長かったですね。最後です。
ふいと巧が足をのけて、くるりと向きをかえると、そのまま豪の傍らに座りこむ。相変わらずの仏頂面で、豪の方を見ようともしない。
おそらく、沢口あたりが要らぬ気をまわしてせっつき、仕方なく来たのだろうが、そんなに嫌なら先に帰れという言葉が出て来ない。
何故だろう。巧といるのに、沈み込んでもそんなにつらくない。
ぐだぐだになった豪に対し、巧は崩れなかった。淡々と要求どおりに投げ、今日の窮地を救い、勝利をもたらした。
巧は強い。
傲岸不遜なまでのその姿に、もしかしたら今自分はむしろ救われているのかもしれなかった。
ゆうるりと、落ち込む速度が緩くなる。自分のダメさ加減が自覚できて、ひたすら落ち込むばかりだったのに、他のことにまで考えがまわるようになる。
沢村の指示は、それのもつ意味合いも含めて理解できた。
明日は決勝だ。相手校は、昨年度こそ逃したものの、甲子園出場常連校の吉備第一。部員数は軽く三桁を超え、選手層も厚い。
けれど、だからこその弱みもある。
部員の層が厚く、充実しているからこそ、突出した選手がいない。それはつまり、言い換えれば、先日対戦した梧桐学院よりともすれば攻略しやすい学校だということだ。
吉備第一は、機動力を看板としている。長打・犠打、確かに打てる者はいるが、決定的な主砲がいない。巧が投げなくても、豪の采配がうまくいけば十分に勝てる相手だということだった。
そして考えている自分に自嘲する。こうして、作戦は立てられる。おそらく、リードも。ただ、マウンドと向かい合っただけで、それらはすべて真っ白になった。
豪の築いてきた常識も理屈もふきとばす、圧倒的な力。真白い球一つに、簡単に全てが屈服する。
それほどの、投球をする。――この、傍らにいる投手だけが。
「何だよ」
視線に気がついたのか、巧が怪訝な顔をしてこちらを振り向く。強い眼差し。惑いなく、突き進む意志。
本当に。
「おまえは、投げられるんじゃな」
ふと口をついて出た。言っても詮無いことと分かっていて、なお。
どれほどに、自分が求めているか知っていて、巧は涼しい顔で別の捕手に投げる。それができる。どこまでも強い。
巧は、強い。
「っ痛ぇ!!」
いきなり。
平手で横面を殴られた。ぱぁんと軽やかな高い音が境内に響き渡って、豪は痛みよりその音に我に返った。
「帰る」
殴った張本人は、それ以上何も言うことなく立ち上がると、来たとき同様に足早に立ち去ろうとする。咄嗟に腕をつかんだら、渾身の力で振り払われた。
「巧!」
「おれが平気だとか、本気で思ってんのか。ばか!」
振り払われた手を、闇雲につかみなおす、巧がひどく暴れたが、摑みなおした手を放さなかった。放してはいけないと本能的に悟っていた。滅茶苦茶に暴れて逃れようとする巧を、半ば力ずくで制しにかかる。摑んだ腕を引き寄せて、背後から抱え込むようにして自由を奪う。
そして。
巧の言葉がようやく脳に浸透してきた。
豪は自分の思い違いをまたもや悟った。
どうしてこう、自分は。
「巧、すまん。すまんかった」
なおも暴れる、腕の中の、投手にしては細すぎる身体に、夢中で謝罪する。顎でちょうど一つ分低い位置の頭を挟み込み、必死に許しを請うた。
また、やってしまった。
巧が、強いわけではない。巧が投げる球が強いだけで、巧は巧なのに。
「すまん……」
まだ抵抗をやめない自分の投手に、謝罪の言葉を重ねる。いつもそうだ。いつも、こうして思い違い、自分は巧を傷つける。簡単に忘れてしまう。混同してしまう。
やがて、拘束を振りほどくのを諦めたのか、巧はようやく暴れるのをやめた。まだ、腕の中に囲った身体は、全身に緊張をみなぎらせていて、強張っている。だが、とりあえずは抵抗がおさまったので、豪はそっと腹の辺りに腕を回し、おとなしくなった巧を抱えなおすように引き寄せた。
「巧?」
巧は答えない。けれど、息を潜めてこちらを伺う野生の動物のように、全身で豪の気配を探っているのが分かる。
無性に悲しくなって、豪は挟み込んだ頭に、頬を寄せた。怒り以外の自分の感情を、うまく表せないこの不器用な存在を、どうしていつも自分は傷つけずにはおけないのか。
「おれは、投げる」
ぽつりと巧がつぶやく。身体を強張らせたまま、振り返らずに。
「投げられる。でも」
「――っ、巧。すまん。すまんかった……」
最後まで言わせずにきつく抱き込む。何度も言われたはずだった。
確かに巧は誰にでも投げられるだろう。けれど、投げたいのは、心底投げたいと望むのは。
『だから永倉、おまえが揺れてたらいかんのじゃ。おまえは、捕手として原田を支えなけりゃならん。』
託された願い。一人で戦わせるなと。何のために真正面に座るのかと。
やはりとんだ大ばか者だ。自分は。
「ごめんな……またおまえ泣かせるとこじゃった」
「泣かねーよ。ばか」
「うん」
「豪のばかやろう」
「うん。ほんとじゃ」
返された、虚勢まじりでも強気の言葉に安堵する。また青波に叱られるところだった。
呼吸を整え、豪はゆっくりと最初に言うべきだった言葉を紡ぎ出す。
「あした、ちゃんとやる。ちゃんと勝つ。そしたらな、巧」
「うん?」
「今度こそ、おまえの球、全部おれに捕らせろや」
――不意に、巧の身体から力が抜けた。腕の中で解けた細身に、少しだけ腕を強める。
ちゃんと勝てよ、とちいさく返された答えは、確かに豪の耳に届いた。
「ああ。絶対じゃ」
先ほどまで飢えに飢えていた何かが、ゆったりと満たされていくのを感じながら、豪は目を細めてひっそりと断言した。
結局、新田はその後エラーがらみの1点を追加されたものの、沢口たちクリンナップをはじめとする打撃陣の猛攻で、最後は7-5で昨年度甲子園出場校の港北高校を降した。
「……なーに、やっとんかな。おれは」
反省会と、簡単な調整を終え、新田は明日の決勝戦に備え、早めの解散となった。
さすがに今日はいづらくて、やることをやり終えると、逃げるように帰途についた豪だったが、家に帰る気にもならず、かといって近辺をふらふらしていたら、心配しているだろう幼馴染たちに捕まるのは必至だったので、最終的に神社の境内に落ち着いた。
日が山に隠れ、夕暮れが迫る頃合だった。夏至を過ぎたせいか、まだまだ明るいものの、暮れはじめると暗くなるのはあっという間だ。きっとここも、じきに闇に沈む。好都合だった。
周囲の木立からは、気の早い蝉が夏を謳歌しようとさかんに声を聞かせている。時おりそれに遅いカッコウの声が混じるくらいで、辺りは静かだった。
人気のない境内でほっと息をついていると、しみじみと今日のことが思い出され、改めて打ちのめされる。
我がことながら、最低だったと思う。今日のリードのまずさ、プレイのまずさは、キャッチャーミットを手にしてから、おそらく一番だろう。小学生の自分でももう少しマシな気がした。
「……」
原因は、分かっている。ただ、陥った穴から、抜け出す方法が見つからない。
ぼんやりと暮れなずみ始めた空を見上げる。
つくづく、自分がとらわれていることを思い知る。あの球に。
毎日受けている。ほぼ独占している。なのに。
試合で受けたらだめだった。まるで違う。いつもの全力投球と。目がくらんだ。あの球に。
あの球だけが。
他の何も目に入らない。
白く猛々しい、何ものにも屈さない獣のような球。豪のミットを食い破らんばかりに、18.44メートルを駆け抜けてかみついてきたあれに、総身が震えた。
待ち望んでいた、球だった。
ほぼ2年近く、確かに傍らに存在していたのに、受けられなかった球だった。
焦がれて焦がれて、焼け付くような思いで。
ようやく、出会えた。
一度受けたらだめだった。他のどれでもない、あれだけがほしいのだと、身勝手で、けれど狂おしいまでの欲求が身内を突き上げる。惑乱を押し込めて立石の前に立ったら、あのザマだった。
「……最低じゃ、ほんと」
一人ごちて膝の間に顔をうずめる。ちっとも進歩していない自分に自嘲がもれる。けれど、分かってもいたことだった。
他の何をおいても、豪は、あの球がほしかったのだ。眼前にあれを見せられて、普段どおりでいられるはずもない。
巧の投げるあの球が欲しいからこそ、こうして留まっている。絶壁の淵に佇むような、自分の力の限界とぎりぎり戦いながら。
「ばか豪」
突然投げられた言葉に、はっと顔をあげる。見ると、石段をのぼりきったところに、駆け上がってきたのだろう、夏服姿の巧が、息を弾ませて立っている。
「巧」
巧はずかずかと何の頓着もなく豪の腰下ろす社のはじまで歩み寄って来て、豪のすぐ脇の社の壁に片足をたたきつけた。
「このばかやろう」
「……おまえに言われとうない。罰当たり」
神社の壁を足蹴にしたまま自分を見下ろす巧に、ついつい豪は憎まれ口をきいた。巧なりに案じて来てくれたのだろうに、やさしい言葉は出てこなかった。先ほどまでの落ち込みが嘘のようにひいていく。
中本に投げる巧の姿に、理不尽なのは承知で妬心が疼いた。自分に投げないくせに、中本に投げる巧を見て、なおさら身の内を焦がす思いが強まった。
誰にも渡したくない。あれは、自分だけのもの。
なのに巧は易々と中本にも投げる。正直、巧にだけは腹が立った。
「明日の先発は立石。キャッチャーはおまえだって」
口をへの字にひき結んだまま、しばし豪を見下ろしていた巧が、ぽつりとつぶやく。巧の告げた内容に、豪は瞠目した。
おそらく、今日の流れで、巧が先発、中本がキャッチを務めるとばかり思っていた。
「どこか調子悪いんか」
「は? まさか。今日投げたくらいでそんなわけあるか。けど明日も投げられますって言ったら、濡れタオルで顔はたかれたぞ」
誰が、と聞かなかったが、うちの部でそんなまねができるのは、一見小学生の烈女のみだとわかっていたので追及しなかった。
「それとおまえに伝言。あしたまでに反省用紙10枚で今日の試合についてまとめてこいとさ。今日出した分じゃ受け取り不可だそうだ」
「……徹夜しろってか」
ゆっくりと巧から視線を逸らし、うつむく。分かりきったことなのに、それを書けと沢村は強いる。今日の不出来の原因は、たった一言ですむ。すなわち自分の失態だ。
いつものようなリードができなくなってしまっただけだ。
それだけを書くのに、どうして10枚も必要なのか。
途方に暮れて豪は、重く、深く息を吐いた。
二ヵ月かかってしまいました……最長か。も少し間隔あけずに出すべきところ反省。
波乱は、準決勝で起こった。
「中本くん、戻って準備して。原田くん、いけるね」
「――」
無言の、けれど雄弁な巧の抗議を無視して、沢村はいっきにバッテリーを一旦さげた。確かに、これ以上の失点だけは避けなければならなかった。
3回表。
『ピッチャー、立石くんに代わりまして、原田くん。キャッチャー、永倉くんに代わりまして、中本くん』
弾かれるように豪がこちらを見た。そして続いて入ったアナウンスに、ふいと顔を背け、そのままベンチの外で防具を外すと、ミットをグラブに持ち替え、指示されたレフトを目指す。入れ替わるように、中本が大急ぎで防具をつけに戻り、立石はそのまま小走りにマウンドからベンチへ駆け戻ってきた。
「ごめん原田」
唇をかみしめ、立石が謝罪を搾り出す。と、沢村がつけつけと言い放った。
「立石くんは悪くない。今回はあのぼけキャッチャーが全部悪い」
普段はたいそう表情豊かな小造りの面を、能面のように無機質にしたまま、沢村は断じた。ここで監督が狼狽えては、流れが決定的にあちらのものになってしまうと分かっていても、その冷酷なまでの口調と表情に、聞いていた者は息を呑む。
「早く。行きなさい。それと、原田くん」
中本を待っていた巧に声がかかる。
「何ですか」
「あのぼけの、目が覚めるようなピッチングしといで。今回は、許す」
「おれが豪に投げれば――」
「あいつをこれ以上甘やかすな!」
烈火のごとき勢いで、ぴしゃりと撥ね付けられ、巧は押し黙った。そして軽く首肯すると、早足でマウンドへとのぼった。
3回。先頭打者に四球を与え、そこから新田バッテリーの様子がおかしくなった。
あきらかな集中力の欠如、とでも言おうか。甘い判断に盗塁を許し、しかも豪の投げた球がカバーに入ったセカンドの頭上を越える暴投になった。
そこから一気に新田の守備が崩された。動揺した内野の凡ミスにつけこみ、内野安打が出、あげくにパスボール。
新田は長打なしに2点を失った。
港北は動揺をしたまま押さえ込めるほど易い相手ではない。続く打者二人に長打を浴び、新田はこの回、一挙4点を失った。なおも、ランナーは2、3塁。
「カントク」
大きくベンチにふんぞり返った沢村に、気がかりげに立石が声をかける。自分たちの招いた窮地だ。心臓が絞られるような心もちだった。
「心配せんでええよ」
だが、憤然とした面持ちのわりに、沢村の声は落ち着いていた。
「前回、原田くんとセットにしたことで、永倉くんが調子崩すのは想定してた。今日いちんち外野で天日に干せば、あのぼけの頭も冷えて元に戻るじゃろ」
「……原田が」
「あの子の言うたことは気にしない。甘やかしとったらいかん。まったく、意外にあの子は甘ちゃんで困る。今ここで欲しがっとるもん易々と渡して、あのぼけに反省させんかったら、意味なしじゃ。こんなところで満足してるわけにはいかんちゅーの」
「……」
ゆっくりと、言い聞かせるように沢村は続けた。
「あんたは、十分に自分の仕事果たしとるよ。最後の二つの長打は余計じゃったけど。まあそれは今度の試合で自分のバットで返してくれりゃいいわ」
「次の、ですか」
「今回はちょいお休み。もったいないけど、次までとっときなさい。あのボケ天日にさらしとかなきゃいかんしね。……だーいじょうぶだって。あんたが影に徹するまでして選んだエースじゃよ。これ以上の失点はありえん。そして、ウチは4点くらい簡単に跳ね返すチームのはずじゃよ」
穏やかな監督としての言葉に、ようやく立石は大きく息をつくことができた。
マウンドでは、立石がただ一人選んだ、天賦の才をもつピッチャーが、投球を始めている。ランナーを背負っての窮地への動揺など、ちらとも見せず、淡々と中本のかまえるミットに球を放り込む。
幾分球速を減じた、しかし重い球は、向かうバットに抗うように、高い音を立てて頭上へとはねあがる。
『ピッチャーフライ! 打ち上げてしまった。港北、この回先発立石から4点を先制しましたが、続いた原田から追加点をもぎとることは叶わず!』
ベンチの至近で聴いている者がいるのだろうか。ラジオから流れるアナウンサーの声が、目の前に広がる状況を的確に評すのが、耳に届いた。
すいませんいつものことですが、野球のルールに疎い輩のモウソウなので、はあ?と思われるとこはスルーしてやってください。交替って、マウンド上じゃないとだめなんだっけ……?ああああ、知らんー。モノ知らずー。
「城野」
ダッグアウトに戻り、バットを置くと、重々しい声で呼び止められた。
「あれは、何や」
質問は短く不明瞭だったが、城野には何が言いたいのか伝わった。だから答えた。
「あれが原田です。監督」
結局、本気を出したのは、城野の打席最後だけだった。
たったの一球。だが、見るものが見れば明白だった。
「向こうのエースは原田です。あれほどの球、なかなかお目にかかれるものじゃない」
「……」
諸手をあげて賛成したくはないのだろう、しかし、厳然たる事実に、沈黙が返った。
先ほどの打席。最後のストライク。
インコースど真ん中だった。完全に振り遅れた。今日最速のストレート。
「あれが原田なんです」
かみしめるように城野はつぶやいた。
おそらく、150。いや、もしかしたらそれ以上出ていたかもしれない。
天賦の才をまざまざと見せつけられた。悔しかったが、反面清々しいまでの敗北感だった。
すでに残り1イニング。あれを攻略するのは、不可能だ。
「いつも、いつも」
立ちはだかる。城野の前に。存分に天に愛され、そして十二分にその力を発揮しても、絶対に受け止めてくれる捕手に恵まれて。
「行きます」
想念を振り切って、防具をつけ終えた城野はダッグアウトを出る。
それでも。
諦めるわけにはいかないのだ。
天分に屈し、羨むに止めるのは容易だ。しかし、それを是としない人を自分はずっと師としてきた。
「萩!」
マウンドですでに待っていた萩に声をかける。自分の相棒。
彼がいるからこそ、天に立ち向かう勇気がわいてくる。
見せてやろうじゃないか。天に愛され、惜しみなく与えられる才でなく、人が人としてあがくそこに意味があることを。
8回裏。
まだ試合は終わっていない。
「ットライッ、バッターアウッ」
城野はベンチでその声を聞いた。まっすぐマウンドを見つめていた。
試合終了。
とうとう梧桐側は、新田の投手を打ち崩すことができなかった。
ヒットはわずかに3。四死球1。完璧に押さえ込まれた。
サイレンが鳴り、ホームベースを挟んで彼と対峙する。
中学時代と変わらずふてぶてしいまでの無表情に、勝利への喜びは見られない。勝てて当然というところか。
が、城野を見据える目にあったのは、そのような無関心ではなかった。
「……」
火のような、といえばいいのか。
軽く戦慄を覚えるほどの強い強い眼差し。
城野は思い違いを恥じた。
勝つという気持ちがなくて、ここまではこれない。あれほど攻撃的な投球をする奴が、何故ここまで沈黙を守ってきたのか。
それほどまでに。
「礼ーっ」
かけ声とともに頭を下げる。ゆっくりと目を閉じた。
――終わった。
夏が。
自分の野球が。
真っ白になった。
ただ。
鮮明に。
おそらく、このグラウンドの夏空をいつまでも忘れないだろう。火のようなあの闘志に対峙して全力で立ち向かったことを。
今はただ。
何も考えられない。
今は何も――。
ということで、城野くん退場。彼を出したいなとずっとずっと思っていたので嬉しい。ある意味、おミズさまや門脇さんより興味がわくおヒトでした。
「だっせー永倉。打ち取られてんなよな」
ダッグアウトに戻ると、自分だとて、死球だったというのに、吉貞がベンチにふんぞり返ってひやかす。
「向こうの投手はいいぞ。またうまくなっとる」
ひやかしにかまうことなく、豪は厳しい顔で告げた。沢村がうなずいた。
「梧桐のおさえの切り札じゃもの。あのバッテリーから追加点を取るのは、はっきり言って今までのようにはいかないだろうね。けど、十分じゃろう?」
あきらかに完封を前提とした1点差勝利の示唆に、豪はかすかにうなずいた。
巧が投げているのだ。豪にとっては大言でも何でもない。
「ただ、これだけは言うておくね。向こうはここから、おそらく死に物狂いで点を取りにくる。次は下位打線からじゃから、そこまで手こずらないとは思うけど、永倉くん」
「はい」
沢村の言いたいことは分かった。だから返事だけで返す。それで沢村にも分かったはずだった。
「なら、いいわ。行っといで」
「はい」
1年に手伝ってもらいながら、防具をつけ終え、グラウンドに向かう。
巧はすでにマウンド上にいる。サードやファーストとボール回しをしながら豪を待っている。
8割。それとスライダー。今日の試合前、沢村の注文はそれだけで料理しろ、とのことだった。
「ボールバック!」
声にボールがホームへと戻される。
バッターが打席に立つ。ここからが豪の仕事だ。
8番打者は、気負っているようだった。打ち気が勝って、上体がかぶさるようになっている。
「――」
初球はスライダー。インローに。ゾーンぎりぎりに決まった球に、簡単に打者は空振りをする。
「ットライッ」
審判の宣言を背後に、豪は淡々と巧にボールを返す。涼しい顔で球をうけとる巧に、著しい疲労は今のところ見られない。
2球目。アウトローにストレート。8割程度の力で投げられるそれは、豪のかまえたところにぴたりと決まる。絶妙だ。
最後はインハイに差し込まれ、打ち上げた球をサードフライに打ち取った。
続く打者は9番。初球スライダーに手を出し、ファーストゴロに倒れさせた。
「――」
さあ、1番に戻った。沢村の言葉通り、おそらくなりふり構わず点を取りにくるだろう。巧は豪のサインに相変わらず滅多に首を振らない。まあ、妥当だった。今日は「巧の好きな」リードだ。
「ットライッ」
1球目、ストレートインコース。バットにかすりもせずにまっすぐに豪のミットに飛びこんできた。
ここにきて、また一段と巧の球威は増した。本人は8割の力なのだろうが、これを前に飛ばすのは、かなりの強振が必要だろう。
2球目。いいコース。アウトサイドいっぱいにスライダーが入る。打者は手が出ない。
3球目。
「ヒガシ!」
球威に勝った球は地に沈み、伸びない。落ち着いた処理でボールは1塁沢口に送られる。フォースアウト。スリーアウト・チェンジ。
「……」
ダッグアウトに戻りながら、向こうベンチを見やって豪は目を細める。
この回ではない。次だ。
城野が、じっとこちらを見つめていた。
続く新田側の攻撃は、下位ということもあったが、萩の変化球の前に三者で終わってしまった。そして。
「4番。キャッチャー、城野くん」
今大会屈指の好打者だ。ミート力、長打力ともにそろったスラッガー。昨年の門脇の注目度には及ばないが、マークしている大学もいると聞く。
2番を三振、3番を初球凡フライに打ち取り、迎えたのが城野だった。
おそらく、今日のヤマ場。
「っ――」
初球。いきなりミートされた。あとわずかでも内に入っていたら、長打になった。ファール。アウトロー、ゾーンぎりぎりの厳しいところをついたのに、焦りは見られない。
2球目。インハイにストレート。わずかにゾーンより外れ、ボール。見極めは抜群だ。
「――」
続く3、4球、打ち取りにいったスライダーをカットされて5球目。
「っ――」
また長打コースのファール。フェンスを越える飛距離だった。
巧が豪を見る。それだけで言いたいことは分かった。豪もマスクをあげ、巧に新しいボールを投げながら、巧を見た。
提示材料は8割とスライダー。けれど。
「ッ――ボッ」
6球目。いきなり跳ね上がった球速に、審判が軽く息を呑む。インハイ。胸元に襲い掛かってきた球に、しかしゆるりと城野が豪を振り返り、薄く口元を引き上げた。
待っていたのだろう。城野は巧を知っている。半端な球で勝負するなと言いたいところか。
豪は構えなおす。巧が構える。
くる。ここに。いつも豪が待ち望んでいる、巧の渾身のストレート。
ワインドアップから、腕がしなって、白い獣がうなりをあげる。
白い軌跡が、まっすぐホームベースめがけて駆け抜けた。
「ここまでの投げあいになるとはな」
うめくような仲間の声に、防具をつけていた城野はふと振り返る。
「たかが控えだろう。まだエースも投げてないってのに」
悔しそうな会話に、しかし城野は口を挟まなかった。無論、先ほどと推量は変わっていない。今投げているのが新田の「エース」だ。しかし。
「……」
あれは、まだ全力ではない。確信がある。もちろん、中学で対したときより球速も球威も上がっているが、あれが彼の最高最速の投球だとは思えなかった。
春のあの試合、自分は確かに見たのだ。投手の制御すら振り切って、うなるように捕手のミットにかみついていった直球。あの勢い。
それが今の球にはない。まだ抑えている。
「本気出させてやろうやないか」
くぐもったつぶやきは、余人に聞かれることなく口の中でつぶれて消える。意地だった。
門脇ほどではないにしろ、自分もまた、あのバッテリーの攻略に心囚われた一人だ。
だが、まずはこの回の守りだ。ここと、次を守りきって、萩へとつなぐ。
城野は一転不敵な笑みからいつもの沈着冷静な捕手の顔に戻ると、グラウンドへと駆け戻っていった。
試合が動いたのは、その回のことだった。
死球が高らかに宣言され、左モモをかばいながら、それでも満面の笑みで吉貞が1塁に向かう。ワンアウトから一人、ランナーが出た。
梧桐側は、交替を早めるか逡巡した。通常、おさえの萩の投入は8回からだった。幸い、打たれて出したわけではない。今後の試合予定も鑑みて、連投の可能性の高い萩より、この試合のあと投手ローテーションから外れる今の投手に続投させることを、梧桐の首脳陣は選択した。城野だけが萩投入をしつこく主張したが容れられなかった。
そして迎える2番打者。
「1つ!」
絶妙に転がされたバント球は、3塁手の手前でぴたりと止まり、結果ランナーは危なげなく進塁した。これでツーアウト。
ここでもしきりにベンチを見て、城野は交替を促したが、聞き入れられなかった。
迎えたのは、唯一このシュートに当たりをつけた3番打者。
「……」
ボールから入った。顔すれすれの釣り球。しかし打者はそれにうろたえることなく、平然とバットを構える。
「!」
ファール。かろうじてきれた。しかし、きわどい。あと球半個分外れていたら、間違いなくミートされていた。続く3球目。やはりボール。今度は見られた。
「……」
カウントは1-2。どうする。城野は躊躇う。勝負する気になれなかった。しきりと頭の片隅で警鐘がなる。確かに3番はミートがうまい。どうする。
「ボール! フォア!」
結局、3番は歩かせた。大きく息をつく。これで1、2塁。だが、当てた3番より、全体的な打率で低い4番の方が勝負しやすいと考えた。
その初球だった。
「!」
ややあまく入ったところをもっていかれた。コンパクトに振りぬかれた打球は、セカンドの頭上をわずかに超えた。
「4つ!」
すかさずセンターがフォローし、送球するが、俊足のランナーの方が上手だった。
「1点!」
どっと会場が沸いた。先制点をついに許してしまった。
危惧が的中した――やはり、3番で勝負しておくべきだったのか。言っても仕方のないことだが。
続く5番にも四球を許し、ツーアウト1、2塁。そこでようやくベンチが動いた。
「たっちゃん」
マウンドにおさえの萩がのぼる。予定より随分早い投入だった。しかし、もう萩に投げさせるしかないと思った。彼のおだやかで人の好さそうなその顔を見たら、城野は知らず息をついていた。
「すまん。萩。呼ぶのが遅れた」
ふわりと幼馴染の投手は笑う。
「たっちゃんが早めにアップしとけて忠告しといてくれたから、間にあったんやで。よかったわ」
「……」
危惧は最悪の形で的中してしまった。けれど。
「まずはこの回。ランナー全部残塁な。絶対点取るから、おまえ、投げろよ」
うん、と今日迎えた最大のピンチの場面で、萩は穏やかにうなずいた。萩がおさえにもってこられたのは、こうして、窮地を迎えても崩れずに投げられるからだ。そして城野は、萩とならこの得体の知れない、底力の計り知れない新田打線を、打ち取る自信があった。
「よし」
マウンドを退く。ホームに戻りながら、マスクを被りなおして大きく息をつく。
宣言したとおりだった。もうホームは踏ませない。誰一人も。
投球練習を終え、6番打者を迎える。永倉。向こうの正捕手だ。
負けたくなかった。塁に出さない。そして、次に必ずこいつらから打ってみせる。
痛むほど唇をかみしめ、マスクの下、城野は萩の投球に集中した。
ええと、もう今更でしょうが、野球に関してのあれやコレやは、門外漢のモウソウですので、ご寛恕ください。すいませんすいません。でも大好きなんです。
4回戦、ベスト4を決める新田高校対梧桐学院の試合は、午後1時から開始された。
予想されたとおり、完璧な投げあいとなり、スコアボードには0の数字が行儀よく並んでいた。
「くっそーっっ。目が慣れたと思ったら交替させやがってコンチクショー」
ヘルメットを投げ出し、ぎりぎりと歯軋りをしたのは4番を任されている二人いるうちの3年の一人、吉川である。
単打はあるものの、これまで上手く分断され、新田打線は沈黙しているに等しい状態だった。
「ミートの上手い沢口くんだけじゃね。今のとこ。何とかあのシュートまともに捕まえられたの。そんな曲がる?」
「手元でかなり曲がります。インコースにあれ放られるとかなり当てるの難しいです」
厳しい顔で沢口が分析する。沢口の選球眼は部員一だ。その彼が難しいというのだから、よほどのものなのだろう。
5回裏、潔く4回から替えられた梧桐のシュート投手に、新田は苦戦していた。それまで投げていた左の速球派投手にようやく目星をつけたと思ったらあっと言う間に替えられた。また、ビデオで見るのと実際に受けるのとではだいぶ違う。
「足でかき回すにも、あのキャッチャー、そら恐ろしい肩しとるしね」
沢村が憎々しげに言い放つ。これまで盗塁を失敗させたことなどなかったのに、今日はことごとく城野に妨げられていた。
「とにかく何とかあのシュート攻略しよう。左、しっかりボール選ぶんよ。あのシュートなら半分はボールになるから。そしてどうにか1番まで回して。初見でムリでも、二巡目になれば何とか当てられるはずじゃよ。あんたたちなら」
はい、と力強い声が返ってくる。グラウンドの調整が終わって、後半戦が再開された。
巧がグラブを手に、投げ込みをするスペースからそのままマウンドに向かう。それを沢村は呼び止めた。
直球とスライダーのみで、淡々とコーナーをついてていねいな投球を続ける巧から、梧桐側も連打を許されていない。8割程度の力で、制御を優先させている巧は、試合後半に入っても涼しい顔をしていた。
「原田くん、疲れとかは?」
「ありません」
即答が返ってくる。確かに。細いわりに立石よりもスタミナがあるのは承知している。だが、試合は練習とはベツモノだ。それなりの消耗を懸念していたのだが、この投手には無用の心配だったようだ。
「延長とかになったら、どこまで投げられる?」
「試合終了まで」
あっさりと豪語する。沢村は苦笑を禁じえなかった。また、困ったことにそれが紛れもない真実であることを、沢村は身に沁みて知っている。三回の練習試合のうちの最終戦、延長18回まで巧は投げきって引き分けに持ち込んだ。
「そりゃありがたいね。けど、そうならんようにせんとね。こんなとこでモタついとられんもの」
別にどちらでも、というような顔をして、巧は豪の待つグラウンド中央へと駆けていった。まったく。人の気も知らずに。頼もしい限りだ。
「けどな。こんなところで足踏みしとるわけにいかんのは、ほんとなんよ」
目標ははるけき彼方だ。しかも新田はここ近年ご無沙汰の場所。正確に言えば、沢村たちの上の学年が、井岡に連れて行ってもらったきり、縁遠かった場所だ。その高校球児の聖地とも言える場所に、自分たちは不敵なねらいをもって突き進む。
マウンドで、巧が構える。その18.44メートル先に豪が座る。まだ、全てではない。おそらく、二人には物足りないだろう。しかし、先を見れば今はまだ手の内全てを明かしたくない。
――よう、辛抱しとる。
そんなことは誰よりも実感していた。これまで接してきた巧の人柄からすれば、不可解なほど彼はよく耐えている。それだけこの夏に傾ける思いは生半ではないということなのだろう。
だからこそ必ず連れて行きたい。そして、あの大舞台で思う様見せつけてやりたい。この不世出の投手の、真の実力を。
「バッター、アゥッ」
また巧が三振にきってとった。本来の8割程度で投げているためもあるが、豪の要求する厳しいコースにぴたりと決まる。正直、これほどに本番でも決められるとは思わなかった。まったく、彼らの内には怯えとか緊張という可愛げは存在しないのか。
そこで苦笑する。いや、実際存在しないのかもしれない。
中学で全国レベルの大会を経験してきた2年生の面々は、驚くほど試合における度胸がいい。普段どちらかといえば小心の印象のある沢口ですら、試合になれば人が変わったように果断になる。頼もしい限りだ。
だから、行く。行ってみせる。
ようやくつかんだ好機だ。沢村自身が、奥底で願ってきた確かな願い。
もう一度あの場所に。井岡に連れて行ってもらった、あの、聖地に。
三人目の打者を内野ゴロに打ち取って、淡々と戻ってくるバッテリーに、大きな拍手をしながら、沢村は切なるその願いを改めて奥底に刻み込んだ。
秋も本番ですのに、夏のオハナシですいません。そしてまだまだ続きます。ええ……。
「先発が控え? ナめとんのかあの小娘」
ダッグアウトでメンバー表を見るなりの、監督の低いつぶやきが届いたのは、おそらく城野だけだったろう。顔をあげてうかがうと、聞こえているとは思わないのだろう、普段寡黙であまり多くを語らない自分のチームの監督が、苦虫をかみつぶしたような面持ちをしている。
「ナめてるわけじゃ、ないと思いますよ」
対して、城野はゆっくりと言い聞かせるように明瞭な声で告げた。聞かなかったふりもできたが、どうしてか、否定しておきたかった。
「新田のオンナ監督がくわせ者なのは、去年見てて分かっとるでしょ、カントク。たぶん、あのエースが隠れ蓑なんじゃないでしょうか」
「……城野?」
独り言を聞きとがめられたバツの悪さも横において、壮年の指揮者は、いぶかしげに尋ねてくる。城野は薄く笑った。
結局、自分はあの瑞垣の薫陶をよろしく受け継いでいる。疑り深い。そしてそれは捕手として喜ぶべき資質だった。
「おそらく、控えの原田こそがあっちの隠し玉ですよ。公式どころか練習試合でだって、ここまで一切出してないのはあまりにもおかしすぎる。控えなら控えらしく、練習試合やなんかで少しは登板させるべきなのに。なのに新田はヤツに投げさせなかった」
確信だ。
「たぶん、控えとして出すのもいやなほど、極端に原田の情報を隠したかったんでしょうね。そしてそこそこ投げられる立石を矢面に立たせた」
「……だとしたら、とんだバクチ打ちやな。それほどの投手なんか。原田は」
うなるような問いに、やや目を細めて城野は静かに告げる。
「中学時代、直接公式試合で対戦したことはないんで、根拠をと言われると弱りますが、おれが、打者としての自信を危うくするくらいには」
今でも覚えている。鮮明に。思い出すことができる。
うなりをあげるバット。そして、それを易々とかいくぐって、奴の球は待ち受ける捕手のミットにおさまった。
絶対的信頼をおいていたバットだった。彼を屈服させる投手など、存在しないと思っていた。
春を迎え、そのバットすらない状況で、横手はあのバッテリーと対峙しなければならないと考え、ひたすら焦燥に身を焼いた。
それほどに。
「原田はおそらく速球派です。ほぼ間違いなく。変化球をいくつか覚えてるにしても、三振をとりにくるのは140キロ超えのストレートでしょう。おれたちは、それを打ち崩さなけりゃならない」
「……とんでもない小娘やな」
そんな投手を隠し持って今まで出さないとは、とぼやき、彼は向こう側ベンチを見やる。つられて城野もグラウンドに眼をやった。
残念ながら、あの年、公式試合で、新田東と当たることは叶わなかった。
だが今。それが再現できる。
「カントク、萩は何回から?」
「8回からや。いつもと変わらん。継投でいく」
それが梧桐の勝利パターンだった。優れた投手が複数存在する梧桐ならではの贅沢な戦法だ。
「じゃ、念のため早めにアップさせといていいですか」
「何や。おまえ。弱気な」
呆れる声を笑って流し、城野はゆっくりとベンチを離れ、奥へと進む。のほほんとした自分の幼馴染は、エースではなかったが、重要なおさえとして梧桐の3本柱の1となっている。もたもたとまだ奥にいるであろう彼に、早く会いたかった。
わけもなく、震えが走った。これを、武者震いというのだろうか。
早く、あのグラウンドに出たい。切実に思った。はしゃぐ子どものようなその情動を、久しぶりに思い出していた。そして、きっと萩ならこの気持ちを分かってくれる。分かち合える。
さあ始めよう。
始めよう、野球を。
徐々に歩調をはやめながら、城野はじき訪れるプレイボールの掛け声に思いを馳せた。
「一回戦柏内高校。7-0で7回コールド。エース立石が完投。5回までに得点は1点どまりだったものの、7回に一挙6点。連打で猛攻を浴びせました」
「二回戦丈東高校6-1。やはり立石が先発で最終回は1年生バッテリーに代わったものの、落ち着いた守りで1失点。4番の吉川に本塁打が出ました」
「三回戦緑陰学園。11-8。先発は控えの1年。打撃戦となり、点の取り合いを競り勝ちました。5番立石に3塁打。以下、ほぼ全員が安打を打っています。また、毎回得点を許すものの、大量点にはせず、最終回は2年の控え原田がリリーフして無得点で押さえました」
「原田?」
それまで黙って報告を聞いていた守りの要が、低く聞き返す。
「城野。どうした?」
「いえ。懐かしい名前だと」
言葉少なな城野の返答に、明日の試合に向けてミーティングに臨んでいた面々もああというように面をあげる。
「そういえば中学時代は、速球投手として名を馳せとったね」
「故障? ここまでまったく名前を聞かなかったけど」
「もったいない。だからあんな公立に行かなよかったんや。カントク、確か声かけたんすよね」
3年生の主だった面々の言葉に、寡黙な壮年のこの場の責任者は僅かに首肯で答えた。ここで声が途切れたので、報告を任務とする偵察隊は、先日の試合の映像とともに報告を続ける。
「わずか1イニングのデータですので、持ち球などははっきりしないのですが、速球でていねいにコーナーをついていました。三人で最終回を終わらせています。うち一人は三振。残り二人は内野ゴロにうちとられています」
「……」
「どうした、城野。難しい顔して」
「いや。おれはちょっとした縁があって、原田と対戦したことがあるんやが、あんまり、そうしたソツのない投球するタイプじゃなかった思うんで」
「昔は昔やろ。硬式んなって、ガラリとスタイル変わる奴なんてごまんとおるんや。第一、そんな控えのことなんか気にしとらんで、早よ立石相手の作戦立てようや。エースは立石なんやから」
「立石、なんやろうか」
「何言うてんや。去年の夏かてあいつが控えじゃったろ。結構いいカーブ放るんでよう覚えとる。あいつが入ったから新田はベスト8まで勝ちあがってきたんじゃろうが」
そう言われて、はっきりとした確信もないままだった城野は沈黙した。立石という投手を知らないので、断言はできないが、自分の知っている、原田巧という稀有の投手を抑えて、エースピッチャーにおさまっているのだとしたら「結構いい」程度の形容で表せる器ではないと思うのだが。
「……」
釈然としないまでも、今大会確かに試合で主に投げているのはその立石という投手なので、城野は対立石で打ち合わせられていく明日の試合のポイントを確認する。
まあ、いい。
すべてはグラウンドでだ。誰がきても負けるつもりなど毛頭なかった。
今年こそ自分たち梧桐学院が県の頂点に立つ。
そう決めていた。
「対戦相手梧桐学院の投手陣は今大会イチ充実しとる。左右投手きっちりそろえとるし、何より捕手がいい。みんなもよく知っとる相手じゃよ」
「捕手?」
最終のミーティングで確認される、次の対戦相手の情報に新田のスターティングメンバーの一部は耳をそばだてた。
「城野くん。確か、中学時代全国で横手二中がベスト4になったときの正捕手じゃね。そのとき2年」
これ見よがしの沢村の訳知り顔に、一部であるところの三人は賢明に沈黙を守ったが、あとの二人はそうはいかなかった。
「うわ、懐かしい名前ー。てか、3年のとき行けんかったのは、ほかでもない、この吉貞サマが率いる新田東が立ちふさがったからっすよ、カントク」
「率いとったのは野々村さんじゃヨシのぼけ。それとカントク、うちの豪かて2年で全国勝ち上がりましたよ」
「うん。そしてブロックしてつまんないケガで決勝逃したんよね」
「……」
「あんな愚行うちでやったら即刻しばき倒してるわ。ほんま」
「……」
笑顔で冗談めかしてはいるが、紛れもない本気を感じて、沢口はすごすごと肩をすぼめた。愚行と断じられた当人はそれ以前に巧の隣でさらにちいさくなっている。
「まあ、冗談はおいといて、つまりは今大会抜きん出て失点の低い、守りのいいチームが相手なわけよ。必然ロースコアでの試合展開が予想されるわけじゃけど、そこで今回ちょいと布陣を変えようかと思って」
そこでくるりと沢村は一堂に会した部員の面々を見渡した。
「今回はベストメンバーでいくよ。実質、総力戦のかまえやね。間違いなく、ここが今大会の山場の一つじゃ。梧桐相手に先発は原田くん。捕手は永倉くん。いい?」
「はい」
巧の即答に、もう一方の傍らを陣取った沢口が机の下でちいさくガッツポーズを作る。
「さっきはロースコアて言うたけど、はっきり言ってしまえばわたしは原田くんに完封期待してる。頼むよ」
「もちろんです!」
巧でなく立石が力強く請け負う。すかさず隣の沢口が小突くが、小突いたほうの沢口も気分の高揚を隠しきれないようだった。
ようやくのエースお披露目に、当人よりも周囲が浮かれている有様だ。
この日、高揚した気分そのままに、積極的な作戦が練られていった。対するは私立梧桐学院。県内屈指の強豪校として定評がある。
試合は目前に迫っていた。
なんか会話ばっかになりましたね……秋の連休シーズンで、ネジがゆるんでるのか。いや、いつものことか。でも脳内は、繰り返し甲子園のV見返してて夏なんですけどね。ああ、わいたのか。そりゃタイヘン。
ええと……もう秋も本番なのですが、夏の始まりです。すいませんスイマセン季節感ゼロ!
「原田」
呼ばれて振り返る。見やると、心もち息を弾ませた沢口が、グラウンドへの入り口近くで手招きしていた。
「早う。すっごい人じゃぞ」
沢口の面は、興奮からかこころもち紅潮している。気温もあるだろうが、何より会場の熱気にあてられたのだろう。巧は軽くうなずくと、傍らで座って何やら熱心に読み込んでいる自分の捕手をうながした。
「豪」
ああ、とうなずいて大きな身体が立ち上がる。チームで1、2を争う長身は、巧ですらが見上げなければならなくなった。
「行くか」
穏やかな笑みが向けられなかったら、何となく腹立たしさで向うずね辺りを蹴りつけているところだ。だが黙って巧は豪の先に立つようにして、グラウンドへと赴いた。
6月。
日差しは十二分に夏のものとなり、ここ県営の野球場グラウンドを、容赦ない厳しさで灼きつける。
『――』
音が反響して不明瞭なアナウンスが入る。それでも、次は何をすべきか分かっていて、ここに集った者たちは、みな一斉に一点を目指して歩み出す。
ここから。
「始まるな」
ふともらされたつぶやきは誰のものか。けれど些事を追及するまでもなく、それは皆の気持ちそのもので、一点へとまっすぐに歩み出しながら、皆が心の内でかみしめている言葉だった。
泣いても、笑っても、すべてはここから始まる。
この夏のために。
秋があり、冬があり、春があった。ここに辿りついた。
どんなに願っても、どんなに励んでも、勝負の神は気まぐれで残酷だ。敗者は容赦なく切り捨てられ、勝者は次の一戦まで、かろうじて息をつくことを許される。つかの間の安息と知っていつつもなお。
真に勝ちを誇れるのは、その頂点まで駆け上がれたただ一つのチームのみ。
惨く厳しく、けれどだからこそ何よりも輝かしく。
「豪」
前を向いたまま、巧は真横を行進する自分の捕手の名を呼ぶ。
「ああ」
けれどそれで通じる。同じものを見、目指しているからこそ。
今までとは違う何かが、身のうちをせり上がってくる。熱く密やかに。
ようやくここまできた。この瞬間まで。
夏、全国高校野球選手権大会。その県予選。
巧の待ち望んでいた戦いの火ぶたが、今切って落とされようとしていた。
人数不足で春の大会に参加できず、シードを獲ることが叶わなかった新田は、ノーシードで夏の大会を迎えなければならなかった。初戦は開会式の翌日、県立柏内高校との対戦となった。
「で、まだおれが先発なんですかねぇ」
何日も前から言い渡されていることなのに、立石が往生際悪くベンチに向かいつつぼやいた。
「あったり前じゃろ。うるさい立石くん。いつまでもうだうだ女々しい」
そりゃカントクと比べたらどんな男だって女々しいですよ、との立石の負け犬の遠吠えめいた言葉はさらりと聞き流し、烈女は早足でベンチに向かう。
周囲に人はいない。他のメンバーはすでにベンチに入っている。所用で遅れた立石と、偶然居合わせた沢口は、まんまと沢村につかまって雑用をおおせつかって入りが遅れた。
「けど、本大会です。そろそろ原田だって試合で投げてカンつかみたいじゃろうし」
この件に関しては、沢村の前を歩いていた沢口自身もまったくの同意見だったので、不本意ながら立石に味方して口を開く。
しかしそんな沢口の援護射撃を、沢村は鼻で笑って切り捨てた。
「あの子がそんな殊勝なタマかい。練習試合では投げさせた。完投もした。準備はバッチリじゃ。あとは投入時をはかるだけじゃよ」
「ですから、それが今なんじゃないですか、カントク」
追いすがる立石に、とうとう沢村が歩みを止めて振り返った。
「秋季大会一回戦負け、春は一回戦コールド。そんなやわいチーム相手に、何でエース投入せんといかんの。あほらし。いいかい、この試合うちもコールド狙うからね。長丁場なんじゃから、さっさと終わらせられるとこはさっさと終わらせて、とっとと帰って練習するよ」
「……はぁい」
いくら弱小チーム相手とはいえ、身もふたもない言葉に、嘆息が口をついて出かけたが、賢明にも二人はそれを飲み込んだ。番狂わせなどあってはならないというのが沢村の持論だった。そしてそれを彼女は、この春からの短期間、ようやく部員が満足にそろってから後、確かに具現している。
「……そういや、よくあんな試合、組めましたよね。カントク」
「何を」
「いえ、いくら県内の高校とやって手の内見せたくないからって」
「――それ以上しゃべるとクチ縫い付けるよ立石くん」
冷ややかな一瞥をくれて再び歩き出した沢村に、つかの間石と化してしまった二人は、沢村が5メートル以上離れてから、ようやくぎこちなく息を吹きかえす。
「立石のぼけ。おまえなんつー禁句を」
「ごめん。今回はまじ悪かった。涅槃を見ちゃいそうだったよ。ああ怖。……ほんっと、ナゾの人だよね、ウチの監督」
5月に巧を先発としたベストメンバーで対した相手は、高校生ですらなかった。神宮にすら手の届く、立派にリーグ参戦を果たしている某大学の野球部だったのだ。
無論、大学生相手、すべて快勝というわけにはいかなかったが、3試合やって2勝1引き分けは立派な数字だろう。
「でもさ、あれ見てるからこそ、言いたくなるわけよ。おれとしては」
「……それはおれも同じじゃ」
そこで二人は珍しく声を合わせて同じことを言った。
「早く原田の投げるとこ見せたいよねー」
「じゃよなー」
いい加減試合始まるわいさっさと来んかいボケナスども、と烈女のカミナリが落ち、二人が全速力でペンチまでの通路を駆け抜けるハメになったのはそのすぐ後のことである。
練習試合について、同様の内容が他の者に告げられたのは、その日の夜のことだった。
寝耳に水のその発言に、当然部員は一様に動揺を見せた。が、巧が投げると聞いてぴたりと収まった。代わりに、誰の顔にも闘争心むき出しの不敵な笑みが浮かぶ。
ようやく。
ようやく、現新田高校野球部の本格始動だ。全員が待ち望んできたことだった。秋からこっち、人数不足に泣かされてきて、ようやく。
そんな中で、伊原の登板は豪たちの時よりもずっと気安く受け入れられた。待ち望んだ始動の前には、些事でしかなかったらしい。
伊原は顔を強張らせたままだった。先輩たちの取り成しや激励にも、いつこうに表情をゆるめることをせず、じっと自分に課せられたとんでもないプレッシャーを噛み締めているようだった。
「――」
思い起こしていた豪は、それを振り払って夜空を見上げる。屋内は先ほどまでの喧騒が嘘のように寝静まっている。森閑としていた。
雑木林に囲まれるような宿舎の空は、切り取られた青いセロファンのようだった。月が中空にさしかかり、本来であれば降るような星の光をかすませている。
葉ずれの音や生き物たちのたてる、わずかな気配ばかりの、密やかな夜だ。
そこへカタリとかすかな物音を立てて、誰かが近づいてきた。
巧だった。
「何じゃ。珍しい」
巧の寝つきはよく、眠りは深い。朝まで目覚めないことの方が多い。
しかし巧は、豪の軽口には何も言い返さず、黙って豪の座る玄関の石段に腰を下ろした。
「眠れんのか?」
「それはお前だろ」
素っ気ない、けれど実はしっかり自分を見ていると分かる指摘に、思わず苦笑をもらす。傍若無人の権化だった中学生は、寡黙な分、それと分かるとそのギャップに豪ですらくるものがある、人の気持ちに敏い高校生になった。
「緊張してんの?」
「いや。まあ、今さらじゃろ。ようやく、って気持ちは大きいけどな。興奮して寝付けないほどじゃない」
「じゃ何だよ。ホームシック?」
「うーん、羽海に顔忘れられんかなって――今さらじゃろ。違う。伊原のこと考えとったら寝そびれたんじゃ」
巧のことだから興なげに一瞥で終わらせるかと思ったが、意外巧は言外に先を促してきた。
豪は、ためらいつつも正直に話した。
「監督がな、伊原の面倒は中本に任せろ言うたんじゃ」
就寝前、中本と豪だけ呼び出されて、宣言された。
『伊原くんの面倒は、全面的に中本くんに見てもらう。同学年だし、将来的にあの子の固定になってもらいたい。じゃから、中本くん今回の練習試合から、頼むね』
あまりにもあっさりと、入学して間もない中本に、大役を負わせようとする言に、中本より豪の方が面くらって物申した。いきなり固定を前提に組ませなくてもよいのではないか、しばらく巧と豪も入れた4人でいろいろ組み合わせ、経験を積んでからの方がよいのではないか、等々。
そうしたら冷笑された。
『甘ったれたこと言ってんじゃないよ。あんたは今年の夏どぶに捨てる気か』
ばっさりとぬるい偽善を切り捨てられて肝が冷えた。そして豪が絶句している間に、黙って聞いていた当の中本が静かに肯った。少しだけ表情をゆるめ、外見に騙されがちだか、実際は二十も年かさの女性監督は補足した。
『あの子は、使い方次第で十分先発が務まる。球質や球威に関しては、マイナス面ばっかり目立っとったけど、コントロールは抜群にいい。変化球、狙ったとこ放ることできるのは、もしかすると原田くん以上かもしれん。けど本人にまったく自信がないときた。中学でずっとバッティングピッチャーだったせいもあるけど、試合で投げることの楽しさも怖さもまったく知らん。精神的に脆いんよね』
ならなおさら、と豪が言い募ろうとしたとき、豪を遮って中本がきっぱり断言したのだ。
「それなら、自分が伊原にその楽しさと怖さを味わわせてみせます、3年間、伊原の捕手を務めます、てな。中本が妙にすがすがしい表情で」
だから豪はそれ以上何も言えなかった。円満的に分かれたはずなのに、豪だけは奥歯にものが挟まったような違和感が抜けなかった。そしてこうして不眠をかこっている。
罪悪感、というのが一番近いかもしれない。
無論、巧の正面を譲るつもりはない。けれど、ひたすらに巧の球を追いかけてきた中本が、ああして潔く思いきる姿を目にしては、後ろ暗い感情がわきあがらずにはいられない。だって知っている。この傍らの稀有な投手が投げる球が、どれほどに捕手という人種にとって抗いがたい魅力をもつか、知悉している。
競う覚悟はできていた。けれどあまりにもあっさりと譲られて、拍子抜けしたのと同時に中本が不憫になってしまった。
「いいんじゃないのか」
当の投手は淡々と言った。
「あいつがやると決めたんだ。なら、あいつはやるだろうよ」
巧は素っ気ない。ただ、豪の煩悶のためにか、少しだけ言葉を付け足した。
覚悟を、と。
「中本は、やっと、自分のために野球をしようとしているのかもしれない」
「……」
以前の中本は、ともすれば巧の球をとることだけに拘っていたという。確かに、捕手であればそれは最優先事項なのだが、それだけではいけないことを、もはや豪も理解していた。
巧に引きずられるのではない。巧とともに並び立つために。彼にとって最高のキャッチャーであるために。
望んで、試合を支配する。
野々村から、託された願い。捕手というポジジョンの、途方もない重責。
「そうじゃな……」
巧のために野球をやるのではない。すべては自分のため。
巧を望んだ自分のために。
自分は覚悟を決めて、巧の正面に戻った。中本は、違う選択をしただけだ。
「本当に、そうじゃな……」
重ねてつぶやき、傍らの自分の投手を見やる。怪訝そうな、端整な面立ちに、安堵が浮かぶ。
ここに、いる。
自分のそばに。
巧が。
その奇跡。
わけもなくその細い身体を抱きしめたくなって困ったが、とりあえず豪は当たり障りのない話題に流れていきながら、明日からの練習試合を思った。
……ほんともうすいません要らんヨコバナシ長すぎて。
その後も水面下の勧誘があったのかなかったのか、新入生が2人入り、間もなく、恒例の、連休に伴う合宿が始まった。秋、冬、春、とすっかり古参の部員たちには御馴染みになった一見廃校の合宿所に、新入部員を含めた総勢16名で押しかけた。そして、こちらもお定まりのファルトレク(山野を使った筋トレ)を兼ねた食料調達、チームビルディングを狙った自炊。新入部員も3日を過ぎる頃には一見小学生監督の老獪かつ破天荒な指揮ぶりにすっかり慣れたようだった。
「しかし、まあ」
つくづくと言った風に、電算同好会会長キヨハラはつぶやいた。
「俺たちも活動費稼ぐためにいろいろな部の助っ人をしたが、ここまで徹底秘匿をかけているのは見たことないな――いや、でもそうしたいのは分かる」
言葉を返そうとした豪を制し、なおも清原は続ける。
「あれほどの投手だ。無理もない。副のムラタとも言ってたんだが、我々も沢村監督の情報戦指針には大いに賛成だ」
彼が見やった先には、巧が中本相手に投げ込みを行っていた。この一ヶ月あまりで、中本は巧の10割を危なげなく捕れるうになった。しょっちゅう捕りこぼしていた小学生の頃とは雲泥の差だ。
巧の球は日々着実に成長を遂げている。中本もまたたゆまぬ努力をしているのだろう。
そんなことを考えつつ、豪は聞かせるでもなく口を開いた。
「普通、巧くらいの体格だと、あれだけの球威を出すには、もっと体重が必要なんだそうです」
心もち目を細めるようにして巧を見やり、言葉を続ける。
「冬の合宿は、主に体質や体格の改善だったんですが、スポーツ科学を研究している、カントクの同期って人が、いろいろ計測していって感嘆してました」
理想の骨格、理想の筋力バランス。そしてそれに裏打ちされた理想的な投球フォーム。これがまったくの無計算で巧に備わっていたことが奇跡だと。
下手に調整するのは愚の骨頂、この絶妙のバランスを保ち続けることだけ考えるべきだと熱弁をふるっていた。しまいには遺伝的形質にも着目し、巧の家族にもデータ提供を申し入れたらしい。
「きっと、原田みたいなのを、神様に愛された存在、ちゅうんじゃろうな」
そのキヨハラの言葉に、ふと豪の口の端にほのかに笑みが浮かぶ。
出会いからこっち、何十回となく耳にしてきた言葉だった。そしてそれを承知で、敢えて自分は彼の正面に座ることを選んだ。我が事ながら、竦むような畏れがある。だが、様々な負の感情をすべて呑んで、刹那の至福を選び取った。
あの白球を捕る。何度も。何度でも。
「対して……ちゅーのは申し訳ないんじゃが、アレ、使い物になるんか」
キヨハラが目線で追ったのは、先ほどまで豪相手に「投球練習」を行っていた新入部員の伊原だった。
巧の目を引いた影の薄い4人目の新入部員は、巧の予想通り「投手」候補だった。
球速は130そこそこ。ストレートの他に、スライダー、チェンジアップのある左腕。
言葉少なに語ったところをまとめてみれば、中学時代所属していた部は大所帯だったらしく、ほとんど試合経験はないという。主にバッティングピッチャーをしていたそうだ。
「……」
打ちごろの球、というのだろうか。素直で直球にも変化球にもクセのない球は、バッターボックスに立っていただけのキヨハラをして、思わず打てそうと手が出てしまう球だ。豪も同様に感じていただけに、返す言葉がなかった。
そして、それをしばらく黙って見ていた沢村が、伊原を呼んで話し始めた。それが長引いて今に至る。
立石が矢面にいるとはいえ、投手札は正直もう一枚ほしかった。立石は打撃もいい。遠からず巧を前面に出すにしても、不測の事態に備えられる。
「おーい、みんな上がってくれるー。昼の準備始めとってー」
やがて、話が終わったのか、沢村が例の小学生並のよく通る声で仕舞いをかけた。
「あ、永倉くんと原田くんと中本くんはこっち残っとって」
「ええーっ。カントク、たくちゃん返してくださいよぅ。たくちゃんスペシャル玉子焼き作ってもらうんじゃから」
吉貞の、無邪気なのか作為なのか今ひとつはっきりしない抗議をきっぱり無視して、中本を伴って巧がやって来る。
三人がそろうと、伊原をそのまま残していた沢村は気軽に告げた。
「後でみんなにも言うけど、明後日からの三連チャンで練習試合組んだから。ちなみに立石くんは打撃に専念してもらいます。原田くん、3日ともいけるよね?」
「――はい」
唐突な申し出に、しかし巧はわずかな間を置いて首肯する。
ついで、1・3日目は豪、2日目は中本がマスクをかぶることが告げられた。
「そして、その2日目だけど。ためしに伊原くんに2回まで投げてもらうから。了解?」
最後に、ついでのように付け加えられた言葉に、その場に重い沈黙が降りた。
新入部員が来る、というので、その日は部員皆で部室待機をしていた。
「しっかし楽しみじゃー」
満面の笑みで、先ほどから同じ言葉を繰り返しているのは沢口である。
「中本入ってもギリ9人じゃ、やっぱり不安じゃもん。今年は幸先いいのー」
入学式から約一月。そろそろ新入生たちの部活見学も下火になり、内心やきもきしていたところへこの嬉しい知らせである。口に出さないだけで、沢口以外の皆の心も弾んでいる。
そこへ、みんなー新入部員じゃよー、と語尾にハートマークがつくような、およそ普段のその人らしからぬ声音と一緒に入室してきたのは、今春も絶好調、カントク歴3年目に入った沢村だった。
「おっ」
「って」
「ええっ!」
沢村の後からぞろぞろと入ってきた顔ぶれを見て、驚愕の奇声をあげたのは約3名。順に豪、東谷、沢口である。特に東谷の反応は顕著だった。3者の中で一番小声だったものの、珍しく策士が顔色を変えて本気で固まっていた。
「何じゃ、江藤――」
「サ・イ・ト・ウ。親のリコンで母親の旧姓名乗ってんだよ。聞いてないのか東谷から」
険のある口調で、気安く呼びかけようとした沢口を、3番目に入ってきた入室者、江藤改め斉藤がぴしゃりと遮る。
「こらこら。ケンカせんようにね。チームメイトになるんじゃし」
鷹揚に宥めた沢村にも、斉藤は同様の眼差しを向けかけたが、すかさず両隣――2番目と最後尾の入室者から目と口を片手ずつでふさがれ、羽交い絞めにされる。斉藤の両脇にいたのは、いずれも大柄で、一見してかなり体力のありそうな上級生だ。ややもすると豪や立石より大きいかもしれない。
「とんだ不調法者で申し訳ない。コイツの言は、コビトカバの寝言とでもお聞き流し願いたい」
「わがデンサン同好会、全力をもって貴部の専属アナリストとならんことをお約束する」
かしこまって宣言した大男二人の言に、今度はきょとんとその場の流れに乗り遅れていた立石と吉貞が反応した。
「カントク? 何ですかソレ」
新入部員と思しき者たちの無言の揉み合いをにこやかに眺めながら、沢村は告げた。
「うん。新入部員つーても、実質彼らは非戦力じゃから。ええと、正式に紹介すると、今回、ウチの部を兼ねてくれることになった、電算同好会のみんな。彼らにやってもらうのは、野球じゃなくてその分析」
「分析?」
それまで、おとなしく状況を見守っていた中本が、怪訝な顔で聞き返す。と、思い当たることがあったのか、途端豪と東谷の顔が引き締まった。
二人をだけでなく、全員を見渡してから、ついぞ見たことのない、真摯な表情で沢村は切り出した。
「高校野球で勝ち上がっていくためには、実戦力だけじゃ限界がある。私がこうしてバカがつくほど手の内さらさんように腐心しとるのも、その一環じゃ。あんたたちの打撃スタイルいじったのも同じく。――情報戦でも勝ちにいくよ」
そしておもむろに、手荷物の中からざらざらと十数枚のディスクを取り出した。
「春の大会の、主だった試合を録画してある」
「って、ほとんど全部じゃないですか」
「善意の提供じゃよ。ありがたやありがたや」
拝むマネをする沢村を尻目に、吉貞が胡乱につぶやく。
「ここんとこ、ハハオヤたちが集まって何かコソコソしてたのはそれかい」
どうやら新田高校野球部の情報戦は、部員たちをヨソに、着々と展開されているらしい。
「球種、球筋、捕手のリード傾向はもちろん、打撃の方も頼みたい。球の飛ぶ方向、好む球種、あらゆる方向から解析かけてデータにまとめ、丸裸にしてほしい。できるね、電算同好会」
「報酬に見合った仕事をするのがウチの流儀だ」
「スポンサーになんつー口の利き方すんじゃ、こんボケサイトー! ――本領の方で力を尽くせるのは無上の喜び。夏の初戦までにはきっちりとこれらを片付けよう」
斉藤をしばき倒しながらの力強い保証に、沢村は満足げにうなずく。どうやら、またこの烈女はえげつない方法で斉藤たちの同好会を釣ったらしい。話から鑑みるに、部費不足の同好会に小金をちらつかせたか。清廉とは言いがたい所業だが、両者の間で納得済みならいいのだろう。
とんだ新入部員歓迎だったが、事態は収束に向かいつつあるようだ。
と、その間、ずっと黙って状況を見て、というか眺めていた巧が不意に口を開いた。
「カントク、そいつも非戦力ですか」
備え付けのパイプ椅子にもたれ、巧が凝視していたのは、電算同好会の面々と並列しているものの、彼らとは対照的にひっそりと縮こまるように佇んでいる少年だった。
一番最初に入室してきたのだが、その影の薄さに誰もが今まで注意を払っていなかった。
新入生らしい。制服は真新しくパリッと型どおりで、首の一番上まできっちりとホックをとめてある。うつむきがちの、大人しげな容貌は、雰囲気とあいまって草食動物を連想させた。
沢村はうなずいた時の笑みを浮かべたまま、少年を見やった。
「自己紹介」
促された少年は、その一言に大仰に身をすくませ、やがて消え入りそうな声でイハラナオトと名乗った。
たははは……ものすごく時期遅れですが、春のお話です。世間は夏予選真っ盛りだというのに。もーなんかネツゾウだらけでほんとすみませんな話になってしまいました。あああう、あううおう(呻き)。太平洋のココロでお許しください。
まあお茶でも飲んでいきなさいな、と満面の笑みで言い渡され、断る間もなく家の中にあげられて、慣れているらしい吉貞にとっととリビングに通された。
「いえ、ほんとおかまいなく。先輩」
「諦めろや。ウチのおふくろが腕にヨリかけてお前に最適の薬選んどる。まあ30分くらいはみとけや」
「いえ、ほんとそんな大そうな重症じゃないんです。普通に売ってる普通の薬で十分なんですが」
「諦めろ。ウチのかあちゃん面食いじゃけんな。イイオトコに敏感なんじゃ。そしてゲットされたオヤジから、ほーらこんなに美しいオレサマが息子として生まれた」
「……」
中本は賢明にコメントを差し控えた。すでにこの先輩のほらだかにぎやかしだかには慣れつつあった。
「それにな、お前に引き継ぎたいもんもあるし」
そう言って、茶を出した後、吉貞はいったん2階へとあがってしまい、中本は他人宅の居間で一人取り残されることになった。手持ち無沙汰に調度を眺めていれば、先ほどの吉貞の母親と思しき女性の若かりし頃の勇姿が、部屋の一隅に飾られている。黒帯を締めた勇ましいブイサインは、吉貞の明るく強靭な性状が、生来のものであることを物語っていた。
ややあってその吉貞が戻ってきた。中本の向かいのソファに腰下ろす。
「これを、お前に渡そうと思ってな」
吉貞が正面のローテーブルに差し出したのは、使い込まれた軟式用のキャッチャーミットだった。
「これを?」
「そうじゃ。これは、それはそれは由緒ある一品でな。今を遡ること3年と半年前、美貌だけじゃなくて運動神経も抜群のオレサマを見込んだ、ときの部長がおれに託したものじゃ」
言い置いて、吉貞が語ったのは、中本の知らない中学一年生の巧と豪のことだった。
「――まあ、オレサマの次くらいに捕手としての才能のあった永倉じゃから、先輩たちも諦めきれんかったんじゃろう。永倉の復帰をぎりぎりまで待つということで、オレサマが代理で原田の捕手を務めることになったわけじゃ。なのにあのワガママ姫さん、ありがたがるどころか、邪険にしよっての。ほんと寛大なオレサマでなければぼこっとるところじゃ」
そこまで吉貞が話したところで、たまりかねて中本は口を挟んだ。
「姫さん、というのは原田さんのことですか? あの、そして永倉さんはどうやって復帰を果たしたんですか」
「まずそこに食いつくか。業が深いな中本。ネーミングについてはいずれ話しちゃる。永倉の復帰については……」
「ついては?」
「実はよう知らん」
「吉貞先輩……」
椅子にふんぞり返り、両手を頭の後ろで組みつつ、吉貞は素っ気なく告げた。
「あいつらの間でどういうやり取りがあったかなんて、おれらは誰一人知らん。知ろうとも思わん。焼け石に触ろうと思わんのと一緒じゃ。たまに差し水することはあっても、手に負えるもんじゃないからの」
「……」
吉貞の言外に言いたいことが分かって、中本は押し黙った。
そう、分かっていた。小学生のあの夏から。巧は決して自分を選ばない。自分は「違う」のだと。痛感していた。
鈍い痛みが押し寄せる。納得したつもりでも、不意に内を嵐が荒れ狂う。
3年前の夏の日に。無理を言って見に行った、軟式の全国大会。とてつもない音をさせ、きれいに構えたミットの中におさまった、かつては自分が捕っていたもの。ひとつも取りこぼされることなく、巧の投げる全力投球は豪のミットに吸い込まれていった。
衝撃だった。無論、嫉妬で胸が灼けただれた。
どうしても諦めきれない。どうしても。もう一度。あと一回、機会を。
『格が違うんじゃよ』
しかし自分のささやかな望みは、そう言って冷笑された。他ならぬ、現在ただ今暗躍中の人物に。
入学前に、少しでも早く巧の球に近づきたくて、部活はあきらめるので早朝の境内練習に参加したいと申し出たら、新田高野球部監督の肩書きをもつ人物は、中本の言葉を一蹴した。
『悪いけど、アンタがどんなに捕手として優秀でも、即戦力になろうとも、正捕手は任せられん。ウチが欲しいのは、ウチのエースに「勝たせるピッチングをさせられる捕手」なんじゃ』
『ただ球を捕りたい、それだけであの子の相手は務まらんよ。あの子の目は、もっと先を見とる』
今思えば、実に容赦ない拒絶だ。こちらの力量をよく知りもしないで、頭から否定された。言われた当時はさすがに腹が立った。だが。
無理を言って、決して目に付くところにはいないという条件で、早朝の練習を垣間見させてもらった。そして沢村の言葉を受け容れた。
沢村が、普段の部の練習を軽んじているわけではないのは、分かる。だが。
神域だとか、早朝だとか、周囲の条件もあるだろうが、空気が違う。ピンと張り詰めた、あの独特の空気をどう表せばいいのか分からない。だが、違う。違うのだ。
そのとき初めて、沢村の言った格の違いを、中本は思い知った。
「おれは……」
ようよう、長い物思いから覚めて、中本は口を開いた。
あの夏から3年あまり。望んで、切望して、ようやく手が届きそうなところまで迫ったのに、願いは叶わないことを知らされた。ぎりぎりの選択になるが、このまま推薦をとりやめ、他校を受験することも考えた。
けれど。
「正直言えば、まだ未練たらたらです。3年越しの思い入れなんです。原田さんの球への執着は。そうあっさり切り替えられるもんじゃない」
珍しくも吉貞は口を閉ざして聞き入っていた。いつものように茶々をいれる気配もない。ゆっくりゆっくり、言葉をかみしめるように、中本は言葉を継いだ。
「けど、おれじゃないんだっていうことは、納得しています。納得したうえで、新田に入ることに決めて、練習に参加させてもらいました」
「一発逆転狙って?」
「そんなの無理です。逆転許してくれるほど、永倉さん怠惰じゃないでしょう。ただ、おれ、隙間を埋められたらと思って」
ブロックした後、なんとか持ちこたえた豪が、次の試合ではマスクを被れず、今ここにいる吉貞がかぶった。あの準決勝。
「新田東の窮状を、目の当たりにしました。吉貞さん抜けたから、三塁が穴になるし。だから、おれは、永倉さんが出られないときの隙間を埋めてあげたいんです」
たとえ、豪のように、心から投げたいと思ってもらえなくても、安心して10割を投げてもらえるくらいには、巧に信頼されたい。
「……健気じゃのう。ほんと、中本」
中本の言葉に、ややあって吉貞がぽつりとつぶやく。そしてそっくり返っていた姿勢を元に戻して、ローテーブルに置いてあったミットを取り上げた。
「なら、これを託すのはやっぱお前で正解なんじゃろうな。ほんっと、あのミソジ、どっから聞きつけてやがんだか……オトムライ経由だったりしたら真剣コワイぞ」
吉貞のつぶやきに、このミットが自分に託される意味を理解する。
けんもほろろに言い捨てて、しかしちゃんと次の手を用意して待っている。本当に、とんでもない策士だ。だが、その策士が指し示した答えにたどり着いたのだから、自分は間違えずに選択できたということなのだろう。
巧の捕手になるのではない。
巧の望む球を投げられる捕手になる。
それで、自分はいいのだ。
「あとそれからお前に伝言。誰かからは言えば分かるて。『見つけられるよ』じゃと」
「……はい」
自然口の端に笑みが浮かぶ。
今はつらい。まだ、つらいけれど。
自分の中の野球の在り方を、新たに見つけられるだろうか。巧に依存せず、自分の中から、野球をする意義を見出して。野球を、心から楽しいと。
廊下から慌しい音がする。どうやら吉貞母の薬選びが終わったらしい。ぱたぱたと軽やかなスリッパの音が響く。
随分時間をかけて選んでくれたものだ。ものすごく効いたらどうしよう。
滲んだ悔し涙を、花粉症のせいと誤魔化した、今日の午後の自分を、中本は少しばかり恨んだ。
珍しく立石も沢口も用があるとかで、片付けもそこそこにさっさと帰途についたので、豪が部室に戻って着替えた頃には、部室の中はぐっと人口密度を低めていた。
3年の二人がいないのは当然としても、東谷までいない。まあ部室がすっきりしているのはいいことなので、あえて気にかけなかった。
「お先ぃー」
とっとと着替えていた吉貞も、これまたウキウキと弾む足取りで部室を後にする。
そして戸口のところで立ち止まり、中本を呼びつけた。
「なかもとぉー、早く来いやー」
「はい。すぐに」
防具の分、やはり手間のかかる捕手二人は、自然着替えに時間をとる。しかし中本はよほど急いでいたらしく、巧とほぼ同時に着替え終わると、あわてて荷物を抱え、戸口にいる吉貞に向けてダッシュした。
「それじゃ、お先に失礼します。原田さん、永倉さん」
変わらず人好きのする笑顔で一度だけこちらを振り返ると、先にたって歩き始めた吉貞を追って、中本もまた部室から消えた。
後には巧といまだ着替え途中の豪だけが残された。
「……何か、今日予定あったか?」
訝しげな巧の問いに、豪も首を横に振る。
「だいたい、何で吉貞と? 何の接点だよ」
しかしそれには心当たりがあったので、ああ、と豪はうなずいた。
「何か花粉症の薬処方してもらうんじゃと。中本、花粉症らしいで」
「へぇ。前はそんなこと言ってなかったのに」
「あれはある日突然くるそうじゃからなぁ。部活のときメガネかけとるのも、花粉対策じゃて言うとった」
若干涙目で、春は鬼門です、と恨みがましげにつぶやいていた、じき後輩になる長身を思い起こす。周囲に花粉症になった者が、今までいなかったので疎かったが、気の毒な様子だった。
「くわしいな」
「そりゃ捕手同士だしな。いろいろ話もするで」
そこでいったん会話が途切れた。あとにはカチャカチャと豪が仕度をする音だけになった。巧は手持ち無沙汰に部屋の中央においてあるベンチに腰掛けている。豪を待ってくれるらしい。
ややあって、豪はぽつりと問うた。
「何で、投げないんじゃ?」
はじめ巧は言われた意味が分からなかったようだった。合点がいかないような巧の表情に、あわてて言葉を付け加える。
「中本に、10割投げとらんじゃろ」
するとああ、というようにかすかに頷いて、巧は素っ気なく別に、と答えた。
「中本なら、お前の10割捕れると思うで。キャッチングはヨシよりはるかに上じゃ」
見たくなくても目に入ってしまう、巧と中本のやりとりは、豪の心をやはりざわつかせる。
以前の、小学生のときとはケタ違いに、中本は技術を向上させていた。吉貞がいっぱいいっぱいの、巧の8割を危なげなく捕る。巧が覚えた変化球それぞれにも、この二日のうちでほぼ対応できるようになっていた。
よほど巧の球を捕りたかったのだろうと、健気なまでの中本の姿勢に、複雑な心情は別として、豪ですら感心せずにはいられないのに、対する巧は冷淡だ。
「投げるときは投げる。今は投げない」
「……」
ロッカーを閉めながら、豪は巧を振り返る。見やった横顔は、想像通りの無表情だ。帰り支度をし、巧と荷物を抱えて部室を出ながら、豪は中本を思いやる。
一度でも巧の投げる球を捕ったなら、巧の全力投球を望まずにはいられない。それは豪にも覚えのある感情だ。
巧が豪を慮って、全力で投げなかった球を捕ったとき、どれほどに悔しく悲しい思いをしたか。中本はそのときのことを思い起こさせる。日々の投球練習に埋もれて、記憶は曖昧だ。けれど、そのときの悲しみと憤りは、今でも鮮明に思い起こせる。
この、傍らを歩く稀有のピッチャーの、全力を委ねられる捕手になれないのなら、存在する価値などないと自分を否定した。野球すら捨て去ろうとした。あのときの豪には、巧の球を捕ることがすなわち野球だった。
中本が、不憫だった。
あれは、もう一人の自分だ。
立石あたりが危惧するように、もちろん巧の球を部活で捕っている中本に、羨望がないといえば嘘になる。しかし、単純に嫉妬し、羨むには、あまりにそれ以外の感情が大きすぎた。
だから、ぽつりと巧がつぶやいた言葉が、はじめ理解できなかった。
「お前こそ、平気かよ」
「うん?」
しかし巧はそれきり黙りこんでしまう。先ほどと変わらず無表情だったが、5年目に突入しようとするつきあいで、豪には、巧の機嫌が微妙に下降気味であることが分かった。
「何怒っとんじゃ?」
「怒ってねーよ」
「毛逆立ててるネコみたいになっとるぞ」
「うっさい。触るな」
邪険に伸ばした手を振り払われて、しばし傍らを歩きながら、豪は先ほどまでの会話を反芻する。巧の思考を辿るのは、意外易い。吉貞のようにかっ飛んだ思考方向の持ち主ではないし、東谷のように腹黒くもないので、素直に感情を乗せた言葉が多い。沢口が巧に懐く所以かもしれない。
4年あまりのつきあいのおかげで、足りない言葉を補足して思いやれば、巧の言いたいことを察することができるようになった。
無言のまま100メートルほど歩いたところで、思い至った豪は答えを正確に返した。
「平気じゃないで、もちろん」
そう。平気ではない。無論。
「巧が10割投げとらんでも、やっぱり正規の部活で中本にしか投げんのは、正直おもしろうない。きっと、これが練習じゃなくて試合だったりしたら、もっとクるじゃろうな」
きっと、こればかりは抑えられない。試合で、打者をむかえた場面。巧の正面に座るのは――。
巧が最高の球を投げる正面に座る。それは、豪の存在意義に等しい。その望みを叶え続けるために、尋常でない努力で、これまで贖ってきた。
けれど。
案じてもらっている。この、傲岸不遜が代名詞のようなピッチャーに、気にかけてもらっている。それが何より豪の心を温めた。
投手でないときの巧の、不器用な子どものような気遣いが、くすぐったくも嬉しい。豪を確かに見てくれているのだと思えて、ざわつく心の水面を宥めていく。
不思議なものだ。
豪の心を、荒れ狂わせるのも、宥め凪がせるのも、巧だ。巧だけが、こうまで強く激しい感情を呼び覚まし、そして鎮めることができる。
自分の、たった一人の、投手。
「要は、おれが正捕手でい続ければいいんじゃ。カントクの企みも思惑も通用しない、問答無用の力を見せ付けて、おれは実力でお前の正面勝ち取るで」
「――うん」
不意に傍らを歩いていた巧が立ち止まり、真っ直ぐに豪を見据えてそして――。
笑った。
鮮やかなその笑みに、豪は面食らう。ところが、驚かせた張本人はさっさといつもの淡々とした表情に戻ると、やはりさっさと歩くのを再開してしまった。
「何だっちゅうんじゃ……」
つかの間自失し、立ち止まってしまった豪も、あわてて巧を追いかける。やがて、他愛ない日常の会話(主に豪の妹自慢)に流れていきながら、星が瞬き出す夜空の下を帰途につく。
今日のこの日の巧の笑みを、豪は長いこと忘れることができなかった。