、雪馬と雪哉の確執を懸念するふりで、内心垂氷の混乱を望む輩相手に、父親としての情愛など口にできるはずもない。
長じて、まるでその父の内の意をくむかのように、無能の振りをし続ける雪哉に、だから悪態をつきつつも、夫は安堵していたのだ。雪馬との間に、歴然とした能力差を示されて、後継選びに頭を悩ませなくて済んだという風を装いつつ、無能を言い訳に、ずっと雪哉を手元においておけることに。
けれど。
『勁草院に入って、山内衆になります』
ぼんくらの皮を脱ぎ捨てて、本来の聡明さそのままに。
母親によく似た、底知れぬ湖の水面のように、深く揺るぎない理知をたたえた眼差しで告げられた、決別の言葉。
雪哉は見つけてしまった。めぐり会ってしまった。生涯を捧げるにたる主を。
まるで以前のぼんくらぶりが夢まぼろしででもあるかのように、雪哉は元山内衆だった叔父の指南を率先して受けた。そして、座学や実技のそれぞれを、瞬く間にものにして、雪解け間もない垂氷を旅立っていった。離郷を惜しむことなく、前だけを見て――。
兄の雪馬がぼやいていた。本当に、墨丸殿の言っておられた通りになってしまったと。そして、寂しく思う反面、とても喜ばしいと。梓自身、同じ気持ちだった。
雪哉は強い。それは、聡明で、身体能力にも秀でているという意味ではなく、誰にも負けぬ、毅い心をもつという意味でだ。
『垂氷の雪正殿の許に、嫁ぎます』
同じ眼差しで。姉とも妹とも慕った、かけがえのないあの人は告げた。
行くなと、誰の許にも嫁ぐことなく、いつまでもいつまでも共にいてほしいと、聞き分けのない幼子のように、泣いてすがった自分に、それでも私は「生きたい」のだと鮮やかに微笑んで。
彼女の人生は見事だった。
人は、弱き姫よと憐れんだ。病身ゆえに、満足に娘盛りも過ごせずに、あげくに格下の、郷長になりたての軽輩に嫁ぐなど、と貶めた。けれど、梓は、彼女ほど自らの生を謳歌した者を知らない。
生来の明晰な頭脳で、瞬く間に、軽んじられがちだった就任当初の雪正の手腕を安定させ、地質や水質に着目して垂氷の郷の生活水準を向上させた。地家でしかない垂氷の郷長一家が、中央貴族に準じた扱いを受けるのは、何も北家の血筋を受けたからではなく、彼女の尽力によって、それだけの扱いを受けるに相応しい、確固たる経済基盤と組織力をもったからだ。
死の床で、勝手をすると詫び、けれど梓にだからこそ安心して託せると、守ってやってくれと、笑みさえ浮かべて逝ってしまった、雪哉の実母。
ええ、姫様と。梓は心の内で亡き人に誓う。必ず、守ると。
雪哉は彼女の子らしく、自ら進む先を定めて飛び立った。強く、大きな翼で、あの子ならば過たず目指す先へとたどり着くだろう。
だから。自分が守るのは。
何故に生んだと、子よりそなたの方が大事だと、死出の旅路に出てしまった彼女をかき抱いて号泣した、不器用で、口下手な、彼女と梓自身の夫。
自分は雪正を、彼女への思いごと、まるごとくるんで愛していく。それが、彼女の望みでもあるから。
幾年も、いくとせも。これからずっと。彼女と同じところに行くまで、共に年を重ねて――。
晩春とはいえ、日蔭は冷える。梓は、羽織れる上衣を一枚手にし、雪哉の旅立ちであからさまに気落ちしている雪正の背にそっとかけてやる。そして。
見上げてきた、幼子のような眼差しに、穏やかに笑んで、まるで娘を嫁に出した父親のようですわよ、と軽口をたたいた。